真面目くさった女はいらないと婚約破棄された伯爵令嬢ですが、王太子様に求婚されました。実はかわいい彼の溺愛っぷりに困っています

綾森れん

文字の大きさ
9 / 44
第一幕:突然の婚約破棄と、運命の出会い

09、アルカンジェロのチェンバロレッスン

しおりを挟む
「アルは、ブリタンニア王国へ行ってしまうの?」

 私は置いてけぼりにされた子供のような声で尋ねていた。

 楽譜をめくる彼の手が止まった。

「よくご存じですね」

 困ったようにほほ笑むアルカンジェロに、私は言い訳した。

「お兄様が話しておりましたの。噂を聞いたって」

「クリスティアーノ様は情報通ですな」

 人当たりの良い兄は男女問わず友人が多い。陰で堅物令嬢と呼ばれる私とは違って、社交界の噂話にも通じている。

 私はアルの答えを待っていた。音楽室に静寂が落ち、中庭から小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。

「エージェントには断ったのですよ」

 ようやく彼が答えてくれて、私はほっと胸をなで下ろした。

「しかしエージェントめ、図々しくも『お気持ちが変わるのをお待ちしています』などと言って宿の場所を渡してきたんだ」

 憎々しげな口調とは裏腹に、アルカンジェロは楽しそうだ。抜け目ないエージェントを面白がっているらしい。

「エージェントさんったら、さっさとブリタンニア王国へお帰りになればいいのに」

 私はアルカンジェロを奪われたくなくて、つい不機嫌な声を出してしまった。

「大建国祭中はロムルツィアに滞在するそうですよ」

 祝賀期間中の王都には、周辺諸国から訪れる旅行客も多い。エージェントは大建国祭の観光も兼ねて、今の時期にロムルツィアへ来たのだろう。

「アル、ブリタンニアへ行きませんわよね?」

 私は不安を抑えきれずに、隣に座るアルカンジェロを見つめた。

「ああ。俺はこの国から離れられませんから」

 あきらめたような笑い方は、いつも自信に満ちている彼らしくない。深く尋ねられたくないのか、

「では初めから弾いてみましょう。途中で止めさせていただきますね」

 楽譜の曲頭を指さした。

 私は言われた通り一楽章を繰り返しながら、彼の言葉の意味を考えてしまう。まるで逃れられない重責を背負っているかのようだ。

「あ、そこまでで」

 彼がすらりとした手の甲を差し出して曲を止めた。

「リラお嬢様の指はとてもよく動いているのですが、やや力が入りすぎているようです。必要最小限の力で弾くと、お嬢様の指にも楽器にも優しいですよ」

「必要最小限?」

 オウム返しに尋ねると彼は、ええ、とうなずいた。

「二種類の弾き方をしますので、聴き比べてください」

 爪の形まで美しい彼の人差し指が、木の鍵盤をゆっくりと押してゆく。

 チェンバロの爪が弦をはじき、ポロンと綺麗な音が鳴った。

「次は強い力で弾きます」

 彼の指が素早く動き、鍵盤をたたいた。弦の音と同時に、カタンと木片がぶつかるような雑音がかすかに聞こえる。

 私は彼の言わんとしていることを理解した。

「美しくありませんわね」

「そうなのです。敢えて荒々しい演奏を求めるのでなければ、強い力は不要です」

「荒々しい演奏なんて下品ですわ」

 私が貴族令嬢の感性をあらわにすると、彼は少しほほ笑んだ。

「劇場のワンシーンなら使えるかも知れません」

「あ、オペラの叙唱レチタティーヴォなら――」

「おっしゃる通りです。こんな感じで――」

 彼は満足そうにうなずいてから手を伸ばし、力強く減七の分散和音アルペジオを弾いた。緊迫感にあふれた音の粒が四方八方へ飛んでゆく。激しく演奏する彼は、普段は隠している野性的な色香を放っていた。

「かっこいいわ」

 思わず褒めると、彼は照れた。

「いやいや、お嬢様がこれから弾かれるソナタには関係のないものでした。さあ、やさしく優雅に弾いてみましょうか」

 彼のアドバイスを受けて私はまたソナタを弾いてみたが、五指すべてが均等に程よい力で鍵盤を押すのはなかなか難しい。音色こそまろやかになったものの、ミスタッチが増えてしまった。

「難しいわ」

 途中まで弾いて彼に訴えると、

「手首の力を抜いてみましょうか。失礼」

 彼が両手で優しく私の手を取ったので、また鼓動が速くなった。

「指先の関節も楽にして」

 彼の長い指が、私の白い手を撫でてゆく。

「肩も下げてください」

 風のようにふわりと、彼の手のひらが私の二の腕に触れた。

「もっと楽に、思いのままに、音楽に身をゆだねてよいのですよ」

 アルカンジェロの魔法の指先が触れた場所から軽くなってゆく。体からこわばりが抜けてゆくと私は、今まで鎖でがんじがらめにされていたと気が付いた。

 彼の手ほどきで私は一歩ずつ解き放たれて、空へと舞い上がってゆくようだ。

「こんなに力を抜いて弾けるかしら?」

「大丈夫。こんな感じで――」

 私の右側に座った彼は、オクターブ上でソナタを弾いてくれた。彼の大きな手が空を羽ばたく翼のように鍵盤の上をすべってゆく。

 簡単な練習曲を弾いているのに、その単純さがかえって美しく、聴き惚れてしまう。

「上手ね」

 うっとりしていた私の口から心の声が漏れて、自分の馬鹿げた感想に恥じ入った。彼はプロの音楽家なんだから、私の弾く練習曲くらい巧みに演奏できて当然じゃない!

 だがアルカンジェロは素直に相好を崩した。

「ありがとうございます」

 彼の笑顔に私まで明るい気持ちになる。彼は天使の微笑を浮かべたまま、

「しごかれた甲斐があるってもんです」

 と続けた。

「音楽院の先生、厳しかったの?」

「いいえ。俺、音楽院には通っていないんです」

 少し意外だった。カストラート歌手はたいてい音楽院で学ぶものだから。

 各地に点在する音楽院には、教会が運営する孤児院から発展したものも多い。そのため音楽院は子供たちの寄宿舎も兼ねている。貧しい農村出身で声だけは美しい少年が、衣食住の面倒まで見てもらいながら音楽だけでなく、貴族の家に出入りしても失礼にならない教養を身に着けるのだ。

「大聖堂の音楽監督に習ったんですよ。俺、教会で育ったから」

 アルが親しげな口調で自分のことを話してくれるのが嬉しい。

「そうだ」

 彼が手のひらで自分の膝を打った。

「俺が子供の頃、音楽監督がよく使っていた指導法を試してみましょう。俺が右手の旋律を弾きますんで、お嬢様は左手だけ弾いてみてください」

 私たちは息を合わせて一つの曲を演奏した。

 左手だけなら新しいタッチに集中できて、私は綺麗に弾けた。片手ずつ連弾するのはとてもよい方法だったが、どうしても彼と密着することになる。

 私は必死で曲に集中しようと試みた。どうしてこんな、水の上を飛び跳ねながら歩いて行くみたいに、心が浮き立つんだろう。

 家族でもない殿方と距離が近づくから?

 いいえ、私は少女ではないわ。婚約者だったグイードと夜会で踊るときは、体が触れ合う距離だった。

 でも一度も胸の高鳴りを覚えたことなんてない。

 それなのにアルカンジェロが隣にいるだけで、世界が鮮やかに色づいて見えるなんて!

 私とアルカンジェロは、互いに右手を弾いたり左手を弾いたりしながら、レッスンを続けた。

 ようやく両手でゆっくりと、すべての音のタッチに気を配って弾けるようになったころ、

「お疲れになりましたか?」

 アルカンジェロが声をかけてくれた。

 全神経を指先に集中していたので気付かなかったが、頭の芯のあたりに心地よい疲労感を覚える。

 壁際に控えている侍女がすぐに察して、

「ではお飲み物とお菓子をお持ちしますね」

 音楽室から出て行った。

「今日はこのくらいにしておきましょう」

 首元に手を添えていた私の様子を見て、アルカンジェロが提案する。

「そうね。お手紙で伝えていた件についてもお話ししなければならないし」

 私たちはテーブルセットの置かれたガーデンルームへ移動した。大きなガラス扉から燦々と降りそそぐ陽光が、テーブルに入った螺鈿の装飾に反射する。

 カートを押して戻って来た侍女が、優雅な猫足のテーブルにハーブティーとビスケットを並べてくれた。

 カモミールの湯気が立ちのぼり、あたたかい香りが鼻先をくすぐる。

「リラお嬢様を危険な仕事に巻き込みたくはないのですが」

 先に口をひらいたのはアルカンジェロだった。

「それでしたらどうして、この屋敷に来てくださったの?」

 私は純粋な疑問を口にした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】幼い頃からの婚約を破棄されて退学の危機に瀕している。

桧山 紗綺
恋愛
子爵家の長男として生まれた主人公は幼い頃から家を出て、いずれ婿入りする男爵家で育てられた。婚約者とも穏やかで良好な関係を築いている。 それが綻んだのは学園へ入学して二年目のこと。  「婚約を破棄するわ」 ある日突然婚約者から婚約の解消を告げられる。婚約者の隣には別の男子生徒。 しかもすでに双方の親の間で話は済み婚約は解消されていると。 理解が追いつく前に婚約者は立ち去っていった。 一つ年下の婚約者とは学園に入学してから手紙のやり取りのみで、それでも休暇には帰って一緒に過ごした。 婚約者も入学してきた今年は去年の反省から友人付き合いを抑え自分を優先してほしいと言った婚約者と二人で過ごす時間を多く取るようにしていたのに。 それが段々減ってきたかと思えばそういうことかと乾いた笑いが落ちる。 恋のような熱烈な想いはなくとも、将来共に歩む相手、長い時間共に暮らした家族として大切に思っていたのに……。 そう思っていたのは自分だけで、『いらない』の一言で切り捨てられる存在だったのだ。  いずれ男爵家を継ぐからと男爵が学費を出して通わせてもらっていた学園。 来期からはそうでないと気づき青褪める。 婚約解消に伴う慰謝料で残り一年通えないか、両親に援助を得られないかと相談するが幼い頃から離れて育った主人公に家族は冷淡で――。 絶望する主人公を救ったのは学園で得た友人だった。   ◇◇ 幼い頃からの婚約者やその家から捨てられ、さらに実家の家族からも疎まれていたことを知り絶望する主人公が、友人やその家族に助けられて前に進んだり、贋金事件を追ったり可愛らしいヒロインとの切ない恋に身を焦がしたりするお話です。 基本は男性主人公の視点でお話が進みます。 ◇◇ 第16回恋愛小説大賞にエントリーしてました。 呼んでくださる方、応援してくださる方、感想なども皆様ありがとうございます。とても励まされます! 本編完結しました! 皆様のおかげです、ありがとうございます! ようやく番外編の更新をはじめました。お待たせしました! ◆番外編も更新終わりました、見てくださった皆様ありがとうございます!!

「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い

腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。 お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。 当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。 彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。

辺境の侯爵令嬢、婚約破棄された夜に最強薬師スキルでざまぁします。

コテット
恋愛
侯爵令嬢リーナは、王子からの婚約破棄と義妹の策略により、社交界での地位も誇りも奪われた。 だが、彼女には誰も知らない“前世の記憶”がある。現代薬剤師として培った知識と、辺境で拾った“魔草”の力。 それらを駆使して、貴族社会の裏を暴き、裏切った者たちに“真実の薬”を処方する。 ざまぁの宴の先に待つのは、異国の王子との出会い、平穏な薬草庵の日々、そして新たな愛。 これは、捨てられた令嬢が世界を変える、痛快で甘くてスカッとする逆転恋愛譚。

無一文で追放される悪女に転生したので特技を活かしてお金儲けを始めたら、聖女様と呼ばれるようになりました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
スーパームーンの美しい夜。仕事帰り、トラックに撥ねらてしまった私。気づけば草の生えた地面の上に倒れていた。目の前に見える城に入れば、盛大なパーティーの真っ最中。目の前にある豪華な食事を口にしていると見知らぬ男性にいきなり名前を呼ばれて、次期王妃候補の資格を失ったことを聞かされた。理由も分からないまま、家に帰宅すると「お前のような恥さらしは今日限り、出ていけ」と追い出されてしまう。途方に暮れる私についてきてくれたのは、私の専属メイドと御者の青年。そこで私は2人を連れて新天地目指して旅立つことにした。無一文だけど大丈夫。私は前世の特技を活かしてお金を稼ぐことが出来るのだから―― ※ 他サイトでも投稿中

悪役令嬢の身代わりで追放された侍女、北の地で才能を開花させ「氷の公爵」を溶かす

黒崎隼人
ファンタジー
「お前の罪は、万死に値する!」 公爵令嬢アリアンヌの罪をすべて被せられ、侍女リリアは婚約破棄の茶番劇のスケープゴートにされた。 忠誠を尽くした主人に裏切られ、誰にも信じてもらえず王都を追放される彼女に手を差し伸べたのは、彼女を最も蔑んでいたはずの「氷の公爵」クロードだった。 「君が犯人でないことは、最初から分かっていた」 冷徹な仮面の裏に隠された真実と、予想外の庇護。 彼の領地で、リリアは内に秘めた驚くべき才能を開花させていく。 一方、有能な「影」を失った王太子と悪役令嬢は、自滅の道を転がり落ちていく。 これは、地味な侍女が全てを覆し、世界一の愛を手に入れる、痛快な逆転シンデレラストーリー。

【完結】魔力がないと見下されていた私は仮面で素顔を隠した伯爵と結婚することになりました〜さらに魔力石まで作り出せなんて、冗談じゃない〜

光城 朱純
ファンタジー
魔力が強いはずの見た目に生まれた王女リーゼロッテ。 それにも拘わらず、魔力の片鱗すらみえないリーゼロッテは家族中から疎まれ、ある日辺境伯との結婚を決められる。 自分のあざを隠す為に仮面をつけて生活する辺境伯は、龍を操ることができると噂の伯爵。 隣に魔獣の出る森を持ち、雪深い辺境地での冷たい辺境伯との新婚生活は、身も心も凍えそう。 それでも国の端でひっそり生きていくから、もう放っておいて下さい。 私のことは私で何とかします。 ですから、国のことは国王が何とかすればいいのです。 魔力が使えない私に、魔力石を作り出せだなんて、そんなの無茶です。 もし作り出すことができたとしても、やすやすと渡したりしませんよ? これまで虐げられた分、ちゃんと返して下さいね。 表紙はPhoto AC様よりお借りしております。

結婚前夜に婚約破棄されたけど、おかげでポイントがたまって溺愛されて最高に幸せです❤

凪子
恋愛
私はローラ・クイーンズ、16歳。前世は喪女、現世はクイーンズ公爵家の公爵令嬢です。 幼いころからの婚約者・アレックス様との結婚間近……だったのだけど、従妹のアンナにあの手この手で奪われてしまい、婚約破棄になってしまいました。 でも、大丈夫。私には秘密の『ポイント帳』があるのです! ポイントがたまると、『いいこと』がたくさん起こって……?

婚約破棄されたはずなのに、溺愛が止まりません!~断罪された令嬢は第二の人生で真実の愛を手に入れる~

sika
恋愛
社交界で名高い公爵令嬢・アイリスは、婚約者である王太子に冤罪をでっち上げられ、婚約破棄と同時にすべてを失った。 誰も信じられず国外に逃れた彼女は、名を偽り辺境の地で静かに生きるはずだった――が、そこで出会った青年将軍が、彼女に異常なまでの執着と愛を向け始める。 やがて明らかになる陰謀の真相、そして王都から彼女を探す“元婚約者”の焦燥。 過去を乗り越え、愛を選ぶ彼女の物語は、痛快な逆転劇と甘く濃密な溺愛とともに幕を開ける。

処理中です...