イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第二章 娼館編

15 銀月

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 懐かしい名前で呼ばれた気がして、ライラはふと夜空を振り仰いだ。が、すぐ空耳だと気付く。この街に、あの名を知るものが居るはずがない。
 王都ララ=アルサーシャの人口は十万人ほどである。
 イシュラヴァールいちの人口を擁する王都は、王国内のどの街よりも大きい。だが追手から隠れ住む身には、それでも狭く感じた。
 ちょうど橋の上に来ていた。ライラは雑踏に背を向け、欄干に身をもたせかける。
 ライラは国軍兵士の出で立ちをしている。怪しまれないよう、できるだけ堂々と振る舞うよう気をつけていたが、どうにも周囲の人々の目が気になって仕方がなかった。それに、さっきすれ違ったのは間違いなくジャヤトリア兵――碧い目の男は、ライラをジャヤトリアへ戻すと言っていた――ならばあの兵たちは、ライラを迎えに来たのではないか。『夜の兎』にいないことが分かったら、今にも街に探しに現れるかもしれない。
(どうしよう……どこへ逃げれば……)
 第一、一銭も持っていない。剣を売ることも考えたが、エディから奪った、恐らく軍の支給品の剣を売り払うのは躊躇ためらわれたし、売ったらそこから足がつく気もした。馬も水も食糧も持たずに砂漠へ出るのは自殺行為だと、以前身に染みて知っている。
(逃げて、逃げて、追われて、また逃げて……)
「……逃げ続けるだけか、わたしは……」
 そんなのは嫌だ。
 ライラは長い髪を片手で束ねると、剣で一気に切り落とし、川に投げ捨てた。

 人目を避けて入り組んだ路地を歩いているうち、ライラはすっかり迷ってしまった。
 どこからか、すえた匂いが漂ってくる。
 その一角は、特に入り組んでいた。住居も道路も無計画に増改築が繰り返されたようで、あちこちに狭い階段が伸びたかと思えば、その先が壊れていたり、いきなり行き止まりになっていたりする。作りかけなのか壊れかけなのかわからない家に明かりが灯っているかと思えば、石段の下の、塀だと思っていた場所に、真っ暗な扉があったりもする。家々の隙間を生活排水が流れる堰が迷走し、ところどころで溢れては汚水の溜まりを作っている。
 街の賑やかさは遠くへ消え、いつしか人通りも途絶えた。時折見かけるのは道端に座り込んだ浮浪者か、どう贔屓目に見ても堅気には見えないならず者たち。所在なく壁に寄りかかって立っている痩せこけた女は、客の取れない下級の売春婦だろうか。目はぎょろりと落ち窪み、襟ぐりの大きく開いた胸元にはあばらが浮いている。
 知らず、剣を握った手に力が入る。
 と、その時。
「どこへ行った!?」
「こっちだ!」
 数人の声と足音がして、澱んでいた空気がにわかにざわめいた。
 何事か、とライラが声の方向へと一歩踏み出したところへ、ふわりと一陣の風が吹き抜けた。
「――――!」
 ライラの目の前を、銀の光が過ぎった。
 折しも雲に隠れていた月が顔を出す。半月に僅かに足りない上弦の月。
 月光を浴びて、その男は闇の中に眩しかった。
「――行き止まりか」
 路地の奥で立ち止まると、冷たい水音のような声で呟く。流れ落ちるような見事な銀髪が月明かりに輝いて、ライラはしばし思考を停止してその姿に釘付けになった。
「いたぞ!こっちだ!」
 背後の声に、はっと我に返る。どうやら男を追って、路地に男たちが駆け込んできた。
「――仲間か!」
 えっ、と思う間もなく、追ってきた男たちが剣を抜き放つ。
 ライラは素早く周囲を見回した。背後に銀髪の男。正面には四人。そして何を勘違いしたのか、彼らの剣はライラに向けられている。
「兵士を忍ばせていたのか」
「顔を見られた。殺せ」
 気付けばライラは剣を抜いていた。誰だか知らぬが、ここで殺されるつもりなどない。
 ――それに。
(何故だろう……この男は)
 一人目の剣を受ける前に、先手の突きを繰り出す。狭い路地だ。どうせ一人ずつしか闘えない。
 不意打ちでもなければ、大の男の剣をまともに受けられる力が自分にないことを、過去の経験からライラは知っていた。だが受け流せば背後を取られて挟まれる。それに、銀髪の男に危険が及ぶ。
 ライラは突きを繰り出し続けた。相手がじりじりと後退し始めたのを見て、くるりと踵を返して路地の奥へ駆ける。
 そのまま石壁に足をかけ、勢いをつけて、トン、と壁の上に登った。彼らには暗くて見えていなかったのだろうが、そこには崩れかけた石段が残っていたのだ。ライラは腕を差し出し、銀髪の男の手を取って引っ張り上げた。
(何故だろう。この男を死なせてはならないような気がする)
 男は軽々と壁の上に立った。少しの重さも感じなかった。
「くそ!逃げるぞ!」
「そっちへ回れ!」
 四人は二手に分かれて追ってくる。どこに潜んでいたのか、更に二、三人敵が増える。
「こっちだ」
 ライラが先導して銀髪の男が続く。先程うろついたお陰で、なんとなく周囲の構造が頭に入っていた。男は無駄のない動きで、ひらりひらりと舞うようにライラに着いてきた。
 入り組んだ階段を駆け上がり、振り向きざま、追ってきた敵を上から切り下ろす。
「ぎゃあっ!」
 手応えがあった。
 手傷を負った敵を蹴落として、先へ進む。
 正面に、先回りしてきた敵が立ちはだかった。ライラは走るスピードを速め、その勢いのまま斬りつけた。
 ガシィッ!
「うっ!」
 重い音と共に、敵の剣が宙を飛ぶ。
 ヒュンヒュンヒュン……と唸りながら落ちてきたところをライラの左手が掴み、背後へ投げる。銀髪の男はそれを受け取ると、小さく笑った。
「小僧――!」
 剣を奪われた敵は、ライラを背後から羽交い締めにした。ライラは剣を逆手に持ち、自身の脇の間から深々と敵の心臓を貫く。
「ぎゃあっ……」
 振り向くと、銀髪の男が敵と対峙していた。かなりの手練てだれらしく、顔色ひとつ変えずに一人、また一人と倒していく。
 ライラも二人の敵を相手に立ち回る。激しい剣閃の応酬。
『もっと、もっと速く!もっと!』
『脇を締めろ!手首を使え!』
 懐かしい声が、頭の中に響いた。
 まるでユーリがすぐそばにいて、ライラの手を取っているようだった。
『よく見ろ、相手が攻撃した直後だ、スキを見逃すな』
 ライラはその声に従うだけで良かった。
「ぐあ……っ」
 一人、深手を負って膝を折る。
(あと一人――)
 仲間の血を見すぎた最後の敵は、流石に焦りを滲ませていた。しかし彼の背後には、敵を倒しきった銀髪の男が立っている。後がない、と観念したのか、剣を構えて地を蹴った。鬼の形相で繰り出される、渾身の一撃。
 ――ユーリが耳元で囁いた。
『殺さなければならない時は、迷うな。でなければ命を落とすのは自分だ』
 ライラは剣を振り抜いた。

「助かった。礼を言う」
 冷涼な水の流れる声で、銀髪の男は言った。辺りには錆びつく血の臭いがたちこめている。
 鞘のない剣の切っ先から鮮血を滴らせ、男はなんとも美しい。一体何者なのだろう、とライラは思った。
「そなた、名は?どこの所属だ?」
 名を聞かれて、ライラは我に返る。
「名……は」
 頭が真っ白になった。『ファーリア』も『ライラ』も追われている。そしてこの惨事だ。追求されたら只では済まないだろう。
(捕まって連れ戻されるのは、もっと嫌だ)
「名など……わたしはこれで……」
 逃げよう。もごもごと言い澱みながら、ライラは男に背を向けて、その場を去りかける。
「あーあ、だいぶ派手に立ち回りましたねー」
 場違いに明るい声が頭上から降ってきて、ライラは思わず振り向いた。
 屋根の上にいたのは、金髪の青年。均整の取れた身体に軍服が良く映えている。中佐やエディの軍服(今はライラが着ているが)は見慣れていたが、その青年の胸の徽章には見たこともない数の星が並んでいた。
「まったく、後始末をする身にもなっていただきたい」
 今度は反対側の屋根の上から声がした。
 その声の主を振り仰いで、ライラは思わず声を上げかけた。
「ユー……!」
 月光を遮る黒い髪。黒い服。――だが。
(……違う……ユーリじゃない)
「遅いぞシハーブ」
 シハーブ、と呼ばれた黒髪の男が、ひらりと屋根から飛び降りる。
「全員尻尾を出すのを待っていたのですが、まさかあなたの正体が真っ先にバレるとは、予想外でした」
 シハーブはじろりと銀髪の男を睨めつけた。
「しかも単身丸腰で乗り込むなど。立場をお考えくだされ。せめて我らの到着を待たれよ」
「保身に走って取り逃がしたくはない」
「保身はあなたの最も大事な仕事だ!」
 たまらずシハーブが怒鳴った。
「しかも、取り逃がさずともこの有様では、一体誰の口から情報を聞き出すおつもりか」
 シハーブが広げた手の先には、累々たる死体の山。
「いや、一人二人、生かしておいた筈だが――」
 銀髪の男が頭を掻いて、きょろ、と見回すと、先程の明るい声がそれに応えた。
「いましたよお!コイツですね?」
 金髪の青年が引きずってきたのは、ライラが最初に階段で蹴落とした男だった。
「あ、こっちも生きてる」
 よく見ると、銀髪の男が仕留めた敵は皆、深手を負ってはいたが息はあった。
「当たり前だ、スカイ。死んでる奴はみんな、そいつが殺した」
 男が顎でライラを指す。
「えっ……」
 突然注目を浴びて、ライラは狼狽えた。そっと剣の柄に手を掛ける。
 だが、金髪の青年の言葉は思いがけないものだった。
「僕、スカイと言います。うちの主人がご迷惑をお掛けしました!」
 そう言って、手を差し出してきたのだ。
「あ、いや」
 ライラは面食らったまま、青年に求められるままに握手を返す。
「あの……追われていたので助けたつもりだったのだが……どうやら余計な手出しだったようで……すまない」
「とんでもない。悪いのはこちらだ」
「そうですよ!シハーブさんがちゃんと首に縄をつけておかないから!」
「おいおいお前たち、主人に向かって随分な言い草だな」
 銀髪の男がぼやきながら、ライラの前に立った。
「何にせよ助かった。礼を言うぞ」
 助けられた割に横柄な態度のその男は、数分前まで命のやり取りをしていたとは思えない落ち着きはらった笑みを浮かべた。
「とにかく、ここに留まっていては騒ぎになります。市中警備兵を呼んでいますから、後始末は任せて我々は一旦戻りましょう」
 シハーブが言うと、銀髪の男も
「そうだな」
と応じる。シハーブの言葉通り、すぐに警備兵たちが大勢駆けつけてきた。
「それにしても、すごい腕ですね!一太刀で急所を仕留めてます。どこの部署ですか?是非僕の下に欲しいな!」
 スカイはしきりにライラの腕を褒めている。
「それも行ってから話そう」
 銀髪の男が、ライラの背に手を当てて先へと促した。
「あの、行くって、どこへ?」
 ライラは押されるがままに歩きながらも、事態についていけない。
 男はさらりと答えた。
「私の宮殿だ」
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