真面目くさった女はいらないと婚約破棄された伯爵令嬢ですが、王太子様に求婚されました。実はかわいい彼の溺愛っぷりに困っています

綾森れん

文字の大きさ
26 / 44
第三幕:再び動き出した王族暗殺事件

26、アルはついているのか、いないのか、それが問題だ!

しおりを挟む
「その、アルベルト様のお体は……」

 しばしの沈黙が流れる。私は耐えられなくて、発泡白葡萄酒プロセッコの注がれたグラス表面に浮き出た水滴を指で撫でた。

 途端にアルが、ぷっと吹き出した。

 驚いて彼の顔を見る私の髪を撫で、

「ごめんごめん」

 謝りながらも白い歯を見せて笑っている。

 どんな顔をしてよいのか分からず視線を落とす私に、彼は軽い調子で答えた。

「取ってないよ。大事なものの話だよね?」

 仮面の奥を盗み見ると、アルの瞳はいたずら好きな少年のように輝いている。長い指先で、首に巻いたスカーフをずらして見せた。

「ほら、喉仏もあるだろう?」

 いつもの中性的なコントラルトの声に、私は狐につままれたような顔をしていたのだと思う。

 彼は優雅にスカーフを結び直すと、仮面を黒髪の上に持ち上げながら、私の耳元に唇を寄せた。

「俺が五体満足な男でも愛してくれる?」

 甘くささやいた彼の声は、低めのテノールだった!

 初めて聞いた彼の地声に、私は息を呑む。

「その声、どうやって――」

「テクニックだよ」

 まるで種も仕掛けもありませんと語る奇術師のように両手を広げた彼の声は、また中性的な美声に戻っている。

 私はまじまじと、彼の端正な顔を見つめてしまった。室内から漏れる明かりに照らされる彼の横顔に、髭を剃ったあとはない。不躾ぶしつけな私の視線に気づいた彼は、手のひらでさらりと自分の頬を撫でた。

「これでも苦労しているんだよ? 髭は抜かなきゃいけないし、必ず喉元を隠す服装をして―― 高い声で話すのはもう慣れたけど」

 確かに彼は、カストラートにしては精悍な印象だった。だがカストラート歌手が皆ふくよかというわけでもない。彼らの外見的な特徴は傾向であって、必ず全員に当てはまるものではないのだ。

 声に関しても、チョッチョのように軽いソプラノから、重くて迫力のあるアルト歌手まで様々だ。結局声とは、神様がひとりひとりにお与えになった楽器で、同じものはひとつとしてない。

 だが変声期を迎えたあともアルトの美声を保ち続けるのは、努力の賜物だろう。

「すごいわ。あなたってやっぱり素晴らしい歌手なのね」

 だが彼は少し寂しそうに肩をすくめた。

「歴史的には、カストラートよりファルセッティストのほうが長い伝統を持っているんだ」

 彼が言う通り、外科手術が発達する前は、裏声を磨いた男性歌手が少年たちと共に聖歌隊を支えていた。

「でもファルセッティストの声にはしばしば欠陥がある。二十台も後半になると段々声が重くなって、美しい音色を失っていく歌手も多いんだ」

 彼は静かに打ち明けた。

「そんな……」

 私はショックを隠せない。彼の天鵞絨ビロードのようになめらかな歌声が近い将来、失われてしまうかも知れないなんて。

「だから二十歳で正体を明かすことに――?」

「父上はそんなことまで考えていないだろうな。政局の安定や跡継ぎのことを考慮しただけさ。でも俺が父に同意したのは、期限付きの声かも知れないってことが理由だ」

 私が暗い顔をしているのに気付いた彼は、優しい笑みを浮かべた。

「もちろん人によるんだ。俺は三十になっても四十になっても歌えるかもね。だけど聖歌隊の先輩たちの中にはコントラルトの音域を維持していても、声質はカストラート歌手の軽やかな音色とはかけ離れていく人もいる」

 落ち着いた声で話す彼の横顔に落胆の色はない。むしろ爛々と輝く瞳で、祭りに沸く夜の街を見つめている。運河の上、街の灯りと月明かりが織りなす金と銀の絨毯を眺めながら、言葉を続けた。

「だから俺は作曲の勉強にも力を入れてきたんだ。父上が二十歳はたちなんて期限を言い出したのは去年のことだから、俺は音楽家として独り立ちしないといけないと思っていたからね」

 未来を見据える彼の視線を追って、私は運河の先を見つめた。橋を渡る仮装した人々が、月明かりを浴びて影絵のように浮かび上がる。建物に切り取られた夜空を見上げれば、月は昨日よりさらに満ち、満月へと近づいていた。

「大聖堂の方々は、アルの正体を知っているの?」

 音楽家として研鑽を積む王子を、聖職者たちが陰ながら支えているのかと予想したが、アルは首を振った。

「ほとんど知らないんだ。リラのお兄さんが大聖堂の音楽監督に手紙をくれたけど、『手帳の内容について話し合いたい』ってなんのことかと不思議そうに尋ねられたよ」

 彼は楽しそうに笑いながら、

「俺が持ち歩いてる対位法のノートだとごまかしたんだ。リラお嬢様は作曲技法に興味があるようですってね」

 秘密を明かしたあとで、小声で続けた。

「知っているのは大教主様と三人の護衛だけだよ」

 十年前、王宮の近衛兵が三人選ばれ、神官として幼い王子の身辺警護をするために同行したのだと言う。

「彼らも神学なんて収めてないし、俺と一緒に苦労したんだ」

「アルが苦労ですって? もとから素晴らしい歌声だったじゃない」

 私は十年前、宮殿の中庭で聴いた彼の歌声を思い出す。

「俺が苦労したのは庶民の子供らしい振る舞いや言葉遣いの方さ」

 確かに今でも彼のたたずまいからは気品があふれ出ている。

「父と側近たちは俺を守るために、大叔父である大教主様がいらっしゃる教会にあずける計画を立てた。生きているのは第二王子ジルベルトだと発表することで、教会に十歳の孤児が現れても怪しまれないよう工夫したんだけどね」

 彼は苦笑を浮かべながらプロセッコで喉を潤した。

「俺の言葉遣いや食事の作法なんかが貧しい家の子供とかけ離れていたせいで、危なかったんだよ」

 第二王子を失った毒殺事件のあと、国王陛下とごく少数の側近がどうやって第三王子を守るか話し合ったから、父含め関係者は離宮に拘束されたのだろう。

「そこまでして守られた貴重な方を国外に連れ出すなんて私、王国に背を向ける大罪人だわ」

 両手で自分の肩を抱き、私は身震いした。劇場からは華やかなヴァイオリンの音色が漏れてくる。オペラを楽しむ大勢の人々を裏切るようで、私は恐れおののいた。

 だがアルカンジェロはカタンと音を立てて椅子ごと近づくと、私を力強く抱き寄せた。

「ロムルツィア王国は国民のためにある。そして国王の仕事は民を幸せにすること。愛する女性ひとり幸せにできずに何が王子だ」

 力強い声にドキッとして、私はすぐ近くに迫った彼の美しい顔を見上げた。室内から漏れる黄色い灯りが彼の白磁の肌に繊細な陰影を施し、古代の優雅な彫刻のようだ。

「リラ、君には幸せになる権利がある。王国や家のために自分を犠牲にする必要なんかない」

 アルカンジェロは大きな手のひらで、私の両手を包み込んだ。

 私の脳裏に、新しい婚約者となったマリーニ子爵から受け取った手紙の内容がよみがえる。子爵は一言も、私を幸せにするとは書いていなかった。

「私は自分の幸せを選択していいの?」

 子供の頃からずっと、好きな歌手につぎ込む母を軽蔑し、王国のために尽くす厳しい父に憧れてきたのに、私も自分の情熱を見つけてしまった。

「当たり前だ。君は幸せになっていいんだよ、リラ。自分で自分の足を縛らないで」

 今まで私は、この社会の伝統や規則を守ることを優先してきた。社会のルールと自分が幸せになるためのルールが違うなんて、誰も教えてくれなかった。

 アルカンジェロは、私の手を強く握ったままほほ笑んだ。

「ほんの少し、勇気を出すだけでいいんだ」

 私は両手を固く握り合わせ、うなずいた。

「しあさって、真夜中のミサが終わったら、聖堂の裏庭にある礼拝堂へ行けばいいのね?」



─ * ─



しがらみも迷いも絶ち切って、逃避行を決意したリラに次回、最大の障壁が立ちはだかります!
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】幼い頃からの婚約を破棄されて退学の危機に瀕している。

桧山 紗綺
恋愛
子爵家の長男として生まれた主人公は幼い頃から家を出て、いずれ婿入りする男爵家で育てられた。婚約者とも穏やかで良好な関係を築いている。 それが綻んだのは学園へ入学して二年目のこと。  「婚約を破棄するわ」 ある日突然婚約者から婚約の解消を告げられる。婚約者の隣には別の男子生徒。 しかもすでに双方の親の間で話は済み婚約は解消されていると。 理解が追いつく前に婚約者は立ち去っていった。 一つ年下の婚約者とは学園に入学してから手紙のやり取りのみで、それでも休暇には帰って一緒に過ごした。 婚約者も入学してきた今年は去年の反省から友人付き合いを抑え自分を優先してほしいと言った婚約者と二人で過ごす時間を多く取るようにしていたのに。 それが段々減ってきたかと思えばそういうことかと乾いた笑いが落ちる。 恋のような熱烈な想いはなくとも、将来共に歩む相手、長い時間共に暮らした家族として大切に思っていたのに……。 そう思っていたのは自分だけで、『いらない』の一言で切り捨てられる存在だったのだ。  いずれ男爵家を継ぐからと男爵が学費を出して通わせてもらっていた学園。 来期からはそうでないと気づき青褪める。 婚約解消に伴う慰謝料で残り一年通えないか、両親に援助を得られないかと相談するが幼い頃から離れて育った主人公に家族は冷淡で――。 絶望する主人公を救ったのは学園で得た友人だった。   ◇◇ 幼い頃からの婚約者やその家から捨てられ、さらに実家の家族からも疎まれていたことを知り絶望する主人公が、友人やその家族に助けられて前に進んだり、贋金事件を追ったり可愛らしいヒロインとの切ない恋に身を焦がしたりするお話です。 基本は男性主人公の視点でお話が進みます。 ◇◇ 第16回恋愛小説大賞にエントリーしてました。 呼んでくださる方、応援してくださる方、感想なども皆様ありがとうございます。とても励まされます! 本編完結しました! 皆様のおかげです、ありがとうございます! ようやく番外編の更新をはじめました。お待たせしました! ◆番外編も更新終わりました、見てくださった皆様ありがとうございます!!

「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い

腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。 お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。 当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。 彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。

無一文で追放される悪女に転生したので特技を活かしてお金儲けを始めたら、聖女様と呼ばれるようになりました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
スーパームーンの美しい夜。仕事帰り、トラックに撥ねらてしまった私。気づけば草の生えた地面の上に倒れていた。目の前に見える城に入れば、盛大なパーティーの真っ最中。目の前にある豪華な食事を口にしていると見知らぬ男性にいきなり名前を呼ばれて、次期王妃候補の資格を失ったことを聞かされた。理由も分からないまま、家に帰宅すると「お前のような恥さらしは今日限り、出ていけ」と追い出されてしまう。途方に暮れる私についてきてくれたのは、私の専属メイドと御者の青年。そこで私は2人を連れて新天地目指して旅立つことにした。無一文だけど大丈夫。私は前世の特技を活かしてお金を稼ぐことが出来るのだから―― ※ 他サイトでも投稿中

【完結】虐げられて自己肯定感を失った令嬢は、周囲からの愛を受け取れない

春風由実
恋愛
事情があって伯爵家で長く虐げられてきたオリヴィアは、公爵家に嫁ぐも、同じく虐げられる日々が続くものだと信じていた。 願わくば、公爵家では邪魔にならず、ひっそりと生かして貰えたら。 そんなオリヴィアの小さな願いを、夫となった公爵レオンは容赦なく打ち砕く。 ※完結まで毎日1話更新します。最終話は2/15の投稿です。 ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています。

結婚前夜に婚約破棄されたけど、おかげでポイントがたまって溺愛されて最高に幸せです❤

凪子
恋愛
私はローラ・クイーンズ、16歳。前世は喪女、現世はクイーンズ公爵家の公爵令嬢です。 幼いころからの婚約者・アレックス様との結婚間近……だったのだけど、従妹のアンナにあの手この手で奪われてしまい、婚約破棄になってしまいました。 でも、大丈夫。私には秘密の『ポイント帳』があるのです! ポイントがたまると、『いいこと』がたくさん起こって……?

辺境の侯爵令嬢、婚約破棄された夜に最強薬師スキルでざまぁします。

コテット
恋愛
侯爵令嬢リーナは、王子からの婚約破棄と義妹の策略により、社交界での地位も誇りも奪われた。 だが、彼女には誰も知らない“前世の記憶”がある。現代薬剤師として培った知識と、辺境で拾った“魔草”の力。 それらを駆使して、貴族社会の裏を暴き、裏切った者たちに“真実の薬”を処方する。 ざまぁの宴の先に待つのは、異国の王子との出会い、平穏な薬草庵の日々、そして新たな愛。 これは、捨てられた令嬢が世界を変える、痛快で甘くてスカッとする逆転恋愛譚。

【完結】魔力がないと見下されていた私は仮面で素顔を隠した伯爵と結婚することになりました〜さらに魔力石まで作り出せなんて、冗談じゃない〜

光城 朱純
ファンタジー
魔力が強いはずの見た目に生まれた王女リーゼロッテ。 それにも拘わらず、魔力の片鱗すらみえないリーゼロッテは家族中から疎まれ、ある日辺境伯との結婚を決められる。 自分のあざを隠す為に仮面をつけて生活する辺境伯は、龍を操ることができると噂の伯爵。 隣に魔獣の出る森を持ち、雪深い辺境地での冷たい辺境伯との新婚生活は、身も心も凍えそう。 それでも国の端でひっそり生きていくから、もう放っておいて下さい。 私のことは私で何とかします。 ですから、国のことは国王が何とかすればいいのです。 魔力が使えない私に、魔力石を作り出せだなんて、そんなの無茶です。 もし作り出すことができたとしても、やすやすと渡したりしませんよ? これまで虐げられた分、ちゃんと返して下さいね。 表紙はPhoto AC様よりお借りしております。

【完結】公爵令嬢の育て方~平民の私が殿下から溺愛されるいわれはないので、ポーション開発に励みます。

buchi
恋愛
ポーシャは、平民の特待生として貴族の学園に入学したが、容貌もパッとしなければ魔力もなさそうと蔑視の対象に。それなのに、入学早々、第二王子のルーカス殿下はポーシャのことを婚約者と呼んで付きまとう。デロ甘・辛辣・溺愛・鈍感コメディ(?)。殿下の一方通行がかわいそう。ポジティブで金儲けに熱心なポーシャは、殿下を無視して自分の道を突き進む。がんばれ、殿下! がんばれ、ポーシャ? 

処理中です...