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第二章 落日のエクバターナ
奇異な縁
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砂に立てた棒に布をかけ、簡易的なテントを張る。そうしてできた小さな日陰で、レグルスが午睡している。
「俺はこの砂漠とシャルナクとの間で商売をしている」
粉を練って焚き火で焼いただけの質素なパンを齧りながら、サジャーンは自分のことをそう説明した。
「交易商ですか。長く?」
「もう二十……いや、三十年近いかな」
それを聞いて、シハーブは得心した。彼の言った「この子供の父親」というのは、恐らくマルスのことではない、と。レグルスのもう一人の父親――ユーリ・アトゥイ―は塩売りだ。砂漠の商人であれば彼と繋がりがあってもおかしくはない。
「アルサーシャに住んだことは?」
シハーブは一応確認したが、サジャーンは首を横に振った。
「商売で立ち寄ることはあるが……新政府とやらができてからは行っていない。関税が上がったせいで、俺に限らず真っ当な商人は王都を避けるようになったな。もっとも、王都の貴族や新政府相手に商売している輩もいるが」
サジャーンは顔をしかめて言葉を切った。
無理もない、とシハーブは思った。内戦の混乱で、王都からは多くの市民が流出した。特に前王を支持する者は粛清を恐れて逃亡した。だが、ララ=アルサーシャを統治している新政府は遊牧民出身のアルヴィラ解放戦線と繋がっている。王都の商流は、アルヴィラ系の商人たちによって取って替わった。
重税、賄賂の横行、物価の高騰。
(王都の経済は破綻している)
シハーブは歯がゆく思う。マルスらが放っておいても、早晩立ち行かなくなるだろう。だが、それまでにどれだけの民が苦しむのか。民が命を落とすのは戦の混乱だけではない。ほとんどの場合、生活の困窮こそが生死に直結してくるのだ。
(一刻も早く、アトラスから王都を取り戻さねば……)
それでも今はまだましなのだ。もしこの混乱に乗じてシャルナクが動いたら、勝算はほとんどないだろう。万一属国にでもされてしまえば、搾取されるだけの未来が待っている。
(アトラスを討ち、新王を廃し、そして)
シハーブはレグルスの寝顔を見遣った。まだあどけない顔に、父親の面影が宿っている。切れるような眦、すっと通った鼻筋、銀色に輝く髪。形は良いが小ぶりの唇は母親譲りだろうか。
「……よく、ご無事で」
思わず口をついて言葉が出た。この子供はこの国の希望なのだ。決して死なせてはならない。
「人さらいにさらわれたと言っていたな。星を読んで水場を見つけたらしい」
「……なるほど。では本当にひとりで逃げたのですか」
こんな小さな子供が、と俄には信じられない気持ちでシハーブは言ったが、思い起こせば彼の父も幼い頃からおそろしく聡明だった。
「そういうことだろうな。大した坊主だよ。しかし、まだ追手がいたとはな。あれは本当に、ただの人買いなのか?」
「あなたも、我々といると危険かもしれない。よければ謝礼をいくらかお渡しするので、ここで」
サジャーンの疑問を躱して、シハーブはそう提案した。信用できない男ではなさそうだが、ここでレグルスの身の上に話題が及ぶのは避けたい。
「まあ、ここまで来たんだ。もう少し付き合うさ。方角も同じらしいしな」
シハーブの思惑を知ってか知らずか、サジャーンは深く追求せずにそれだけ言った。
その報せをシハーブが受け取ったのは、三人が出会ってから二週間ほど経った頃だった。いわく、リアラベルデ共和国南端の港町テビウス沖において、イシュラヴァール正規軍とリアラベルデ海軍が衝突した、と。
「俺はこの砂漠とシャルナクとの間で商売をしている」
粉を練って焚き火で焼いただけの質素なパンを齧りながら、サジャーンは自分のことをそう説明した。
「交易商ですか。長く?」
「もう二十……いや、三十年近いかな」
それを聞いて、シハーブは得心した。彼の言った「この子供の父親」というのは、恐らくマルスのことではない、と。レグルスのもう一人の父親――ユーリ・アトゥイ―は塩売りだ。砂漠の商人であれば彼と繋がりがあってもおかしくはない。
「アルサーシャに住んだことは?」
シハーブは一応確認したが、サジャーンは首を横に振った。
「商売で立ち寄ることはあるが……新政府とやらができてからは行っていない。関税が上がったせいで、俺に限らず真っ当な商人は王都を避けるようになったな。もっとも、王都の貴族や新政府相手に商売している輩もいるが」
サジャーンは顔をしかめて言葉を切った。
無理もない、とシハーブは思った。内戦の混乱で、王都からは多くの市民が流出した。特に前王を支持する者は粛清を恐れて逃亡した。だが、ララ=アルサーシャを統治している新政府は遊牧民出身のアルヴィラ解放戦線と繋がっている。王都の商流は、アルヴィラ系の商人たちによって取って替わった。
重税、賄賂の横行、物価の高騰。
(王都の経済は破綻している)
シハーブは歯がゆく思う。マルスらが放っておいても、早晩立ち行かなくなるだろう。だが、それまでにどれだけの民が苦しむのか。民が命を落とすのは戦の混乱だけではない。ほとんどの場合、生活の困窮こそが生死に直結してくるのだ。
(一刻も早く、アトラスから王都を取り戻さねば……)
それでも今はまだましなのだ。もしこの混乱に乗じてシャルナクが動いたら、勝算はほとんどないだろう。万一属国にでもされてしまえば、搾取されるだけの未来が待っている。
(アトラスを討ち、新王を廃し、そして)
シハーブはレグルスの寝顔を見遣った。まだあどけない顔に、父親の面影が宿っている。切れるような眦、すっと通った鼻筋、銀色に輝く髪。形は良いが小ぶりの唇は母親譲りだろうか。
「……よく、ご無事で」
思わず口をついて言葉が出た。この子供はこの国の希望なのだ。決して死なせてはならない。
「人さらいにさらわれたと言っていたな。星を読んで水場を見つけたらしい」
「……なるほど。では本当にひとりで逃げたのですか」
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「そういうことだろうな。大した坊主だよ。しかし、まだ追手がいたとはな。あれは本当に、ただの人買いなのか?」
「あなたも、我々といると危険かもしれない。よければ謝礼をいくらかお渡しするので、ここで」
サジャーンの疑問を躱して、シハーブはそう提案した。信用できない男ではなさそうだが、ここでレグルスの身の上に話題が及ぶのは避けたい。
「まあ、ここまで来たんだ。もう少し付き合うさ。方角も同じらしいしな」
シハーブの思惑を知ってか知らずか、サジャーンは深く追求せずにそれだけ言った。
その報せをシハーブが受け取ったのは、三人が出会ってから二週間ほど経った頃だった。いわく、リアラベルデ共和国南端の港町テビウス沖において、イシュラヴァール正規軍とリアラベルデ海軍が衝突した、と。
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