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第一章 乱世到来
挙兵
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サキルラートは黙って聞いていた。娘の選んだ男だという欲目を差し引いても、とても暗愚な王には見えなかった。
(驕っていたのは自分の方だろうか)
並み居る強国に負けじと、常に先進的で開かれた国家を目指してきた。教養高く、身分家柄を問わずあまねく平等の意識を持ち、多様な文化・慣習に理解を示す、成熟した近代国家の一員と自負してきた。だがその実、海を隔てた隣国のことすら何もわかっていなかったのではないだろうか。恵まれた土地と地政学的条件がもたらす富に胡座をかいて、狭量な正義を振り回しているだけではなかったか。
豊かで発展した都を目にしても、マルスの視線は揺らがない。他国を羨みもしなければ、自らの境遇を嘆きもしない。その冷徹な瞳は、常に自国の未来のみを見つめている。生まれながらの王。
「それで、今度はあなたが神になるのか?」
サキルラートは少しの皮肉を込めて問うた。言わずにいられないほど、その傲慢な若さが眩しかった。
「まさか」
マルスはふっと笑みをもらした。
「神など何もできぬ」
サキルラートから兵を借り受ける約束を取り付けて、マルスは寝室へ向かった。
浅い眠りを繰り返していたルビーは、奇妙な気配で目を覚ました。数日前からひどく眠い。昼夜構わず襲ってくる眠気を、ルビーは里帰りで気が緩んでいるのだと解釈していた。
気配はマルスのものだった。部屋に戻ったばかりなのか、上衣も脱がないまま、化粧台の上に置かれた手洗い用のたらいに吐いている。
「大丈夫なの……?」
恐る恐る声をかけると、マルスはたらいから顔を上げてルビーを見た。
「夕食を食べ過ぎただけだ」
真っ青な顔でそう言って、マルスは水で口を濯ぎ、布で拭った。
夕食は側近たちと共に、サキルラートに招かれた。交渉相手の機嫌を損ねまいと、出されたものはひと通り口にした。だが、娘婿をもてなす心づくしの晩餐は、普段固形物をあまり摂らないマルスの胃にとって、拷問でしかなかった。
それでも、この数年でマルスの食生活はかなり改善していた。少量であれば肉も食べられるようになっていたのだ。
(あの日からだ――)
ルビーは思い起こす。テビウスにバセル王子が訪れたあの日――いや、ジャミールがシハーブ領から来た日。人払いしてジャミールの報せを聞いた時の、あの取り乱しよう。
(あんなマルスは、初めて見た)
部屋を飛び出していったマルスを追って、ルビーは思いがけない言葉を聞いたのだ。
――手放すべきではなかった、あの娘――。
その時のマルスの声が耳に蘇って、ルビーは頭を振った。
あの日から、マルスは毎夜、食べたものを吐き戻すようになった。スカイが手配した医師が栄養剤を打ち、ようやく動いている状態だった。
「マルス……」
ルビーはマルスの背中を抱きしめた。誰だか知らないが、愛しいマルスをこんなにしてしまったその女を憎んだ。
「ねえ、もうやめて……戦いになど、いかないで」
「……何を言い出す……?」
マルスは掠れた声で答えた。蓄積した疲労が、ルビーへの気遣いを失わせた。
「なんのための戦いなの?あんな不毛の砂漠なんか捨てて、この家に、この国に住めばいいじゃない……!」
ルビーは思わず口走っていた。思ってもいない、とは言い切れないまでも、半分以上は当てつけで、すべてが本心ではなかった。だがそれはマルスを逆上させた。
「……二度と言うな。私の国だ」
青白い怒りがマルスを包んだ。銀髪の毛先で、パシンと電気が弾ける。
マルスが自分に怒っている、そのことが、更にルビーの自尊心を炙った。
「国のため!?はっ……!」
ルビーは乾いた嘲笑を漏らした。
「女のためでしょう……?」
「なん……だと……?」
「女のために、あなたは死ににいくんだわ!わたしと結婚しておきながら!父を利用し、国を利用して!」
「貴様……っ!」
マルスがルビーの肩を掴んだ。だが、ルビーの興奮は収まらない。
「どこの誰よ!?言いなさいよ!わたしも言ってやるわ、その女に、わたしが妻だって!マルス、あなたの正妃だって!!」
その時、ドアが開いてスカイが駆け込んできた。
「おやめなさい!」
スカイはマルスからルビーを引き離し、そのままマルスに向き直って言った。
「アルナハブ王国シャー・アルナハブ王が崩御。行方不明の第一王子ハリー殿下に代わり、ニケ王妃が皇太后として当面の国政を引き継ぐと声明を発表しました……!」
マルスの顔色が変わった。
「とうとうか……」
「はい……!アルナハブを叩くなら、今です」
「サキルラート翁に使いを出せ。明日朝一番でテビウスに出発するぞ」
言うなりマルスは上衣を翻して部屋を出た。
「やめて、行かないで!マルース!!」
叫んだ瞬間、ルビーは目眩がしてその場に座り込んだ。
「ルビー殿……?」
スカイが戻ってきて、ルビーを助け起こす。立ち上がりかけた瞬間、吐き気がルビーを襲った。
「う……ぐっ」
「ルビー殿!」
スカイは慌ててハンカチを差し出した。
「ルビー殿、医師を呼んできます」
「こんなの……平気よ……それより、わたしも行かないと」
「ダメですよ、ルビー殿。あなたはここに残りましょう」
「何を言っているの?わたしも行くわよ。ブラッディルビー号で」
「ばかを言わないでくださいよ。この時期に船旅なんてして、万一のことがあったらどうするんですか」
ルビーにはスカイの言っている意味がわからなかった。
「医師に見せないとわかりませんけどね。とにかく、あなたはしばらく安静にしていてください。妊娠初期は流れやすいんですから」
「……妊……娠……?」
ルビーは目をぱちくりとさせて聞き返した。
その翌朝、マルスはリアラスにて挙兵した。
(驕っていたのは自分の方だろうか)
並み居る強国に負けじと、常に先進的で開かれた国家を目指してきた。教養高く、身分家柄を問わずあまねく平等の意識を持ち、多様な文化・慣習に理解を示す、成熟した近代国家の一員と自負してきた。だがその実、海を隔てた隣国のことすら何もわかっていなかったのではないだろうか。恵まれた土地と地政学的条件がもたらす富に胡座をかいて、狭量な正義を振り回しているだけではなかったか。
豊かで発展した都を目にしても、マルスの視線は揺らがない。他国を羨みもしなければ、自らの境遇を嘆きもしない。その冷徹な瞳は、常に自国の未来のみを見つめている。生まれながらの王。
「それで、今度はあなたが神になるのか?」
サキルラートは少しの皮肉を込めて問うた。言わずにいられないほど、その傲慢な若さが眩しかった。
「まさか」
マルスはふっと笑みをもらした。
「神など何もできぬ」
サキルラートから兵を借り受ける約束を取り付けて、マルスは寝室へ向かった。
浅い眠りを繰り返していたルビーは、奇妙な気配で目を覚ました。数日前からひどく眠い。昼夜構わず襲ってくる眠気を、ルビーは里帰りで気が緩んでいるのだと解釈していた。
気配はマルスのものだった。部屋に戻ったばかりなのか、上衣も脱がないまま、化粧台の上に置かれた手洗い用のたらいに吐いている。
「大丈夫なの……?」
恐る恐る声をかけると、マルスはたらいから顔を上げてルビーを見た。
「夕食を食べ過ぎただけだ」
真っ青な顔でそう言って、マルスは水で口を濯ぎ、布で拭った。
夕食は側近たちと共に、サキルラートに招かれた。交渉相手の機嫌を損ねまいと、出されたものはひと通り口にした。だが、娘婿をもてなす心づくしの晩餐は、普段固形物をあまり摂らないマルスの胃にとって、拷問でしかなかった。
それでも、この数年でマルスの食生活はかなり改善していた。少量であれば肉も食べられるようになっていたのだ。
(あの日からだ――)
ルビーは思い起こす。テビウスにバセル王子が訪れたあの日――いや、ジャミールがシハーブ領から来た日。人払いしてジャミールの報せを聞いた時の、あの取り乱しよう。
(あんなマルスは、初めて見た)
部屋を飛び出していったマルスを追って、ルビーは思いがけない言葉を聞いたのだ。
――手放すべきではなかった、あの娘――。
その時のマルスの声が耳に蘇って、ルビーは頭を振った。
あの日から、マルスは毎夜、食べたものを吐き戻すようになった。スカイが手配した医師が栄養剤を打ち、ようやく動いている状態だった。
「マルス……」
ルビーはマルスの背中を抱きしめた。誰だか知らないが、愛しいマルスをこんなにしてしまったその女を憎んだ。
「ねえ、もうやめて……戦いになど、いかないで」
「……何を言い出す……?」
マルスは掠れた声で答えた。蓄積した疲労が、ルビーへの気遣いを失わせた。
「なんのための戦いなの?あんな不毛の砂漠なんか捨てて、この家に、この国に住めばいいじゃない……!」
ルビーは思わず口走っていた。思ってもいない、とは言い切れないまでも、半分以上は当てつけで、すべてが本心ではなかった。だがそれはマルスを逆上させた。
「……二度と言うな。私の国だ」
青白い怒りがマルスを包んだ。銀髪の毛先で、パシンと電気が弾ける。
マルスが自分に怒っている、そのことが、更にルビーの自尊心を炙った。
「国のため!?はっ……!」
ルビーは乾いた嘲笑を漏らした。
「女のためでしょう……?」
「なん……だと……?」
「女のために、あなたは死ににいくんだわ!わたしと結婚しておきながら!父を利用し、国を利用して!」
「貴様……っ!」
マルスがルビーの肩を掴んだ。だが、ルビーの興奮は収まらない。
「どこの誰よ!?言いなさいよ!わたしも言ってやるわ、その女に、わたしが妻だって!マルス、あなたの正妃だって!!」
その時、ドアが開いてスカイが駆け込んできた。
「おやめなさい!」
スカイはマルスからルビーを引き離し、そのままマルスに向き直って言った。
「アルナハブ王国シャー・アルナハブ王が崩御。行方不明の第一王子ハリー殿下に代わり、ニケ王妃が皇太后として当面の国政を引き継ぐと声明を発表しました……!」
マルスの顔色が変わった。
「とうとうか……」
「はい……!アルナハブを叩くなら、今です」
「サキルラート翁に使いを出せ。明日朝一番でテビウスに出発するぞ」
言うなりマルスは上衣を翻して部屋を出た。
「やめて、行かないで!マルース!!」
叫んだ瞬間、ルビーは目眩がしてその場に座り込んだ。
「ルビー殿……?」
スカイが戻ってきて、ルビーを助け起こす。立ち上がりかけた瞬間、吐き気がルビーを襲った。
「う……ぐっ」
「ルビー殿!」
スカイは慌ててハンカチを差し出した。
「ルビー殿、医師を呼んできます」
「こんなの……平気よ……それより、わたしも行かないと」
「ダメですよ、ルビー殿。あなたはここに残りましょう」
「何を言っているの?わたしも行くわよ。ブラッディルビー号で」
「ばかを言わないでくださいよ。この時期に船旅なんてして、万一のことがあったらどうするんですか」
ルビーにはスカイの言っている意味がわからなかった。
「医師に見せないとわかりませんけどね。とにかく、あなたはしばらく安静にしていてください。妊娠初期は流れやすいんですから」
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