イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第三章 王宮編

訓練

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 宮殿の向かって左隣に隣接して建てられている軍部には、広大な訓練施設がある。宿舎や士官学校も併設されているため、数千人の生活を支える食堂や、最低限の生活用品が揃う商店もあり、そこだけでひとつの街のようだ。
「889、890、891、遅い!もっと速く!892!893!……遅いって!はい1!2!3!」
「げっ、一から!?」
「教官!もう……もう限界……っす……」
 剣技の型を繰り返す訓練生の間から、悲鳴が上がる。
「うるさい!戦場で体力切れで死ぬ気か?マイナス1000!マイナス999!」
「ひえええええっ!」
「やりますやりますぅぅっ!」
「よろしい、遅れるな!マイナス998、マイナス997」
「ひぃぃ……」
 冷酷にカウントを取っているのは士官学校師範のスカイ・アブドラだ。二十四歳の若さで近衛兵の副長も務める、王国で三本の指に入るとも言われる剣士である。
 数十種ある殺陣の型を繰り返すメニューを、結局三千カウント近くやらされた訓練生達は、終了の鐘と同時に地面に転がった。
「では解散!アトゥイ―、行くよ」
「……はい」
 アトゥイ―は起き上がって、剣を拾ってスカイの元へ駆ける。訓練中は歩くのは禁止だ。
「……マジか……あいつ、動けるのか?」
「これから近衛兵の方の夜間演習だってよ……俺だったら絶対死ぬ」
「ほんと、女みたいに華奢なくせに、すげぇ体力だよな……」
 訓練生たちは起き上がることすらできずに、アトゥイーの背中を見送った。

 アトゥイーがスカイの預かりになってひと月が過ぎた。
 初めて出会った夜、スカイは宿舎のひと部屋とチケットの束をアトゥイーに渡した。
「施設内のものはすべてこのチケットで買える。足りなくなったら言って。またあげるから」
 どうやら士官学校の生徒や兵士たちも、そのチケットで生活しているらしい。チケットは望めばいくらでも支給されたが、施設内では必要最低限のものしか売っていないし、横流しは厳密に監視されていたので、そもそも無駄遣いできるものではなかった。
 与えられた部屋は狭く、壁も薄く、寝台は硬かったが、アトゥイーは初めての夜、胸が一杯になった。
 部屋には鍵がついていた。自分だけの寝台、自分だけの部屋で、眠ることができる。部屋には寝台の他に、小さなロッカーがひとつと、小さな机と椅子。小さな明かりに照らされた、自分だけの空間。それらを眺めているのが、こんなにも嬉しい。
 この先どうなるのか全く想像もつかなかったが、とりあえず今は目の前の幸運を享受することに決めて、その夜は夢も見ずにぐっすりと眠った。
 翌日から訓練に呼ばれた。
 早朝、スカイが部屋のドアをノックした。
「なんだ、起きてたの。早いね。はい、これ訓練生の制服。着替えたら出てきて」
 スカイに案内され、食堂のひとつで朝食をとる。並んでいる皿の中から好きなものを選びとり、盆に乗せて、係の者にチケットを渡す。アトゥイーは初めてのことばかりだったので、とにかくスカイを真似するしかなかった。自分と全く同じメニューを選んだアトゥイーを見て、スカイはくすりと笑った。
「兵士は食事は三回、朝と昼と夜にとる。食堂は大小合わせて十軒くらいあるかな。店によってメニューが違うから、色々試してみると楽しいよ」
「はあ……」
 アトゥイーは盆を見下ろす。スカイと同じものを選んだら結構な量になった。一度にこんなに食べたことなどない。
「……おいしい!」
 ひとくち食べて、アトゥイーは思わず言った。
「見た目はアレだけど、味は結構いけるでしょ」
 ここ数日ろくなものを食べていなかったアトゥイーは、夢中で食べた。気がついたら皿はすべて空っぽになっていた。
「見かけによらず、食べるんだねぇ」
 スカイが感心したように言った。
「あ……すみません……」
 食べ過ぎだと揶揄されたのかと、アトゥイーは恥じ入った。
「いや、よく食べておいたほうが良い。じゃないと訓練中に空腹で動けなくなるよ」
 そしてスカイの言葉通り、三食しっかり食べても足りないくらい、厳しい訓練が始まった。
 アトゥイーは士官学校の生徒ではないので、志願してきた一般の新兵と同じ扱いだ。だがスカイが直接指導したがったため、士官学校生の訓練時間に新兵も合同で訓練することになった。
 とばっちりを喰ったのは志願兵たちである。税の免除を目当てに志願してきた新兵たちは、思いがけずエリート士官学校生と共に鬼教官にしごかれる羽目になったのだった。
 日曜日は休みだったので、チケットで本を買って読んでみた。それは町で起きた不可解な殺人事件を小間物屋の女主人が解決するという事件物の通俗小説で、かつてエディが貸してくれたどの本よりも易しく、アトゥイーにもすらすらと読めた。
 二週間ほど経って、訓練にも慣れてきた頃、アトゥイーはスカイに連れられて宮殿に登った。
 昼間の宮殿は人が多い。見るからに貴人とわかる人々、気難しそうな役人たち、たくさんの使用人たち。すれ違う奴隷たちに頭を下げられる度、アトゥイーはどこか後ろめたい気持ちになった。
(わたしも奴隷だったのに……)
 本来、頭を下げられる立場ではない。でも、もう奴隷には戻らないと決めたのだ。
 アトゥイーはきっと顔を上げた。
 「星の間」がある中庭とは別の、もっと広い庭園を囲むように、大小の離れが建っている。そのひとつにスカイは向かった。
「入って」
 スカイがドアを開けると、そこは広い道場だった。
「はっ!」
「てやァ!」
「まだまだ!」
 威勢のいい掛け声が響き、十名ほどが二人ずつ組になって剣を交わらせている。
「ここは国王の近衛兵専用の練習場だ。アトゥイー、君は週に三日、向こうの訓練の後にここにおいで。いいね?」
 有無を言わせない。もとよりスカイに逆らうことなどできない。国王からアトゥイーの命を預かっているのは、他ならぬスカイなのだから。
 近衛兵は、国軍の中でも選りすぐりの精鋭集団である。
 当然、アトゥイーは一番弱い。持ち前の勘の良さと、ユーリに教わった僅かな技術だけでは、到底太刀打ちできない。早速隊員と立ち会っては、すぐに地面に転がされた。
「ほら、立って。戦場で寝てたら死んじゃうよ?」
 地面に転がったアトゥイーの首に剣を向け、スカイがにこにこと見下ろす。
「……っ、はぁっ――!」
 カシィン。
「お」
 スカイの剣を薙ぎ払って立ち上がったライラに、スカイは感心したような微笑みを浮かべた。
「やればできるじゃん。さすが」
「副長、それくらいで褒めてやるなんて、アトゥイーには甘いですね」
 脇で見ていた隊員が茶々を入れる。
「……さすが、見込んだ僕、見る目あるぅ」
 スカイはそう言って、アトゥイーの剣を高く蹴り飛ばした。
「そっちか!」
 どっ、と笑いが起きる。
「剣ばかり見てちゃダメだよ、アトゥイー。相手の全身を見ないと」
「……はい」
 アトゥイーは荒い呼吸の合間から答えた。
 訓練は厳しかったが、アトゥイーはこれまでにないほどの安心感の中で過ごしていた。
 宮殿と軍部を囲む高い塀は分厚く、誰かに攫われて売られるというような恐怖とは無縁に過ごすことができた。水も食べ物も十分に与えられて、安全な個室で眠れる。身を守るための腕力も剣の腕も、日々上達している実感がある。
 何より、ここでは誰にも身体を見られることはなかった。
 背中に走る無数の疵痕のことを、ここにいる誰も知らない。刺青のことも。
 ここに「背中に疵痕のある奴隷女」はいないのだ。追手の影に怯えて過ごす必要は、もうない。

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