アッチの話!

初田ハツ

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波多野愛実はシンプルを好む の巻

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※トリガー警告
作中の展開として、女性差別の描写があります。


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波多野愛実はシンプルを好む。
機械は目的の動作を実行するための、最もシンプルな構造を目指して作られる。必要以上の複雑さは、欠陥を生み出すもとである。
愛実は、人生もそうありたいと考えている。とはいえ、最もシンプルな構造を目指しても、機械の内部を見た多くの人は「複雑な構造だ」と言うだろう。それを避けようとは思わない。シンプルな機構を目指すあまりに、目的の動作をできなくなる機械なんて本末転倒だ。友情や愛情や、楽しむことを無駄と切り捨てたりはしない。しかし、複雑さは、必要最小限を目指すべきだ。
そのために、愛実がまず自分の生き方から取り除こうと思ったのは、「悪意」だった。誰かを陥れたり、意地悪をしたり、差別したりすることは、不必要な複雑さを人生に加える。「善意」はほとんどの場合、「悪意」よりシンプルなのだ。
そんな指針で生きる愛実に対して、よく知らない人は、「いい子ぶっている」と言ったりもする。仲良くなって口の悪さがバレると、それが「お人好し」に変わったりもする。しかし、愛実は自分を生まれつきの善人だとは思っていない。ただシンプルであることを、自ら選んでいるだけなのだ。

檸檬以外の四人で食事をした翌日、今度は五人でランチすることになった。マグリットの絵のような白雲の浮かぶ青空と、あたたかな陽気。混みあうカフェテリアはやめて、屋外のテーブルにコンビニで買ったものを持ち寄って食べることにする。構内の並木道になっている通り沿いにいくつか置かれているテーブルは、ちょうど木陰になって雰囲気も良い。これからいつも、晴れた日はここで食べようか、などと言い合う。
「それで檸檬、昨日は高坂さんとどうだった?」
シーチキンおにぎりの包装を剥きながら問う愛実に、檸檬は「はあ?」と投げ返す。
「だから俺はー、高坂さんの顔が好きなだけー」
檸檬はカップ麺をつつきながら、ベッと舌を出してみせる。
「檸檬くんも、エミーから昨日のこと聞いたんだって?」
大地が尋ねる。昨夜のうちに、愛実が映見と檸檬と三人のライングループを作った。檸檬が映見の話を聞いて「なんだ同類かよ」と喜んでから、一気に二人も親しくなって、双方、大地と冬人の仲を後押ししてやりたいと思っていることも確認できた。
「うん。冬っちの誤解がとけて良かったな」
檸檬がニヤッと笑って冬人に目をやるけれど、冬人は目の前のノリ弁を見つめて、誰の声も耳に入っていないようだった。
「冬っち? おーい冬っち!!」
やっと気づいた冬人が、みんなの方に視線を戻す。
「あ、ごめん聞いてなかった」
「何か、元気ない? 具合悪いの?」
映見が心配そうな顔で問う。冬人が首を振って「大丈夫」と言いかけた時だった。
「おお! 波多野ちゃん! ちょうどよかった」
大きな声で近づいてきた二人の男は、機工科の先輩たちだった。それも、檸檬が関わっている運営委員の人たちだ。
「サポート係のこと、レモンちゃんから聞いた?」
愛実は意味が分からず、「え、なんですか?」と問い返す。
「おーいレモン! 波多野ちゃんに話してって頼んだだろ」
檸檬は、微妙な笑みを浮かべた。
「……あの、これって、なんで全体連絡じゃないんですか?」
彼らは途端に、気まずそうに顔を見合わせる。
「あー、まあ、な……」
「大っぴらにやるとさ、高坂あたりがうるさいじゃん」
檸檬の表情に、一瞬ピリッと緊張感が加わる。
「ていうか、このご時世、学内に堂々と〝女の子募集〟なんてビラ貼れないだろ?」
「え? なにか隠れてやってるってことですか?」
聞いたのは映見だった。先輩たちは「いやいや……」などと言って濁す。
「とにかくさあ、高坂って一年からは人気だけど、上からは結構目付けられてるから、あんまりあいつの正論に従わない方がいいぞ」
「……え?」
その小さな一声だけでも、檸檬が普段あまり出さない険しいトーンに、愛実と冬人は気付く。
「ま、波多野ちゃん、簡単な手伝いだから、その気になったらここに連絡して!」
そう言って愛実に、連絡先が書かれた名刺大の小さな紙を渡すと、彼らは去っていった。言い知れぬもやもやした空気が、五人の間に漂う。
「……夏休み前に、運営委員のOBOGと、教授たちの懇親会があるらしくて」
檸檬が、ため息交じりに切り出した。毎年、懇親会での配膳や給仕をするために、現役の運営委員に加えて、学科の女子が数名「サポート係」として手伝いに駆り出されるのだという。
「え? なんで女子だけ?」
映見が不思議そうな顔で問う。
「毎年どれだけ可愛い女子を揃えられるかで、先輩たちへの面子を保ってんだとよ」
「……はあ?」
映見の声は、今度は完全に怒りを含んだ。
「俺もそんなクソみてえなこと、まなちんに頼めないと思ったから言わなかったんだけど。あの人たちから言われただけで、公式の連絡でもなかったし」
檸檬も苦い表情だ。
しかし、愛実はどこか、諦めの気持ちで二人の会話を聞いていた。この手のことは、今までにもあった。自分自身がどれだけシンプルでいたいと思っていても、女子だからとか、容姿がどうだからとかいう、曖昧で面倒な複雑さを持ち込んでくる人は、必ず現れる。
テーブルに淡く落ちる木漏れ日をなんとなく目で数えながら、愛実は焼きたらこおにぎりを剥きはじめた。
「檸檬、ありがと。先輩たちには私からちゃんと断っとくわ」
呟くように言う愛実の片手を、映見の手が不意に、ぐっと引き寄せた。
「愛実、自分だけが耐えればいいって考えないでね。嫌なことを嫌っていうのはエネルギーがいるよ。友達がそばにいるのを忘れないで」
愛実は映見を見つめ返す。木漏れ日は映見の髪や肩にも落ちて、まるで映見自身が、淡く光っているように見えた。
「それにこれって、今まで何人もの女子がずっとぶつけられてきたことだよね。愛実の個人的なトラブルじゃない」
それは新鮮な驚きだった。現在進行形で、愛実と同じように声をかけられた機工科の女子もいるはずだ。愛実個人が複雑さを回避したとしても、学科自体には、シンプルではない、不要な機構が残っている。
よくあることだと慣れて、見過ごしてきてしまったものの中に、自分自身の生き方と矛盾することがたくさんあったのかもしれない。愛実は、春の陽に包まれる映見の姿に、目を細めた。

運営委員の仕事を覚えるために、ボランティアの一年は、先輩たちについてさまざまな作業を一緒に行う。今日の活動は、広報用の立て看板の制作と、OBOG懇親会の招待状発送作業の二手に分かれた。
檸檬は後者に回されて、ひたすら用意された紙を決まった順序で封筒に入れていく。作業用に借りた教室で、長机をなんとなく輪になるように向き直させて座り、先輩たちは雑談で適度に作業の気を紛らわせる。檸檬たち一年も、その会話を聞いて、時々笑い声や、合いの手を加えたりしていた。
「細井さん」
声を聞いただけで、すぐ誰だかわかった。目の端にギリギリ映るくらいの角度でこっそり振り返ると、やはり、高坂が歩いてくるところだ。
「倉庫から法被出してくるんで、一年ひとり連れてっていいですか」
細井は手を動かしたまま「おう、適当に持ってけ」とあごで指し示す。
「檸檬」
高坂から突然名前を呼ばれて、檸檬は思わず「へっ?」と声を上げる。
「ちょっと倉庫まで付き合ってくれ」
檸檬の脳がその言葉を理解する前に、細井が「おーい! レモンちゃんかよ!」と喚いた。
「俺のお気に入りだぞ?」
と細井は言うが、初耳である。
「細井さん、気に入ったやつすぐいじめるでしょ。ほら、檸檬、避難だ行くぞ」
高坂は笑いながらそう言って、檸檬は促されるままに立ち上がった。二人が教室を出ていく背後で、細井が「いじめてないもん」とか言って、同級生たちにあしらわれている。檸檬は緊張と嬉しさで、自分がどういう顔をしているかわからなかった。
「あの、法被って何に使うんですか?」
歩きながら、高坂に尋ねる。
「ああ、行事や広報の時なんかに、揃いの法被を着るんだよ。近いうち使うことになるから、クリーニングに出すんだ」
檸檬は「へえ」と頷いた。そういうのは、なんとなく工学系っぽい伝統の気もする。……と同時に、会話がそこで止まってしまったことに気付いた。しまった、もうちょっと今のネタで広げられなかったのか。話の糸口を探そうとするけれど、なかなか思いつかない。
「檸檬って……」
そう思ったら、高坂の方から話しかけてきた。
「名前の由来は、梶井基次郎か?」
意外な質問と、それが合っていたことに、同時に驚いた。
「えー! あたり! よくわかりましたね!」
「そうなのか? ご両親は、文学好きかな?」
言った直哉自身も意外そうだ。檸檬はむっと鼻にしわを寄せた表情を作る。
「父親ですよ。ただの町工場の親父のくせに、妙に文系に憧れがあるみたいで。一番好きな小説だって言うんですけど、なんか気持ち悪い話だし、普通子どもの名前にするかって思いますよね。俺がせっかく工場継げるように工学系に進んだのに、あいつなんて言ったと思います?」
口をとがらせる檸檬を面白そうに見ながら、高坂は「なんて?」と返す。
「文学少年になってほしかったのに、だってさ」
高坂は吹き出すように笑う。
「面白い親父さんだな」
「面白いどころじゃないっす、変人ですよ。俺が初めて男と付き合った時なんて、まじで酷かったっすから」
途端、高坂は真顔になった。
「反対されたのか?」
「そうじゃなくて」
檸檬はかぶりを振る。
「俺がその話してる間、ずっとふざけてたんですよ。サムい親父ギャグとか連発して」
高坂もさすがに、しばし言葉を失ったようだ。
「それは衝撃的だな……」
「母さんが言うには、子どもの恋愛話聞くのが照れくさかったんじゃないかって。にしてもアホすぎですよ」
不満気な檸檬に、高坂は苦笑しながら、
「ご両親と仲がいいんだな」
と言う。「ええ?」と返しながらも、檸檬も思わず笑顔になる。高坂とこんなふうに色々なことを話せるなんて、思ってもみなかった。しゃべりながら歩いていたら、あっという間に倉庫に着いてしまう。
「倉庫」というのは、今は使われていない研究室を備品置き場にしている部屋だ。普段は施錠されていて、学科事務室で管理している鍵を、二年以上の運営委員だけが使用できることになっている。
「実は俺も、文学由来の名前なんだ」
倉庫の鍵を開けながら、高坂が言う。
「高坂さんも?」
後ろで大人しく待ちながら、檸檬は問い返した。
「母が志賀直哉のファンで」
「しがなおや……」
ピンときていない表情の檸檬に、「授業とかで聞いたことないか?」と問いながら、高坂はドアを開けて、檸檬に先に入るよう促す。
さすがに先輩に開けてもらったドアを通るのは気が引けて、先を譲ろうとしたら、にやりと微笑んだ高坂にがしっと肩を抱かれた。高坂の体に押されるようにして、二人で倉庫に入る。ドキドキでめまいがしそうな檸檬の顔を覗き込んで、突然高坂は、はっとしたように手を離した。
「……触られるの、嫌だったか?」
檸檬は慌てて高坂に向き直る。
「いえっそんなこと! ちょっとびっくりしただけ……」
「スキンシップは好き嫌いあるからな、嫌だったら遠慮なく言ってくれ」
檸檬は気遣う表情の高坂に、ぶんぶんと首を横に振る。
倉庫には、スチール製の棚が並んでいて、すべてを把握できているのか怪しいようなたくさんの物品が収納されていた。部屋全体が、少し埃っぽい匂いがする。
「それより、高坂さんのお母さんも、文学オタクなんですか」
気を取り直すように檸檬が問うと、高坂は、少し安心したような顔になる。
「うん、まあ、作家をやってたりもする」
「えっうちの親父とレベチじゃないですか! 俺も知ってる本とかあるかな?」
「去年、『越境の楽園』っていう作品が……」
「えっ!?」
檸檬は目を丸くした。
「ドラマでやってたやつですよね!?」
すげー! と興奮する檸檬を、高坂は棚を物色しながら「君も法被探してくれよ」とたしなめる。檸檬はえへへ、と笑って、自分も高坂の横で棚を漁り始める。
「高坂先輩のお母さん、まじですごい人なんですね」
そう言った檸檬に振り向いて、不意に、高坂が瞳の強い笑みを見せた。
「その呼び方」
棚に向かって二人並んでいたから、こちらを向かれると、急に顔と顔の距離が近くて、戸惑う。
「せっかく同じような由来の名前なんだし……俺、書いて渡したよな」
よくわからないままに、どぎまぎしている檸檬に、高坂が告げる。
「檸檬も俺のこと、下の名前で呼んでくれたら嬉しい」
心臓が高鳴って、このまま気を失うんじゃないかと思う。
「……直哉先輩」
消え入るような声で名前を呼ぶと、満足そうな表情が返される。──これは本格的にまずいことになった、と檸檬は思う。
いつも遊びの付き合いばかりしているのは、本気になった時の自分がどれだけ恋に盲目か知っているからだ。遊びじゃなく檸檬に本気になってくれる人なんて今までいなかったし、高坂が初めてのその相手になってくれるなんてとても思えない。
ああ、まずい。これはまずい。好きになりたくないのに。
でも、名前を呼べたことが、たまらなく嬉しい。

午後一時。愛実が大学最寄り駅の前に到着した時、すでに映見はそこにいた。
「エミー! 待った?」
駅前の少し広場のようになったところの端で、白いガードレールにもたれて映見は立っていた。ジーンズに、長袖のパフスリーブっぽいゆったりとしたベージュのトップス。愛実がベージュのワンピースにデニムシャツを羽織っているので、偶然にもカップルコーデのようになっている。映見が顔を上げて笑顔を見せる。
「ううん、私も今来た」
会話までデートの待ち合わせみたいになって、愛実は笑ってしまった。今日は日曜で授業はないけれど、一緒に大学周辺を散策して、日用品の買い物をすることを愛実が提案した。映見の住む大学付属の学生マンションも、キャンパスに隣接していてこのすぐ近くだ。
「今日は来てくれてありがとう」
お礼を言う映見に、愛実は手をぱたぱたと振る。
「いいのいいの、私今日、すごく楽しみだったんだ」
映見は「そう?」と少し首をかしげて愛実の顔を覗く。
「だって、休日に遊ぶの初めてじゃん」
愛実が言うと、映見は黙って嬉しそうに微笑んだ。いつもはっきり自己主張するようでいて、こういう時の映見には、どこか控えめな雰囲気があると愛実は思う。
映見には事前にラインで、買いたい物を聞いておいた。近くにスーパーがあるのは知っていたので、食料品に関しては問題ない。小さめの店舗だけれど消耗品、生理用品もそこで揃う。ただ、日用雑貨だと、そこでは揃わない物もけっこうある。たとえば掃除用具や、ゴミ箱。ほかには、化粧水や乳液などの基礎化粧品。電気ケトルと、延長コード、携帯の充電コードが買えるところも知りたいという。
愛実がまず行こうと提案したのは、ドラッグストアだ。大学やマンションの徒歩圏内にはあるけれど、大通りから一本裏手に入ったところにある店なので、映見は知らなかった。通りには、店の外までセール品のワゴンが並んでいる。
「わー、USにもあるよ、こういう店。こんなところにあったなんて!」
その国のなんとなくの土地勘がない状況では、街を歩いて探すのもより難しいだろうな、と愛実は思う。
「えっ、ゴミ袋とかもスーパーより安いね。今度からこっちで買おう」
店に入ると同時に、映見は買い物かごを持って、がっつり買う気満々のようだ。
「このスキンケアクリーム、日本にもあるんだ!」
次々に感動を口にしながら、棚を物色していく。
「わーん、スナックもこっちの方が充実してるね。愛実、こんないいところ教えてくれてありがとう!」
「あはは、そんなに感動されるほどのことでは……」
愛実は苦笑するけれど、映見は、
「ダメ、ちゃんと私の感謝を受け取って」
と言って、かごを持っていない片腕で愛実にハグする。「わかったわかった」と言いながら、愛実も嬉しい気持ちになる。
ドラッグストアの後は、こちらも徒歩圏内の百円ショップに行き、その後駅を一つ移動して、家電量販店に案内する。三軒回り終わる頃にはもう夕方で、二人ともかなり脚がくたくただった。どこか店に入って休むことにする。
ファッションビルの一階に入っているけれど、チェーンではなさそうなこぢんまりとしたカフェで、キャロットケーキというメニューに二人とも引き寄せられた。愛想が良くも悪くもない店員の「お好きなお席にどうぞー」という声に従って、細長い店内の奥の、ソファと椅子の二人席に座る。愛実はブレンドコーヒー、映見はカフェラテと、それぞれキャロットケーキを頼んだ。
「でもほんと、愛実がいてくれてよかったあ。こんなことしてくれる人、なかなかいないよ」
「そうかな?」
映見にひたすら感謝されて、愛実は少し照れくさい。キャロットケーキは生クリームがちょこんと乗った橙色の焼き菓子で、口に入れるとざっくりした生地の食感に、にんじん独特の甘みが広がった。
「私、ほんとラッキーだよ。愛実に出会えたし、それに大地も冬っちも檸檬も……日本でああいう人たちと、こんなに早く知り合えると思ってなかったな」
愛実は笑う。
「ああいう人たちって?」
「なんか、みんなぜんぜん偏見ないでしょ。オープンにした後、あんなにすぐ別の話題に進んだ人たち、向こうでもあんまりいなかったよ」
映見も笑う。
「カフェミーティングの時みたいに酷いのはさすがに多くないけど、やっぱり『どういう子がタイプなの?』とか、『映画と同じような感じ?』とかいろいろ聞かれたりするもん。みんなの反応、ちょっと珍しかった」
「まあ、ほとんどみんな当事者みたいなものだし……」
そう言って、愛実は少し、宙を見る表情になる。コーヒーカップの白い取手を、無意識に指でなぞる。
「……私も正直、男が好きか、女が好きかはわからないかも」
「そうなんだ」
映見はただ、そう答えた。
「うん……どっちもちゃんと好きになったことないんだ」
映見はうんうんと頷く。愛実は不意に、思いついたように話し出した。
「あのさ、鳥って高圧電線に止まってても、感電しないんだよね」
「え?」
映見は何の話かわからず、きょとんとする。愛実はケーキに刺そうとしていた右手のフォークを止めて、話を続けた。
「たとえば人が、地面に立った状態で電線に触ったら、人体を伝って地面に電気が流れて感電するんだ。でも鳥は、両脚で電線に止まってるから、電圧差が生まれなくて電気の行き先がない。だから感電しないの」
「へえ……」
意図はつかめないけれど、映見は知らなかった話に感心する。
「ああ、だからカラスが電線に止まってても、平気なんだ」
「あ、でも街中によくある低圧線はコーティングされてるから、人が触っても基本的には平気。鉄塔とかの高圧線や、鉄道架線の場合ね」
「ふうん……」
映見は相槌を打ってから、はて、と首をかしげる。この話は何のためだろう? 映見が疑問に思っているのに気付いて、愛実も破顔する。
「ごめん、いきなり。いや、なんかね、私も世間並みに、いまだに恋したことないなんて自分って何か足りないのかなとか、子どもっぽいのかなって思う気持ちは何割かあるんだ」
映見は黙って、気遣わしげに愛実の顔を覗く。
「……でも、あとの何割かは、私は鳥みたいなんじゃないかなって思ってるんだよね」
「鳥?」
映見が目を見開いた。
「大抵の人は、その人にとっての高圧電線みたいな相手と出会ったら感電するけど、私は何かどっかが違ってて、鳥みたいに感電しないタイプなんじゃないかって……それなら、それでいいのかもって……」
映見は、笑顔になった。
「私、そういう考え方ができる愛実って素敵だと思う」
愛実は、初めて映見に会った時、どうにも言語化できない印象を抱いたことを思い出していた。したたかなタイプと誤解されそうな言動が、愛実にはそうは見えなかった理由が、わかった気がする。この人は、ピュアなのだ。
「エミーも……私が気付かなかった考えに気付かせてくれたよ」
カップを置いて言う愛実に、映見は、口にフォークを咥えたまま、不思議そうに目を丸くする。その表情に微笑みながら、愛実は告げる。
「この間のサポート係のこと、単に断るんじゃなくて、もうちょっと何かできないかなって考え始めたんだ」
映見は、フォークを口から離して、驚きの表情で愛実を見る。
「何かって?」
「実は、檸檬が高坂先輩に聞いてくれたんだけど……」

檸檬も、高坂と倉庫で二人きりのシチュエーションにただうっとりしていただけではない。ほかの誰にも話を聞かれる心配のないその場は、例の件について聞く絶好のチャンスだった。
「あの……サポート係のことって、先輩知ってますよね」
高坂は、棚から段ボール箱を下ろそうとしていた手を止めて、檸檬を見た。
「ああ、檸檬も聞いたか……あれについては、去年からずっと揉めてるんだ」
「実は、友達が二年の先輩たちに声かけられたんです」
高坂は険しい表情になる。
「もしかして、波多野か」
檸檬は驚いた。
「わかるんですか?」
「君と波多野と田中の三人組は、一年の中で有名だろ?」
噂には疎そうだと思っていたから、自分の友人関係を高坂に知られていたことに、檸檬はなんだか気恥ずかしい感じがする。
「先輩たちや二年の間でも、意見が割れてるんだ。公にできないことをやっているのはおかしいと言っている人も、何人かいる。でもやっぱり、慣例通りやりたいって意見の方が多くてな……」
高坂は檸檬に気遣う視線を向ける。
「友達が失礼なことを言われて、申し訳なかった。やっぱりこのままにはしておけないと思うよ」
「あの……」
檸檬は、もう一つのことも気になっていた。
「声かけてきた先輩たち、直哉先輩が上から目付けられてるって言ってたんですけど、本当ですか」
高坂は少し目を見開いて檸檬を見た。スチール棚に置いた左手の指が、トントンと苛立ったように音を立てる。
「そんなこと言ったのか……しょうがないやつらだな」
「……俺、先輩が俺ら一年の盾になってくれるみたいなのも、やなんです。心配なんです」
檸檬は言いながら、自分のシャツの裾を握る。こんなことを言ってしまっていいのか、内心どきどきしていた。けれど、おずおずと目を上げると、見下ろす優しい高坂の瞳があった。
「ありがとう。でもこれが、意外と大丈夫なんだ」
檸檬は首をかしげる。
「今の委員長が、三年の細井さんだろ」
運営委員は、四年次はほぼ引退状態の自由参加になり、三年が委員長を務める。その今年の委員長が、細井だった。
「あの人が俺を立ててくれてるから、さほどまずい立場にはならないんだ」
「えっ」
檸檬は意外さに、思わず声を上げた。
「驚いたか?」
高坂はにやりと笑う。
「まあ……ちょっとイメージと違うというか……」
「セクハラ・パワハラのイメージ?」
高坂にずばり言われて、檸檬は苦笑する。
「……ほんとはいい人なんですね」
ちょっとまだ解せないまま見上げると、高坂は棚の方に向き直りながら、「うーん」と唸る。
「まあ、良くも悪くも、悪気のない人だよ。誰かが嫌な思いをすることは、実は、少しも望んでないらしいんだ。委員内でのいじめや誹謗中傷は絶対許さないよ、あの人は」
言いながら、高坂は段ボール箱を下ろす。檸檬も手を動かすのを再開しながら、複雑な気持ちで、「へえ……」と返す。
「でも、ハラスメントする人がいい人と言えるかはわからないな」
きっぱり手のひら返しする高坂に、檸檬は笑ってしまった。高坂も笑う。
「サポート係の件では、細井さんは立場をはっきりさせてないんだ。あの人を説得できれば大きいとは思うけど、基本的な考えはあちら寄りだろうから、難しいかもな……」
そう言ってから、再び高坂は檸檬と目を合わせる。
「でも、檸檬の友達にまで影響が及んだことだからな。何か手立てを考えてみるよ」

「うーん、なかなか難しそうな状況ね」
映見は腕を組んで、ソファに背をもたれた。愛実は頷きながら続ける。
「でも、おかしいって言ってる先輩がほかにもいるって聞いて……私、直接会って話してみたいと思ったんだけど、どうかな」
映見がぱっと顔を上げる。
「いいと思う!」
「ほんと?」
「仲間集めって大事だよ。それに、先輩はもっといろいろなこと知ってるんじゃない?」
「うん、そう思う」
愛実はほっとしたように相好を崩す。
「よかった、エミーが賛成してくれて。こういうこと初めてだから、自信なかったんだ」
映見は微笑んで、「力になれてよかった」と答える。
「ねえ、ほかにも声かけられた子がいるんじゃないかな」
映見にそう問われて、愛実は、「うーん」と視線を落とした。白い皿の上のキャロットケーキは、もう三分の一くらいになっている。
「……実は、ほかの女子にそれを聞くの、ちょっと怖いと思ってる」
あの先輩たちは「可愛い女子」を揃えようとしていると、檸檬は言っていた。つまり、声をかけられたか否かで、彼らに容姿をどう評価されたかが分かってしまうわけだ。
「そんな評価、くだらないと思うけどさ……」
「センシティブなところだよね」
映見も同意する。
しかし、その後映見は、こう続けた。
「女の子って、すぐジャッジされるよね。それでいつもバラバラにされるんだよ。ジャッジ自体を嫌がってるのは同じでも、別々に振り分けられた人たちは、お互いに話しにくくなっちゃう」

四月も半ばを過ぎ、一年のほとんどは仲の良い友達を作って、いつも一緒にいるメンバーが固まってきている。その六人組は、一年の女子だけのグループとしては、機工科内最大人数だった。それだけでも少し目立っているし、いつも賑やかな笑い声とともに姿が見えるので、なんとなく注目を集める存在である。そのグループに、愛実は狙いを定めた。
「ねえ、ちょっといいかな」
大教室の授業が終わった後、六人はそのまま座席で、あれがわからないとか、ノートを取り逃したとか口々に言い合っていた。
「波多野さん! なあに?」
特に明るくて声の大きい女子が、すぐに答えてくれる。
「こういう紙、先輩から渡された人いる?」
愛実の差し出した、あの名刺大の紙に、視線が集まる。
「あっ」
数人が同時に声を上げた。
「……ね、これって何なのかな? やっぱ断っちゃまずい?」

愛実は教室を出てすぐの廊下で、映見にラインする。
〈一年でサポート係に誘われた子、何人か見つかったよ! けっこういい話できた。エミーのおかげ。ありがと〉
映見からすぐに来た返信には、最初に金色のハートの絵文字。
〈やっぱり愛実は最高〉
その短い言葉に、愛実は口の端を上げて小さくガッツポーズした。
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