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水をかぶるとイイコトがある? の巻
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※トリガー警告
作中の展開として、女性差別、児童ネグレクトに関する描写があります。
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「信じらんないよ、今までずっとトカゲだと思ってたなんて」
「だって……ひっかけ問題みたいだよ?」
「タマはヒョウモントカゲモドキ、ヤモリの仲間だよ」
前回は檸檬が来られなかった「飛行船」で、もう一度五人で食事をしようと誘ったのは、大地と冬人だった。その二人がいきなり謎の痴話喧嘩を繰り広げるので、檸檬が「ちょいちょいちょい」と割って入る。
「あの……何の話?」
「うちの実家で飼ってるタマがさ……」
大地のペットのヤモリを、冬人が長年トカゲだと勘違いしていたとかいう話を、今度は映見が「ちょっと」と制した。
「今日私たちを集めたのは、その話をするためじゃないでしょ?」
大地と冬人は、どきっとしたような表情を浮かべる。
「あー、えーと」
「実は……」
「お待たせしあっしたー」
前に来た時と同じマッチョな店員が、料理を運んできた。今回は、冬人と檸檬以外はオムライスを頼んだ。前回冬人が食べていたフルサイズのオムライスを、結局みんな食べてみたくなったのだ。前回とは逆で、定食メニューよりオムライスの方が先に到着する。そのすぐ後に、大地の隣に座る冬人にミックスフライ定食、愛実と映見と並んで座る檸檬に、ハンバーグとミニオムライスセットが運ばれてくる。みんなが料理に目を奪われていると、冬人が突然口を開いた。
「付き合うことになりました」
一同は顔を上げて、ぽかんと冬人を見つめる。
「大地と僕」
「いや、ほかに誰がいるよ」
檸檬が思わずツッコミを入れる。
「冬っちタイミング独特すぎ」
「こういうやつなんだよ」
映見と愛実も、半ば呆れた表情で掛け合いしている。
「あの、急で驚いたかもしれないんだけど……」
フォローしようとした大地に、
「驚きません」
愛実がきっぱり返す。
「だって俺ら、最初っから『冬人&大地をくっつけ隊』だもんな」
呆気にとられている冬人と大地を放置して、「とりあえず乾杯~」と言う映見の音頭で、三人は水のグラスをカチンと合わせた。
「ていうか冬っち、普段は大地と友達っぽい感じとかなんとか言ってたの、あれなんだったん?」
檸檬にツッコまれて、冬人は首をかしげる。
「最初に相談した時のこと? 今もそうだよ。大地と僕は付き合っても、これまでどおり普段は友達同士みたいな関係で……」
「いや、どの口が言ってんの」
「これまでもずっと、常にバカップルだよね」
檸檬と愛実に畳みかけられて、冬人と大地はぽかんとしている。
「もしかして、本当に自覚なかった?」
苦笑いの映見に、大地が「え? 俺らってバカップル? バカップル?」としつこく聞いているけれど、そろそろ面倒なので、愛実は別の話題に移ることにする。
「ところで檸檬もさ、やっぱ高坂先輩となんかあったんじゃない?」
檸檬は飲んだ水を吹きそうになる。
「は? 何かって?」
「この間先輩、檸檬のことしか見えてないって感じだったもん」
愛実は、先日渡会と会った時のことを話す。ウェブアンケートのアイディアについては、映見と大地もすでに聞いていた。
「高坂先輩の檸檬に話しかける声がも~う甘くて、こっちが照れるくらい」
「あの人は元々ああいうしゃべり方なんだよ」
檸檬は誤魔化すようにハンバーグをぱくつく。
「まあ、檸檬が隠したいって言うんならいいけど……」
どうせ言いたいんでしょ、とばかりの冬人の視線に、檸檬はぐっと拳を握った。
「……べつに、何があったってわけじゃないけど……」
結局こういう時に、黙っていられないのが檸檬の性分である。運営委員の飲み会であったことを、大まかに話す。
「うわー、何それ! 名前の交換なんて、超ときめく!」
大地が叫ぶ。冬人が「僕たちもやろうか」とささやいて、大地に呆れた視線を投げられている。
「あと……この間、下の名前で呼んでって言われた」
「わお、彼は檸檬と親しくしたいんじゃない」
嬉しそうに言う映見だけれど、檸檬はなぜか拗ねたような表情で、ふん、と息を吐く。
「だとしても、どうにもなんないだろ。どう見たってヘテロだもん」
「えー?」
愛実は異議ありげな顔だ。
「見てわかることなんてある?」
そう言われると、檸檬も確信を持って判別できるわけではない。「ゲイダー」なんて、半分はごっこ遊びみたいなものだ。
「とにかく、余計な期待はしたくないの、俺は」
「でもそれって」
大地が突っ込んだ。
「期待ってことは、檸檬は彼が好きってこと?」
檸檬は言葉に詰まって、フォークとナイフを、皿の上でカチカチ鳴らした。
「そりゃあ、元々いいなって思ってたし……今はもっと思ってるけど……」
「そういえば最近、遊び相手の方々も全然見なくなったね」
冬人がなかなか鋭いところをついてくる。
「それは委員会が忙しいから……それ以外はお前らと会ってるし」
「檸檬は、トライする気はないの?」
不思議そうに映見が問う。
「別に俺、顔見てるだけでいいし……」
「ホントに?」
愛実が疑わしそうに目を細めて、檸檬はふくれっ面で愛実を睨む。
「……うーん、まあ、気持ちはわかるよ」
映見が、質問攻めしてしまったことに苦笑しつつフォローに回った。
「同性同士の場合、相手からすごくサイン出してるように見えても、ただのフレンドシップだったってこと結構あるから」
一同、ああ、と声が漏れた。映見は何かを思い出すように続ける。
「最初は本気でも、元々ヘテロだった人が急に中傷される側になって、やっぱり無理ってパターンもあるしね……」
皆、その言葉には表情が曇った。
「この間みたいな酷いこと言ってくる人って、まだいる?」
心配そうに問う愛実に、映見は笑顔を返す。
「ううん、国際学部は基本的にはゲイフレンドリーな人が多いし、変なこと言われたのはカフェミーティングの時だけだよ」
「でも、フレンドリーを装ってからかってくるやつとか、理解ありますってアピールのために利用してくるやつもいるからな」
「わかってる。向こうにもそういう人はいたし」
自分の話をしていたことも忘れたように映見の身を案じる檸檬に、映見は笑って、その肩に手を置く。
「だけど聞いてる感じ、その先輩は、自分がマイノリティになることも受け入れられる人なんじゃない?」
檸檬は、「うーん……」と視線を宙に泳がせる。こんな時に、店の壁に小さな飛行船の絵がかけられているのに、妙に気付いてしまったりなんかする。
「……俺はあの人が中傷とかされるのは、嫌だな……」
零れた檸檬の言葉に、四人は顔を見合わせた。
「浅倉」
声をかけられて振り向くと、渡会が数人の女子たちと一緒に立っていた。檸檬は渡り廊下でほかの一年たちと、四方から立て看板を囲んで色塗りをしているところだった。
履修科目の一次登録から、抽選後の調整も経て最終登録の締め切りが、四月末。連休を挟んで五月頭から、「本授業」と呼ばれる第一クォーターが開始される。四月中の授業は、履修が決まるまでのいわばお試し期間だ。とはいえ、中には四月中から本授業なみの内容にがんがん食い込んでくる鬼のような教授もいるのが、大学らしくもある。
運営委員では、この最終登録を終えた時期に合わせて、構内を飾り付けるのが毎年恒例になっていた。連休を終え、学生たちが戻ってきたキャンパスに歓迎ムードを加えて五月病を防止すると同時に、毎年いる履修登録忘れの学生に、最後の救済のチャンスを喚起する意味も持っている。このため、連休前最後の授業日の今日は、大きな山場となった。檸檬たち一年にとっては初めての、「夜までコース」と呼ばれる遅い時間までの作業日だ。
呼び掛けられて振り向いた檸檬に、渡会は自分の背後を指差すようなジェスチャーで何かを促す。最近わかったことだけれど、渡会も、檸檬を下の名前で呼ばない珍しい先輩の一人だ。ほかの委員のことも全員苗字で呼んでいるので、この人なりのこだわりがあるのかもしれない。
「そろそろカレー取りにいこうか」
渡会の言葉に、檸檬は「はーい」と返事をして立ち上がった。
話は、数日前の作業日にさかのぼる。渡会が何人かの先輩たちと机を囲んで話し合っているところに、檸檬が通りすがった。
「なんか作るんですか?」
そう聞いたのは、渡会の目の前に置かれたメモに、じゃがいも、にんじん、たまねぎなどの食材が書き記されていたからだ。渡会は、少し驚いたような顔で振り返った。
「連休前の『夜までコース』の夕食用に、カレー作るんだよ」
へえ、と頷きながら、檸檬は首をかしげた。
「それ、いつ作るんすか?」
その日は、授業後すぐに装飾の作業に取り掛かると伝えられている。
「私とこの二人が三限までだから、三人でちゃちゃっとね」
渡会は、隣に座る二年と三年の女子二人を指差す。
「え、それ俺も行っちゃだめっすか」
檸檬が言った瞬間、その場の女子たちが目を見開いて固まった。
「一年は、その時間授業あるでしょ?」
渡会が笑って問い返す。
「その日俺ちょうど、五限はあるけど四限だけ穴開きなんですよ。みんなで作るの楽しそうだし!」
渡会の隣にいた三年生が、少し戸惑いを浮かべた笑みで問う。
「レモンちゃん、料理できるの?」
「え、まあ、カレーくらいだったら」
先輩たちは、困惑するような、でもどこか嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
「オッケー、作業は学科の給湯室とその隣の二〇二号室ね。調理用具と卓上コンロを運び出すから、三限後に倉庫前に来て」
渡会がはきはきした口調でそう告げると、ほかの先輩たちも、納得したように頷き合った。
そんなことがあって、二、三年に混ざって檸檬も一緒にカレーを作り、盛り付けて配るところまで参加することになった。檸檬は先輩たちのお達しで、ご飯の上にカレーをかける役割を任される。その日の作業参加者は二十人ほどで、受け取る列に並ぶ委員たちに、次々渡していく。
四角いコンクリートの柱が数本立つ広い渡り廊下の地べたに、一応細い通り道だけ空けて、作りかけの看板や装飾物が色とりどりに置かれている。皆、その周りに各々適当な座り場所を見つけて、賑やかに話しながら食べ始めた。
三年の先輩が「おかわりもあるからねー」と呼びかけるのと、檸檬が最後の一人にカレーを手渡すのが同時だった。
「驚いたな。檸檬も作ったんだろ?」
それは、直哉だった。
「直哉先輩」
「ほら、自分のもよそって」
二年の先輩が、ご飯だけ盛った深底のパルプ皿を渡してくれる。
「それよそったら食べに行っていいよ。私たちは自分で盛るから」
檸檬が自分のカレーを盛る間も、直哉は鍋を挟んで、向かいに立ったままいる。
「あっちで、一緒に食べないか」
直哉が示したのは、校舎と渡り廊下をつなぐ、短い階段だった。みんなの輪からは少し外れている。檸檬は内心、心臓が飛び出しそうになりながら頷いた。
「渡会さんが、檸檬のことを褒めてたよ」
座って食べ始めると同時にそう言われて、檸檬はプラスチックのスプーンを口に入れたまま、きょとんと直哉を見る。
「さっき聞いたんだ。自分から調理に参加するって言ったんだって?」
一体いつの間にそんなことを聞いたのだろう。檸檬がカレーを盛っている間に、渡会と話していたのだろうか。
「みんなで作るの楽しそうだから、俺もやりたいって言っただけですよ」
檸檬は照れ隠しに、スプーンを少し乱暴に差す。褒められるようなことだと思っていなかったので、改めて言われると、こそばゆい気がしてしまう。
「俺は、自分が恥ずかしかったよ。去年も同じように女性の先輩たちだけで作ってくれてたのに、俺は全然気付かなかったんだ。檸檬たちがいつの間に準備してたのかも、知らなかった」
檸檬は慌てて「いやいや、」と手を振る。
「俺はたまたま先輩たちが相談してるの聞いたから」
檸檬の顔を、直哉はじっと深い瞳で覗き込む。
「渡会先輩は、男子で気付いて声をかけてきたのは、檸檬が初めてだって言ってた」
その言葉に、檸檬はしばしきょとんとした後、「あー……」と声を上げた。
「みんな女子か……」
「え?」と問い返す直哉を、檸檬はちらり、と上目遣いに見た。
「……実は俺、男女の見分けあんまりつかないんですよね」
そう……今はこれでも、服装や髪形など、かなり見分けるコツを覚えた方なのだ。中学高校も制服があるからまだわかりやすかったけれど、小学生の頃は大変だった。そもそも学校の中でたびたび起こる「男女に分かれる」という状況の意味がわからず、ふざけていると思われて、先生から怒られたことも多い。
直哉は、何か慎重に言葉を返そうと考える表情をして、しかし良い言葉が見つからないようだった。
「いまだに、気付かずに女子の集団に混ざっちゃって、変な顔されることあるんですよね~」
委員会の中でも優しくて好きな先輩ばかりが集まっていて、みんなでカレー作りなんて楽しそうだと普通に参加してしまったけれど、そういえば、檸檬の「優しくて好きな先輩」は直哉以外ほとんど女性だったと今さら気付く。
「あー、先輩たちのあの反応、そういうことかあ……」
参加したいと言った時の、あの戸惑ったような笑顔の意味がやっとわかって、檸檬は頭を抱える。直哉は気遣うように微笑む。
「渡会さんたちは、喜んでたよ。料理の手際もよかったって」
実家の工場が忙しい時は家族の食事を作ることもある檸檬にとって、それは特別なことではなかった。
「無意識だった分、恥ずかしいですよ」
「俺は、無意識に無視していた自分が、恐ろしいと思ったよ」
強い言葉遣いに、檸檬は戸惑う。
「……無視?」
「女子たちが集まって夕食の相談しているのを、俺もきっと目にしていたはずなんだ。……だけど、見ていなかった」
直哉はプラスプーンで無造作にご飯とルーをかき回しながら喋る。
「女性が集まってる場に自分は関係ないって、無意識に視界から外していたんだ。……性別の区別がつかなくて君は苦労しただろうけど、それは檸檬の美点だと俺は思うよ」
檸檬は「そうかな」と小さく呟く。けれど自戒する直哉に見つめられて、目を逸らせなかった。
「無意識に女性たちを視界から外してしまうっていうことが、何を招くかっていうとな」
直哉は、少し周りを見回した。渡り廊下のあちこちに散らばって食べている学生たちは、それぞれ、近くにいる人と賑やかに話している。ここからの声は届きそうもない。けれど、直哉は声のトーンを低くする。
「この間、どうして渡会先輩が委員長じゃないのか聞いただろう」
成る程ほかの委員には聞かれたくないその話題に、檸檬はどぎまぎしながら頷く。
「俺は、渡会さんが女性じゃなかったら、委員長になってたと思う」
……心臓を突かれたようなショックだった。視線を外し、正面を向く直哉の瞳は、いつもより暗く見える。横顔を見つめながら、檸檬は呼び掛ける。
「直哉先輩」
直哉は優しい声で「うん」と返した。
「俺、こういう……受け入れられないくらいがっかりすることって、どうしたらいいかわかんないです」
戸惑いをそのまま口にする檸檬を、直哉は、目の奥まで覗くように見つめる。
「受け入れられなくても、受け入れて心底がっかりするしかない」
言葉そのものの厳しさと裏腹に、直哉は檸檬の頭に、慈しむように自分の左手を置く。
「そうしなければ、変えることもできない」
深く抑えた声。髪を通して伝わる手の温もりに、胸が苦しくなった。その時、直哉が「あっ」と声を上げて、頭の上の手を離す。
「悪い、俺は、すぐ触る……っ」
目を閉じながら、さっきまで檸檬の頭にあった手をぐっと握りしめている。
「これじゃ細井さんのこと言えないよな」
その動作に、なんだか檸檬は可笑しくなって笑ってしまう。「いいのに」と、口の中でこっそり呟いた檸檬の声に、直哉が「え?」と聞き返す。檸檬は何でもない、と首を振った。
立て看板と装飾物を設置し終わる頃には、九時を回っていた。看板の色塗りに使ったアクリル絵の具をほかの一年たちと一緒に片付けながら、檸檬は、今からでは快速電車はもうないかな、などと考える。筆洗い用のバケツの水を捨てようと取手を持って立ち上がった、その一瞬のことだった。
靴底がずるりと滑る感覚。下敷きにしていた新聞紙に足を取られた。やばい、と思った時には、上体が後ろへ傾き、そのまま尻餅をつくかと思ったけれど、檸檬の体は誰かの腕に支えられる。しかし同時に、手にしていたバケツの水が逆さになって、檸檬の顔めがけて降り注いだ。
「……!?」
絵具を洗った水で、髪や白いTシャツや、羽織っていた半袖シャツまでびしょ濡れになりながら、檸檬はしばし呆然とした。はっとして見上げると、そこに直哉の顔があった。
「大丈夫か?」
周りで、ほかの委員会メンバーも何事かとざわついている。
「だいじょぶっすけど……」
檸檬は慌てて直哉に支えられている体を起こす。
「……絵具くさい~」
顔をくしゃくしゃにして言う檸檬に、直哉が苦笑しながら、「何か拭くもの……」と言う時には、すでにミニタオルを持った一年の女子が駆けつけていた。そのまま、顔を拭いてくれる。
「ごめん、タオル汚れちゃった」
「いや、それよりレモンちゃんの服が大変なことに……高坂先輩も」
言われて、高坂の黒いTシャツまで絵具の水で濡れていることに気付く。
「わ、先輩まで! すいません!」
「いや、俺は少しかかっただけだよ」
言いながらも、直哉は顔や髪を拭かれている檸檬を見て眉根を寄せている。さすがに迷惑に思ったのでは、と檸檬は不安になる。
「今の時間、スポーツルームのシャワーも閉まっちゃってるし、どうしようか」
いつの間にか渡会も近くに来ていた。
「や、水道で適当に洗うんで」
「俺の部屋のシャワーを使ったらいい」
直哉の言葉に、檸檬は目を丸くした。
「そっか、高坂は『寮』だよね」
渡会に、直哉は「はい」と頷く。檸檬は慌てる。
「いやっ、そんな、いいですって」
しかし、背後から別の声が断言した。
「ダメだ」
細井だった。
「俺らは一年に責任があるんだよ。そんな状態で帰すわけにゃいかん」
「アクリル絵の具は乾くと落ちにくくなるから。服は無理かもだけど、髪だけでも早く洗った方がいいよ」
渡会も言う。
「でも、俺が転んだせいなのに……」
さっきの険しい表情が気になって、檸檬はおずおずと直哉を見上げる。直哉は、いつもの優しい目で檸檬を見ていた。
「誰だって転ぶことはある」
「とにかく、高坂の部屋でシャワーと着替えを借りるように。これは先輩命令だ」
細井がそう言って、半ば押し出すように直哉と檸檬を先に引き上げさせた。
『寮』と言っているのは学生間での通称で、実際は大学付属の学生マンションだ。各部屋にトイレとシャワーもあって、通常の学生寮よりは割高だけれど、近隣の賃貸の相場よりは安いし、簡単な家具も揃っている。寮よりプライバシーがありルールも厳しくないが、食堂の夕食を頼むこともでき、入居希望者は毎年抽選になるという。映見も同じマンションに住んでいると言っていたけれど、檸檬自身は、中に入るのは初めてだ。
「おじゃましまーす……」
玄関を入ると、短い廊下の右手には、IHコンロの小さなキッチンと冷蔵庫、左手にシンプルなドアが一つある。おそらくここがトイレとシャワールームだろう。
廊下の先のワンルームは、手前側に勉強机と大きな本棚、奥にベッドと、その脇に小さなローテーブル。上に赤いマグカップが置いてある。フローリングの床にカーペットなどは敷いていない。片付いているけれどこだわりのなさそうなざっくりとした簡素さが、なんとなく直哉っぽいな、と檸檬は思う。本棚だけはこの部屋の中でも無秩序な空間で、乱雑に置かれた本が溢れ出しそうだった。
「とりあえずはシャワーだな。タオルと着替えは……」
直哉はずんずんと部屋を進み、勉強机と反対側の壁に据え付けられているクローゼットの下の方から、バスタオルとグレーのTシャツを取り出す。
「これでいいかな」
「あ、着替えとか、そんな」
遠慮する檸檬に直哉はふっと笑うと、強引にその二つを渡して、廊下のドアの向こうへ檸檬を押し込んだ。
「何かあったら呼んで」
トイレと脱衣所を兼ねたスペースの奥に、曇りガラスの引き戸で仕切られた、浴槽の無いシャワールームがあった。部屋のドアには小さな鍵もついているけれど、直哉が隣の部屋にいる状況で裸になるのは、妙に緊張する。
とはいえ、髪はすでにカピカピになりかけていたので、そんなことばかり気にしてもいられない。檸檬はえいっと思い切るように服を脱ぎ、シャワールームに飛び込んだ。
渡されたTシャツは、檸檬には少し大きめだった。タオルで頭を拭き拭き、シャワールームから出たら、直哉はベッドとローテーブルのそばに、なぜか立ったままいた。檸檬が部屋に戻るなりぱっと顔を上げて、「ちゃんと絵具は落ちたか?」と聞いてくる。頷く檸檬に、
「ドライヤーはこれ」
と、延長コードにつないだドライヤーを、拾い上げて檸檬に手渡す。
テーブルの上には、さっきのマグカップは無くなっていて、代わりに大きな水のペットボトルと、ガラスのコップが置かれている。
「水くらいしかないけど、良ければ飲んでてくれ」
気を遣われすぎて、檸檬は目を回してしまいそうだった。しかし直哉の顔を見ると、どこか、いつもより落ち着かない表情に見える。
(……もしかして先輩も、緊張してる?)
それは、単に後輩を部屋に上げるのが初めてだからなのか、何か違う意味があるのかはわからない。けれど、妙にドキドキするような、嬉しいような、ざわついた気持ちになる。
「俺も少し濡れたから、汚れ落としてくるな」
そう言って直哉はシャワールームに消えた。と思ったら、そそくさと戻ってきて、真面目な顔で「タオルを忘れた」と言うので、檸檬は思わず吹き出した。
「ドジっ子だ、先輩」
直哉も笑って「そうだよ」と答え、タオルを取り改めてシャワーに向かう。直哉が去った後も、檸檬はそのドアを見つめて微笑んでしまう。直哉の部屋で、こんなやりとりをする日が来るなんて、信じられない。
そんなことばかり考えてにやけていたら、髪が乾くより先に直哉が出てきてしまいそうなので、檸檬はローテーブルとベッドの間にぺたんと座って、ドライヤーをあて始めた。
けれど、直哉のシャワーは相当短かった。
「問題なかったかな」
そう言いながら、直哉がシャワールームから出てきたのは、檸檬がもう少しで乾かし終わるくらいのタイミング。今手に持っている黒いTシャツから着替えたはずなのに、また同じような黒いTシャツを着ている。
「あっすみません、俺もう終わるんで……」
檸檬は慌ててドライヤーを切り上げようとするけれど、よく見ると、直哉の髪は濡れていない。
「いや、絵具で汚れたところ落とすだけで良かったから、髪は洗ってない」
「それでこんな早かったんすか?」
檸檬は直哉を急がせてしまったかも、とちょっと心配になる。直哉がシャワーから上がるまで、檸檬が所在なく部屋で待つことになると思って気を遣ってくれたのかもしれない。
「いいからよく乾かせ」
直哉はTシャツとタオルを四角いナイロンバッグの洗濯かごに放り込むと、檸檬の座っている右側に、胡坐をかいて座る。洗濯機だけは、共同の洗濯室にあるそうだ。そのままドライヤーをかける檸檬の隣で、直哉は「まだ生乾きじゃないか?」などと言って、しっかり髪が乾くまで見届けた。
「お母さんみたい……」
ドライヤーを檸檬から回収してクローゼットにしまう直哉に、聞こえないくらいの声で檸檬は呟く。直哉は「ん?」と振り向いた。
「いや、先輩って、いつもこんなにサービスいいんですか?」
檸檬の質問に、直哉はおかしそうに笑った。
「いつもって、どの『いつも』だ?」
言いながら直哉は、キッチンからもう一つグラスを持ってきた。戻ってきて、さっきと同じ場所に再び胡坐をかき、ペットボトルから二つのグラスに水を注ぐ。
「彼女とか来た時」
「彼女なんていないぞ」
檸檬は、妙にむきになってしまう。
「過去は? いたことないんですか?」
直哉は腕を組んで、「うーん」と、あまり気乗りしなさそうな声を出した。
「まあ、ずっと前のことだ」
その反応が、なんだか檸檬には意外だった。
「先輩って、初めての彼女一生大事にしそうなイメージだったかも」
「なんだ、イメージダウンか?」
言いながら直哉は笑っている。「あ、いえっ」と、慌てて打ち消す檸檬の顔を、直哉は少し身を屈めて下から覗き込んだ。
「……檸檬の中の俺のイメージって?」
その動作に、檸檬の心臓はドキドキ高鳴る。
「教えてほしい。俺はどう見えてる?」
「えっと……」
改めて聞かれると答えに詰まる。思っていることはたくさんあるけれど、好きな気持ちを悟られないように言えることは少ない。
「とりあえず、俺みたいにいい加減な付き合いはしないでしょ」
なぜかこんな時に限って、むしろ自分のイメージを落とすようなことを言ってしまう。しかし、直哉は少し考えたあとに、「どうかな」と答えた。
「いい加減って、どういうことを言うんだろうな」
檸檬は困惑する。
(まさか、意外と遊んでるなんて言わないよな?)
「セフレとか……」
「ああ、そういう経験はないけど」
檸檬はほっと息をつく。直哉が実はプレイボーイだったとしても好きなのは変わらないけれど、ちょっとハラハラしてしまった。
「……檸檬は、誰かと真剣に付き合うつもりはないのか?」
直哉が、見上げる体勢のまま問う。上目遣いの視線がまっすぐ檸檬を捉えている。
「……前にちょっと話した、初めて付き合った男っていうのが、中学の同級生なんですけど……」
ちらりと直哉の顔を見ると、直哉は優しく頷く。
「その歳でもう、ご両親に話したんだな」
中学生で彼氏ができたと思ったら即カミングアウトしたのは、単に全員おしゃべりな家族で、お互いに何事も黙っていられないからだった。とはいえ、子どもの決死の告白をはぐらかした父には、今でも思い返すとむかっ腹が立つ。という話はともかくとして。
「実はあれ、付き合ってると思ってたのは俺だけだったんです。相手は二年くらいずっと、遊びっていうか性欲処理みたいなつもりだったって、卒業間際に言われて……」
直哉は黙って表情を曇らせる。
「ショックだったんですけど、それと同時に、今後自分が遊びの付き合いする時は、事前にちゃんと、お互い割り切った関係だって確認取るぞ! という変な決意が芽生えちゃいまして……」
檸檬の言葉に、直哉は少し思案顔をしてから、首をかしげた。
「いいことじゃないか?」
「で、実践したくなった結果、高校からは、めちゃめちゃ遊び人みたいになっちゃたんですよね」
「お、おお……」
「ここまでくると真剣に付き合うのが怖いって気持ちもあるかな……。好きな人ができても叶ったことないし……」
「そうなのか?」
真面目な顔で問う直哉に、檸檬は不意に、はっとしたように眉をひそめる。
「待って、なんで俺の話ばっかり! 先輩のイメージを話してたのに!」
「はは、そうだったな」
檸檬はむうっと顔をしかめた。
「今から俺が言うイメージ、当たってるか答えてください」
「ええ?」と言いながら直哉は笑う。
「じゃあね……中学か高校で、生徒会長やってた」
直哉は、含みのある笑みを浮かべた。
「会長ではないけど、中高で生徒会はやってたよ」
「うわっ、そっちの方がむしろイメージ通りすぎですよ」
直哉は「どういうことだよ」と苦笑する。
「むっちゃくちゃモテたでしょ」
「それは……自分でわかることじゃないだろ」
「その返しは、絶対何人か告白されてるな」
じとり見つめる檸檬に、直哉は困ったように笑う。
「なんなら小学校の時から、バレンタインいっぱいもらってそうだもん」
檸檬のその言葉に、直哉は急に一瞬、真顔になった。それから少し考えるような目をして、檸檬に穏やかな笑みを向ける。
「……それは外れ。小学校の時は友達がいなかった」
直哉の言葉と表情に、檸檬は、単なる謙遜や、冗談とは違う何かを感じ取る。そんな直哉はとても想像できないけれど、安易に「嘘でしょ」とも言えなかった。
「そう、なの?」
直哉は黙って頷き、気遣うように檸檬を見る。
「俺の身の上話なんか、後輩の君にはストレスだろ」
檸檬は慌ててぶんぶんと首を振る。
「直哉先輩がいいなら……」
直哉の左手が檸檬の髪にふと近づき、触れる一瞬前にすっと引いた。直哉が斜めに頭をかしげながら苦笑する。
「まただ。ごめん」
「いいよ。触って」
檸檬の言葉に、直哉は目を見開く。
「撫でてもらえるの、嬉しい、です」
なぜか少し切ないような顔をして、直哉は檸檬を見る。
「……話す間、触れていてもいいか?」
檸檬は、真剣な顔で頷いた。
「今の両親には、九歳の時に引き取られたんだ」
直哉はそう切り出した。
「それまでは学校に通ったことも、同年代の子どもと遊んだこともなかった。元の母は、俺の出生届を出していなかったんだ。父は知らない。ずっと二人で、アパートで暮らしていた」
想像を超えた話に、檸檬は言葉を失う。動揺が直哉に伝わらなければいい、と思った。直哉は檸檬の髪を、慰めを得るように、指先で柔らかく撫でながら話す。
「母は路上で頭を打って亡くなっていたそうだけど、今思えばアルコール依存症だったよ。道ばたで寝てしまったと言って、朝になってから帰ってきたことが何度もあった」
頭部外傷という事件性のある死因だったため、警察で詳しく身元が調べられ、アパートで大人しく待っていた直哉が発見されて、身分証から辿って母の実家にも連絡が行ったという。
「それで駆け付けたのが、今の母。本当は俺の叔母にあたる」
駆け落ちして出て行った母を探していたのは、親族の中で、この妹だけだった。そして、直哉を引き取り、自分の養子にした。
「元の母は、俺のことを『ナオ』って呼んでいた。字はわからない。それで母さん……今の母は、好きな作家の名前をあてて、俺の戸籍を作ったんだ」
元の母親にも、愛情は感じていたと、直哉は言う。苦しい生活だったけれど、食べるものにだけは困らないようにしてくれていた。酒のことで悩ませることもあったけれど、きっと一番ひどい姿は見せないようにしてくれた。言葉が遅れないようにと買い与えられたラジオ、算数や漢字のドリル。母と一緒に過ごした時間は、温かく楽しい思い出も多い。
「それから学校に通い始めて……だけど、ほかの子どもとの関わり方がわからなくて、ずっと保健室登校だった。二年ほど経って、やっと教室に通えるようになったけど、とうとう卒業まで友達はできなかった」
檸檬はただ、注意深く受け止めなければ真実が零れ落ちてしまいそうで、じっと直哉の話を聞いていた。髪に触れていいと言ったのは、正解だったと思う。直哉の心が遠くに行っていないと感じられる。
「人とうまく関われない間は、両親が、その時の俺にもできることを探してくれて、とにかく本を読んでいたんだ」
直哉の目に、不意にいつもの強い光が戻ったように見えた。
「母は、小説や物語の本は俺自身に選ばせたけど、時々『これは人として必要な本だ』と言って、子ども向けに書かれた社会学系の本なんかを一緒に読んでくれた」
「しゃかいがく……?」
「子どもの権利条約についてとか、人権に関する本とか……たぶんその時の俺が知るべきことを、選んでくれたんだと思う」
檸檬は、それまでとは違う驚きに目を見開く。
「俺は新しい親に気に入られたかったから、母の教えを必死で飲み込もうとした。だけどそうするうちに、母は俺自身に生きる権利や自由があることを伝えたいんだとわかってきた」
「……すごいお母さんですね」
今の直哉の人格が築かれたのは、持って生まれた性格もあるかもしれないけれど、その母の教育はかなり大きいだろう。
「ああ、偉大な人だよ」
自分が褒められてもいつも謙遜する直哉が、誇らしげに請け合う。なぜか檸檬も嬉しくなる。直哉も優しい顔で、檸檬の髪の上に乗せた手を、くしゃくしゃとかきまぜた。
「こんなにカッコイイ直哉先輩を育ててくれたんだから、お母さんに感謝しなきゃ」
笑顔になってそう言う檸檬に、直哉は「カッコイイ?」と言って、吹き出した。檸檬はその反応に、口をとがらせる。
「直哉先輩はね、まっすぐで優しいところがカッコイイんです」
すると、直哉は急に、ふーっと、大きなため息をついた。それから、難儀そうな顔をして檸檬を見る。
「……君が思ってるよりも、悪い男だったらどうするんだ?」
正直相手が直哉じゃなかったら、冗談だと思うか、くさいセリフすぎてドン引きするところだ。けれど直哉は大真面目に言っているようで、それもひっくるめてキュンときてしまう檸檬も、たいがい重症である。
「……それはそれで、やばいっす」
「やばいって、どういう意味で」
直哉の手はいつの間にか、檸檬の首の後ろ辺りの髪に触れている。檸檬は自分の息が熱くなっているのを感じながら、上目遣いに直哉を見る。
「興奮する」
直哉は視線を逸らし俯いて、もう一度ふーっと大きくため息をついた。
「君は本当に……俺が、どういう目で見てるか、わかってるのか」
(……え)
檸檬はそこでやっと気付く。これは、ただのじゃれ合いや、いたずらな応酬ではない。ただならぬ気配が、二人の間に生まれている。
(ど、どうしよう)
それは、絶対に実現しないと思っていた夢のようでもあり、でも密かに、期待と予感を抱いていたことのようでもあった。──直哉の瞳の中に、自分を欲する光があるんじゃないか、と。けれど、そう思うことすら恥ずかしい気がして、気付かないようにしていた。ただ今は、ドキドキしすぎて心臓が爆発しそうだ。
「わ、わかんないです。教えて……」
直哉は、髪を撫でているのとは反対の右手で、檸檬の左手に触れる。それからその手を取って、見つめ合う二人の間に引き寄せる。
「……檸檬に、キスしたい」
いつも力強い直哉の眼差しが、今はさらに、焼け付くほど熱い。しかし直哉は、それを無理やり引きはがすように、顔ごと視線を逸らした。
「嫌だったら、今すぐ逃げてくれ。責めたりしない」
「……いいよ」
直哉が驚いたように、逸らした瞳を再び檸檬に向ける。檸檬は抗えずふらふらと、火に飛び込んでしまう虫のような心持ちだった。
「本当に?」
直哉の問いに、檸檬はこくりと頷く。直哉は、掴んでいた左手をそっと持ち上げて、その手の甲に自分の唇を寄せた。
(えっ、そっち!?)
思わず檸檬は心の中でつっこむ。手にキスする姿は、さながら童話の王子様だ。キスしていいと言ったのに、こんな紳士的なやり方は、むしろ酷だと檸檬は思う。
しかし、直哉の視線が檸檬の手から、目に移り、再び熱く見つめられる。視線を合わせたまま直哉は、檸檬の指の関節に吸いつく。人差し指から中指と移り、第二関節の骨の隆起を一つずつ、ゆっくりと、ちゅ、と音を立てて、吸うように口づけていく。
(……っ、食べられてるみたい……)
小指にたどり着く頃には、たまらなくなって、檸檬の方から唇を寄せた。
「先輩っ」
獲物が飛び込むのを待っていたかのように、直哉の唇が檸檬を捕える。ゆっくりと深くなるキスに身を委ねながら、いつの間にか檸檬は、直哉に押さえつけられるようにベッドサイドに背中をもたれていた。不意に直哉が唇を離す。
「……どこまで触れていい?」
直哉の手が、壊れものを扱うように、檸檬の肩のあたりを大事そうに撫でる。
「……最後まで、できるの?」
檸檬が問い返すと、直哉は、熱いため息をつきながら顔を寄せて、おでこから鼻までをくっつけながら言う。
「教えてくれ。檸檬を、抱きたい」
(抱いて……っ)
反射的に心の中でそう叫んでから、檸檬は、自分で自分に苦笑した。今時、月九ドラマでもそんなセリフ言わない。
「何笑ってるんだ?」
怪訝そうに問う直哉に、なんでもないというように首を振って、檸檬は直哉の体を少し押し戻すと、ベッドに腰かけた。
それから、直哉に借りたばかりのグレーのTシャツを脱ぐ。息を飲む直哉に向かって、檸檬は両腕を伸ばす。誘うような言葉は、どうしても言えなくて、ただ目で訴えかけた。
直哉は弾かれたように立ち上がり、自分もTシャツを脱いで、ベッドに膝をついて檸檬を抱きしめる。檸檬の体は、ベッドに押し倒された。
トーストと卵焼きの匂い。目覚めた瞬間に、檸檬が知覚したのは、その二つだった。それからやっと、ここが直哉の部屋だったことに気付く。昨日の夜、好きな人と、夢のような時を過ごしたことも。
直哉はTシャツと短パン姿で、狭いキッチンに立っていた。今出来たばかりらしいスクランブルエッグをフライパンから皿に移して、こちらを向く。ベッドから起き上がっている檸檬を見て、直哉は微笑む。
「おはよう」
皿を運んできたローテーブルには、すでに焼いたトーストが置かれていた。
「直哉先輩、料理もできるの?」
直哉は皿を置いたローテーブルの前に座りながら、腕を組んで「うーん」と、ちょっとおどけるように考える仕草をする。
「できると言えるほどの腕前じゃないけど、食えないほどではないってレベルだな」
成る程スクランブルエッグは、よく見ると少し焦げている。見栄えはちょっと悪いけれど、不味くはなさそうだ。得意なわけでもないのに作ってくれたことに、むしろ檸檬はきゅんとしてしまう。昨夜のセックスといい、優しさで砂糖漬けにされたみたいな気分だ。
「まじで……いつもこんなにサービスいいんですか?」
顔を洗ってきて、テーブルにつきながら、檸檬は昨日と同じ質問を繰り返してしまう。
「だから、どの『いつも』だよ」
直哉も笑いながら、同じ答えを繰り返す。
「……寝た相手とか」
直哉は、卵をトーストに乗せる箸を少し止めて、じっと檸檬を見る。
「こういうことになったのは、檸檬が初めてだよ」
檸檬は、考えてしまう。
(ということは、あれはやっぱり元カノと使ってたのかな……)
昨日の夜、直哉はベッドの横の引き出しから、自前のコンドームを取り出してきた。彼女もいない、セフレもいない、ワンナイトしたのも檸檬が初めてというのが本当だったら、元カノの線しかない気がする。直哉はずっと前のことだと言っていたけれど、どれくらいを「ずっと前」というのだろう。
沈黙してしまった檸檬を、直哉が心配そうに見つめているのに気付いて、檸檬は慌てて笑顔を取り繕う。
「俺、真面目な先輩を、悪い遊びに引き込んじゃったみたい?」
冗談めかす檸檬に、直哉は急に真顔になる。
「……やっぱりこういうことは、向いてないな、俺は」
胸がぎゅっと押さえつけられたように痛んだ。直哉は、昨夜のことを後悔しているんだろうか。
「檸檬が、真剣な交際に拒否感があるんだったら、それに合わせてもいいと思ったんだ。……だけどそれは、俺が嘘をつくことになる」
胸の下の方から、泣きそうな波が押し寄せてきて、檸檬はそれを喉の奥でぐっと抑える。昨夜のことは、自分に合わせてくれただけで、本当はこんな関係を持ちたくなかったのだろうか。
「君が好きだ、檸檬」
その言葉を、檸檬の脳は、すぐには理解できなかった。
「気持ちを誤魔化したまま君と向き合うなんて、できない」
檸檬は呆然と直哉を見る。直哉はいつも通りの、真っ直ぐな強い目で檸檬を見つめていた。その瞳に捉えられて、脳の奥がしびれるような感覚に、檸檬は固まってしまう。直哉は続ける。
「俺の恋人になってください」
檸檬は、硬直した体から、絞り出すようにやっと声を出した。
「……少し、考えさせてください……」
作中の展開として、女性差別、児童ネグレクトに関する描写があります。
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「信じらんないよ、今までずっとトカゲだと思ってたなんて」
「だって……ひっかけ問題みたいだよ?」
「タマはヒョウモントカゲモドキ、ヤモリの仲間だよ」
前回は檸檬が来られなかった「飛行船」で、もう一度五人で食事をしようと誘ったのは、大地と冬人だった。その二人がいきなり謎の痴話喧嘩を繰り広げるので、檸檬が「ちょいちょいちょい」と割って入る。
「あの……何の話?」
「うちの実家で飼ってるタマがさ……」
大地のペットのヤモリを、冬人が長年トカゲだと勘違いしていたとかいう話を、今度は映見が「ちょっと」と制した。
「今日私たちを集めたのは、その話をするためじゃないでしょ?」
大地と冬人は、どきっとしたような表情を浮かべる。
「あー、えーと」
「実は……」
「お待たせしあっしたー」
前に来た時と同じマッチョな店員が、料理を運んできた。今回は、冬人と檸檬以外はオムライスを頼んだ。前回冬人が食べていたフルサイズのオムライスを、結局みんな食べてみたくなったのだ。前回とは逆で、定食メニューよりオムライスの方が先に到着する。そのすぐ後に、大地の隣に座る冬人にミックスフライ定食、愛実と映見と並んで座る檸檬に、ハンバーグとミニオムライスセットが運ばれてくる。みんなが料理に目を奪われていると、冬人が突然口を開いた。
「付き合うことになりました」
一同は顔を上げて、ぽかんと冬人を見つめる。
「大地と僕」
「いや、ほかに誰がいるよ」
檸檬が思わずツッコミを入れる。
「冬っちタイミング独特すぎ」
「こういうやつなんだよ」
映見と愛実も、半ば呆れた表情で掛け合いしている。
「あの、急で驚いたかもしれないんだけど……」
フォローしようとした大地に、
「驚きません」
愛実がきっぱり返す。
「だって俺ら、最初っから『冬人&大地をくっつけ隊』だもんな」
呆気にとられている冬人と大地を放置して、「とりあえず乾杯~」と言う映見の音頭で、三人は水のグラスをカチンと合わせた。
「ていうか冬っち、普段は大地と友達っぽい感じとかなんとか言ってたの、あれなんだったん?」
檸檬にツッコまれて、冬人は首をかしげる。
「最初に相談した時のこと? 今もそうだよ。大地と僕は付き合っても、これまでどおり普段は友達同士みたいな関係で……」
「いや、どの口が言ってんの」
「これまでもずっと、常にバカップルだよね」
檸檬と愛実に畳みかけられて、冬人と大地はぽかんとしている。
「もしかして、本当に自覚なかった?」
苦笑いの映見に、大地が「え? 俺らってバカップル? バカップル?」としつこく聞いているけれど、そろそろ面倒なので、愛実は別の話題に移ることにする。
「ところで檸檬もさ、やっぱ高坂先輩となんかあったんじゃない?」
檸檬は飲んだ水を吹きそうになる。
「は? 何かって?」
「この間先輩、檸檬のことしか見えてないって感じだったもん」
愛実は、先日渡会と会った時のことを話す。ウェブアンケートのアイディアについては、映見と大地もすでに聞いていた。
「高坂先輩の檸檬に話しかける声がも~う甘くて、こっちが照れるくらい」
「あの人は元々ああいうしゃべり方なんだよ」
檸檬は誤魔化すようにハンバーグをぱくつく。
「まあ、檸檬が隠したいって言うんならいいけど……」
どうせ言いたいんでしょ、とばかりの冬人の視線に、檸檬はぐっと拳を握った。
「……べつに、何があったってわけじゃないけど……」
結局こういう時に、黙っていられないのが檸檬の性分である。運営委員の飲み会であったことを、大まかに話す。
「うわー、何それ! 名前の交換なんて、超ときめく!」
大地が叫ぶ。冬人が「僕たちもやろうか」とささやいて、大地に呆れた視線を投げられている。
「あと……この間、下の名前で呼んでって言われた」
「わお、彼は檸檬と親しくしたいんじゃない」
嬉しそうに言う映見だけれど、檸檬はなぜか拗ねたような表情で、ふん、と息を吐く。
「だとしても、どうにもなんないだろ。どう見たってヘテロだもん」
「えー?」
愛実は異議ありげな顔だ。
「見てわかることなんてある?」
そう言われると、檸檬も確信を持って判別できるわけではない。「ゲイダー」なんて、半分はごっこ遊びみたいなものだ。
「とにかく、余計な期待はしたくないの、俺は」
「でもそれって」
大地が突っ込んだ。
「期待ってことは、檸檬は彼が好きってこと?」
檸檬は言葉に詰まって、フォークとナイフを、皿の上でカチカチ鳴らした。
「そりゃあ、元々いいなって思ってたし……今はもっと思ってるけど……」
「そういえば最近、遊び相手の方々も全然見なくなったね」
冬人がなかなか鋭いところをついてくる。
「それは委員会が忙しいから……それ以外はお前らと会ってるし」
「檸檬は、トライする気はないの?」
不思議そうに映見が問う。
「別に俺、顔見てるだけでいいし……」
「ホントに?」
愛実が疑わしそうに目を細めて、檸檬はふくれっ面で愛実を睨む。
「……うーん、まあ、気持ちはわかるよ」
映見が、質問攻めしてしまったことに苦笑しつつフォローに回った。
「同性同士の場合、相手からすごくサイン出してるように見えても、ただのフレンドシップだったってこと結構あるから」
一同、ああ、と声が漏れた。映見は何かを思い出すように続ける。
「最初は本気でも、元々ヘテロだった人が急に中傷される側になって、やっぱり無理ってパターンもあるしね……」
皆、その言葉には表情が曇った。
「この間みたいな酷いこと言ってくる人って、まだいる?」
心配そうに問う愛実に、映見は笑顔を返す。
「ううん、国際学部は基本的にはゲイフレンドリーな人が多いし、変なこと言われたのはカフェミーティングの時だけだよ」
「でも、フレンドリーを装ってからかってくるやつとか、理解ありますってアピールのために利用してくるやつもいるからな」
「わかってる。向こうにもそういう人はいたし」
自分の話をしていたことも忘れたように映見の身を案じる檸檬に、映見は笑って、その肩に手を置く。
「だけど聞いてる感じ、その先輩は、自分がマイノリティになることも受け入れられる人なんじゃない?」
檸檬は、「うーん……」と視線を宙に泳がせる。こんな時に、店の壁に小さな飛行船の絵がかけられているのに、妙に気付いてしまったりなんかする。
「……俺はあの人が中傷とかされるのは、嫌だな……」
零れた檸檬の言葉に、四人は顔を見合わせた。
「浅倉」
声をかけられて振り向くと、渡会が数人の女子たちと一緒に立っていた。檸檬は渡り廊下でほかの一年たちと、四方から立て看板を囲んで色塗りをしているところだった。
履修科目の一次登録から、抽選後の調整も経て最終登録の締め切りが、四月末。連休を挟んで五月頭から、「本授業」と呼ばれる第一クォーターが開始される。四月中の授業は、履修が決まるまでのいわばお試し期間だ。とはいえ、中には四月中から本授業なみの内容にがんがん食い込んでくる鬼のような教授もいるのが、大学らしくもある。
運営委員では、この最終登録を終えた時期に合わせて、構内を飾り付けるのが毎年恒例になっていた。連休を終え、学生たちが戻ってきたキャンパスに歓迎ムードを加えて五月病を防止すると同時に、毎年いる履修登録忘れの学生に、最後の救済のチャンスを喚起する意味も持っている。このため、連休前最後の授業日の今日は、大きな山場となった。檸檬たち一年にとっては初めての、「夜までコース」と呼ばれる遅い時間までの作業日だ。
呼び掛けられて振り向いた檸檬に、渡会は自分の背後を指差すようなジェスチャーで何かを促す。最近わかったことだけれど、渡会も、檸檬を下の名前で呼ばない珍しい先輩の一人だ。ほかの委員のことも全員苗字で呼んでいるので、この人なりのこだわりがあるのかもしれない。
「そろそろカレー取りにいこうか」
渡会の言葉に、檸檬は「はーい」と返事をして立ち上がった。
話は、数日前の作業日にさかのぼる。渡会が何人かの先輩たちと机を囲んで話し合っているところに、檸檬が通りすがった。
「なんか作るんですか?」
そう聞いたのは、渡会の目の前に置かれたメモに、じゃがいも、にんじん、たまねぎなどの食材が書き記されていたからだ。渡会は、少し驚いたような顔で振り返った。
「連休前の『夜までコース』の夕食用に、カレー作るんだよ」
へえ、と頷きながら、檸檬は首をかしげた。
「それ、いつ作るんすか?」
その日は、授業後すぐに装飾の作業に取り掛かると伝えられている。
「私とこの二人が三限までだから、三人でちゃちゃっとね」
渡会は、隣に座る二年と三年の女子二人を指差す。
「え、それ俺も行っちゃだめっすか」
檸檬が言った瞬間、その場の女子たちが目を見開いて固まった。
「一年は、その時間授業あるでしょ?」
渡会が笑って問い返す。
「その日俺ちょうど、五限はあるけど四限だけ穴開きなんですよ。みんなで作るの楽しそうだし!」
渡会の隣にいた三年生が、少し戸惑いを浮かべた笑みで問う。
「レモンちゃん、料理できるの?」
「え、まあ、カレーくらいだったら」
先輩たちは、困惑するような、でもどこか嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
「オッケー、作業は学科の給湯室とその隣の二〇二号室ね。調理用具と卓上コンロを運び出すから、三限後に倉庫前に来て」
渡会がはきはきした口調でそう告げると、ほかの先輩たちも、納得したように頷き合った。
そんなことがあって、二、三年に混ざって檸檬も一緒にカレーを作り、盛り付けて配るところまで参加することになった。檸檬は先輩たちのお達しで、ご飯の上にカレーをかける役割を任される。その日の作業参加者は二十人ほどで、受け取る列に並ぶ委員たちに、次々渡していく。
四角いコンクリートの柱が数本立つ広い渡り廊下の地べたに、一応細い通り道だけ空けて、作りかけの看板や装飾物が色とりどりに置かれている。皆、その周りに各々適当な座り場所を見つけて、賑やかに話しながら食べ始めた。
三年の先輩が「おかわりもあるからねー」と呼びかけるのと、檸檬が最後の一人にカレーを手渡すのが同時だった。
「驚いたな。檸檬も作ったんだろ?」
それは、直哉だった。
「直哉先輩」
「ほら、自分のもよそって」
二年の先輩が、ご飯だけ盛った深底のパルプ皿を渡してくれる。
「それよそったら食べに行っていいよ。私たちは自分で盛るから」
檸檬が自分のカレーを盛る間も、直哉は鍋を挟んで、向かいに立ったままいる。
「あっちで、一緒に食べないか」
直哉が示したのは、校舎と渡り廊下をつなぐ、短い階段だった。みんなの輪からは少し外れている。檸檬は内心、心臓が飛び出しそうになりながら頷いた。
「渡会さんが、檸檬のことを褒めてたよ」
座って食べ始めると同時にそう言われて、檸檬はプラスチックのスプーンを口に入れたまま、きょとんと直哉を見る。
「さっき聞いたんだ。自分から調理に参加するって言ったんだって?」
一体いつの間にそんなことを聞いたのだろう。檸檬がカレーを盛っている間に、渡会と話していたのだろうか。
「みんなで作るの楽しそうだから、俺もやりたいって言っただけですよ」
檸檬は照れ隠しに、スプーンを少し乱暴に差す。褒められるようなことだと思っていなかったので、改めて言われると、こそばゆい気がしてしまう。
「俺は、自分が恥ずかしかったよ。去年も同じように女性の先輩たちだけで作ってくれてたのに、俺は全然気付かなかったんだ。檸檬たちがいつの間に準備してたのかも、知らなかった」
檸檬は慌てて「いやいや、」と手を振る。
「俺はたまたま先輩たちが相談してるの聞いたから」
檸檬の顔を、直哉はじっと深い瞳で覗き込む。
「渡会先輩は、男子で気付いて声をかけてきたのは、檸檬が初めてだって言ってた」
その言葉に、檸檬はしばしきょとんとした後、「あー……」と声を上げた。
「みんな女子か……」
「え?」と問い返す直哉を、檸檬はちらり、と上目遣いに見た。
「……実は俺、男女の見分けあんまりつかないんですよね」
そう……今はこれでも、服装や髪形など、かなり見分けるコツを覚えた方なのだ。中学高校も制服があるからまだわかりやすかったけれど、小学生の頃は大変だった。そもそも学校の中でたびたび起こる「男女に分かれる」という状況の意味がわからず、ふざけていると思われて、先生から怒られたことも多い。
直哉は、何か慎重に言葉を返そうと考える表情をして、しかし良い言葉が見つからないようだった。
「いまだに、気付かずに女子の集団に混ざっちゃって、変な顔されることあるんですよね~」
委員会の中でも優しくて好きな先輩ばかりが集まっていて、みんなでカレー作りなんて楽しそうだと普通に参加してしまったけれど、そういえば、檸檬の「優しくて好きな先輩」は直哉以外ほとんど女性だったと今さら気付く。
「あー、先輩たちのあの反応、そういうことかあ……」
参加したいと言った時の、あの戸惑ったような笑顔の意味がやっとわかって、檸檬は頭を抱える。直哉は気遣うように微笑む。
「渡会さんたちは、喜んでたよ。料理の手際もよかったって」
実家の工場が忙しい時は家族の食事を作ることもある檸檬にとって、それは特別なことではなかった。
「無意識だった分、恥ずかしいですよ」
「俺は、無意識に無視していた自分が、恐ろしいと思ったよ」
強い言葉遣いに、檸檬は戸惑う。
「……無視?」
「女子たちが集まって夕食の相談しているのを、俺もきっと目にしていたはずなんだ。……だけど、見ていなかった」
直哉はプラスプーンで無造作にご飯とルーをかき回しながら喋る。
「女性が集まってる場に自分は関係ないって、無意識に視界から外していたんだ。……性別の区別がつかなくて君は苦労しただろうけど、それは檸檬の美点だと俺は思うよ」
檸檬は「そうかな」と小さく呟く。けれど自戒する直哉に見つめられて、目を逸らせなかった。
「無意識に女性たちを視界から外してしまうっていうことが、何を招くかっていうとな」
直哉は、少し周りを見回した。渡り廊下のあちこちに散らばって食べている学生たちは、それぞれ、近くにいる人と賑やかに話している。ここからの声は届きそうもない。けれど、直哉は声のトーンを低くする。
「この間、どうして渡会先輩が委員長じゃないのか聞いただろう」
成る程ほかの委員には聞かれたくないその話題に、檸檬はどぎまぎしながら頷く。
「俺は、渡会さんが女性じゃなかったら、委員長になってたと思う」
……心臓を突かれたようなショックだった。視線を外し、正面を向く直哉の瞳は、いつもより暗く見える。横顔を見つめながら、檸檬は呼び掛ける。
「直哉先輩」
直哉は優しい声で「うん」と返した。
「俺、こういう……受け入れられないくらいがっかりすることって、どうしたらいいかわかんないです」
戸惑いをそのまま口にする檸檬を、直哉は、目の奥まで覗くように見つめる。
「受け入れられなくても、受け入れて心底がっかりするしかない」
言葉そのものの厳しさと裏腹に、直哉は檸檬の頭に、慈しむように自分の左手を置く。
「そうしなければ、変えることもできない」
深く抑えた声。髪を通して伝わる手の温もりに、胸が苦しくなった。その時、直哉が「あっ」と声を上げて、頭の上の手を離す。
「悪い、俺は、すぐ触る……っ」
目を閉じながら、さっきまで檸檬の頭にあった手をぐっと握りしめている。
「これじゃ細井さんのこと言えないよな」
その動作に、なんだか檸檬は可笑しくなって笑ってしまう。「いいのに」と、口の中でこっそり呟いた檸檬の声に、直哉が「え?」と聞き返す。檸檬は何でもない、と首を振った。
立て看板と装飾物を設置し終わる頃には、九時を回っていた。看板の色塗りに使ったアクリル絵の具をほかの一年たちと一緒に片付けながら、檸檬は、今からでは快速電車はもうないかな、などと考える。筆洗い用のバケツの水を捨てようと取手を持って立ち上がった、その一瞬のことだった。
靴底がずるりと滑る感覚。下敷きにしていた新聞紙に足を取られた。やばい、と思った時には、上体が後ろへ傾き、そのまま尻餅をつくかと思ったけれど、檸檬の体は誰かの腕に支えられる。しかし同時に、手にしていたバケツの水が逆さになって、檸檬の顔めがけて降り注いだ。
「……!?」
絵具を洗った水で、髪や白いTシャツや、羽織っていた半袖シャツまでびしょ濡れになりながら、檸檬はしばし呆然とした。はっとして見上げると、そこに直哉の顔があった。
「大丈夫か?」
周りで、ほかの委員会メンバーも何事かとざわついている。
「だいじょぶっすけど……」
檸檬は慌てて直哉に支えられている体を起こす。
「……絵具くさい~」
顔をくしゃくしゃにして言う檸檬に、直哉が苦笑しながら、「何か拭くもの……」と言う時には、すでにミニタオルを持った一年の女子が駆けつけていた。そのまま、顔を拭いてくれる。
「ごめん、タオル汚れちゃった」
「いや、それよりレモンちゃんの服が大変なことに……高坂先輩も」
言われて、高坂の黒いTシャツまで絵具の水で濡れていることに気付く。
「わ、先輩まで! すいません!」
「いや、俺は少しかかっただけだよ」
言いながらも、直哉は顔や髪を拭かれている檸檬を見て眉根を寄せている。さすがに迷惑に思ったのでは、と檸檬は不安になる。
「今の時間、スポーツルームのシャワーも閉まっちゃってるし、どうしようか」
いつの間にか渡会も近くに来ていた。
「や、水道で適当に洗うんで」
「俺の部屋のシャワーを使ったらいい」
直哉の言葉に、檸檬は目を丸くした。
「そっか、高坂は『寮』だよね」
渡会に、直哉は「はい」と頷く。檸檬は慌てる。
「いやっ、そんな、いいですって」
しかし、背後から別の声が断言した。
「ダメだ」
細井だった。
「俺らは一年に責任があるんだよ。そんな状態で帰すわけにゃいかん」
「アクリル絵の具は乾くと落ちにくくなるから。服は無理かもだけど、髪だけでも早く洗った方がいいよ」
渡会も言う。
「でも、俺が転んだせいなのに……」
さっきの険しい表情が気になって、檸檬はおずおずと直哉を見上げる。直哉は、いつもの優しい目で檸檬を見ていた。
「誰だって転ぶことはある」
「とにかく、高坂の部屋でシャワーと着替えを借りるように。これは先輩命令だ」
細井がそう言って、半ば押し出すように直哉と檸檬を先に引き上げさせた。
『寮』と言っているのは学生間での通称で、実際は大学付属の学生マンションだ。各部屋にトイレとシャワーもあって、通常の学生寮よりは割高だけれど、近隣の賃貸の相場よりは安いし、簡単な家具も揃っている。寮よりプライバシーがありルールも厳しくないが、食堂の夕食を頼むこともでき、入居希望者は毎年抽選になるという。映見も同じマンションに住んでいると言っていたけれど、檸檬自身は、中に入るのは初めてだ。
「おじゃましまーす……」
玄関を入ると、短い廊下の右手には、IHコンロの小さなキッチンと冷蔵庫、左手にシンプルなドアが一つある。おそらくここがトイレとシャワールームだろう。
廊下の先のワンルームは、手前側に勉強机と大きな本棚、奥にベッドと、その脇に小さなローテーブル。上に赤いマグカップが置いてある。フローリングの床にカーペットなどは敷いていない。片付いているけれどこだわりのなさそうなざっくりとした簡素さが、なんとなく直哉っぽいな、と檸檬は思う。本棚だけはこの部屋の中でも無秩序な空間で、乱雑に置かれた本が溢れ出しそうだった。
「とりあえずはシャワーだな。タオルと着替えは……」
直哉はずんずんと部屋を進み、勉強机と反対側の壁に据え付けられているクローゼットの下の方から、バスタオルとグレーのTシャツを取り出す。
「これでいいかな」
「あ、着替えとか、そんな」
遠慮する檸檬に直哉はふっと笑うと、強引にその二つを渡して、廊下のドアの向こうへ檸檬を押し込んだ。
「何かあったら呼んで」
トイレと脱衣所を兼ねたスペースの奥に、曇りガラスの引き戸で仕切られた、浴槽の無いシャワールームがあった。部屋のドアには小さな鍵もついているけれど、直哉が隣の部屋にいる状況で裸になるのは、妙に緊張する。
とはいえ、髪はすでにカピカピになりかけていたので、そんなことばかり気にしてもいられない。檸檬はえいっと思い切るように服を脱ぎ、シャワールームに飛び込んだ。
渡されたTシャツは、檸檬には少し大きめだった。タオルで頭を拭き拭き、シャワールームから出たら、直哉はベッドとローテーブルのそばに、なぜか立ったままいた。檸檬が部屋に戻るなりぱっと顔を上げて、「ちゃんと絵具は落ちたか?」と聞いてくる。頷く檸檬に、
「ドライヤーはこれ」
と、延長コードにつないだドライヤーを、拾い上げて檸檬に手渡す。
テーブルの上には、さっきのマグカップは無くなっていて、代わりに大きな水のペットボトルと、ガラスのコップが置かれている。
「水くらいしかないけど、良ければ飲んでてくれ」
気を遣われすぎて、檸檬は目を回してしまいそうだった。しかし直哉の顔を見ると、どこか、いつもより落ち着かない表情に見える。
(……もしかして先輩も、緊張してる?)
それは、単に後輩を部屋に上げるのが初めてだからなのか、何か違う意味があるのかはわからない。けれど、妙にドキドキするような、嬉しいような、ざわついた気持ちになる。
「俺も少し濡れたから、汚れ落としてくるな」
そう言って直哉はシャワールームに消えた。と思ったら、そそくさと戻ってきて、真面目な顔で「タオルを忘れた」と言うので、檸檬は思わず吹き出した。
「ドジっ子だ、先輩」
直哉も笑って「そうだよ」と答え、タオルを取り改めてシャワーに向かう。直哉が去った後も、檸檬はそのドアを見つめて微笑んでしまう。直哉の部屋で、こんなやりとりをする日が来るなんて、信じられない。
そんなことばかり考えてにやけていたら、髪が乾くより先に直哉が出てきてしまいそうなので、檸檬はローテーブルとベッドの間にぺたんと座って、ドライヤーをあて始めた。
けれど、直哉のシャワーは相当短かった。
「問題なかったかな」
そう言いながら、直哉がシャワールームから出てきたのは、檸檬がもう少しで乾かし終わるくらいのタイミング。今手に持っている黒いTシャツから着替えたはずなのに、また同じような黒いTシャツを着ている。
「あっすみません、俺もう終わるんで……」
檸檬は慌ててドライヤーを切り上げようとするけれど、よく見ると、直哉の髪は濡れていない。
「いや、絵具で汚れたところ落とすだけで良かったから、髪は洗ってない」
「それでこんな早かったんすか?」
檸檬は直哉を急がせてしまったかも、とちょっと心配になる。直哉がシャワーから上がるまで、檸檬が所在なく部屋で待つことになると思って気を遣ってくれたのかもしれない。
「いいからよく乾かせ」
直哉はTシャツとタオルを四角いナイロンバッグの洗濯かごに放り込むと、檸檬の座っている右側に、胡坐をかいて座る。洗濯機だけは、共同の洗濯室にあるそうだ。そのままドライヤーをかける檸檬の隣で、直哉は「まだ生乾きじゃないか?」などと言って、しっかり髪が乾くまで見届けた。
「お母さんみたい……」
ドライヤーを檸檬から回収してクローゼットにしまう直哉に、聞こえないくらいの声で檸檬は呟く。直哉は「ん?」と振り向いた。
「いや、先輩って、いつもこんなにサービスいいんですか?」
檸檬の質問に、直哉はおかしそうに笑った。
「いつもって、どの『いつも』だ?」
言いながら直哉は、キッチンからもう一つグラスを持ってきた。戻ってきて、さっきと同じ場所に再び胡坐をかき、ペットボトルから二つのグラスに水を注ぐ。
「彼女とか来た時」
「彼女なんていないぞ」
檸檬は、妙にむきになってしまう。
「過去は? いたことないんですか?」
直哉は腕を組んで、「うーん」と、あまり気乗りしなさそうな声を出した。
「まあ、ずっと前のことだ」
その反応が、なんだか檸檬には意外だった。
「先輩って、初めての彼女一生大事にしそうなイメージだったかも」
「なんだ、イメージダウンか?」
言いながら直哉は笑っている。「あ、いえっ」と、慌てて打ち消す檸檬の顔を、直哉は少し身を屈めて下から覗き込んだ。
「……檸檬の中の俺のイメージって?」
その動作に、檸檬の心臓はドキドキ高鳴る。
「教えてほしい。俺はどう見えてる?」
「えっと……」
改めて聞かれると答えに詰まる。思っていることはたくさんあるけれど、好きな気持ちを悟られないように言えることは少ない。
「とりあえず、俺みたいにいい加減な付き合いはしないでしょ」
なぜかこんな時に限って、むしろ自分のイメージを落とすようなことを言ってしまう。しかし、直哉は少し考えたあとに、「どうかな」と答えた。
「いい加減って、どういうことを言うんだろうな」
檸檬は困惑する。
(まさか、意外と遊んでるなんて言わないよな?)
「セフレとか……」
「ああ、そういう経験はないけど」
檸檬はほっと息をつく。直哉が実はプレイボーイだったとしても好きなのは変わらないけれど、ちょっとハラハラしてしまった。
「……檸檬は、誰かと真剣に付き合うつもりはないのか?」
直哉が、見上げる体勢のまま問う。上目遣いの視線がまっすぐ檸檬を捉えている。
「……前にちょっと話した、初めて付き合った男っていうのが、中学の同級生なんですけど……」
ちらりと直哉の顔を見ると、直哉は優しく頷く。
「その歳でもう、ご両親に話したんだな」
中学生で彼氏ができたと思ったら即カミングアウトしたのは、単に全員おしゃべりな家族で、お互いに何事も黙っていられないからだった。とはいえ、子どもの決死の告白をはぐらかした父には、今でも思い返すとむかっ腹が立つ。という話はともかくとして。
「実はあれ、付き合ってると思ってたのは俺だけだったんです。相手は二年くらいずっと、遊びっていうか性欲処理みたいなつもりだったって、卒業間際に言われて……」
直哉は黙って表情を曇らせる。
「ショックだったんですけど、それと同時に、今後自分が遊びの付き合いする時は、事前にちゃんと、お互い割り切った関係だって確認取るぞ! という変な決意が芽生えちゃいまして……」
檸檬の言葉に、直哉は少し思案顔をしてから、首をかしげた。
「いいことじゃないか?」
「で、実践したくなった結果、高校からは、めちゃめちゃ遊び人みたいになっちゃたんですよね」
「お、おお……」
「ここまでくると真剣に付き合うのが怖いって気持ちもあるかな……。好きな人ができても叶ったことないし……」
「そうなのか?」
真面目な顔で問う直哉に、檸檬は不意に、はっとしたように眉をひそめる。
「待って、なんで俺の話ばっかり! 先輩のイメージを話してたのに!」
「はは、そうだったな」
檸檬はむうっと顔をしかめた。
「今から俺が言うイメージ、当たってるか答えてください」
「ええ?」と言いながら直哉は笑う。
「じゃあね……中学か高校で、生徒会長やってた」
直哉は、含みのある笑みを浮かべた。
「会長ではないけど、中高で生徒会はやってたよ」
「うわっ、そっちの方がむしろイメージ通りすぎですよ」
直哉は「どういうことだよ」と苦笑する。
「むっちゃくちゃモテたでしょ」
「それは……自分でわかることじゃないだろ」
「その返しは、絶対何人か告白されてるな」
じとり見つめる檸檬に、直哉は困ったように笑う。
「なんなら小学校の時から、バレンタインいっぱいもらってそうだもん」
檸檬のその言葉に、直哉は急に一瞬、真顔になった。それから少し考えるような目をして、檸檬に穏やかな笑みを向ける。
「……それは外れ。小学校の時は友達がいなかった」
直哉の言葉と表情に、檸檬は、単なる謙遜や、冗談とは違う何かを感じ取る。そんな直哉はとても想像できないけれど、安易に「嘘でしょ」とも言えなかった。
「そう、なの?」
直哉は黙って頷き、気遣うように檸檬を見る。
「俺の身の上話なんか、後輩の君にはストレスだろ」
檸檬は慌ててぶんぶんと首を振る。
「直哉先輩がいいなら……」
直哉の左手が檸檬の髪にふと近づき、触れる一瞬前にすっと引いた。直哉が斜めに頭をかしげながら苦笑する。
「まただ。ごめん」
「いいよ。触って」
檸檬の言葉に、直哉は目を見開く。
「撫でてもらえるの、嬉しい、です」
なぜか少し切ないような顔をして、直哉は檸檬を見る。
「……話す間、触れていてもいいか?」
檸檬は、真剣な顔で頷いた。
「今の両親には、九歳の時に引き取られたんだ」
直哉はそう切り出した。
「それまでは学校に通ったことも、同年代の子どもと遊んだこともなかった。元の母は、俺の出生届を出していなかったんだ。父は知らない。ずっと二人で、アパートで暮らしていた」
想像を超えた話に、檸檬は言葉を失う。動揺が直哉に伝わらなければいい、と思った。直哉は檸檬の髪を、慰めを得るように、指先で柔らかく撫でながら話す。
「母は路上で頭を打って亡くなっていたそうだけど、今思えばアルコール依存症だったよ。道ばたで寝てしまったと言って、朝になってから帰ってきたことが何度もあった」
頭部外傷という事件性のある死因だったため、警察で詳しく身元が調べられ、アパートで大人しく待っていた直哉が発見されて、身分証から辿って母の実家にも連絡が行ったという。
「それで駆け付けたのが、今の母。本当は俺の叔母にあたる」
駆け落ちして出て行った母を探していたのは、親族の中で、この妹だけだった。そして、直哉を引き取り、自分の養子にした。
「元の母は、俺のことを『ナオ』って呼んでいた。字はわからない。それで母さん……今の母は、好きな作家の名前をあてて、俺の戸籍を作ったんだ」
元の母親にも、愛情は感じていたと、直哉は言う。苦しい生活だったけれど、食べるものにだけは困らないようにしてくれていた。酒のことで悩ませることもあったけれど、きっと一番ひどい姿は見せないようにしてくれた。言葉が遅れないようにと買い与えられたラジオ、算数や漢字のドリル。母と一緒に過ごした時間は、温かく楽しい思い出も多い。
「それから学校に通い始めて……だけど、ほかの子どもとの関わり方がわからなくて、ずっと保健室登校だった。二年ほど経って、やっと教室に通えるようになったけど、とうとう卒業まで友達はできなかった」
檸檬はただ、注意深く受け止めなければ真実が零れ落ちてしまいそうで、じっと直哉の話を聞いていた。髪に触れていいと言ったのは、正解だったと思う。直哉の心が遠くに行っていないと感じられる。
「人とうまく関われない間は、両親が、その時の俺にもできることを探してくれて、とにかく本を読んでいたんだ」
直哉の目に、不意にいつもの強い光が戻ったように見えた。
「母は、小説や物語の本は俺自身に選ばせたけど、時々『これは人として必要な本だ』と言って、子ども向けに書かれた社会学系の本なんかを一緒に読んでくれた」
「しゃかいがく……?」
「子どもの権利条約についてとか、人権に関する本とか……たぶんその時の俺が知るべきことを、選んでくれたんだと思う」
檸檬は、それまでとは違う驚きに目を見開く。
「俺は新しい親に気に入られたかったから、母の教えを必死で飲み込もうとした。だけどそうするうちに、母は俺自身に生きる権利や自由があることを伝えたいんだとわかってきた」
「……すごいお母さんですね」
今の直哉の人格が築かれたのは、持って生まれた性格もあるかもしれないけれど、その母の教育はかなり大きいだろう。
「ああ、偉大な人だよ」
自分が褒められてもいつも謙遜する直哉が、誇らしげに請け合う。なぜか檸檬も嬉しくなる。直哉も優しい顔で、檸檬の髪の上に乗せた手を、くしゃくしゃとかきまぜた。
「こんなにカッコイイ直哉先輩を育ててくれたんだから、お母さんに感謝しなきゃ」
笑顔になってそう言う檸檬に、直哉は「カッコイイ?」と言って、吹き出した。檸檬はその反応に、口をとがらせる。
「直哉先輩はね、まっすぐで優しいところがカッコイイんです」
すると、直哉は急に、ふーっと、大きなため息をついた。それから、難儀そうな顔をして檸檬を見る。
「……君が思ってるよりも、悪い男だったらどうするんだ?」
正直相手が直哉じゃなかったら、冗談だと思うか、くさいセリフすぎてドン引きするところだ。けれど直哉は大真面目に言っているようで、それもひっくるめてキュンときてしまう檸檬も、たいがい重症である。
「……それはそれで、やばいっす」
「やばいって、どういう意味で」
直哉の手はいつの間にか、檸檬の首の後ろ辺りの髪に触れている。檸檬は自分の息が熱くなっているのを感じながら、上目遣いに直哉を見る。
「興奮する」
直哉は視線を逸らし俯いて、もう一度ふーっと大きくため息をついた。
「君は本当に……俺が、どういう目で見てるか、わかってるのか」
(……え)
檸檬はそこでやっと気付く。これは、ただのじゃれ合いや、いたずらな応酬ではない。ただならぬ気配が、二人の間に生まれている。
(ど、どうしよう)
それは、絶対に実現しないと思っていた夢のようでもあり、でも密かに、期待と予感を抱いていたことのようでもあった。──直哉の瞳の中に、自分を欲する光があるんじゃないか、と。けれど、そう思うことすら恥ずかしい気がして、気付かないようにしていた。ただ今は、ドキドキしすぎて心臓が爆発しそうだ。
「わ、わかんないです。教えて……」
直哉は、髪を撫でているのとは反対の右手で、檸檬の左手に触れる。それからその手を取って、見つめ合う二人の間に引き寄せる。
「……檸檬に、キスしたい」
いつも力強い直哉の眼差しが、今はさらに、焼け付くほど熱い。しかし直哉は、それを無理やり引きはがすように、顔ごと視線を逸らした。
「嫌だったら、今すぐ逃げてくれ。責めたりしない」
「……いいよ」
直哉が驚いたように、逸らした瞳を再び檸檬に向ける。檸檬は抗えずふらふらと、火に飛び込んでしまう虫のような心持ちだった。
「本当に?」
直哉の問いに、檸檬はこくりと頷く。直哉は、掴んでいた左手をそっと持ち上げて、その手の甲に自分の唇を寄せた。
(えっ、そっち!?)
思わず檸檬は心の中でつっこむ。手にキスする姿は、さながら童話の王子様だ。キスしていいと言ったのに、こんな紳士的なやり方は、むしろ酷だと檸檬は思う。
しかし、直哉の視線が檸檬の手から、目に移り、再び熱く見つめられる。視線を合わせたまま直哉は、檸檬の指の関節に吸いつく。人差し指から中指と移り、第二関節の骨の隆起を一つずつ、ゆっくりと、ちゅ、と音を立てて、吸うように口づけていく。
(……っ、食べられてるみたい……)
小指にたどり着く頃には、たまらなくなって、檸檬の方から唇を寄せた。
「先輩っ」
獲物が飛び込むのを待っていたかのように、直哉の唇が檸檬を捕える。ゆっくりと深くなるキスに身を委ねながら、いつの間にか檸檬は、直哉に押さえつけられるようにベッドサイドに背中をもたれていた。不意に直哉が唇を離す。
「……どこまで触れていい?」
直哉の手が、壊れものを扱うように、檸檬の肩のあたりを大事そうに撫でる。
「……最後まで、できるの?」
檸檬が問い返すと、直哉は、熱いため息をつきながら顔を寄せて、おでこから鼻までをくっつけながら言う。
「教えてくれ。檸檬を、抱きたい」
(抱いて……っ)
反射的に心の中でそう叫んでから、檸檬は、自分で自分に苦笑した。今時、月九ドラマでもそんなセリフ言わない。
「何笑ってるんだ?」
怪訝そうに問う直哉に、なんでもないというように首を振って、檸檬は直哉の体を少し押し戻すと、ベッドに腰かけた。
それから、直哉に借りたばかりのグレーのTシャツを脱ぐ。息を飲む直哉に向かって、檸檬は両腕を伸ばす。誘うような言葉は、どうしても言えなくて、ただ目で訴えかけた。
直哉は弾かれたように立ち上がり、自分もTシャツを脱いで、ベッドに膝をついて檸檬を抱きしめる。檸檬の体は、ベッドに押し倒された。
トーストと卵焼きの匂い。目覚めた瞬間に、檸檬が知覚したのは、その二つだった。それからやっと、ここが直哉の部屋だったことに気付く。昨日の夜、好きな人と、夢のような時を過ごしたことも。
直哉はTシャツと短パン姿で、狭いキッチンに立っていた。今出来たばかりらしいスクランブルエッグをフライパンから皿に移して、こちらを向く。ベッドから起き上がっている檸檬を見て、直哉は微笑む。
「おはよう」
皿を運んできたローテーブルには、すでに焼いたトーストが置かれていた。
「直哉先輩、料理もできるの?」
直哉は皿を置いたローテーブルの前に座りながら、腕を組んで「うーん」と、ちょっとおどけるように考える仕草をする。
「できると言えるほどの腕前じゃないけど、食えないほどではないってレベルだな」
成る程スクランブルエッグは、よく見ると少し焦げている。見栄えはちょっと悪いけれど、不味くはなさそうだ。得意なわけでもないのに作ってくれたことに、むしろ檸檬はきゅんとしてしまう。昨夜のセックスといい、優しさで砂糖漬けにされたみたいな気分だ。
「まじで……いつもこんなにサービスいいんですか?」
顔を洗ってきて、テーブルにつきながら、檸檬は昨日と同じ質問を繰り返してしまう。
「だから、どの『いつも』だよ」
直哉も笑いながら、同じ答えを繰り返す。
「……寝た相手とか」
直哉は、卵をトーストに乗せる箸を少し止めて、じっと檸檬を見る。
「こういうことになったのは、檸檬が初めてだよ」
檸檬は、考えてしまう。
(ということは、あれはやっぱり元カノと使ってたのかな……)
昨日の夜、直哉はベッドの横の引き出しから、自前のコンドームを取り出してきた。彼女もいない、セフレもいない、ワンナイトしたのも檸檬が初めてというのが本当だったら、元カノの線しかない気がする。直哉はずっと前のことだと言っていたけれど、どれくらいを「ずっと前」というのだろう。
沈黙してしまった檸檬を、直哉が心配そうに見つめているのに気付いて、檸檬は慌てて笑顔を取り繕う。
「俺、真面目な先輩を、悪い遊びに引き込んじゃったみたい?」
冗談めかす檸檬に、直哉は急に真顔になる。
「……やっぱりこういうことは、向いてないな、俺は」
胸がぎゅっと押さえつけられたように痛んだ。直哉は、昨夜のことを後悔しているんだろうか。
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胸の下の方から、泣きそうな波が押し寄せてきて、檸檬はそれを喉の奥でぐっと抑える。昨夜のことは、自分に合わせてくれただけで、本当はこんな関係を持ちたくなかったのだろうか。
「君が好きだ、檸檬」
その言葉を、檸檬の脳は、すぐには理解できなかった。
「気持ちを誤魔化したまま君と向き合うなんて、できない」
檸檬は呆然と直哉を見る。直哉はいつも通りの、真っ直ぐな強い目で檸檬を見つめていた。その瞳に捉えられて、脳の奥がしびれるような感覚に、檸檬は固まってしまう。直哉は続ける。
「俺の恋人になってください」
檸檬は、硬直した体から、絞り出すようにやっと声を出した。
「……少し、考えさせてください……」
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