アッチの話!

初田ハツ

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ふるさととトラウマと心強さと の巻

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※トリガー警告
作中の展開として、合意のないキス、同性愛差別の描写があります。


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あの日──冬人が思い余って大地にキス以上のことをしてしまった夜に、大地は泣いていた。その背中を見て、冬人は頭が真っ白になった。もしかして、今まで自分はずっと、大地が望んでいないことをしてしまっていたんだろうか?
翌日も大地は、いつもどおりに接してくれたけれど、泣いていた大地の姿が、冬人の脳裏にずっと焼き付いて離れなかった。
だからなのだ。あんなことを言ってしまったのは。
大地はその夜も、いつものように、くっつけたベッドの真ん中で冬人の方に体を寄せてきた。その大きな瞳の甘い輝きは、いつもと同じで、キスを期待しているように見える。けれど、昨夜も大地は、この目で冬人を見ていた。この目が自分を求めていてくれるというのが、すべて思い込みだったら? これまでもずっと、自分は大地を怖がらせてきてしまったのだとしたら?
「大地」
冬人は口を開いた。
「……もし、大地がしたくないなら、キスはしなくてもいいんだよ」
大地は、大きな目をさらに大きく見開いて、冬人を見た。そして、背中に回されていた手が、ゆっくりと離れる。
「……じゃあ、いい」
小さくそう告げると、くるっと身を翻して、冬人に背を向けた。
それが、一週間ほど前の出来事。それからずっと二人は、キスも、抱きしめ合いながら眠ることもしていない。

「サポート係反対派」の先輩と、愛実の会談は、翌週の金曜日に実現した。
「檸檬」
待ち合わせ場所は、大学から十分ほど歩いたところにある昔ながらの喫茶店。ビルの二階のガラス張りの扉を押して愛実と檸檬が入ると、奥の方の席から、高坂が声をかけた。
大学の目の前にカフェやファーストフードが乱立しているので、これくらいの距離でも、関係者に出くわす確率は低いだろうと踏んだ。愛実はブレンド、檸檬はロイヤルミルクティーを注文する。高坂はすでにブレンドを頼んでいた。
「まなちんっていつもコーヒー飲んでるよね」
檸檬が言う。
「うん、わりと中毒」
「胃もたれしないの」
そんな何気ない会話をする二人に、
「本当に仲がいいんだな」
と、不意に高坂が声をかけた。二人は高坂の顔を見る。
「先輩、檸檬と私はただの友達ですよ」
にんまり微笑んでそう答える愛実に、檸檬は「何言ってんだよ」と顔をしかめる。その時、
「あ、もうみんな揃ってるね」
声のした方を振り向くと、きりっとした印象の女性が、入口からこちらに歩いてくるところだった。

「私が一年の時は、委員会の中では普通に全体連絡してたんだよ」
三年の渡会わたらいというその女性は、エスプレッソを一口飲んでから、そう切り出した。
「でも当時の先輩たちも、『今時大っぴらに女子募集とは言えないから、各自周りの女子に声かけてくれ』って言ってた」
高坂も初めて聞く話だったようで、「へえ」と頷く。
「去年はもう全体連絡はなくなってたから、先輩たちの年と、俺たちの年で変わったんですね」
「それがさ、たぶん私が原因」
渡会の言葉に、皆思わず「えっ」と声が出る。
「いや私、その場で普通に聞いちゃったんだよね。だったら男女とも募集すればいいんじゃないですか? って」
「そしたら、どうなったんですか?」
愛実が身を乗り出す。
「苦笑」
その短い一言の意味を、皆一瞬読み取れずに、きょとんとしてしまう。
「何言ってんだこいつって顔されて、それで終わりよ。でも、次の年は、全体連絡じゃなくなってた」
「すげー……、渡会先輩の功績ですね」
感嘆する檸檬に、「褒め上手な子だね~」と渡会は笑う。
「でも、去年も高坂が動いてひと悶着あったよね」
「動いたとはいえないです」
高坂は苦い顔で返す。
「変な連絡が回ってきたから、いろんな先輩にどういう意味なのか聞いて回っただけですよ」
「まあでもそれで、当時の三年はびびったみたいよ。また今年も反対派の一年がいる!って」
「反対も何も、意味が分からなかったんですけどね」
高坂は苦笑した。しかし愛実の頭には、先日の女子たちとの会話がよぎる。
「あー……でも、ほかの声かけられた子たちも、同じようなこと言ってました……」
あの六人に話を聞いた時、即座に返ってきた返答は、
「ね、これって何なのかな? やっぱ断っちゃまずい?」
不透明なことは、不安を煽ることでもある。
「よく意味わかんなくて困ってたんだ」
「男子の先輩たちだったし、なんか怪しい話かなとか……」
「でも先輩だし、断っていいのかもわかんなくて」
愛実がその反応を伝えると、三人の表情がにわかに深刻になる。小さな沈黙の隙間に、コーヒー豆をローストする甘い香りが入り込む。
「……そうか。そういう恐怖を与えることになるのか。本当にまずいな」
高坂が呟いた。渡会も頷く。
「私も中にいたからわかんなかった。その子たちがサポート係引き受けなかったとしても、声かけられるの自体怖いよね」
「これ、教授とかに言っちゃうのはどうなんですか?」
檸檬の提案に、渡会が、複雑そうな視線を返した。
「実は去年、私と細井で学科長の教授に掛け合いに行ったんだ」
「細井さんと?」
檸檬は驚く。
「細井の意図は、私とはちょっと違ったけど」
渡会はそう言って、ちらりと高坂を見た。
「高坂をやめさせようって動きも、去年の二、三年の中にちょっとあったんだよ。嫌がらせとか。細井は最初から高坂気に入ってたし、あいつそういう陰湿なのは嫌うからさ」
高坂は、ばつの悪そうな表情でコーヒーを啜る。
「嫌がらせに関しては学科も介入して、主犯格のやつは委員会を退会処分になった。でも、サポート係の件は、運営委員に任せてるからって理由でノータッチ」
「……教授たちも、この件に関しては消極的なんだ」
高坂が渡会の言葉に続く。
「教授とOBOGの懇親会なんだから、教授側からストップがかかれば鶴の一声だと思うんだが、どうもそこまでは腰が重い」
皆、考え込んだ表情で押し黙る。愛実はブレンドの最後の一口を飲み干した。カップを下ろした向こうに、大学生くらいに見える女性店員が、客がいなくなった席のカップを片付けているのが見えた。
「もし、もっといろんな女子の声が集まったら……」
三人が、愛実を見る。
「私が話を聞けたのは、一年の数人だけなんです。でも、アンケートみたいな形で学科の女子の声を集められたら、数の力になるんじゃないかなって……」
「それさ、」
檸檬が、組んだ両手の人差し指を自分のあごに当てながら話す。
「女子だけじゃなくて、性別限定せずにアンケート取ったらいいんじゃない」
「男子にもか?」
と返したのは、高坂だった。
「うーん……うん、はい」
檸檬は頷く。
「運営委員なんて、ほかの生徒からしたら、単なる物好きのサークルみたいなもんですよ。そんなのが学科中から可愛い女子集めようとしてるなんて知ったら、めっちゃキモイと思う」
渡会が大きく頷く。
「確かに。めっちゃキモイ」
「一年ふたりは、すごいな」
高坂はそう言いながらも、まっすぐ檸檬の方を見て目を細める。愛実は思わず、渡会と顔を見合わせた。
「とにかく、アンケート案はいいかもしれない。一年ズ、まとめられる?」
渡会に促されて、愛実と檸檬は頷く。
「……でも、ちょっと疑問なんですけど」
檸檬が口を挟んだ。
「なんで渡会先輩が委員長じゃないんですかね?」
渡会は、「私は政治に興味ないのよ」と笑った。

土曜日の、朝のことだった。
「えっダッドが!?」
大地が急に叫んだので、洗面所で歯を磨いていた冬人も、何事かと歯ブラシを咥えたまま見に来た。
「うん……わかった、とにかく帰るよ」
電話を切った大地に、冬人は視線でどうしたのかと問う。大地は青い顔をしていた。
「……ダッドが倒れたって……」
「えっ!」
冬人は思わず声を上げた。大地の父親は、いつも陽気で元気な人で、冬人も親しくしていた。持病があるという話は聞いたことがない。
「急に苦しみだして、救急車で運ばれたって……」
大地も、特に病気はしていなかったはずだと言う。口を濯いで急いで歯磨きを終えると、冬人は改めて大地の傍に立つ。
「帰るの?」
「うん、とりあえず急いで行かなきゃ……」
言いながらも大地は、ただそわそわと辺りを見回し、手を口元にやったり脚に置いたりしている。動揺して何から手を付けたらいいかわからないようだ。
「僕も一緒に行くよ」
咄嗟に言葉が口をついて出た。
「え……でも」
戸惑いの表情を浮かべる大地の頭を、冬人は両手で挟み、頬を親指で撫でる。
「大地。大丈夫だから。一緒に行こう」
大地は変わらず不安な瞳だったけれど、混乱は少し和らいだように見えた。
結局、荷造りも電車の時間を調べるのも、冬人があっという間に済ませてしまった。一泊分の簡単な用意を詰めたリュックを二人一つずつ背負い、大地は冬人に引っ張られるように部屋を発った。新幹線の切符を買うのまで、大地が呆然としている間にすべて冬人がやってしまう。気が付けば品川駅の新幹線ホームに、冬人と二人立っているという具合だ。
「……大地、大地!」
ぼんやりして、冬人が呼んでいるのにもしばらく気付かなかったようだ。はっとして冬人を見ると、
「電話が鳴ってる」
慌てて携帯を取り出してみると、母からの着信だった。大地は通話ボタンを押す。ホームは、時折のアナウンスと合間に挟まるメロディー、そして人の声が重なり合いざわめく。聞き取りづらい電話の声に耳を傾ける大地を、冬人は隣で見守っていた。しかし次の瞬間、
「はあ!?」
大地の叫びに、冬人は目を丸くする。
「はあ……そう……うん」
たった今叫んだ勢いが急にしぼんで、気の抜けたような返事をする大地に、冬人は心配になる。
電話を切った大地は、冬人に向き直って言った。
「……ダッド、虫垂炎だって……盲腸で、とりあえず薬の治療で大丈夫そうだってさ……」
冬人は、ただ「盲腸」とおうむ返しする。
「痛み止め飲んで落ち着いてきたから、今はすっかり元気だって」
二人は立ちすくみ、見つめ合う。
「つまり……大丈夫ってこと?」
その時新幹線が、ゴーッと音を立てて目の前に滑り込んできた。二人は顔を見合わせる。手には、すでに買った新幹線の切符がある。
「……せっかくだから、帰る?」
大地は目をぱちくりさせて冬人を見つめた。
「盲腸でも心配は心配だし、ゴールデンウィークには一度帰るつもりだったから、一週間くらい早まったっていいんじゃない?」
大地が戸惑っている間に、冬人は大地の手を取って、車両に乗り込む。ピーク時期を外したせいか、自由席でも二人席が探せる程度の空き具合だった。
つないでいた手が、荷物を棚に乗せるのに一度離れる。二人並んで座ると、大地の方から、再び冬人の手を握った。
「ちょっと、つないでてもいい?」
遠慮がちな目で言う大地に、冬人は頷く。
「親の病気なんて、こんなに心配したことなかった……今もまだ心臓ばくばくしてる」
「……うん」
冬人はその手を握り返した。
「俺、ふーくんがいないとダメだな……」
冬人はうまく言葉を返せない。大地も、それ以上は何も言わず、ただ冬人の肩に頭を寄せる。久しぶりの大地のぬくもりと髪の匂いに、冬人は胸をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。けれど、ただ黙って、肩にもたれる大地を受け止めていた。

「いや~この年で盲腸になるなんてねえ」
薄いカーテンで仕切られた病室のベッドで、大地の父は豪快に笑い、次の瞬間には「痛てて……」と下腹を押さえたりしている。
「ほんと、倒れたって聞いて焦ったんだよ」
大地が膝に手をつき、大きく息を吐く。
「ごめんね、ふーくんまで来てくれちゃって」
病床に付き添っていた大地の母は、冬人に向かって話す。
「いえ、ついでに帰省もできたし」
「大地があんまり動揺してるんで、見かねて一緒に来てくれたんでしょ」
ずばり言い当てられて、冬人は言葉に詰まるけれど、大地は笑っている。
「荷造りも切符買うのも、俺がぼっとしてる間に、全部ふーくんがやってくれたよ」
母も、「やっぱりね」と笑った。
まだいくつかの手続きがあるという母に先に帰るように促されて、大地と冬人は二人で病院を後にした。ここから家まで徒歩十五分ほどの距離なので、バスを待たずに歩いて帰ることにする。
冬人の母にも電話していきさつを報告したら、ラドラム家の騒動は、すでに町内に広まっていたようだった。母も心配していたようで、とりあえず病状に安心すると同時に、今夜は大地も大地の母も、田中家で夕食をとるようにとのお達しが出た。ついでに途中のスーパーで、いくつかの食材を買ってくるようにと指示される。
二車線の県道沿いに、ぽつりぽつりと商店が現れる道を二人歩く。尖塔に十字架のある教会の建物と、付属の幼稚園の角を曲がると、地元の安いスーパーが現れる。そこまでの道を、二人は手をつないで歩いた。言葉は何も交わさなかった。
「あれ! 田中弟じゃない?」
スーパーの前まで来たときに、ちょうど店から出てきたベビーカーを押す女性が、二人に目を留めて声をかけた。二人はつないでいた手をさっと離す。
ベビーカーの上で、濃いピンクのスウェットを着た一、二歳くらいの子どもがきょろきょろと活発に辺りを見回していた。持ち手のフックに、ずしりと中身の入っていそうな黄色いエコバッグが掛かっている。冬人は、一見してその人が誰なのかわからなかった。
「ちょっとー、キスした相手を忘れたの?」
言われて、冬人は改めてよくよくその顔を見る。
「まあ覚えてないか。私にとっては結構重大事件だったんだけどねえ」
「……いや、覚えてます。あの、兄のパーティーの時の」
思い出したけれど、それはあまり良い記憶ではない。その人は、パーティーで冬人に意に沿わぬキスをしてきた、あの先輩だった。
「そうそう、あの後夏輝なつきくんにブチ切れられて、しばらく高校で肩身狭かったんだもん」
それは、冬人も知らない話だ。どうやら後から事件を知った兄が、しっかりお灸を据えていたらしい。
「この子は……」
冬人は、先輩が連れている子に目をやる。
「私の子」
間髪入れずにそう返されて驚く。しかし、冬人の感情が表に出ない特性がここではうまく働いた。
「……お名前は?」
子どもは不思議そうな目で冬人を見上げている。
「ちょっと! なんで全然驚かないの? 私あなたの二個上よ?」
むしろ彼女の方がそう言って笑う。笑いながら「もえかです」と答えた。眉が下がって目が無くなってしまうその笑顔は、なんだかあの頃と、ずいぶん印象が変わったように見える。
「私さ、東京の大学行ったんだけど、この子ができて、男とは別れちゃって、大学やめて出戻ったのよ」
「……そうだったんですか」
ほかに何と返したら良いか、わからなかった。
「あの件で夏輝くんに嫌われたから、地元は居づらいかと思ってたけど、みんな結構忘れてるもんだね。でも、ごめんね、あの時は」
ベビーカーの子は、ぐいっと身を乗り出して、母親のストレッチの効いていそうなロングスカートを、握ったり引っ張ったりしている。冬人はただ「いえ……」と返す。
「あの頃ってほんと調子乗ってたからさ。でもいろいろあって高い鼻がぽっきり折れたわけよ」
彼女は冬人の少し後ろに立つ大地に目を留める。
「そっちの子も、うちの高校だったよね? 今二人とも大学生?」
二人は少し視線を交わしてから「はい」と答える。
「いいねー、私の分も青春謳歌してよ」
不意に、大地が口を開いた。
「青春、もうないんですか?」
冬人は驚くけれど、大地は、ただまっすぐ疑問に思った表情だった。先輩も大地に他意のないことを受け取ったのか、気に障った様子もなく「んー」と考えている。大地にはどこかこういう、ほかの人だったら空気を悪くしそうなことを、嫌味なく言えてしまうところがある。
「……なんか私、もともと青春、向いてなかったのかも」
冬人は心の中で、「青春向いてなかった」、と反芻した。そんなこともあるのか。そう言う先輩の顔はやはり、さっきと同じ、眉の下がる笑顔だった。
「子どもと暮らしてたらさ、まじ青春どころじゃないよ。でも不思議なんだけど、今が自分史上イチ自分らしい感じ」
そう言って、「なんか変な話になっちゃったね」とまた笑った。

頼まれた買い物を終えて、二つに分けた買い物袋を一つずつ持つ。交差点の信号が変わるのを、冬人と大地は、会話もないまま待っていた。
「さっきの女の人さ、」
大地が沈黙を破る。
「夏輝くんのパーティーで、ふーくんにキスした人だよね」
大地は、白いビニールの持ち手を両手の指で弄りながら、少しうつむいていた。信号が青に変わって、歩き出しながら話す。
「やっぱり、あの時見てたんだね、大地」
隣を歩く大地は、黙って頷く。
「……でも俺、その後のことは知らなかった」
スーパーの前で、彼女はさらに言った。
「とにかく、会えてよかった。ずっと謝りたかったんだ。あの時私変なこと言ったでしょ。ずっと気になってて……」
冬人は意図がわからず首をかしげる。
「女の子からキスされて嫌がるなんて、ゲイなんじゃないの、とかなんとか……バカだよね」
冬人の頭に、あの時の場面が少しずつ蘇ってくる。本気で嫌がっているのに、周りは誰も真剣に受け止めてくれなかった。彼らが口々に苦笑いで、なだめるようなことを言う。自分の抵抗の仕方が足りないのか、どう言ったらわかってもらえるのかと、混乱した。ぐるぐるする思考に畳みかけるような周囲の人たちの言葉の中に、たしか、そんな台詞もあった気がする……。
「あんなの、拒否された当てつけで、本気でゲイだと思ったわけじゃないから。気にしないでね」
冬人は、何か言葉を返したいと思ったけれど、何も言えなかった。
二人が子どもの頃からすでに老夫婦だった人たちが今も現役でやっている蕎麦屋の先で、細い路地に入る。
「ここ最近、僕と大地の関係ってなんなんだろうって考えてた」
歩きながら、左にいる大地の顔を見て、冬人は言った。
「どうして曖昧なままにしてるんだろう。どうして考えないようにしてきたんだろうって……」
一軒家が両側に並ぶ道を少し歩くと、小学校の校庭が見えてくる。この町を離れてたった数週間だけれど、なぜかもう、この景色に懐かしい気持ちが湧き上がってくる。大地がふいに立ち止まった。
「……クスノキ神社に、」
その名前も、懐かしい響きだった。
「……久しぶりに寄ってみない?」
道を少し逸れたところにあるその神社は、正式にはもっと長い名前だけれど、境内の大楠がちょっとした名物になっていることから「クスノキ神社」の呼び名がついていた。
木々に囲まれた人気のない境内の奥に、古く黒ずんだ社殿がある。足を踏み入れた瞬間に、森の匂いがした。
「ふーくんは、ゲイになりたくないの?」
少し前に歩み出た大地が、背中を向けたまま問いかけた。冬人は、その背中をじっと見つめる。
「僕は……自分がされて嫌だったことに、理由をつけられたくなかった」
振り返る大地の瞳が揺れている。
「僕自身の、嫌だっていう気持ちだけで、どうして受け止めてもらえないんだろうって思った。僕がゲイだからとか、あの人が僕の好みじゃないからだとか、いろいろ言われたけど……僕は、ただ嫌だったんだ」
大地の顔が泣き出しそうに歪んだと思ったら、その両手が、冬人の両手を握る。それから冬人の肩口に頭を寄せて、おでこをぎゅっと押し付けた。
「ごめん、ふーくん」
「……どうして謝るの」
その髪を撫でてやりたい気持ちになったけれど、大地に両手を握られているからできない。
「あの時、俺、助けずに逃げたから……」
日も傾き、境内に吹く風は冬の名残を思わせる冷たさで、冬人は肩に頭をうずめる大地の体温を、じんわりと感じていた。
一応社殿に手を合わせてお参りをし、裏手のクスノキの方へと回る。大楠のゆかりを記した碑の傍に、小さなベンチが置かれている。そこに、二人で座った。
「俺はゲイなんだと思う」
冬人は驚きに大地を見る。大地は目の前を見つめて、自分の両拳をぎゅっと握りしめていた。むしょうにその手を包んであげたい気持ちになるけれど、今そうすることが良いことなのか、自信がない。
「さっき先輩が、ふーくんのことゲイだと思ってないよって言った時、俺はゲイだって言い返したくなった」
冬人は何も言えなかった。両脇に置いた買い物袋が風にカサカサと音を立てて、沈黙を際立たせる。大地が再び口を開く。
「好きになった男が一人だけでも、ゲイって言ったっていいだろ。俺はゲイで、ふーくんが好きだ」
──自分は何を迷っていたんだろう。目の前にある、勇敢で透き通った彼の瞳を見れば、すべてが確かに感じられるのに。
「名乗るのは勇気がいることだと思ってたけど、本当は、名乗れないことも、不安だったんだ」
見据えていた大地の瞳が少し揺らいで、逸れそうになる瞬間に、冬人はその手を両手で掴んだ。
「……僕もゲイで、大地が好きだよ」
次の瞬間、大地の腕が冬人の背中に回り、ぐっと引き寄せる。
「大地、僕と触れ合うの、怖くない?」
冬人が問うと、大地は抱いた体をがばっと離して、まじまじと見つめた。
「なんで俺がふーくんを怖がるの?」
心外そうな大地の表情を、冬人も見返す。
「先週……その、ちょっとエッチなことしちゃった後、大地泣いてたよね」
大地は「えっ」と声を上げた。
「ふーくん、見てたの?」
「ごめん……」
お互いの腕と腕を掴んだ姿勢のまま、冬人は目を伏せる。大地は何か決意したようにきゅっと口を引き結ぶと、もう一度勢いよく冬人を抱き寄せた。
「あれは……ふーくんが好きすぎて泣いてたの!」
冬人はその大地の頬を両手で支えて、顔を覗き込む。
「大地……」
大地は少しうるんだ瞳で笑顔を見せる。冬人も微笑む。
「……そんなことある?」
冬人が声を出して笑い始めたので、大地は「なんだよお」と拗ねた顔になる。その膨れた頬に、冬人はチュッと口づける。
「じゃあ、いいんだね」
そう言って笑うと、大地の方から唇を寄せてきた。しばらくぶりに触れた唇は、夕方の風に少し冷たくなっていて、二人は互いを温めるように柔らかく啄み合う。冬人は、深い淵を一気に飛び越えたような気がした。

夜は冬人の家で母の作ったレモングラス鍋を囲んだ後、大地と大地の母は、ラドラム家の方に帰った。別々の家で寝るのは数週間ぶりで、なんだかおかしな感じがする。大地と一緒に暮らすことがすでに日常になっていることを、逆に実感するようでもあった。
お風呂から上がって、家を出る前と変わらないままになっている自分の部屋に入る。部屋の掃き出し窓は通りに面していて、ベランダに出れば、道を挟んだ斜め向かいの大地の家も見える。子どもの頃は、よくそこから、遊びに来た大地に手を振った。
スマホを見ると、愛実からラインが入っていた。今朝の新幹線の中で愛実たちには帰る事情を連絡しておいたので、その後どうなったか、大地の父親の様子はどうかと気に掛ける内容だった。こういう気遣いにかけては、愛実は友人たちの中でも特にすごいと冬人は思う。きっと大地にも、同様のラインが届いているのだろう。
髪を拭き拭きベッドに腰かけながら、ラインを返そうとして、冬人は、ふとその手を止めた。そのまま、通話ボタンを押す。数コールの後に、「もしもし」と愛実の声が応えた。
「遅くにごめん」
「いいけど、そっち大丈夫?」
すぐに心配してくれる愛実に、やっぱり感心しながら、冬人は大地や家族の様子を大まかに伝える。愛実は安心したようだった。
「それから……ちょっと珍しい出来事もあった」
冬人は愛実に、先輩との再会のことを話した。過去に起こったこと、それを今日、謝罪されたこと。
「僕は、自分がそういうつもりじゃない時に、いきなり性的な目で見られる感じが、嫌だったんだ」
電話越しに「うん」と答える愛実の声は、深い響きを持っている。
「愛実も嫌だったよね、この間」
不意に冬人に投げかけられて、愛実は「ん?」と問い返す。
「サポート係のこと。先輩たちに声かけられた時、僕、何も言えなかったけどずっと気になってた」
同じ機工科の一年で、自分や檸檬と愛実の立場は何も変わらないはずなのに、愛実だけが違う見られ方をしていることに、もやもやしていた。けれど、愛実が自分で断ると言っていたし、それ以上追究しない方がいいのかと迷っていた。
「冬っちのいいところは、時間をかけて考えるところだね」
愛実はそう言う。「時間かけすぎも良くないでしょ」と言う冬人に、「いいんだよ」と、いつになく大きな声が返ってきた。
「だって、今からでも手伝ってほしいことがあるから!」
「え?」
驚く冬人に、愛実は計画を話し始める。それは、地道だけれど大胆なチャレンジの話だった。
愛実とこんなに長電話をしたのも、初めてのことだ。

翌日、午前中にもう一度大地の父を見舞ってから、二人はそのまま帰路につくことにした。地元駅は漁港に近くて、冬人の母が「鮪でも食べて帰りなさい」と昼食代をくれた。魚市場と複数の食事処が合わさったような港の観光施設で、二人で海鮮丼を食べた後、電車の時間まで、少し海沿いを歩く。海沿いといっても、一帯の岸はすべてコンクリートで埋め立てられている。それでもここから見渡せる藍の水面が、二人にとっては愛着のある地元の海だ。
歩きながら、大地が
「俺ね、バイト始めようかと思う」
そう切り出した。
「学費とか家賃までは賄えないけど、お小遣い分も含めて送ってくれてる生活費、バイト決まったらちょっと減らしてもらおうかと思って」
父の一週間弱の入院でも、母がカバーできない分は、学習塾の授業を休みにせざるを得ずダイレクトに収入に響く。実家の経済を、大地なりに気遣っているようだ。
「もともと家計にすごく余裕があるってわけじゃないし」
「僕も、一緒にバイトしようかな」
冬人の言葉に、大地は驚いて振り返る。
「ふーくんちは、問題ないんじゃないの?」
停泊する白い漁船に、一瞬海への視界が遮られる。二人の姿は船の影に入る。
「将来のために、貯金しておきたいと思って。卒業してからも大地と暮らしたいし」
大地は思わず嬉しそうな照れ笑いを溢す。「手つないでもいい?」と言ってくる。再び見えてきた海が、眩く反射する。
「昨日、あれから考えたんだけど……」
つないだ手にも日差しの暖かさを感じながら、大地が話し出すのに冬人は耳を傾ける。
「先輩は謝ったけど、ふーくんが何が嫌だったのか、本当にはわかってなかったよね。それでいいの?」
「……僕もきっと、全然理解できないだろうなって思ったんだ」
気遣う大地の瞳が陽の光に透ける。
「あの人が経験したこととか……青春は向いてないって言ったこととか、子どもとの生活が一番自分らしいって言ったこととか、それがいいことなのか、悪いことなのかも」
自分には、きっとわからない。だからこそ、簡単には踏み込めない領域なのだと感じる。そして先輩も、冬人の領域に踏み込んだことを少なくとも後悔はしていたと思う。実際のところ、相互理解にはほど遠い。けれど不思議と今は、心の奥に薄く靄のように滞っていた恐怖感は、もうない。
「大地が聞いてくれたからかもね」
あの時の嫌だった気持ちを、これまでたった一度も、誰にも話してこなかった。今になって、冬人はそのことに気付く。
急に大地が冬人の腕に巻き付いて、頬をぐりぐりと寄せてきた。
「わ、なになに」
見つめる大地の瞳は、波と同じくらいキラキラしていると、冬人は思う。
「帰ろう、俺たちの部屋に」
そう言って、大地は笑った。
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