イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第二章 落日のエクバターナ

疑念

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 女官が新しい茶を配る。場の緊張感がほぐれ、女王は軽い雑談に入った。
「ときに、末の王子殿は無事なのか」
「末?」
 マルス・バセルは聞き返した。マルス王の第三王子は幼い頃に命を落とし、現在マルスの王子はバセルとバハルしかいない。女王がバハルのことを言ったとも思えず、といって兄弟の「末っ子」は妹だ。王子、というのは聞き間違いか。
「ルナ……妹は、シャルナクに遊学中です。父が、安全な場所にと」
 やんわりと訂正しながら、バセルが言った。後ろに控えたジャミールが青ざめていることには気付かない。
「それは重畳」
 ニケ女王は熱い茶を啜って言った。
われが申したは、新しく側室に産ませた子のことじゃ。ここに来たときはまだ小娘じゃったが」
 女王が言葉を続ける。バセルはその言葉の意味を理解するのに、しばし時間がかかった。
(新しく側室に産ませた……?)
 それは一体いつの話なのか。王都は奪われ、父の側室など残ってはいない。一瞬ルビーの顔が浮かんだが、彼女は側室ではないし、子もいない。反乱前に、後宮に何人側室がいたかなど、子供の頃から留学していたバセルは知らない。そんな話は――聞いていない。
「その側室にはヤーシャールも世話になったと聞いている。もし会えることがあればと思ったのじゃが……そうか、そちは知らなんだな」
「……いえ、滅相もないことで――なにぶん、留学中の身でしたため」
 からからに乾いた口で、茶を飲むことも忘れてバセルは言った。
「いや、余計なことを聞いたようじゃ。すまなかった」
 女王は優雅な手付きで茶を飲み干した。

「貴様、知っていたな?」
 私室に戻ったバセルは、ジャミールに詰め寄った。
「王子を産んだ側室とは誰だ?」
「バセルさま、私には、それは」
 ジャミールの顔が苦渋に歪む。
「私は命令しているのだ。言え!」
 バセルが声を荒らげた。温和な性格の彼には珍しいことであった。
 ジャミールとて、すべての事情を知っているわけではない。内乱でマルスの兵力が激減したために異例の若さで海軍大将となったジャミールは、内乱当時アズハル湾に駐留していた。その「側室」のことは、噂で知っているに過ぎない。だが、それは有名な噂だった。砂漠で反乱軍を次々に制圧した兵士が、王に見初められて側室になったと――。そして内乱のさなかに王子を産み落としたが、新政権の目を逃れて隠棲しているという。
『この件に関しては口をつぐめ。特に、バセル王子とサキルラートには絶対に悟られるな』
 そう釘を差されたのは、一年ほど前。王の側近のシハーブとたまたま食事する機会があったときのことだ。冗談半分、噂について口にした。シハーブとは歳も近く、酒も入っていたせいで意気投合し、つい下世話と知りつつ話題にしてしまった。シハーブの目つきが一瞬にして殺気を放ったのを、今も覚えている。『口の端に上せるだけでもマルス様への背信行為だと思え。少なくとも俺は、次に耳にしたら、斬るぞ』
 ジャミールはそれですべてを察した。つまり、噂は本当なのだ――。
「言えないのです、どうか」
 ジャミールはバセルに懇願した。
「末の王子など――私は知らない……今どこにいるのだ、そいつは!?誰の子だ!」
「……言えません……お許しください……!」
 ジャミールはシハーブが怖い訳では無い。その事実がこの若く優しいあるじの立場を危うくすることくらいは、ジャミールにもわかる。それは畢竟、彼の敬愛する父親からの裏切りだ。マルスにそのつもりがなくとも、生まれたときから第一王子として育てられてきたバセルは苦悩するだろう。それがいたたまれなかった。
 唇を噛み締めて瞑目したジャミールを見て、もうこの男に話す気はないと悟ったバセルは、くるりと背を向けて剣を取りマントを羽織った。
「王子――バセル様!どちらへ!?」
 部屋を出ていこうとするバセルを、ジャミールは引き止めた。が。
「朝までには戻る。お前もさっさと船に戻れ。ドレイクと合流して、作戦通りにアルナハブ海軍を攻めろ」
 蒼白な顔で言われ、ジャミールはそれ以上言葉が見つからなかった。

 宮殿を出たバセルはエクバターナ城下の歓楽街に向かった。
 慣れぬ土地で寝付けないので酒が飲める場所はないか、と出掛けに門兵に聞いて、最初は貴族向けの小綺麗な飲食店に入った。そこでワインを一杯飲んだが、気が収まるどころか沸々と疑念が渦巻いてくる。二軒、三軒と渡り歩くうち、気付けば場末の酒場で強い蒸留酒を立て続けにあおっていた。思考がぐるぐると同じ場所を回り始め、何に対して憤っていたのか曖昧になってくる。そうしているうちに脳の中枢が麻痺してきて、ようやく何もかもどうでもいいから寝床に横になりたいと思えてきた頃。
「あら旦那、こんなところに一人でいたら、いいカモにされちまいますよ」
 バセルが顔を上げると、眼の前にあの占い師の女が座っていた。
「お前――なぜエクバターナこのまちに?」
「なぜって、商売ですよ」
 女は素っ気なく答えた。
「それはちょうどいい」
 バセルは女の手首を掴んで言った。
「お前のカモになってやる。さあ、占いの続きを聞かせてもらおうか――」
 漆黒のベールの奥で、女の瞳が濡れたように光った。
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