23 / 32
第一章 過去
23話 回帰
しおりを挟む
律子は盆に帰省した。
隆はプレゼントを渡しそびれたままだった。
「お母さん、ただいま」
「おかえり」
母親の千鶴が迎えてくれた。千鶴は看護師で実家の近くにある小児科で働いている。開業時から勤めて30年近くなる。
律子と豊もかかりつけの小児科だった。
「律子、いつまで居れるの?」
「16日の昼から戻るよ」
「そう」
「お父さんは今日の夕方帰ってくるけれど、15日には向こうに戻るそうよ。駅まで迎えに行ってもらえる?」
「もちろん!お父さん本当に久しぶりだなぁ」
父親の進は大手のゼネコンに勤務していて現在は単身赴任3年目だ。とても温厚な性格で豊は父親似だった。あまり叱られた記憶がない。
「お母さん、豊は?」
「今日もバイト行ってるよ。夕方には帰ると思うけど」
「そっか」
「律子、お昼は素麺でいい?」
「うん、手伝うよ。エプロン貸して」
荷物を置いて千鶴とキッチンに立つ。付け合わせのキュウリを切りながら律子が言った。
「ねぇお母さん」
「ん?」
「なんでお父さんと結婚したの?」
「え?何で急にそんな事を?」
「うーん。なんとなく」
「今の彼と結婚する気にでもなったの?」
「え?いや、そんなんじゃないけど…」
千鶴は微笑んで言った。
「お母さんね、今の小児科の前は総合病院に勤めてて、そこにお父さんが足を骨折して入院してきたの」
「へぇ」
律子は興味津々だった。
「私は看護師になりたての頃で先輩に教えてもらいながら頑張ってた」
「うん、うん」
「新人だから注射は下手で患者さんから痛い!って叱られることもあって落ち込んだりしてね…。で、お父さんにも注射することもあったんだけど…」
「まさか!お父さんにも叱られたの?」
「逆よ。お父さんは痛いって言わなかったの」
「え?そうなの?」
「うん。何度失敗しても言われなかった。申し訳なくってね。すみません、痛かったでしょう?って聞いたら」
「聞いたら?」
「僕は我慢強いので、僕の腕で練習して下さいって言われたの」
「えー!凄いねそれ」
「そうなのよ。私もびっくりしたんだけどね、多分、叱られて落ち込んでいたから、言ってくれたんだと思う」
「そうなんだ…」
「トイレの時も自分で行けますからってギブスの足を一生懸命引きずって。私はそれが仕事なのにね」
「アハハ、確かに」
「頑固だけど真面目で優しい人なんだって思ってた。毎日顔合わせるからだんだん仲良くなったんだけど、ギブスが取れてリハビリの時にケンカしたの」
「え?お父さんと?」
「そう、お父さんは大丈夫だと言ってたけど、結構危なっかしくてね。手を貸したら、
(大丈夫だと言ってるでしょ!)
(邪魔しないでくれ!)って言われて、
私も頭にきて、これが私の仕事です!無理して転倒して入院長引かせたいんですか!って言ってしまって…そしたらお父さんが、
(ごめん…言い過ぎた、いつも助けてもらってるから申し訳なくて…。他にやる事沢山あるだろうから)って」
「ショックだったわ。それまでの私は仕事だからって思ってた…。仕事だから仕方なく…ってね。でもお父さんに言われてから患者さんの気持ちになって仕事をする大切さがわかったの」
「お母さん…」
律子は真剣な表情で聞いていた。
「それでね、お父さんが退院する時にお礼を言いたくて玄関まで見送りにいったの」
(斉藤さん、退院おめでとうございます!
私も注射が上手になるように頑張ります!)
(広田さん、僕の方こそ迷惑かけてすみません。あなたが助けてくれたお陰でこんなに早く退院できました。本当にありがとう)
「そして、タクシーに乗ろうとしたお父さんに渡したの」
「え?何を?」
「ラブレター…。あなたの人生も私にお世話をさせて下さいって…」
「すごーい!!で、お父さんの返事は?」
「今度は僕が一生掛けて支えます!って」
「いやーん…感動する」
律子は涙ぐんだ。
「それから1年付き合って結婚したの」
「そうなんだぁ」
母と娘。久しぶりの昼食を食べた。
「暑い時は素麺がいいわね」
「うん。あ、そうだ、お父さんが帰って来るまでちょっと出てきていい?」
「いいけど、何処かに用事?」
「久しぶりだし散歩でもしてこようかなって」
「そう。わかった」
後片付けを終わらせてから律子は外に出た。
花火大会の会場が実家から離れている。この辺を歩くのは久しぶりだ。律子は軽やかに歩き出した。蝉の声は相変わらずで残暑は厳しい。近くの公園に入り、木陰のベンチに座った。
(涼一何してるかな…)
ジーンズのポケットから携帯を取り出し、深呼吸してからかけてみた。
今回は二回目のコールで繋がった。
「律子?」
「うん。涼一、今大丈夫?」
「うん、どうしたの?」
「この前の事謝りたくて…」
「そんな事気にしなくていいから」
「でも…困らせちゃったし」
「律子、今どこにいるの?」
「え?ああ、お盆で実家に帰って来てて、昔よく送ってもらった公園にいるよ」
「そうなんだ」
「うん。この辺り散歩するのも久しぶりだし」
「ごめん律子。今から彼女が来るから会えないんだ」
「別にいいよ。私も後でお父さんを迎えに行かなきゃいけないから」
律子は少しムキになった。
「涼一。彼女、大切にね…じゃあ」
律子が電話を切ろうとした時涼一が言った。
「いつまでこっちに居るの?」
「16日の昼まで…どうして?」
「いや、なんでもない」
「そっか…じゃあ」
「うん」
律子は電話を切った。
涼一は電話のあとソファでタバコを薫せながら考えていた。
(16日かぁ…)
しばらく歩いて家に戻ると千鶴が言った。
「あー、ちょうどよかった、お父さんが少し早めに着きそうなの。途中買い物してから迎えに行ってくれない?」
「オッケー」
律子は車で街へ出かけた。
駅の駐車場に車を駐め、歩いてすぐの商店街で買い物を済ませた。もう少し時間がある。お盆で帰省客が多く駅は賑やかだ。
買い物袋を車に積んで駅の横にあるコーヒーショップで時間を潰すことにした。
携帯を見ながら歩いていると、店から出て来た人とぶつかってしまった。
「キャ!」
相手は小柄な女性だった。
律子が勝ってしまい女性は倒れてしまった。
「あっ!ごめんさい」
律子はすぐに女性の手を取り言った。
「すみません、私、よそ見してて…」
「いえ、私こそ急いでて…あっ!ケーキ…」
女性は箱を持ち上げ中を確認した。ケーキはあっけなく形を失っていた。
「やっちゃった…」
律子は心配そうな顔で女性を見つめる。
「私って、いつもこうで…」
そう言って初めて視線を律子に向けた。
「あっ?!」
(口元のホクロ…)
律子を見て驚いている。
「え?」
「もしかして….律子…さん…?斉藤律子さんですか?」
突然名前を呼ばれた律子は驚いた。
「なぜ、私を?どこかでお会いしましたか?」
「いえ、前に写真を…えっと、その…彼の家で…」
律子に衝撃が走った。
涼一の彼女が目の前にいる。
頭の中が真っ白になりそうだった。
逃げ出したくなる気持ちを抑え言った。
「もしかして前田涼一さんの….?」
「はい…竹下里奈といいます」
八重歯は見えないが小柄で可愛い顔。豊の言った特徴を思い出していた。涼一の幸せそうな顔が浮かんだ律子は正気を取り戻した。
「里奈さん、ご迷惑をお掛けしたから、私にそのケーキ弁償させてもらえる?」
「え?あっ、いえ、大丈夫です、もう一度買いますから」
「うーん。それじゃあ私の気持ちが…。あっ、そうだ里奈ちゃん!壊れたケーキ、私が買うから一緒に食べない?コーヒーも一緒にどう?」
里奈が断る隙を与えないくらいの早さで話が決まっていった。戸惑ったが律子に嫌な印象は無く、寧ろ憧れに近い感覚だった。
ショップに戻り、新しいケーキを買った。壊れたケーキを皿にのせてもらい、ブレンドのアイスコーヒーを二つ注文した。律子はさらにのったティラミスとイチゴショートを見てイチゴショートを里奈に渡した。
「はい、里奈ちゃんはイチゴショートでしょ?」
「え?どうしてわかったんですか?」
「やっぱり?当たってた?」
「はい。でも何で?」
「ケーキは2つだから、たぶん涼一さんと食べるのかなぁって思って。あの人、ティラミス好きでしょ?」
「そうです…」
「あ、ごめんなさい、余計なこと言って」
「いえ、大丈夫です…」
気まずくなりそうな雰囲気を助けてくれる様にアイスコーヒーが運ばれてきた。里奈はシロップとミルクを少しずついれ、律子にも勧めた。
「私はブラックだから…」
「そうなんですね…」
二人はコーヒーを一口ずつ飲んで話し始めた。
「律子さん髪伸ばしたんですね」
「そうなの、若い頃はずっと短かったんだけど、伸ばしてみようと思って。里奈ちゃんが見た私の写真ってずいぶん前のでしょ?」
「はい、確か涼ちゃんが18才って言ってました。偶然見てしまって、涼ちゃんに叱られるかなって思って…。知らん顔してようと思ったんですけど、律子さんがあまりにも綺麗で不安になっちゃって…。結局涼ちゃんに聞いたんです。そしたら隠さず言ってくれて、昔の事だから心配しなくていいって…」
「そうなんだね…」
律子は寂しさが顔に出ないように懸命だった。
「里奈ちゃん、私も今、同棲してる彼が居るの」
「え?ホントですか?」
「うん。私が涼一さんと付き合ってる頃から知ってる人でね。彼、私の事をすごく大切にしてくれてるから幸せだし。本当に昔の事だから安心して」
「はい、ありがとうございます!」
里奈が初めて八重歯を見せて笑顔になった。人目を引く可愛らしい笑顔に律子は嫉妬に似た感情を覚えた。
美味しそうにケーキを食べながら里奈は言った。
「ところで律子さん、今はこっちに住んでるんですか?涼ちゃんはわからないって言ってましたけど」
「ううん、向こうのままだよ。向こうで彼と一緒に住んでるの。今日はお盆で実家に帰ってきてるんだけどね。どうして?」
「いえ、前に一度律子さんに似た人を見かけた事があって」
「そう?頻繁には帰って来ないから、私じゃないかも?」
「そうですか…。あっ、私そろそろ行かないと。えっと…律子さん、携帯番号聞いてもいいですか?」
「え?私の?」
「ダメですか?」
「いいけど、涼一さんは?大丈夫なの?」
「わかりません…ただ、律子さんと同じ人を好きになった事を後悔したくないんです。弱い心から逃げない様に…」
「そう…わかった」
番号を交換して二人は別れた。
里奈は店を出て思った。
(やっぱり素敵な人だった…。そういえば律子さん、香水のいい匂いがしたなぁ…。でもなんだろ?この匂い。どこかで…)
考えてもわからないまま涼一の元へ急いだ。
駅の混雑の中、両手に大きなバッグと紙袋を持って進は辺りを見回している。先に進を見つけた律子は手を振りながら大きな声をかけた。
「お父さん!こっちー!」
その声に反応して進は律子を見つけ笑顔になった。
「おお、律子、久しぶりだな」
「うん、いつもお疲れ様。車あっちだから、荷物持つよ、行こう」
「ありがとう」
歩きながら進が言った。
「仕事はどうだ?うまくいってるのか?」
「うん。頑張ってるよ」
「もう向こうに行ってからずいぶん経つな」
「だね、8年だもん」
「俺ももう3年だしな」
「そうだね」
「ところで律子、母さんから聞いたんだが、お前同棲してるんだって?」
「うん、最近始めたの」
「彼と結婚するのか?」
「う~ん。まだそこまでは…」
「迷ってるのか?」
「そう言うわけじゃないんだけど…」
困っている律子を見て進は言った。
「まあいいさ。たくさん悩んでたくさん考えて律子の人生なんだから父さんは応援するよ」
「うん」
進の言葉が胸に響く。
(お父さん。ありがとう…)
◇◇
「ごめん涼ちゃん遅くなって」
「いいけど、何かあった?」
「うん…」
里奈は元気なく言った。
「何?どうしたの?」
「実は、律子さんに会って…」
「え?どういうこと?」
「ショップでケーキ買ってお店を出た時にぶつかっちゃって、それが律子さんだったの…」
「そ、そうなんだ…」
「私が壊したケーキを買ってくれて、コーヒーもご馳走になっちゃった」
「え?律子に?」
「そう…」
「話したの?律子と?」
「うん…律子さん、素敵な人だね…。綺麗で落ち着いててカッコよかった…。涼ちゃんがティラミス好きなのも覚えてたよ…」
「あ、ああ….」
「律子さん、今の彼と同棲してるんだって」
「そ、そうなんだね」
「今は幸せだし、昔の事だから安心してって…」
「うん…」
「涼ちゃん、私、勝てるかな?律子さんに…自信ないよぉ…」
里奈は力なく涼一にもたれかかった。
涼一は黙って里奈を抱きしめる事しか出来なかった。
◇◇
16日の朝。涼一はスーツに着替えた。今日から出勤で、駐車場に向かう途中で3本電話した。
最初の2本は顧客と会社で最後は…。
「はい…」
「もしもし…俺」
「うん、どうしたの?」
「今日帰るんだろ?」
「うん…」
「10時に待ってるからさ、海の前の公園で」
「え?」
「仕事だけど調整したから。じゃあ」
「え?!ちょっと待って」
「何?」
「そんな…急に」
「急だけど。待ってるから…」
そう言って電話を切った。
帰り支度をしていた律子は戸惑っていた。
「もう!何なのよ…いつも勝手に…。でも…変わんないね…」
人は変わる。だから不変に憧れる。踠き苦しみながら…。
いつしか律子は自分自身の本当の気持ちに気付き始めていたのかもしれない。
「お母さんごめん、用事できたから早めに出るよ」
「そう…律子…大丈夫?」
「え?」
「涼一君でしょ?用事って」
「…うん。自分でもわかんない…でも…」
「いいんじゃない?それで…」
千鶴が言った。
「え?」
「律子のままでいいと思う」
「お母さん…」
泣き出しそうな律子に千鶴は微笑みながら頷いた。
公園の海の見えるベンチで律子を待っていた。公園の時計は9時55分を指している。タバコの吸殻は4本目になっていた。
駐車場で涼一の車を見つけた律子は隣に駐め、足早に向かった。公園へつながる階段を上ると
、背を向けて海を見ている涼一が見えた。律子は走り出したい衝動を抑えゆっくりと近づいた。
「もう!バカなの?」
涼一が振り向いた。
「律子…。来てくれたんだ」
「何言ってるんだか。涼一が来いって言ったんだよ」
「そ、そうだね」
「でも…」
「でも?」
「会いたかった…」
律子は涼一の胸に飛び込んだ。
「うん。俺も」
ふたりはベンチに座り海を眺めた。
「ねぇ、涼一」
「ん?」
「この前里奈ちゃんに会ったよ」
「うん。里奈も言ってた」
「すごく可愛くていい子だった…」
「うん」
「涼一の事想ってるのが痛いほどわかったよ…」
「うん…」
「それで…。帰る時に連絡先聞かれたの」
「え?里奈から?」
「うん。私が教えても大丈夫なの?って。そしたら里奈ちゃん…。律子さんと同じ人を好きになった事を後悔したくないからって…」
「里奈がそんな事を….」
「うん。凄いと思った…。私の想像を超えてた」
「律子…」
「ん?」
「あの日里奈が言ったんだ。律子さんに勝てるかなぁって…」
「え?里奈ちゃんが?」
「ああ、律子は素敵な人だったって」
「そんな事…」
「そんな里奈に俺は何も言ってあげれなかったんだ…」
「涼一…そんなんじゃダメだよ…もっと里奈ちゃんを大切にしないと」
「わかってる…」
「涼一、私ね、涼一と別れてからボロボロで、
辛くて何度も死にたいった思った。でもそんな時にまわりの皆んなが私を救ってくれたの」
「その中に彼もいたんだ…」
「うん…。涼一覚えてる?前に向こうのスーパーで会った人。澤井隆くん」
「ああ、覚えてるよ」
「隆くんが今の彼なの…」
「そうだったんだ…」
「うん、私をずっと見ててくれた。ずっと待っててくれて」
「幸せなんだね…」
「うん、幸せだよ…でも…」
「でも?」
「いや…なんでもない…」
「俺さ、あの時は律子の有り難さは分からなかった」
律子は涙を堪えていた。
「俺はバカだったよ…。律子を手離した事を後悔してたんだ…ずっと…」
「もうやめて…それ以上言わないで…」
律子は涙をこらえるが出来なかった。しばらく泣き続け、泣き腫らした目で涼一を見上げた。
「ごめんね…。やっぱり泣いちゃった…泣かないように頑張ったんだけどなぁ」
「大丈夫だよ」
「涼一。私ね、これからは自分に正直に生きようと思うんだぁ…」
涼一は黙って頷いた。
「そろそろ行くね」
「ああ…」
「涼一、元気で!」
「律子も」
「うん…」
律子は背を向け歩き出した。涼一は見送ることしかできず、残存に佇んだ。
!!
一瞬のことだった。律子は振り返り涼一の胸に飛び込んだ。そして懐かしい胸の中で思いきり呼吸をした。
「じゃあね…」
「うん…」
◇◇
夕方里奈からメールがあった。
(和食のお店で行きたいところがあって。今夜行かない?)
(了解。行こう。18時半には終わると思う)
(わかった。予約入れとくねー!)
仕事が終わり里奈と合流したのは18時40分を回ったところだった。
「ごめん、遅くなった」
「ううん、涼ちゃんお疲れ様」
「今日のお店、この前テレビでやっててー、凄くヘルシーで美味しそうだったの!一度行ってみたくてさ」
「そっか。楽しみだね」
ふたりは車に乗り、ドアを閉めた。
「涼ちゃん?」
里奈は困ったような顔をした。
「なに?」
「うん…。怒んないで聞いてくれる?」
「え?どうしたの??」
「今ね、涼ちゃんが車に乗った時、律子さんと同じ匂いがした…」
「え?」
「涼ちゃん、もしかして…律子さんに会った?」
涼一は少し俯いて言った。
「会った…ごめん…」
「そっか…」
里奈は下を向いて泣き出した。
「里奈…」
「うん。正直に話してくれてありがとう。もう少し泣くかもしれないけど、大丈夫だからね…」
しばらくして里奈は落ち着きを取り戻し笑顔で言った。
「待たせてごめんね。行こう」
そのあとの里奈はいつもの元気な里奈だった。食事が終わり、ふたりは涼一の部屋へ帰った。
里奈は先にシャワーを浴びると言った。涼一は冷蔵庫の缶ビールを一口飲み外を眺めていた。
「涼ちゃん…」
!!
「り、里奈…」
シャワーを浴びているはずの里奈は下着すら着けず立ち尽くしていた。
「涼ちゃん、抱いて…ください…」
目には溢れんばかりの涙を溜めていた。涼一は驚いたがすぐに律子とのことだと思い言った。
「俺が律子と会ったのが許せないんだろ?
ごめん…」
「ううん、ちがうの…」
「私が弱いから…乗り越えたいの、律子さんを…」
立ち尽くすその姿は心の傷を表すかのように、あまりにも痛々しかった。里奈にバスタオルをかけ抱きしめた。里奈は泣き崩れそのまま眠ってしまった。涼一は里奈をベッドに寝かせ隣で眠った。
朝起きると里奈は仕事に行く準備をしていた。
「あっ涼ちゃんおはよう」
里奈は笑顔だった。
「おはよう…」
「ご飯出来てるよ」
普通の朝だった。
「ほら!早くしないと遅れちゃうよ」
「あ、ああ」
里奈に急かされシャワーを浴びた。
「じゃあ涼ちゃん、今日もファイト!」
「うん。里奈もね」
「うん!」
◇◇
涼一と会った帰りの車の中で律子の携帯が鳴った。豊からだった。
「もしもし?豊、どうしたの?」
「姉ちゃん、もう帰り着いた?」
「まだだよ、どうしたの?」
「言おうか迷ったんだけど…」
「ちょっと、何なの?」
「うん。実は花火大会で隆くん見つけた時、女の子と一緒だったんだ」
「え?どういう事?」
隆くんが転んだその子を助けたみたいで、救護所に連れて行ったらしいんだ。そのあとその子は彼と逸れたみたいで、隆くんが一緒にいてあげたって」
「そう。別にいいんじゃない?」
「ただ、その女の子がどうも…」
「何なの?」
「涼一君の彼女みたいなんだ」
「え?」
律子は驚いた。
俺がコンビニで涼一君に会った時迎えに来た人だったんだ。
「豊、本当なの?見間違いじゃないの?」
「俺も最初はそう思ったけど、この前の休みに友達とプールに行った時、偶然見かけたんだ。隆君とその人を」
「え?」
「この前の休みって…」
(隆くんは仕事だって言ってた…)
「あの時連絡が取れない姉ちゃんを車で待とうってなって、その人もまだ彼氏と連絡取れないから隆くんが心配して番号教えようとしたけど、携帯は姉ちゃんが持ってるし。だから取り敢えず俺の番号教えたんだ。浴衣着てたし雰囲気違ってたから気付かなくて…。あとになって気付いたんだ。そしたら一週間後にその人から電話があってお礼が言いたいからって隆くんの番号聞かれて。電話だけならと思って隆くんの番号教えたんだ。もちろん隆くんにはその人が涼一君の彼女だとは言ってないし、連絡があるかもって伝えただけなんだけど、そのあとプールでふたりを見かけたんだ」
「え?じゃあ電話した時はもう二人で居たって事?」
「たぶん。でも隆くんとあの人に間違いなかった」
「そう…里奈ちゃんが…」
「里奈っていうの?あの人」
「ん?ああ、豊ありがとう、教えてくれて」
「姉ちゃんどうするの?」
「どうもしないよ」
「え?」
「だから、どうもしない」
「それでいいの?」
「いいの。豊も心配しないで」
「わかった。じゃあ気を付けて」
「うん、じゃあね」
律子は電話を切った。
(隆くん何で?仕事って言ったのは嘘?)
考えても何も分からないまま律子は車を走らせた。すぐに帰る気になれずカフェに立ち寄った。注文したコーヒーをブラックで口に運び、窓の外を眺めた。行き交う人々の楽しそうな笑顔に律子は自分だけが別世界にいるような孤独を感じた。
家に帰り着いたのは19時頃だった。
「ただいま」
「律ちゃんおかえりー」
帰り着いた律子を隆は笑顔で迎えた。テーブルの上には宅配のピザがあった。
「律ちゃん明日から仕事だし夕飯作るの大変だろうからピザ頼んだんだ」
「そう」
「お腹すいたでしょ?食べよう、横においでよ」
律子は黙って隆の横に座った。隆は律子の肩を抱いてキスをしようとしたが律子は顔を背けた。
「隆くんごめん…疲れてるから先に寝るね」
そう言って律子は寝室に向かった。
「律ちゃん…」
隆はそれ以上何も言わなかった。
次の朝。律子はソファで寝ている隆を起こした。
「隆くん、起きて、今日から仕事だよ」
隆は眠そうに返事をした。
「う~ん。おはよう律ちゃん」
「おはよう。隆くん昨日はごめん…」
「ん?何の事?」
「昨日、私…」
「あー、気にしてないから。それより律ちゃん、腹減った」
「わかった、すぐ作るね」
律子も普通の朝を迎えていた。
◇
その日の昼。隆の携帯が鳴った。
「もしもし」
「隆くん…」
「あー里奈ちゃん!この前はありがとう、楽しかったね!」
「うん。私こそありがとう…」
「ん?どうしたの?元気ないけど」
「隆くん、私…どうしたらいいのかわかんなくなっちゃって」
里奈は泣いていた。
「ちよっ、ちょっと里奈ちゃん?落ち着いて何があったの?」
「隆…く…ん」
「わかったから、落ち着こう」
「うん…ごめんね…」
「里奈ちゃん、今どこ?」
「仕事早退しちゃって…車の中」
「わかった、今からそっち行くから!」
「え?」
「でも…隆くん仕事でしょ?」
「俺の仕事は何とかなるから心配しないで、この前のモールで待ってて」
「いや、悪いから…」
「里奈は俺の言う事聞けばいいから!わかった?」
「はい…」
隆は電話を切って会社に連絡した。顧客訪問が長引くので直帰すると伝え、高速を急いだ。
この前の里奈と会った時と同じところに里奈の車が駐まっていた。運転席の里奈は疲れているのか、眠っている様だった。隆は車を降り窓を軽くノックすると里奈は目を開け少し微笑んで車を降りた。
「隆くんごめん…」
「あっ危ない!」
倒れこむ里奈を支えた。
「里奈ちゃん大丈夫?具合悪いの?」
「だ、大丈夫…」
「とりあえず俺の車に乗って」
隆は助手席に里奈を座らせた。
「隆くんごめんね、心配かけて」
「何があったの?」
「うん…」
里奈は力のない声で涼一とのことを話した。
「彼の家に帰ってから、抱いて下さいって言っても…彼は答えてくれなかった」
涙が里奈の頬を伝った。
「隆くん…私やっぱり勝てないのかなぁ…元カノに…」
「俺も…」
「え?」
「俺も勝てなかった…彼女の心の中に俺は居ない…」
隆の涙もこぼれ落ちた。
「隆くん…」
「里奈ちゃんごめん…」
隆は里奈を乗せ走り出した。
「隆くん…どこ行くの?」
隆は黙ったまま車を走らせ海沿いのホテルに入った。
「行こう」
里奈も黙って隆について行った。
ふたりが入った2階の部屋はダブルベッドと大きなテレビ以外に目立つものはなく殺風景な空間だった。どちらからともなくキスをして抱き合いながらベッドに倒れこんだ。
そのとき里奈は確信した。
「やっぱり…」
「里奈ちゃん、どうしたの?」
「隆くんの香水の香りと元カノの香りが同じ…。律子さんと…同じ…」
!!
「里奈ちゃん…今、何て?!」
「隆くん….私の彼の元カノの名前…斉藤律子さんだよ…」
隆は目の前が真っ白になった。一瞬パニックになったが、この瞬間に全ての点が一つの線になり繋がった。
「そ、そんな…」
「やっぱりそうだったのね…隆くんの彼女って」
「ああ。律子なんだ…」
ふたりは激しく抱き合った。何も言わず、何も考えず、心に深く刻まれた傷の痛みを慰め合った。
「里奈ちゃん…ごめん…」
「ううん…弱いのは私だから…」
ふたりを喪失感が包み込み、残ったのは果てしない孤独だった。
ホテルを出たのは17時半を過ぎていたが外はまだ明るく、闇を抱えたふたりにとっては救われた気分だった。里奈をモールまで送り、そのまま高速へと走らせる車の中で隆は大声を上げた。
「うわぁー!」
誰にも聞こえない隆と里奈の痛みの声だった。
◇
里奈は涼一とは会わずそのまま実家に帰った。
「里奈お帰り」
「うん、ただいま…」
「元気ないけど、どうしたの?」
利江が心配して声をかけた。
「うん。なんか疲れてしまって…お風呂入って寝るね」
「ご飯は?」
「いらない…」
シャワーで体を洗いながら里奈は泣いた。
「涼ちゃん、ごめんさない…弱くてごめん…なさい…」
(決めなきゃいけないんだよね…)
◇
隆は20時頃帰り着いた。
「ただいま」
「お帰り。遅かったね、残業?」
「……」
「隆くん?」
何も言わない隆に律子は聞いた。
「あっ、ごめん…なに?」
「何かあったの?」
「いや、別に」
「そう…ご飯出来てるよ」
隆はキッチンへ向かう律子を後から抱きしめた。
「え?隆くん?」
隆は律子にキスをしようとしたが律子は背けた。
「まただ…」
「ごめんなさい…」
律子は俯いて言った。
「もういい…もういいよ…」
隆は寝室に行きクローゼットを開いた。律子へのプレゼントが綺麗な包装のまま置いていた。
「もう…ダメだ…」
隆は箱を壁に投げつけた。
衝撃で包装が破れ潰れた。激しい音に驚いた律子が寝室に行くと隆は壁にもたれかかり顔を覆い泣いていた。
「ちょっと隆くん、どうしちゃったの?」
律子が隆の元へ駆け寄った。
「律ちゃん。俺たちもうダメだ…別れよう…」
「え?」
隆はそう言って家を出て行った。
「隆くん、待って!」
隆を追いかけようとした時、潰れた箱に気付いた。箱の中を見て律子は泣き崩れた。
「私は何てことを…」
隆が律子にプレゼントするために買ったスニーカーは涼一が好んで履いているものと同じだった。
次の日の朝。律子はベッドの脇で目覚めた。泣き疲れてそのまま眠ってしまっていた。隆は出て行ったままだった。携帯にかけてみたが出なかった。律子はテーブルの上にそのままになっていた夕飯片付けを始めた。
隆は実家に帰っていた。飲めない酒を飲み、起きると二日酔いになっていた。冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぎタバコに火をつけた。
「ちょっとお兄ちゃん、タバコやめたんじゃなかったの?急に帰ってくるし、律子さんと何かあったの?」
いつもと違う隆に言った。
「何もないよ。いいんだ…」
隆はそう言って部屋に戻った。
◇
真里は大学の帰りに律子に会いに行ってみた。
インターホンを押したが反応がなくまだ帰っていないようだった。
(少し待ってみよう…)
20分程待って、そろそろ帰ろうかと思った時に律子の車が駐車場に入って来た。
「あっ、真里ちゃん」
買い物袋を手に持った律子が手を振りながら言った。
「律子さん、ごめんなさい突然来ちゃって」
「大丈夫だよー、さぁどうぞ」
リビングのソファに座った真里は綺麗な部屋の中を見渡していた。
「久しぶりだねー。真里ちゃん大学は楽しい?」
オレンジジュースをグラスに注ぎながら言った。
「はい。何かと忙しいですけど楽しいですよ!」
「いいなぁ、充実してるね。私みたいなおばさんは出る幕なしだね」
「そんな事ないですよぉ。私は律子さんみたいになりたいですもん」
「上手いねー!」
「本当ですってー!」
あっははは
律子にとっては隆とのことを紛らす時間になった。
「あっそうだ!真里ちゃんが大丈夫なら夕飯一緒に食べない?今日はカレー作ろうかと思ってて」
「いいんですか?」
「うん!もちろん!」
「じゃあ私も手伝います!」
キッチンに並んで立ち、玉ねぎとジャガイモの皮を剥きながら真里が言った。
「律子さん。お兄ちゃん家にいるんですけど喧嘩したんですか?」
「うん。ちょっとね…。隆くん何か言ってた?」
「それが…何も話してくれないんですよ。私が連絡しないの?って聞いても、いいんだって言って」
「そっか…。真里ちゃんごめんね…心配かけて」
「そんな事ないですよぉ」
里奈が心配そうに言った。
「嫌われちゃったかな?隆くんに…」
「律子さん…」
俯き加減の律子の横顔はどこか儚げに見えた。
「ご馳走さまでした」
カレーを食べ終わった真里が両手を合わせて微笑んだ。
「いえ、いえ」
律子も応えて返す。
「お皿洗います」
「真里ちゃんいいって。私がやるから」
「でも…」
「一緒にご飯食べてもらったし」
「律子さん…」
食後にコーヒーを飲んだ。真里は大学の日常を、律子は学生時代の思い出を話した。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
「あっー!もうこんな時間、レポート仕上げないと…」
「本当だ、私も洗濯終わらせなきゃ!真里ちゃん。レポート頑張ってね!」
「はい!ありがとうございました」
「うん、じゃあね」
真里の笑顔が律子の胸を締め付けた。
(真里ちゃん、ごめんね…)
真里が帰ったあと、洗い物をしていた律子は手を滑らしグラスを割ってしまった。
「はあ…」
破片を拾い集めていると自然に涙が溢れて来た。
(何なの…私は…)
唇を噛み締めながら衝動的に律子は破片を掴んだ。掴んだ右手は切れて出血している。その破片を左手首に添えた。
「隆くん…ゴメンね…」
そのまま破片を突き立てた。
「律ちゃん!律ちゃん!」
大声で叫ぶ隆の声で目を覚ました。
「うぅ…」
激しい頭痛が律子を襲った。
「律ちゃん大丈夫?わかる?」
「隆くん…」
「今、救急車呼んだから!」
「ごめんね…」
「もう話さなくていいから!」
真里から律子の様子を聞いた隆は気になっていた。帰ってみると律子が手首を切り倒れていた。
運ばれた救急病院で隆は説明を受けた。
傷は深いが幸い命に別条はなく、隆が律子の手首をタオルで抑え止血したことで出血量が少なくて済んだらしい。体力が戻るまで安静にする必要があり2日間入院することになった。
「律ちゃん。2日ほど入院だってさ」
「うん…ごめんなさい…迷惑かけて…」
律子は力なく言った。
「隆くん…私…」
「今日はゆっくり休んで、ね…」
隆はそう言って促したが律子は話し続けた。
「隆くん…いつも迷惑かけてごめんね。私一緒にいて幸せなんだよ…でも、花火大会の時…」
「会ったんだろ?前田くんと。この前帰った時も」
「知ってたんだね…」
「隆くんのこと大切なのに…私自分でもどうしていいかわからなくて…」
「律ちゃんごめん…」
「え?」
「実はさ、俺も里奈ちゃんと…」
「うん。知ってたよ。豊が教えてくれた。
見かけたみたい…」
「そっか…」
隆が里奈を抱いたのも雰囲気でわかった。
「律ちゃん。俺やっぱり前田くんには勝てないや」
「え?」
「俺、弱いから…」
「そんなことないよ、私が悪いの…」
「律ちゃん。もういいからさ。自分の気持ちに素直になんなよ」
「隆くん…」
「俺のことはもういいからさ」
退院して数日後。律子は部屋を出た。隆は実家に帰ったままだった。
律子はテーブルの上に手紙を残した。隆と隆の家族に感謝の気持ちを込めて。
(さようなら…)
律子は8年過ごしたこの街をあとにした。
◇◇◇
里奈はあの日から涼一を避けるようになった。
涼一もどうしたらいいのかわからないまま時間は過ぎていった。
(このままじゃダメだ…)
里奈は何かを決心したように涼一にメールを打った。
(涼ちゃん。今日の夜、海で待ってます)
(わかった。必ず行くから)
夏の終わりの海は寂しい。
今年の夏もたくさんの人で賑わったこの海も静かになり、打ち寄せる波の音だけが優しく響いていた。
涼一が着いた頃、辺りは暗くなり始めていた。
誰もいなくなった砂浜に里奈はひとり座っていた。その後ろ姿は触れると壊れてしまいそうなくらい繊細で脆くみえた。
「里奈」
「あっ、涼ちゃん…ごめんね。呼び出して」
「大丈夫だよ。コーヒー買って来た」
涼一はカフェオレとブラックコーヒーを手に持っていた。里奈にカフェオレを差し出すと、里奈は首を横に振った。
「ん?」
里奈はブラックコーヒーを手に取った。
「今日はこっちがいい…」
「そっか…」
涼一は微笑んだ。
ふたり並んで座り、黙ったまま夜の海を眺めていた。
「里奈…」
話し始めたのは涼一からだった。
「ん?」
「ごめん…律子のこと…」
「うん…」
「俺、自分で自分が分からなくなって…里奈の事好きなのに…」
「ありがとう、涼ちゃん。私も涼ちゃんに謝んなきゃ…。私…自分の弱さに負けて涼ちゃんを裏切ってしまった…。花火大会の時逸れたでしょ?あのとき怪我しちゃって親切にしてくれたのが、偶然なんだけど律子さんの彼氏の隆くんなの。お礼の電話をして一回会った…。そのあとしばらくして涼ちゃんが律子さんと会ったのが分かって私どうしていいのかわからなくなって…気がついたら隆くんに電話してた。
二人ともその時はまだお互いの事を知らなかったけど、隆くんも律子さんと上手くいってなかったみたいで落ち込んでて…。慰め合うように抱きしめあって…、その時に律子さんと同じ香水の匂いがしたの。涼ちゃんについてた匂いと同じ…。わからなかったことが全て繋がって…
弱い私は隆くんに…抱かれたの…
後になってすごく後悔したけど遅いよね…
隆くんとはもう会うことはないけど、涼ちゃんを裏切った私はもう涼ちゃんの隣にはいられない…ごめんなさい…」
里奈は泣いていた。
「涼ちゃん、やっぱり、律子さんすごいね…勝てなかった…涼ちゃんと同じブラックコーヒー…スミレの浴衣…ティラミスも…。私がどんなに頑張っても届かなかったよ…。
でも、気付いたの…。頑張っちゃダメなんだよね。普通じゃなきゃ…。だからね、涼ちゃん…
私と別れて下さい…」
「里奈…」
涼一は自分の不甲斐なさに打ちのめされた。
里奈は俺の事を好きでいてくれた。信じていてくれた。俺の全てを受け入れ、全てを許し、全てを自分のせいにして離れていこうとしている。大切にしようと思ったはずがいつの間にか里奈の心に消えない傷をつけていた。
「涼ちゃん…最後にお願いがあるんだけど…」
「うん…」
「約束してた…花火…一緒にやってくれないかな…買って来たんだぁ」
精一杯の笑顔を見せて里奈が言った。
涼一は涙が止まらなかった。
「うん…うん…やろう…」
里奈はバッグから線香花火を取り出した。涼一がライターで火をつける。パチパチと火花が弾けるたびに里奈の横顔が浮かんで見えた。頬を伝う涙は花火の光でキラキラと輝いていた。
最後の花火を眺めていた里奈が言った。
「涼ちゃん、今度は見失わないでね…律子さんを…今までありがとう…」
涼一は声をあげて泣いた。
夏の終わりの花火が消えた。
同時に里奈と涼一の夏が終わった。
隆はプレゼントを渡しそびれたままだった。
「お母さん、ただいま」
「おかえり」
母親の千鶴が迎えてくれた。千鶴は看護師で実家の近くにある小児科で働いている。開業時から勤めて30年近くなる。
律子と豊もかかりつけの小児科だった。
「律子、いつまで居れるの?」
「16日の昼から戻るよ」
「そう」
「お父さんは今日の夕方帰ってくるけれど、15日には向こうに戻るそうよ。駅まで迎えに行ってもらえる?」
「もちろん!お父さん本当に久しぶりだなぁ」
父親の進は大手のゼネコンに勤務していて現在は単身赴任3年目だ。とても温厚な性格で豊は父親似だった。あまり叱られた記憶がない。
「お母さん、豊は?」
「今日もバイト行ってるよ。夕方には帰ると思うけど」
「そっか」
「律子、お昼は素麺でいい?」
「うん、手伝うよ。エプロン貸して」
荷物を置いて千鶴とキッチンに立つ。付け合わせのキュウリを切りながら律子が言った。
「ねぇお母さん」
「ん?」
「なんでお父さんと結婚したの?」
「え?何で急にそんな事を?」
「うーん。なんとなく」
「今の彼と結婚する気にでもなったの?」
「え?いや、そんなんじゃないけど…」
千鶴は微笑んで言った。
「お母さんね、今の小児科の前は総合病院に勤めてて、そこにお父さんが足を骨折して入院してきたの」
「へぇ」
律子は興味津々だった。
「私は看護師になりたての頃で先輩に教えてもらいながら頑張ってた」
「うん、うん」
「新人だから注射は下手で患者さんから痛い!って叱られることもあって落ち込んだりしてね…。で、お父さんにも注射することもあったんだけど…」
「まさか!お父さんにも叱られたの?」
「逆よ。お父さんは痛いって言わなかったの」
「え?そうなの?」
「うん。何度失敗しても言われなかった。申し訳なくってね。すみません、痛かったでしょう?って聞いたら」
「聞いたら?」
「僕は我慢強いので、僕の腕で練習して下さいって言われたの」
「えー!凄いねそれ」
「そうなのよ。私もびっくりしたんだけどね、多分、叱られて落ち込んでいたから、言ってくれたんだと思う」
「そうなんだ…」
「トイレの時も自分で行けますからってギブスの足を一生懸命引きずって。私はそれが仕事なのにね」
「アハハ、確かに」
「頑固だけど真面目で優しい人なんだって思ってた。毎日顔合わせるからだんだん仲良くなったんだけど、ギブスが取れてリハビリの時にケンカしたの」
「え?お父さんと?」
「そう、お父さんは大丈夫だと言ってたけど、結構危なっかしくてね。手を貸したら、
(大丈夫だと言ってるでしょ!)
(邪魔しないでくれ!)って言われて、
私も頭にきて、これが私の仕事です!無理して転倒して入院長引かせたいんですか!って言ってしまって…そしたらお父さんが、
(ごめん…言い過ぎた、いつも助けてもらってるから申し訳なくて…。他にやる事沢山あるだろうから)って」
「ショックだったわ。それまでの私は仕事だからって思ってた…。仕事だから仕方なく…ってね。でもお父さんに言われてから患者さんの気持ちになって仕事をする大切さがわかったの」
「お母さん…」
律子は真剣な表情で聞いていた。
「それでね、お父さんが退院する時にお礼を言いたくて玄関まで見送りにいったの」
(斉藤さん、退院おめでとうございます!
私も注射が上手になるように頑張ります!)
(広田さん、僕の方こそ迷惑かけてすみません。あなたが助けてくれたお陰でこんなに早く退院できました。本当にありがとう)
「そして、タクシーに乗ろうとしたお父さんに渡したの」
「え?何を?」
「ラブレター…。あなたの人生も私にお世話をさせて下さいって…」
「すごーい!!で、お父さんの返事は?」
「今度は僕が一生掛けて支えます!って」
「いやーん…感動する」
律子は涙ぐんだ。
「それから1年付き合って結婚したの」
「そうなんだぁ」
母と娘。久しぶりの昼食を食べた。
「暑い時は素麺がいいわね」
「うん。あ、そうだ、お父さんが帰って来るまでちょっと出てきていい?」
「いいけど、何処かに用事?」
「久しぶりだし散歩でもしてこようかなって」
「そう。わかった」
後片付けを終わらせてから律子は外に出た。
花火大会の会場が実家から離れている。この辺を歩くのは久しぶりだ。律子は軽やかに歩き出した。蝉の声は相変わらずで残暑は厳しい。近くの公園に入り、木陰のベンチに座った。
(涼一何してるかな…)
ジーンズのポケットから携帯を取り出し、深呼吸してからかけてみた。
今回は二回目のコールで繋がった。
「律子?」
「うん。涼一、今大丈夫?」
「うん、どうしたの?」
「この前の事謝りたくて…」
「そんな事気にしなくていいから」
「でも…困らせちゃったし」
「律子、今どこにいるの?」
「え?ああ、お盆で実家に帰って来てて、昔よく送ってもらった公園にいるよ」
「そうなんだ」
「うん。この辺り散歩するのも久しぶりだし」
「ごめん律子。今から彼女が来るから会えないんだ」
「別にいいよ。私も後でお父さんを迎えに行かなきゃいけないから」
律子は少しムキになった。
「涼一。彼女、大切にね…じゃあ」
律子が電話を切ろうとした時涼一が言った。
「いつまでこっちに居るの?」
「16日の昼まで…どうして?」
「いや、なんでもない」
「そっか…じゃあ」
「うん」
律子は電話を切った。
涼一は電話のあとソファでタバコを薫せながら考えていた。
(16日かぁ…)
しばらく歩いて家に戻ると千鶴が言った。
「あー、ちょうどよかった、お父さんが少し早めに着きそうなの。途中買い物してから迎えに行ってくれない?」
「オッケー」
律子は車で街へ出かけた。
駅の駐車場に車を駐め、歩いてすぐの商店街で買い物を済ませた。もう少し時間がある。お盆で帰省客が多く駅は賑やかだ。
買い物袋を車に積んで駅の横にあるコーヒーショップで時間を潰すことにした。
携帯を見ながら歩いていると、店から出て来た人とぶつかってしまった。
「キャ!」
相手は小柄な女性だった。
律子が勝ってしまい女性は倒れてしまった。
「あっ!ごめんさい」
律子はすぐに女性の手を取り言った。
「すみません、私、よそ見してて…」
「いえ、私こそ急いでて…あっ!ケーキ…」
女性は箱を持ち上げ中を確認した。ケーキはあっけなく形を失っていた。
「やっちゃった…」
律子は心配そうな顔で女性を見つめる。
「私って、いつもこうで…」
そう言って初めて視線を律子に向けた。
「あっ?!」
(口元のホクロ…)
律子を見て驚いている。
「え?」
「もしかして….律子…さん…?斉藤律子さんですか?」
突然名前を呼ばれた律子は驚いた。
「なぜ、私を?どこかでお会いしましたか?」
「いえ、前に写真を…えっと、その…彼の家で…」
律子に衝撃が走った。
涼一の彼女が目の前にいる。
頭の中が真っ白になりそうだった。
逃げ出したくなる気持ちを抑え言った。
「もしかして前田涼一さんの….?」
「はい…竹下里奈といいます」
八重歯は見えないが小柄で可愛い顔。豊の言った特徴を思い出していた。涼一の幸せそうな顔が浮かんだ律子は正気を取り戻した。
「里奈さん、ご迷惑をお掛けしたから、私にそのケーキ弁償させてもらえる?」
「え?あっ、いえ、大丈夫です、もう一度買いますから」
「うーん。それじゃあ私の気持ちが…。あっ、そうだ里奈ちゃん!壊れたケーキ、私が買うから一緒に食べない?コーヒーも一緒にどう?」
里奈が断る隙を与えないくらいの早さで話が決まっていった。戸惑ったが律子に嫌な印象は無く、寧ろ憧れに近い感覚だった。
ショップに戻り、新しいケーキを買った。壊れたケーキを皿にのせてもらい、ブレンドのアイスコーヒーを二つ注文した。律子はさらにのったティラミスとイチゴショートを見てイチゴショートを里奈に渡した。
「はい、里奈ちゃんはイチゴショートでしょ?」
「え?どうしてわかったんですか?」
「やっぱり?当たってた?」
「はい。でも何で?」
「ケーキは2つだから、たぶん涼一さんと食べるのかなぁって思って。あの人、ティラミス好きでしょ?」
「そうです…」
「あ、ごめんなさい、余計なこと言って」
「いえ、大丈夫です…」
気まずくなりそうな雰囲気を助けてくれる様にアイスコーヒーが運ばれてきた。里奈はシロップとミルクを少しずついれ、律子にも勧めた。
「私はブラックだから…」
「そうなんですね…」
二人はコーヒーを一口ずつ飲んで話し始めた。
「律子さん髪伸ばしたんですね」
「そうなの、若い頃はずっと短かったんだけど、伸ばしてみようと思って。里奈ちゃんが見た私の写真ってずいぶん前のでしょ?」
「はい、確か涼ちゃんが18才って言ってました。偶然見てしまって、涼ちゃんに叱られるかなって思って…。知らん顔してようと思ったんですけど、律子さんがあまりにも綺麗で不安になっちゃって…。結局涼ちゃんに聞いたんです。そしたら隠さず言ってくれて、昔の事だから心配しなくていいって…」
「そうなんだね…」
律子は寂しさが顔に出ないように懸命だった。
「里奈ちゃん、私も今、同棲してる彼が居るの」
「え?ホントですか?」
「うん。私が涼一さんと付き合ってる頃から知ってる人でね。彼、私の事をすごく大切にしてくれてるから幸せだし。本当に昔の事だから安心して」
「はい、ありがとうございます!」
里奈が初めて八重歯を見せて笑顔になった。人目を引く可愛らしい笑顔に律子は嫉妬に似た感情を覚えた。
美味しそうにケーキを食べながら里奈は言った。
「ところで律子さん、今はこっちに住んでるんですか?涼ちゃんはわからないって言ってましたけど」
「ううん、向こうのままだよ。向こうで彼と一緒に住んでるの。今日はお盆で実家に帰ってきてるんだけどね。どうして?」
「いえ、前に一度律子さんに似た人を見かけた事があって」
「そう?頻繁には帰って来ないから、私じゃないかも?」
「そうですか…。あっ、私そろそろ行かないと。えっと…律子さん、携帯番号聞いてもいいですか?」
「え?私の?」
「ダメですか?」
「いいけど、涼一さんは?大丈夫なの?」
「わかりません…ただ、律子さんと同じ人を好きになった事を後悔したくないんです。弱い心から逃げない様に…」
「そう…わかった」
番号を交換して二人は別れた。
里奈は店を出て思った。
(やっぱり素敵な人だった…。そういえば律子さん、香水のいい匂いがしたなぁ…。でもなんだろ?この匂い。どこかで…)
考えてもわからないまま涼一の元へ急いだ。
駅の混雑の中、両手に大きなバッグと紙袋を持って進は辺りを見回している。先に進を見つけた律子は手を振りながら大きな声をかけた。
「お父さん!こっちー!」
その声に反応して進は律子を見つけ笑顔になった。
「おお、律子、久しぶりだな」
「うん、いつもお疲れ様。車あっちだから、荷物持つよ、行こう」
「ありがとう」
歩きながら進が言った。
「仕事はどうだ?うまくいってるのか?」
「うん。頑張ってるよ」
「もう向こうに行ってからずいぶん経つな」
「だね、8年だもん」
「俺ももう3年だしな」
「そうだね」
「ところで律子、母さんから聞いたんだが、お前同棲してるんだって?」
「うん、最近始めたの」
「彼と結婚するのか?」
「う~ん。まだそこまでは…」
「迷ってるのか?」
「そう言うわけじゃないんだけど…」
困っている律子を見て進は言った。
「まあいいさ。たくさん悩んでたくさん考えて律子の人生なんだから父さんは応援するよ」
「うん」
進の言葉が胸に響く。
(お父さん。ありがとう…)
◇◇
「ごめん涼ちゃん遅くなって」
「いいけど、何かあった?」
「うん…」
里奈は元気なく言った。
「何?どうしたの?」
「実は、律子さんに会って…」
「え?どういうこと?」
「ショップでケーキ買ってお店を出た時にぶつかっちゃって、それが律子さんだったの…」
「そ、そうなんだ…」
「私が壊したケーキを買ってくれて、コーヒーもご馳走になっちゃった」
「え?律子に?」
「そう…」
「話したの?律子と?」
「うん…律子さん、素敵な人だね…。綺麗で落ち着いててカッコよかった…。涼ちゃんがティラミス好きなのも覚えてたよ…」
「あ、ああ….」
「律子さん、今の彼と同棲してるんだって」
「そ、そうなんだね」
「今は幸せだし、昔の事だから安心してって…」
「うん…」
「涼ちゃん、私、勝てるかな?律子さんに…自信ないよぉ…」
里奈は力なく涼一にもたれかかった。
涼一は黙って里奈を抱きしめる事しか出来なかった。
◇◇
16日の朝。涼一はスーツに着替えた。今日から出勤で、駐車場に向かう途中で3本電話した。
最初の2本は顧客と会社で最後は…。
「はい…」
「もしもし…俺」
「うん、どうしたの?」
「今日帰るんだろ?」
「うん…」
「10時に待ってるからさ、海の前の公園で」
「え?」
「仕事だけど調整したから。じゃあ」
「え?!ちょっと待って」
「何?」
「そんな…急に」
「急だけど。待ってるから…」
そう言って電話を切った。
帰り支度をしていた律子は戸惑っていた。
「もう!何なのよ…いつも勝手に…。でも…変わんないね…」
人は変わる。だから不変に憧れる。踠き苦しみながら…。
いつしか律子は自分自身の本当の気持ちに気付き始めていたのかもしれない。
「お母さんごめん、用事できたから早めに出るよ」
「そう…律子…大丈夫?」
「え?」
「涼一君でしょ?用事って」
「…うん。自分でもわかんない…でも…」
「いいんじゃない?それで…」
千鶴が言った。
「え?」
「律子のままでいいと思う」
「お母さん…」
泣き出しそうな律子に千鶴は微笑みながら頷いた。
公園の海の見えるベンチで律子を待っていた。公園の時計は9時55分を指している。タバコの吸殻は4本目になっていた。
駐車場で涼一の車を見つけた律子は隣に駐め、足早に向かった。公園へつながる階段を上ると
、背を向けて海を見ている涼一が見えた。律子は走り出したい衝動を抑えゆっくりと近づいた。
「もう!バカなの?」
涼一が振り向いた。
「律子…。来てくれたんだ」
「何言ってるんだか。涼一が来いって言ったんだよ」
「そ、そうだね」
「でも…」
「でも?」
「会いたかった…」
律子は涼一の胸に飛び込んだ。
「うん。俺も」
ふたりはベンチに座り海を眺めた。
「ねぇ、涼一」
「ん?」
「この前里奈ちゃんに会ったよ」
「うん。里奈も言ってた」
「すごく可愛くていい子だった…」
「うん」
「涼一の事想ってるのが痛いほどわかったよ…」
「うん…」
「それで…。帰る時に連絡先聞かれたの」
「え?里奈から?」
「うん。私が教えても大丈夫なの?って。そしたら里奈ちゃん…。律子さんと同じ人を好きになった事を後悔したくないからって…」
「里奈がそんな事を….」
「うん。凄いと思った…。私の想像を超えてた」
「律子…」
「ん?」
「あの日里奈が言ったんだ。律子さんに勝てるかなぁって…」
「え?里奈ちゃんが?」
「ああ、律子は素敵な人だったって」
「そんな事…」
「そんな里奈に俺は何も言ってあげれなかったんだ…」
「涼一…そんなんじゃダメだよ…もっと里奈ちゃんを大切にしないと」
「わかってる…」
「涼一、私ね、涼一と別れてからボロボロで、
辛くて何度も死にたいった思った。でもそんな時にまわりの皆んなが私を救ってくれたの」
「その中に彼もいたんだ…」
「うん…。涼一覚えてる?前に向こうのスーパーで会った人。澤井隆くん」
「ああ、覚えてるよ」
「隆くんが今の彼なの…」
「そうだったんだ…」
「うん、私をずっと見ててくれた。ずっと待っててくれて」
「幸せなんだね…」
「うん、幸せだよ…でも…」
「でも?」
「いや…なんでもない…」
「俺さ、あの時は律子の有り難さは分からなかった」
律子は涙を堪えていた。
「俺はバカだったよ…。律子を手離した事を後悔してたんだ…ずっと…」
「もうやめて…それ以上言わないで…」
律子は涙をこらえるが出来なかった。しばらく泣き続け、泣き腫らした目で涼一を見上げた。
「ごめんね…。やっぱり泣いちゃった…泣かないように頑張ったんだけどなぁ」
「大丈夫だよ」
「涼一。私ね、これからは自分に正直に生きようと思うんだぁ…」
涼一は黙って頷いた。
「そろそろ行くね」
「ああ…」
「涼一、元気で!」
「律子も」
「うん…」
律子は背を向け歩き出した。涼一は見送ることしかできず、残存に佇んだ。
!!
一瞬のことだった。律子は振り返り涼一の胸に飛び込んだ。そして懐かしい胸の中で思いきり呼吸をした。
「じゃあね…」
「うん…」
◇◇
夕方里奈からメールがあった。
(和食のお店で行きたいところがあって。今夜行かない?)
(了解。行こう。18時半には終わると思う)
(わかった。予約入れとくねー!)
仕事が終わり里奈と合流したのは18時40分を回ったところだった。
「ごめん、遅くなった」
「ううん、涼ちゃんお疲れ様」
「今日のお店、この前テレビでやっててー、凄くヘルシーで美味しそうだったの!一度行ってみたくてさ」
「そっか。楽しみだね」
ふたりは車に乗り、ドアを閉めた。
「涼ちゃん?」
里奈は困ったような顔をした。
「なに?」
「うん…。怒んないで聞いてくれる?」
「え?どうしたの??」
「今ね、涼ちゃんが車に乗った時、律子さんと同じ匂いがした…」
「え?」
「涼ちゃん、もしかして…律子さんに会った?」
涼一は少し俯いて言った。
「会った…ごめん…」
「そっか…」
里奈は下を向いて泣き出した。
「里奈…」
「うん。正直に話してくれてありがとう。もう少し泣くかもしれないけど、大丈夫だからね…」
しばらくして里奈は落ち着きを取り戻し笑顔で言った。
「待たせてごめんね。行こう」
そのあとの里奈はいつもの元気な里奈だった。食事が終わり、ふたりは涼一の部屋へ帰った。
里奈は先にシャワーを浴びると言った。涼一は冷蔵庫の缶ビールを一口飲み外を眺めていた。
「涼ちゃん…」
!!
「り、里奈…」
シャワーを浴びているはずの里奈は下着すら着けず立ち尽くしていた。
「涼ちゃん、抱いて…ください…」
目には溢れんばかりの涙を溜めていた。涼一は驚いたがすぐに律子とのことだと思い言った。
「俺が律子と会ったのが許せないんだろ?
ごめん…」
「ううん、ちがうの…」
「私が弱いから…乗り越えたいの、律子さんを…」
立ち尽くすその姿は心の傷を表すかのように、あまりにも痛々しかった。里奈にバスタオルをかけ抱きしめた。里奈は泣き崩れそのまま眠ってしまった。涼一は里奈をベッドに寝かせ隣で眠った。
朝起きると里奈は仕事に行く準備をしていた。
「あっ涼ちゃんおはよう」
里奈は笑顔だった。
「おはよう…」
「ご飯出来てるよ」
普通の朝だった。
「ほら!早くしないと遅れちゃうよ」
「あ、ああ」
里奈に急かされシャワーを浴びた。
「じゃあ涼ちゃん、今日もファイト!」
「うん。里奈もね」
「うん!」
◇◇
涼一と会った帰りの車の中で律子の携帯が鳴った。豊からだった。
「もしもし?豊、どうしたの?」
「姉ちゃん、もう帰り着いた?」
「まだだよ、どうしたの?」
「言おうか迷ったんだけど…」
「ちょっと、何なの?」
「うん。実は花火大会で隆くん見つけた時、女の子と一緒だったんだ」
「え?どういう事?」
隆くんが転んだその子を助けたみたいで、救護所に連れて行ったらしいんだ。そのあとその子は彼と逸れたみたいで、隆くんが一緒にいてあげたって」
「そう。別にいいんじゃない?」
「ただ、その女の子がどうも…」
「何なの?」
「涼一君の彼女みたいなんだ」
「え?」
律子は驚いた。
俺がコンビニで涼一君に会った時迎えに来た人だったんだ。
「豊、本当なの?見間違いじゃないの?」
「俺も最初はそう思ったけど、この前の休みに友達とプールに行った時、偶然見かけたんだ。隆君とその人を」
「え?」
「この前の休みって…」
(隆くんは仕事だって言ってた…)
「あの時連絡が取れない姉ちゃんを車で待とうってなって、その人もまだ彼氏と連絡取れないから隆くんが心配して番号教えようとしたけど、携帯は姉ちゃんが持ってるし。だから取り敢えず俺の番号教えたんだ。浴衣着てたし雰囲気違ってたから気付かなくて…。あとになって気付いたんだ。そしたら一週間後にその人から電話があってお礼が言いたいからって隆くんの番号聞かれて。電話だけならと思って隆くんの番号教えたんだ。もちろん隆くんにはその人が涼一君の彼女だとは言ってないし、連絡があるかもって伝えただけなんだけど、そのあとプールでふたりを見かけたんだ」
「え?じゃあ電話した時はもう二人で居たって事?」
「たぶん。でも隆くんとあの人に間違いなかった」
「そう…里奈ちゃんが…」
「里奈っていうの?あの人」
「ん?ああ、豊ありがとう、教えてくれて」
「姉ちゃんどうするの?」
「どうもしないよ」
「え?」
「だから、どうもしない」
「それでいいの?」
「いいの。豊も心配しないで」
「わかった。じゃあ気を付けて」
「うん、じゃあね」
律子は電話を切った。
(隆くん何で?仕事って言ったのは嘘?)
考えても何も分からないまま律子は車を走らせた。すぐに帰る気になれずカフェに立ち寄った。注文したコーヒーをブラックで口に運び、窓の外を眺めた。行き交う人々の楽しそうな笑顔に律子は自分だけが別世界にいるような孤独を感じた。
家に帰り着いたのは19時頃だった。
「ただいま」
「律ちゃんおかえりー」
帰り着いた律子を隆は笑顔で迎えた。テーブルの上には宅配のピザがあった。
「律ちゃん明日から仕事だし夕飯作るの大変だろうからピザ頼んだんだ」
「そう」
「お腹すいたでしょ?食べよう、横においでよ」
律子は黙って隆の横に座った。隆は律子の肩を抱いてキスをしようとしたが律子は顔を背けた。
「隆くんごめん…疲れてるから先に寝るね」
そう言って律子は寝室に向かった。
「律ちゃん…」
隆はそれ以上何も言わなかった。
次の朝。律子はソファで寝ている隆を起こした。
「隆くん、起きて、今日から仕事だよ」
隆は眠そうに返事をした。
「う~ん。おはよう律ちゃん」
「おはよう。隆くん昨日はごめん…」
「ん?何の事?」
「昨日、私…」
「あー、気にしてないから。それより律ちゃん、腹減った」
「わかった、すぐ作るね」
律子も普通の朝を迎えていた。
◇
その日の昼。隆の携帯が鳴った。
「もしもし」
「隆くん…」
「あー里奈ちゃん!この前はありがとう、楽しかったね!」
「うん。私こそありがとう…」
「ん?どうしたの?元気ないけど」
「隆くん、私…どうしたらいいのかわかんなくなっちゃって」
里奈は泣いていた。
「ちよっ、ちょっと里奈ちゃん?落ち着いて何があったの?」
「隆…く…ん」
「わかったから、落ち着こう」
「うん…ごめんね…」
「里奈ちゃん、今どこ?」
「仕事早退しちゃって…車の中」
「わかった、今からそっち行くから!」
「え?」
「でも…隆くん仕事でしょ?」
「俺の仕事は何とかなるから心配しないで、この前のモールで待ってて」
「いや、悪いから…」
「里奈は俺の言う事聞けばいいから!わかった?」
「はい…」
隆は電話を切って会社に連絡した。顧客訪問が長引くので直帰すると伝え、高速を急いだ。
この前の里奈と会った時と同じところに里奈の車が駐まっていた。運転席の里奈は疲れているのか、眠っている様だった。隆は車を降り窓を軽くノックすると里奈は目を開け少し微笑んで車を降りた。
「隆くんごめん…」
「あっ危ない!」
倒れこむ里奈を支えた。
「里奈ちゃん大丈夫?具合悪いの?」
「だ、大丈夫…」
「とりあえず俺の車に乗って」
隆は助手席に里奈を座らせた。
「隆くんごめんね、心配かけて」
「何があったの?」
「うん…」
里奈は力のない声で涼一とのことを話した。
「彼の家に帰ってから、抱いて下さいって言っても…彼は答えてくれなかった」
涙が里奈の頬を伝った。
「隆くん…私やっぱり勝てないのかなぁ…元カノに…」
「俺も…」
「え?」
「俺も勝てなかった…彼女の心の中に俺は居ない…」
隆の涙もこぼれ落ちた。
「隆くん…」
「里奈ちゃんごめん…」
隆は里奈を乗せ走り出した。
「隆くん…どこ行くの?」
隆は黙ったまま車を走らせ海沿いのホテルに入った。
「行こう」
里奈も黙って隆について行った。
ふたりが入った2階の部屋はダブルベッドと大きなテレビ以外に目立つものはなく殺風景な空間だった。どちらからともなくキスをして抱き合いながらベッドに倒れこんだ。
そのとき里奈は確信した。
「やっぱり…」
「里奈ちゃん、どうしたの?」
「隆くんの香水の香りと元カノの香りが同じ…。律子さんと…同じ…」
!!
「里奈ちゃん…今、何て?!」
「隆くん….私の彼の元カノの名前…斉藤律子さんだよ…」
隆は目の前が真っ白になった。一瞬パニックになったが、この瞬間に全ての点が一つの線になり繋がった。
「そ、そんな…」
「やっぱりそうだったのね…隆くんの彼女って」
「ああ。律子なんだ…」
ふたりは激しく抱き合った。何も言わず、何も考えず、心に深く刻まれた傷の痛みを慰め合った。
「里奈ちゃん…ごめん…」
「ううん…弱いのは私だから…」
ふたりを喪失感が包み込み、残ったのは果てしない孤独だった。
ホテルを出たのは17時半を過ぎていたが外はまだ明るく、闇を抱えたふたりにとっては救われた気分だった。里奈をモールまで送り、そのまま高速へと走らせる車の中で隆は大声を上げた。
「うわぁー!」
誰にも聞こえない隆と里奈の痛みの声だった。
◇
里奈は涼一とは会わずそのまま実家に帰った。
「里奈お帰り」
「うん、ただいま…」
「元気ないけど、どうしたの?」
利江が心配して声をかけた。
「うん。なんか疲れてしまって…お風呂入って寝るね」
「ご飯は?」
「いらない…」
シャワーで体を洗いながら里奈は泣いた。
「涼ちゃん、ごめんさない…弱くてごめん…なさい…」
(決めなきゃいけないんだよね…)
◇
隆は20時頃帰り着いた。
「ただいま」
「お帰り。遅かったね、残業?」
「……」
「隆くん?」
何も言わない隆に律子は聞いた。
「あっ、ごめん…なに?」
「何かあったの?」
「いや、別に」
「そう…ご飯出来てるよ」
隆はキッチンへ向かう律子を後から抱きしめた。
「え?隆くん?」
隆は律子にキスをしようとしたが律子は背けた。
「まただ…」
「ごめんなさい…」
律子は俯いて言った。
「もういい…もういいよ…」
隆は寝室に行きクローゼットを開いた。律子へのプレゼントが綺麗な包装のまま置いていた。
「もう…ダメだ…」
隆は箱を壁に投げつけた。
衝撃で包装が破れ潰れた。激しい音に驚いた律子が寝室に行くと隆は壁にもたれかかり顔を覆い泣いていた。
「ちょっと隆くん、どうしちゃったの?」
律子が隆の元へ駆け寄った。
「律ちゃん。俺たちもうダメだ…別れよう…」
「え?」
隆はそう言って家を出て行った。
「隆くん、待って!」
隆を追いかけようとした時、潰れた箱に気付いた。箱の中を見て律子は泣き崩れた。
「私は何てことを…」
隆が律子にプレゼントするために買ったスニーカーは涼一が好んで履いているものと同じだった。
次の日の朝。律子はベッドの脇で目覚めた。泣き疲れてそのまま眠ってしまっていた。隆は出て行ったままだった。携帯にかけてみたが出なかった。律子はテーブルの上にそのままになっていた夕飯片付けを始めた。
隆は実家に帰っていた。飲めない酒を飲み、起きると二日酔いになっていた。冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぎタバコに火をつけた。
「ちょっとお兄ちゃん、タバコやめたんじゃなかったの?急に帰ってくるし、律子さんと何かあったの?」
いつもと違う隆に言った。
「何もないよ。いいんだ…」
隆はそう言って部屋に戻った。
◇
真里は大学の帰りに律子に会いに行ってみた。
インターホンを押したが反応がなくまだ帰っていないようだった。
(少し待ってみよう…)
20分程待って、そろそろ帰ろうかと思った時に律子の車が駐車場に入って来た。
「あっ、真里ちゃん」
買い物袋を手に持った律子が手を振りながら言った。
「律子さん、ごめんなさい突然来ちゃって」
「大丈夫だよー、さぁどうぞ」
リビングのソファに座った真里は綺麗な部屋の中を見渡していた。
「久しぶりだねー。真里ちゃん大学は楽しい?」
オレンジジュースをグラスに注ぎながら言った。
「はい。何かと忙しいですけど楽しいですよ!」
「いいなぁ、充実してるね。私みたいなおばさんは出る幕なしだね」
「そんな事ないですよぉ。私は律子さんみたいになりたいですもん」
「上手いねー!」
「本当ですってー!」
あっははは
律子にとっては隆とのことを紛らす時間になった。
「あっそうだ!真里ちゃんが大丈夫なら夕飯一緒に食べない?今日はカレー作ろうかと思ってて」
「いいんですか?」
「うん!もちろん!」
「じゃあ私も手伝います!」
キッチンに並んで立ち、玉ねぎとジャガイモの皮を剥きながら真里が言った。
「律子さん。お兄ちゃん家にいるんですけど喧嘩したんですか?」
「うん。ちょっとね…。隆くん何か言ってた?」
「それが…何も話してくれないんですよ。私が連絡しないの?って聞いても、いいんだって言って」
「そっか…。真里ちゃんごめんね…心配かけて」
「そんな事ないですよぉ」
里奈が心配そうに言った。
「嫌われちゃったかな?隆くんに…」
「律子さん…」
俯き加減の律子の横顔はどこか儚げに見えた。
「ご馳走さまでした」
カレーを食べ終わった真里が両手を合わせて微笑んだ。
「いえ、いえ」
律子も応えて返す。
「お皿洗います」
「真里ちゃんいいって。私がやるから」
「でも…」
「一緒にご飯食べてもらったし」
「律子さん…」
食後にコーヒーを飲んだ。真里は大学の日常を、律子は学生時代の思い出を話した。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
「あっー!もうこんな時間、レポート仕上げないと…」
「本当だ、私も洗濯終わらせなきゃ!真里ちゃん。レポート頑張ってね!」
「はい!ありがとうございました」
「うん、じゃあね」
真里の笑顔が律子の胸を締め付けた。
(真里ちゃん、ごめんね…)
真里が帰ったあと、洗い物をしていた律子は手を滑らしグラスを割ってしまった。
「はあ…」
破片を拾い集めていると自然に涙が溢れて来た。
(何なの…私は…)
唇を噛み締めながら衝動的に律子は破片を掴んだ。掴んだ右手は切れて出血している。その破片を左手首に添えた。
「隆くん…ゴメンね…」
そのまま破片を突き立てた。
「律ちゃん!律ちゃん!」
大声で叫ぶ隆の声で目を覚ました。
「うぅ…」
激しい頭痛が律子を襲った。
「律ちゃん大丈夫?わかる?」
「隆くん…」
「今、救急車呼んだから!」
「ごめんね…」
「もう話さなくていいから!」
真里から律子の様子を聞いた隆は気になっていた。帰ってみると律子が手首を切り倒れていた。
運ばれた救急病院で隆は説明を受けた。
傷は深いが幸い命に別条はなく、隆が律子の手首をタオルで抑え止血したことで出血量が少なくて済んだらしい。体力が戻るまで安静にする必要があり2日間入院することになった。
「律ちゃん。2日ほど入院だってさ」
「うん…ごめんなさい…迷惑かけて…」
律子は力なく言った。
「隆くん…私…」
「今日はゆっくり休んで、ね…」
隆はそう言って促したが律子は話し続けた。
「隆くん…いつも迷惑かけてごめんね。私一緒にいて幸せなんだよ…でも、花火大会の時…」
「会ったんだろ?前田くんと。この前帰った時も」
「知ってたんだね…」
「隆くんのこと大切なのに…私自分でもどうしていいかわからなくて…」
「律ちゃんごめん…」
「え?」
「実はさ、俺も里奈ちゃんと…」
「うん。知ってたよ。豊が教えてくれた。
見かけたみたい…」
「そっか…」
隆が里奈を抱いたのも雰囲気でわかった。
「律ちゃん。俺やっぱり前田くんには勝てないや」
「え?」
「俺、弱いから…」
「そんなことないよ、私が悪いの…」
「律ちゃん。もういいからさ。自分の気持ちに素直になんなよ」
「隆くん…」
「俺のことはもういいからさ」
退院して数日後。律子は部屋を出た。隆は実家に帰ったままだった。
律子はテーブルの上に手紙を残した。隆と隆の家族に感謝の気持ちを込めて。
(さようなら…)
律子は8年過ごしたこの街をあとにした。
◇◇◇
里奈はあの日から涼一を避けるようになった。
涼一もどうしたらいいのかわからないまま時間は過ぎていった。
(このままじゃダメだ…)
里奈は何かを決心したように涼一にメールを打った。
(涼ちゃん。今日の夜、海で待ってます)
(わかった。必ず行くから)
夏の終わりの海は寂しい。
今年の夏もたくさんの人で賑わったこの海も静かになり、打ち寄せる波の音だけが優しく響いていた。
涼一が着いた頃、辺りは暗くなり始めていた。
誰もいなくなった砂浜に里奈はひとり座っていた。その後ろ姿は触れると壊れてしまいそうなくらい繊細で脆くみえた。
「里奈」
「あっ、涼ちゃん…ごめんね。呼び出して」
「大丈夫だよ。コーヒー買って来た」
涼一はカフェオレとブラックコーヒーを手に持っていた。里奈にカフェオレを差し出すと、里奈は首を横に振った。
「ん?」
里奈はブラックコーヒーを手に取った。
「今日はこっちがいい…」
「そっか…」
涼一は微笑んだ。
ふたり並んで座り、黙ったまま夜の海を眺めていた。
「里奈…」
話し始めたのは涼一からだった。
「ん?」
「ごめん…律子のこと…」
「うん…」
「俺、自分で自分が分からなくなって…里奈の事好きなのに…」
「ありがとう、涼ちゃん。私も涼ちゃんに謝んなきゃ…。私…自分の弱さに負けて涼ちゃんを裏切ってしまった…。花火大会の時逸れたでしょ?あのとき怪我しちゃって親切にしてくれたのが、偶然なんだけど律子さんの彼氏の隆くんなの。お礼の電話をして一回会った…。そのあとしばらくして涼ちゃんが律子さんと会ったのが分かって私どうしていいのかわからなくなって…気がついたら隆くんに電話してた。
二人ともその時はまだお互いの事を知らなかったけど、隆くんも律子さんと上手くいってなかったみたいで落ち込んでて…。慰め合うように抱きしめあって…、その時に律子さんと同じ香水の匂いがしたの。涼ちゃんについてた匂いと同じ…。わからなかったことが全て繋がって…
弱い私は隆くんに…抱かれたの…
後になってすごく後悔したけど遅いよね…
隆くんとはもう会うことはないけど、涼ちゃんを裏切った私はもう涼ちゃんの隣にはいられない…ごめんなさい…」
里奈は泣いていた。
「涼ちゃん、やっぱり、律子さんすごいね…勝てなかった…涼ちゃんと同じブラックコーヒー…スミレの浴衣…ティラミスも…。私がどんなに頑張っても届かなかったよ…。
でも、気付いたの…。頑張っちゃダメなんだよね。普通じゃなきゃ…。だからね、涼ちゃん…
私と別れて下さい…」
「里奈…」
涼一は自分の不甲斐なさに打ちのめされた。
里奈は俺の事を好きでいてくれた。信じていてくれた。俺の全てを受け入れ、全てを許し、全てを自分のせいにして離れていこうとしている。大切にしようと思ったはずがいつの間にか里奈の心に消えない傷をつけていた。
「涼ちゃん…最後にお願いがあるんだけど…」
「うん…」
「約束してた…花火…一緒にやってくれないかな…買って来たんだぁ」
精一杯の笑顔を見せて里奈が言った。
涼一は涙が止まらなかった。
「うん…うん…やろう…」
里奈はバッグから線香花火を取り出した。涼一がライターで火をつける。パチパチと火花が弾けるたびに里奈の横顔が浮かんで見えた。頬を伝う涙は花火の光でキラキラと輝いていた。
最後の花火を眺めていた里奈が言った。
「涼ちゃん、今度は見失わないでね…律子さんを…今までありがとう…」
涼一は声をあげて泣いた。
夏の終わりの花火が消えた。
同時に里奈と涼一の夏が終わった。
0
あなたにおすすめの小説
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる