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第二章 娼館編
16 宮殿
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血生臭い裏町を抜けて表通りに出ると、地味な馬車が一台待っていた。四人が滑るように乗り込むと、馬車は静かに走り出した。
「狭い」
銀髪の男がぼやく。だが、彼は二人掛けの席に悠々と腰掛けて、その向かいにスカイとシハーブが、ライラを挟んで掛けていた。
「我慢なされよ。こちらは二人掛けに三人座っている」
ライラの右に掛けたシハーブがぴしゃりと言った。
「すみませんねぇ、狭くてー」
左側からスカイがライラを覗き込んで、にっこりと笑った。
「……いえ」
ライラは短く答える。確かに、男二人に挟まれてライラの細い腰でもぎゅうぎゅうだ。
そっと視線を上げると、長い銀色の髪を優雅に波打たせた男が窓の外を眺めていた。向かいに座る三人の脚がいかにも邪魔だと言わんばかりに、片膝を座席に乗せて窮屈そうに横座りになっている。
時折ちらちらと、外の明かりが男の顔を過ぎっていく。真っ直ぐに通った鼻梁、頬骨から細い顎にかけて滑り落ちる直線的な頬のライン。どこか不満げに眉根を寄せたその形も引き結んだ唇も、彫刻のように完璧な美しさだ。切れ長の目を髪の毛と同じ色の睫毛が優美に縁取り、色素の薄い瞳は常に冷たい光を放っている。
宮殿、とこの男は言っていた。「私の宮殿」と。
その意味を、ライラは理解しかねていた。いや、文字通りに解釈すればいいだけなのだが、そんなはずはない――その思いが、その事実を受け入れることを拒んでいた。
(……この人たちは、何者なんだろう)
見るからに、前に座る男が左右の二人よりも高位であることはわかる。少なくとも、狭い馬車で隣に座れない程度には。或いはライラを警戒して部下二人で挟んでいるのか。いずれにせよ、前の男が高貴な立場であることは確かだ。
金髪の青年――スカイは、三人の中で一番若く、終始人懐こい笑みを浮かべている。ライラと同じ軍服を着ているが、よく見るとライラの(正確にはエディの)ものよりも細部の装飾が多い。肩と袖口のラインは三本、胸には星の徽章が九個もついている。対してエディの服のラインは一本、徽章に至ってはひとつもついていない。
黒髪の男――シハーブは、ユーリと同じ黒い瞳をしていたが、その眼差しは鋭く、相手を射竦めるような力強さがあった。南方の血が混じっているのか、褐色の肌が滑らかな光沢をもって目を引く。スカイとは違う、黒い服を着て、髪にはターバンを巻いていた。年齢は、ユーリよりよりだいぶ上……銀髪の男と同じくらいに見えた。
知らず、ユーリと比べてしまうのは、その黒髪のせいか。密着している太腿が熱く感じるのは。束の間、戻らない夜の記憶を蘇らせるのは。
ライラは、右手で左肩を抱いた。
そこに眠る焼印。それを覆い隠した刺青。ライラの肌を美しく飾った、太陽と月の模様。
ユーリがくれた、生きる勇気。
馬車が止まった。
外に出ると、そこは広い庭だった。遠くに通ってきた大きな門が見える。その左右には、端が見えないほど長い塀が続いている。そして目の前には。
――壮麗な宮殿が建っていた。
恭しく礼をする衛兵たちに一瞥もくれず、男たちは階段を上って入口へ向かう。巨大な両開きの扉が衛兵によって左右に開かれ、四人を迎え入れる。
ライラは両側をシハーブとスカイに挟まれたまま、為すすべもなくどんどん奥へと連れて行かれる。
『夜の兎』がすっぽり入るのではないかと思えるほど広い大広間の、横の通路を抜けて、控えの間の並ぶ区域を通り、中庭を抜け、円形の部屋――「星の間」に着いた。
銀髪の男が長椅子に両足を投げ出して座る。奴隷が彼のブーツを脱がせ、湯気の立った布で足を拭く。
ライラは所在なく、円形の部屋の中心に立ち尽くしていた。
一歩下がって、左右には相変わらずシハーブとスカイが控えている。
足を拭き終えた男は、少しゆったりとした部屋履きに履き替え、小姓が運んできた盆からワインをひと口含んで、言った。
「さて、偽兵士よ」
ぎくり、とライラは顔色を変える。
「偽?」
スカイがきょとんとして、ライラと男を見比べた。
「私の兵に、私の顔を知らぬ者がいるか。阿呆」
「え、まさかぁー……」
一笑に付しかけたスカイをじろりと睨んで黙らせる。
「スカイ、そなたは腕も立つし頭も回るのに、何故そう肝心な時に警戒心が抜けているのだ?」
「酷いなぁ。僕は肝心な時にはちゃんと警戒しますよ。この人が本当に危険なら、もう生きていませんし」
スカイはにこやかに言う。その笑顔が、ライラは初めて恐ろしいと思った。つまり「その気になればいつでも殺せる」と言われたのだ。
「ふ、頼もしいな。ではこいつは刺客ではないと?」
「刺客だったらそもそも助けないでしょう」
「どこかの間諜で、私に取り入ろうとしているのかも」
「尚更、陛下の顔くらいは知っていて当然かと」
「成程」
男はワイングラスを盆に置き、立ち上がる。
「のう?そなた、私が誰だかわかるか?」
一歩、踏み出しながら男が言う。
「……っ」
詰め寄られて、ライラはじりじりと後退る。
「知らぬのだろう?え?」
男が手を伸ばしてきて、ライラの顎を、くい、と持ち上げた。
「そなたは何者だ?何故、私の兵のふりをしている?」
ライラは剣の柄に手を掛けた。その瞬間、二本の剣がライラの喉元で交差した。
「――!」
冷や汗が首を伝う。シハーブとスカイがライラに剣を突きつけたのだ。
(この二人、剣を抜いた気配もなかった――)
実力の差を見せつけられ、ライラは剣から手を放した。
「いい加減、名ぐらい名乗れ。不敬であるぞ」
どうしよう、と焦る。娼館から逃げてきたなど、知られるわけにいかない。しかもここは王宮だ。ジャヤトリア辺境伯の奴隷だと知られたら、送り返されないとも限らない。
首に当たった剣が冷たい。
「どうした。口がきけぬか」
氷のような声が問い詰める。
「あ……」
ユーリ。ユーリ。たすけて、ユーリ。どうすればいいの。ユーリ。
心の中で、何度呼んだことだろう、この名を。会えないと分かっていても想ってしまう人の名を。
「……アトゥイ―」
つい、口をついて出た。
「服は、拾った……んです……陛下」
ふ、と口の端で笑って、男はくるりと踵を返し、長椅子に戻った。
「スカイ、そいつの処遇はそなたに任せる。部下にするなり殺すなり、好きにせよ」
シハーブとスカイも剣を収めた。シハーブがライラから剣を取り上げ、スカイに渡す。
「軍の支給品だろう」
「本当だ。誰のだろ?」
スカイは剣を確認すると、ライラの方を見て言った。
「君、本当に知らないの?」
「何……を……?」
ライラの声は震えていた。極限の緊張が解けて、立っているのがやっとだ。
「だから、陛下を」
「……陛下?」
ライラは長椅子の男を見た。切れるような美貌の男。空色の瞳。銀の髪。一度見たら忘れようがない。先程会ったばかりのこの男を、何故知っている筈があろうか。
「知らないで助けたの?イシュラヴァール国王陛下を」
ライラはぽかんとした。国王という存在がいることを、知ってはいた。だが関わることなどない存在のはずだった。日々を生きるのに精一杯で、頭を垂れる相手は目の前の主人や客で、その上に、その上の上の上に、人々の頂点に誰が居るかなど、考えたこともなかった。
そして、彼が「私の宮殿」と言ったその意味を、ようやく理解した。
*****
何故その部屋を見たいと思ったのか分からない。
騒然としている娼婦たちの間をぬって、ユーリは階段を上り、ひとつだけ扉が開いたままの部屋に入った。
澱んだ空気と汚れた敷布が、つい先程までここで何が起きていたかを物語る。
「………っ、畜生……っ!」
怒りに任せて、寝台から敷布を引き剥がす。本が二冊、敷布と寝台の間から転がり出てきた。
見回すと、鏡台には破れ紙の束があり、拙い文字が書きつけられている。
「ファーリア……文字を……?」
「それなぁ、客の一人がライラに教えてたんだよ」
振り向くと、戸口にイドリスが立っていた。イドリスは部屋に入ってきて本を手に取る。
「若い客で、ライラに同情したんだなぁ……これもその客からの借りもんだ。あーあ、ボロボロだな」
本はあちこちが破れ、表紙も折れ曲がっている。助けを呼ぼうとして失敗したページが、幾つも寝台の隙間に落ちていた。
「あの男から逃げるのに、必死だったんだろうなぁ……」
「…………っ!」
ユーリはたまらず、イドリスを部屋から押し出す。
「お、おい、あんた」
ぐいぐいと廊下に押し出して、扉を閉める。
「―――――――っ…………」
顔を両手で覆い、咆哮を押し潰す。
「ああああああああーーーーっ!!!」
締め出されたイドリスは、その叫びを背中に聞いた。
いつの間にか、マリアも二階に上がってきていた。
「……あんたが逃がしたのかい……?」
「ああ」
マリアは溜息をつく。
「ありがとね……」
「おい、どういう風の吹き回しだ」
「そりゃあ大損だけどさ。だって……あたしだって、何も女を不幸にするためだけに、こんな娼館やってる訳じゃない――後味が悪いのは、嫌なんだよ」
イドリスには分かっていた。マリアはそういう女だ。足元に落とした視線の先に、苦い過去が映っていた。彼女もまた、幸福とはいえない運命を背負って生きてきたのだから。
「おかしいとは思っていたのよ。でも、あたしはどうにもあの男が苦手でね」
苦手、というより、怖かった。思い通りにならないと容赦なく人を手に掛ける、そういう種類の人間だとマリアは直感的に感じていた。
イドリスもそれに同意する。
「ああ、全く隙がなかった。ありゃあ相当だ。あの兄さんが気を逸らさなかったら、とても逃がしてなんてやれなかったぜ」
「勘違いしたんだよ、あいつが待ってた『連れ』が来たんだってね」
「ああ。だが違った――だから逃がせたんだ」
それが果たして良かったのか、逆だったのか。
扉の向こうでは気が違ったように啼く声がいつまでも止まない。
「あああ、あーーーーっ、ああーーーーー…………」
何ヶ月も何ヶ月も探し回った。
もう会えないのかもしれないと、何度も思った。だけど翌朝目覚めると、やはり探すのをやめられなかった。そうやって半年以上、毎日毎日、彼女を想って。
「ファーリア……ファーリア……ああ……」
あと少し。
もう三日、いや、もう一日でも早く来ていたら。
ジャヤトリア兵の邪魔が入らなければ。
自分がもっと強かったら。
「ファーリア……」
ここに、いたのに。
文字を覚え、本を読んで。
ついさっきまで。
手が届きそうなところまで、来ていたのに。
「あいつ……なんで、俺は……さっさと殺さなかった……!!」
次は殺す。そう、彼は言い捨てていった。いとしい女を、散々に傷つけて。
「ファーリア、ファーリア、ファーリア……」
暗い部屋の片隅で、ユーリは固く誓った。
――次は、殺す。俺が、お前を――。
「狭い」
銀髪の男がぼやく。だが、彼は二人掛けの席に悠々と腰掛けて、その向かいにスカイとシハーブが、ライラを挟んで掛けていた。
「我慢なされよ。こちらは二人掛けに三人座っている」
ライラの右に掛けたシハーブがぴしゃりと言った。
「すみませんねぇ、狭くてー」
左側からスカイがライラを覗き込んで、にっこりと笑った。
「……いえ」
ライラは短く答える。確かに、男二人に挟まれてライラの細い腰でもぎゅうぎゅうだ。
そっと視線を上げると、長い銀色の髪を優雅に波打たせた男が窓の外を眺めていた。向かいに座る三人の脚がいかにも邪魔だと言わんばかりに、片膝を座席に乗せて窮屈そうに横座りになっている。
時折ちらちらと、外の明かりが男の顔を過ぎっていく。真っ直ぐに通った鼻梁、頬骨から細い顎にかけて滑り落ちる直線的な頬のライン。どこか不満げに眉根を寄せたその形も引き結んだ唇も、彫刻のように完璧な美しさだ。切れ長の目を髪の毛と同じ色の睫毛が優美に縁取り、色素の薄い瞳は常に冷たい光を放っている。
宮殿、とこの男は言っていた。「私の宮殿」と。
その意味を、ライラは理解しかねていた。いや、文字通りに解釈すればいいだけなのだが、そんなはずはない――その思いが、その事実を受け入れることを拒んでいた。
(……この人たちは、何者なんだろう)
見るからに、前に座る男が左右の二人よりも高位であることはわかる。少なくとも、狭い馬車で隣に座れない程度には。或いはライラを警戒して部下二人で挟んでいるのか。いずれにせよ、前の男が高貴な立場であることは確かだ。
金髪の青年――スカイは、三人の中で一番若く、終始人懐こい笑みを浮かべている。ライラと同じ軍服を着ているが、よく見るとライラの(正確にはエディの)ものよりも細部の装飾が多い。肩と袖口のラインは三本、胸には星の徽章が九個もついている。対してエディの服のラインは一本、徽章に至ってはひとつもついていない。
黒髪の男――シハーブは、ユーリと同じ黒い瞳をしていたが、その眼差しは鋭く、相手を射竦めるような力強さがあった。南方の血が混じっているのか、褐色の肌が滑らかな光沢をもって目を引く。スカイとは違う、黒い服を着て、髪にはターバンを巻いていた。年齢は、ユーリよりよりだいぶ上……銀髪の男と同じくらいに見えた。
知らず、ユーリと比べてしまうのは、その黒髪のせいか。密着している太腿が熱く感じるのは。束の間、戻らない夜の記憶を蘇らせるのは。
ライラは、右手で左肩を抱いた。
そこに眠る焼印。それを覆い隠した刺青。ライラの肌を美しく飾った、太陽と月の模様。
ユーリがくれた、生きる勇気。
馬車が止まった。
外に出ると、そこは広い庭だった。遠くに通ってきた大きな門が見える。その左右には、端が見えないほど長い塀が続いている。そして目の前には。
――壮麗な宮殿が建っていた。
恭しく礼をする衛兵たちに一瞥もくれず、男たちは階段を上って入口へ向かう。巨大な両開きの扉が衛兵によって左右に開かれ、四人を迎え入れる。
ライラは両側をシハーブとスカイに挟まれたまま、為すすべもなくどんどん奥へと連れて行かれる。
『夜の兎』がすっぽり入るのではないかと思えるほど広い大広間の、横の通路を抜けて、控えの間の並ぶ区域を通り、中庭を抜け、円形の部屋――「星の間」に着いた。
銀髪の男が長椅子に両足を投げ出して座る。奴隷が彼のブーツを脱がせ、湯気の立った布で足を拭く。
ライラは所在なく、円形の部屋の中心に立ち尽くしていた。
一歩下がって、左右には相変わらずシハーブとスカイが控えている。
足を拭き終えた男は、少しゆったりとした部屋履きに履き替え、小姓が運んできた盆からワインをひと口含んで、言った。
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ぎくり、とライラは顔色を変える。
「偽?」
スカイがきょとんとして、ライラと男を見比べた。
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「え、まさかぁー……」
一笑に付しかけたスカイをじろりと睨んで黙らせる。
「スカイ、そなたは腕も立つし頭も回るのに、何故そう肝心な時に警戒心が抜けているのだ?」
「酷いなぁ。僕は肝心な時にはちゃんと警戒しますよ。この人が本当に危険なら、もう生きていませんし」
スカイはにこやかに言う。その笑顔が、ライラは初めて恐ろしいと思った。つまり「その気になればいつでも殺せる」と言われたのだ。
「ふ、頼もしいな。ではこいつは刺客ではないと?」
「刺客だったらそもそも助けないでしょう」
「どこかの間諜で、私に取り入ろうとしているのかも」
「尚更、陛下の顔くらいは知っていて当然かと」
「成程」
男はワイングラスを盆に置き、立ち上がる。
「のう?そなた、私が誰だかわかるか?」
一歩、踏み出しながら男が言う。
「……っ」
詰め寄られて、ライラはじりじりと後退る。
「知らぬのだろう?え?」
男が手を伸ばしてきて、ライラの顎を、くい、と持ち上げた。
「そなたは何者だ?何故、私の兵のふりをしている?」
ライラは剣の柄に手を掛けた。その瞬間、二本の剣がライラの喉元で交差した。
「――!」
冷や汗が首を伝う。シハーブとスカイがライラに剣を突きつけたのだ。
(この二人、剣を抜いた気配もなかった――)
実力の差を見せつけられ、ライラは剣から手を放した。
「いい加減、名ぐらい名乗れ。不敬であるぞ」
どうしよう、と焦る。娼館から逃げてきたなど、知られるわけにいかない。しかもここは王宮だ。ジャヤトリア辺境伯の奴隷だと知られたら、送り返されないとも限らない。
首に当たった剣が冷たい。
「どうした。口がきけぬか」
氷のような声が問い詰める。
「あ……」
ユーリ。ユーリ。たすけて、ユーリ。どうすればいいの。ユーリ。
心の中で、何度呼んだことだろう、この名を。会えないと分かっていても想ってしまう人の名を。
「……アトゥイ―」
つい、口をついて出た。
「服は、拾った……んです……陛下」
ふ、と口の端で笑って、男はくるりと踵を返し、長椅子に戻った。
「スカイ、そいつの処遇はそなたに任せる。部下にするなり殺すなり、好きにせよ」
シハーブとスカイも剣を収めた。シハーブがライラから剣を取り上げ、スカイに渡す。
「軍の支給品だろう」
「本当だ。誰のだろ?」
スカイは剣を確認すると、ライラの方を見て言った。
「君、本当に知らないの?」
「何……を……?」
ライラの声は震えていた。極限の緊張が解けて、立っているのがやっとだ。
「だから、陛下を」
「……陛下?」
ライラは長椅子の男を見た。切れるような美貌の男。空色の瞳。銀の髪。一度見たら忘れようがない。先程会ったばかりのこの男を、何故知っている筈があろうか。
「知らないで助けたの?イシュラヴァール国王陛下を」
ライラはぽかんとした。国王という存在がいることを、知ってはいた。だが関わることなどない存在のはずだった。日々を生きるのに精一杯で、頭を垂れる相手は目の前の主人や客で、その上に、その上の上の上に、人々の頂点に誰が居るかなど、考えたこともなかった。
そして、彼が「私の宮殿」と言ったその意味を、ようやく理解した。
*****
何故その部屋を見たいと思ったのか分からない。
騒然としている娼婦たちの間をぬって、ユーリは階段を上り、ひとつだけ扉が開いたままの部屋に入った。
澱んだ空気と汚れた敷布が、つい先程までここで何が起きていたかを物語る。
「………っ、畜生……っ!」
怒りに任せて、寝台から敷布を引き剥がす。本が二冊、敷布と寝台の間から転がり出てきた。
見回すと、鏡台には破れ紙の束があり、拙い文字が書きつけられている。
「ファーリア……文字を……?」
「それなぁ、客の一人がライラに教えてたんだよ」
振り向くと、戸口にイドリスが立っていた。イドリスは部屋に入ってきて本を手に取る。
「若い客で、ライラに同情したんだなぁ……これもその客からの借りもんだ。あーあ、ボロボロだな」
本はあちこちが破れ、表紙も折れ曲がっている。助けを呼ぼうとして失敗したページが、幾つも寝台の隙間に落ちていた。
「あの男から逃げるのに、必死だったんだろうなぁ……」
「…………っ!」
ユーリはたまらず、イドリスを部屋から押し出す。
「お、おい、あんた」
ぐいぐいと廊下に押し出して、扉を閉める。
「―――――――っ…………」
顔を両手で覆い、咆哮を押し潰す。
「ああああああああーーーーっ!!!」
締め出されたイドリスは、その叫びを背中に聞いた。
いつの間にか、マリアも二階に上がってきていた。
「……あんたが逃がしたのかい……?」
「ああ」
マリアは溜息をつく。
「ありがとね……」
「おい、どういう風の吹き回しだ」
「そりゃあ大損だけどさ。だって……あたしだって、何も女を不幸にするためだけに、こんな娼館やってる訳じゃない――後味が悪いのは、嫌なんだよ」
イドリスには分かっていた。マリアはそういう女だ。足元に落とした視線の先に、苦い過去が映っていた。彼女もまた、幸福とはいえない運命を背負って生きてきたのだから。
「おかしいとは思っていたのよ。でも、あたしはどうにもあの男が苦手でね」
苦手、というより、怖かった。思い通りにならないと容赦なく人を手に掛ける、そういう種類の人間だとマリアは直感的に感じていた。
イドリスもそれに同意する。
「ああ、全く隙がなかった。ありゃあ相当だ。あの兄さんが気を逸らさなかったら、とても逃がしてなんてやれなかったぜ」
「勘違いしたんだよ、あいつが待ってた『連れ』が来たんだってね」
「ああ。だが違った――だから逃がせたんだ」
それが果たして良かったのか、逆だったのか。
扉の向こうでは気が違ったように啼く声がいつまでも止まない。
「あああ、あーーーーっ、ああーーーーー…………」
何ヶ月も何ヶ月も探し回った。
もう会えないのかもしれないと、何度も思った。だけど翌朝目覚めると、やはり探すのをやめられなかった。そうやって半年以上、毎日毎日、彼女を想って。
「ファーリア……ファーリア……ああ……」
あと少し。
もう三日、いや、もう一日でも早く来ていたら。
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自分がもっと強かったら。
「ファーリア……」
ここに、いたのに。
文字を覚え、本を読んで。
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「あいつ……なんで、俺は……さっさと殺さなかった……!!」
次は殺す。そう、彼は言い捨てていった。いとしい女を、散々に傷つけて。
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