アッチの話!

初田ハツ

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レモンの勇気 の巻

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※トリガー警告
作中の展開として、セクハラ、パワハラの描写、性的マイノリティ差別の描写、誹謗中傷、ヘイトスピーチの描写があります。


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四月はじめの新歓遠足は、直哉にとって反省の多いものとなった。
企画担当の委員が提案した交流会のゲーム内容は、時間や人数の都合、わかりやすさなどがちょうどいいと満場一致で通り、直哉も疑問を持っていなかった。しかし実際現場でやってみると、上級生が新入生を数人ずつ前に並ばせる光景は、いじめのようでヒヤヒヤした。さらに、運営委員の伝統ではその年の委員長が初仕事として交流会の司会を務めることになっている。しかし細井の失言が多いことは皆も知っていた。多数の推薦で直哉が司会のフォローにつくことになったけれど、八十人の新入生たちを前に直哉が痛感したのは、言ってしまってからフォローするのでは遅い、ということだ。なぜそのことに、先に気付かなかったのだろう。
「波多野です」
五組目のグループが前に出て、一人ひとり直哉の向けるマイクに苗字だけの簡単な自己紹介をしている最中だった。その女子が名乗るとすぐに、細井が声を上げた。
「うっわ可愛い! 君めちゃめちゃ可愛いね」
即座に直哉は、マイクを自分の方に戻して言う。
「細井さんセクハラやめてください」
会場に笑いが起こる。細井も直哉の注意を、冗談として捉えたようだった。
「なんでセクハラなんだよ~! お願い、彼氏いるかだけ聞かせて!」
「それはパワハラでもあります」
細井はまた「なんでだよ~!」と頭を抱えている。皆も笑っている。
やはり、未然に防ぐようにしておかなければ、後からフォローしたところで意味がないのだ。この波多野という子が、今後変に注目されることがないといいが……と考えながら目をやって、直哉は少し驚く。当人が、まったく我関せずという表情をしていたからだ。こういう時、嫌でも愛想笑いをしてしまったり、恥ずかしくて俯いてしまったりする者が多いだろうに、堂々としたものだ。この状況で不適当だと思いつつも、感心してしまう。
まだ騒いでいる細井に、「もう次いきますからね」と告げて、隣の男子にマイクを向けた。その時はまだ、姿もはっきりと目に映っていなかったくらいだった。けれど、聞こえてきた少し高めのハスキーな声に、直哉は引き込まれるように顔を上げた。
「浅倉檸檬です!」
その新入生は、他の全員が苗字だけの自己紹介をする中で、はっきりとフルネームで自分の名前を告げた。一気に皆の注目が、彼に集まるのがわかる。
「何その名前!? 本名!?」
「本名です。檸檬ちゃんって呼んでくださ~い」
すぐに名前の珍しさに食いついた細井に答えて、ピースサインまでしている。会場のあちこちから、「レモンだって」「すごい名前……」と物珍しそうにささやく声が聞こえる。直哉も驚いた。──彼はわざと、自分に注目を集めたのだ。
向けていたマイクを引く時、思わず目で頷くと、あんなに臆せず振る舞っていたのに急に気まずそうに視線を泳がせる。
(善意に気付かれたくないタイプなのか)
次にマイクを向けた男子が「田中冬人です」と名乗り、細井に「お前もフルネーム言うのかよ!」とツッコまれて「釣られちゃいました」ととぼけていたのも含めて、その数分に満たない間に起こった出来事は、深く直哉の印象に残った。その後、波多野・浅倉・田中が仲良くなって学科で注目の三人組となっていると知った時には、どこか納得したものだ。そして──とくにあの「浅倉檸檬」、人のために簡単に自分を道化にしてしまえるのに、そのことに気付かれた途端きまり悪そうにしていたあの顔は、ずっと心に残っていた。

「アンケートさ、そろそろ学科に提出した方がいいかなって思ってるんだけど」
愛実がそう切り出した。二限の終わり、檸檬と冬人と愛実の三人は、たった今教室から出てきた学生たちでにぎわう廊下を歩いている。連休明けにSNSにアップした「サポート係についてのウェブアンケート」は、一週間弱でなかなかの広がりを見せていた。
最初はそれぞれの知り合いに頼んで答えてもらっていたけれど、そこからじわじわと拡散して、知り合い以外の回答も増えてきている。直哉や渡会も協力したことで、上級生たちからも声が寄せられ、「一年の時はわけがわからず断れなかった」「任意のボランティアだと後から知らされた」などの体験談が集まっていた。
「どういう形で提出するのがいいか、先輩たちの意見も聞いた方がいいよね」
運営委員会内のそれぞれの立場もあるだろうし、目的を遂げるためにも、権力争いを煽るようなことは避けたい。冬人も同意して頷くけれど、その隣で檸檬はなぜか、渋い顔だった。
「なに檸檬? なんか問題?」
檸檬は窺うように、ちらりと愛実を見る。
「実は俺、あれから直哉先輩と話してなくて……」
愛実と冬人は顔を見合わせる。それから同時に、「檸檬~」と声を上げた。
「返事保留した後、ずっと放置ってこと?」
「あれから何日? 連休前の話でしょ?」
「だって~、話す機会ちょうどなかったし……」
自分から連絡する勇気は、なかったし。
「アンケートのことは私から先輩たちに伝えるけどさ、なんて返事するか決めたの?」
昨日の栞とのことは、檸檬は二人にも話していない。あれからずっと、高校生の時の直哉の言動について考えて続けている。直哉は檸檬に「恋人になってください」と言ってくれた。かつて告白してきた人にことごとく「付き合うっていうのは、何に同意したことになりますか」なんて問答をぶつけていた人が。その頃の直哉とは、何かが変わったのだろうか。
「……とりあえず、話したいことがあるから、会ってはみるつもり」
その時、冬人がスマホの画面に映った通知に目をやって顔色を変えた。
「大地からだ。また学科からエミーに連絡があったって」

斉木教授の研究室は、天井まで積み重なった本棚が両側の壁を埋め尽くし、奥に教授用のデスクと、手前にかろうじて四人ほどかけられる机と椅子があった。その片側に斉木と伴が座り、もう一方に映見が座って向かい合う。
「先日の三年生たちから名前の挙がった学生たちに、話を聞きました」
斉木が単刀直入に話し出す。
「結論から言うと……彼らのうちの複数人が、別の知人が実際にコメントを投稿するところを目撃したそうです」
──胸の中がかき混ぜられて、内側から鳥肌が立つような感覚に襲われる。映見は、身じろぎもせず聞いていた。
「英語学科の学生で、すでに本人とも面談して概ね事実だと認めています」
事の経緯は、斉木が最初の学生たちとの面談で、処分についてちらつかせたことで明らかになった。口頭で陰口を言ったくらいでは執拗な嫌がらせとして認められないかぎり罰則を与えるのは難しいけれど、インターネットでの誹謗中傷となれば、学則に懲戒処分の対象として明記されている。そう伝えられて、自らの疑いを晴らしたくなった何人かが口を割った。
彼らは同じ「英語研究会」というサークルのメンバーだった。学内の英会話サークルの中ではレベルが高いことで知られていて、映見も一度見学に行ったことがある。しかし映見が英語ネイティブだとわかると妙に壁のある態度を取られて、それ以来足が向くことはなかった。その英語研究会の内部で、「国際学部はLGBTを優遇している」という主張が、最近流行しているのだという。
「本人たちの言葉を借りると、『ノリで言っていた』というんですけど」
「ノリ……」
呟くように反芻する映見に、伴が言葉を次ぐ。
「わざと陰謀論を騙るふり、というんですかね。しかし、性的マイノリティの学生や教職員を揶揄するとか、敵視するような空気がなければ、出てこない発想だとは思います」
そんな空気の中で、度胸試しを見せびらかすようにして、あのコメントは書かれたのだという。さすがにサークルの仲間もそれはまずいんじゃないかと止めたけれど、周りが制止するほど悪ノリに拍車がかかり、本当に投稿ボタンを押してしまったと。軽い気持ちでやった、こんなに大事になると思っていなかったと本人が話していたと、斉木は告げた。
「処分は訓告か停学のどちらかになると思いますが、英語学科や学部、大学側とも審議して決定します」
これで一区切りついて、安心できるのか……と思うその気持ちに押し被さるように、映見の心に不安がよぎる。
このことでさらに逆恨みされてしまったら。軽い気持ちでやったことなら、もしかして何も行動しなかった方が、相手を刺激せずに済んだのだろうか。
「今後、六角さんが安心して学生生活を送れるように、あなたさえよければ、考えていることがあるの」
映見の気持ちを汲み取ったのか、斉木が少し口調を崩して話す。斉木の提案する内容に耳を傾けながら、映見も考えていた。安心して学生生活を送れるように……。
ひと通りの斉木の説明を聞き終えて、映見は口を開いた。
「……ひとつ、私も試してみたいことがあるんですが」

「せっかく飾ったのにもう片付けちゃうなんて、なんかもったいないっすね」
「連休気分を切り替えさせるためのものだからねえ。ずっと飾ってたら逆に気持ち切り替わんないでしょ」
廊下の装飾を撤去しながら、檸檬と渡会が話している。ロビーで作業の指示を出して戻ってきた直哉は、エスカレーターを上りながら、二人の後ろ姿に目を留めた。
「舞ちゃん~! ちょっとこの看板運ぶの手伝ってくれる?」
「あー栞さん、今行くから一人で無理して持たないで!」
栞に呼ばれて、渡会が駆けて行ってしまう。一人残った檸檬が、廊下の壁に貼られた、星や虹の色紙を剥がしている。少し高いところの星を取ろうとして、背伸びしたけれど、届かないようだ。直哉は近づいて、その星を取る。はっと振り返った檸檬と、目が合った。檸檬が息を呑むのがわかる。
「驚かせたか、ごめん」
檸檬といるといつも、考えるより先に、体が動いてしまう。檸檬は黙ってぷるぷる首を振っている。その仕草に直哉は少し微笑む。
「なんだか、久しぶりな気がするな」
檸檬は少し俯いて、「……ですね」と小さく答えた。怖がらせてしまっているのだろうかと、胸が痛い。直哉も檸檬の横に並んで、掲示を剥がし始める。
「あの、ずっと連絡しないで、すみません」
直哉の方からも、返事を待っている立場だったから、連絡はできずにいた。あれから一週間以上経ったけれど、その間ずっと檸檬が悩んでいたのだったら逆に申し訳ない気持ちになる。
「謝ることじゃない。……でも」
手を止めて、檸檬を見る。檸檬は、不安げに直哉を見上げた。
「正直、すごく会いたかった」
口をついて出た言葉に、直哉は自分で苦笑してしまう。もっと自分は自制心の強い人間だと思っていた。なのに彼の前では、少しも気持ちを隠しておけない。
「って、言われても困るよな、ごめん」
誤魔化すように壁に向き直って、掲示を剥がす直哉のシャツの裾を、細い指先が引いた。
「……作業の後、話せませんか」
シャツを掴まれているだけでも、その触れている指に心拍数が上がるようだ。しかしその時、
「あーあ! あんまり懐くなって言ったのに」
二年の男子が二人、言いながら近づいてきた。
「レモンちゃん完全に高坂側についちゃったよな」
直哉は眉をしかめる。
「……何なんだ?」
彼らがサポート係の勧誘に積極的に動いていることは知っていた。しかし、委員会活動中にこんな風に絡んでくることは今までなかったことだ。
「いやね、俺らだって別に喧嘩売りたいわけじゃないよ。ただ我慢の限界もあるよな」
一人が、直哉の肩を手で押した。
「あの妙なアンケート、お前が一年に指示したんだろ」
檸檬が青い顔をするのが、直哉の目に映る。
「……アンケートを作った一年のことは知っている。だけど、本人のアイディアだ。俺の指示だなんて言ったら、その一年に失礼だよ」
「しらばっくれんなよ!」
三流芝居のようなセリフを吐いて、彼は直哉の胸倉を掴む。ボリュームは抑えた声だったけれど、近くにいた委員の何人かは気付き始めた。
「お前調子こいてんなよ。あの記事、最近一年にも流れ始めてるからな。人気者の高坂先輩でいられるのも時間の問題だ」
あの記事……。忘れかけていた記憶が蘇り、直哉はそうか、と納得した。すうっと息を吸い込み、次の瞬間、その声は辺りに響き渡った。
「俺が、今の家族の養子だっていう話か?」
わざと皆に聞こえる声で言った。少し離れたところで作業していた委員も、振り返ってこちらを見ている。
「それなら事実だが、それで俺への評価を変えるような人間なら、離れてくれて構わない」
声の大きさに相手がひるんでいる間に、胸倉を掴んでいた手を振りほどいて、直哉は歩き出す。少し頭を冷やしたかった。
ロビーへ降りて、自動ドアから校舎の外へ出た時、
「……直哉先輩」
背後から呼び止めるその声が檸檬だと、すぐにわかった。
「ごめん、驚いただろう?」
振り返って、直哉は目を見開く。檸檬の瞳に涙が滲んでいた。
「委員なんかやめちゃえよ。あんなやつらと活動することない」
その一粒が零れ落ちる瞬間に、直哉は思わず檸檬を抱きしめていた。
「ありがとう」
今はそれしか、言葉にできななかった。

「前に母が作家だと話しただろ」
近くの花壇に一緒に腰かけて、直哉は話す。檸檬は黙って頷く。
「父は俳優なんだ」
「は!?」
直哉の新情報に、檸檬は驚いて声を上げる。
「両親とも目立つ立場の人だから、俺を引き取った時に、週刊誌におかしな記事を書かれたことがあった」
実の母が男から金を騙し取るために産んだ子だとか、養子のせいで直哉の両親が離婚の危機にあるとか、見るに堪えない内容だった。
「去年サポート係のことで騒動になった時、ネットでその記事を見つけてきた先輩が、それを中傷のネタにした」
再び檸檬の瞳が潤むのを、直哉は愛しい気持ちで見つめる。
「……クソ野郎」
「そうだな」
自分以上に悔しそうな檸檬に、直哉は場違いにも、つい顔がほころぶ。
「さすがにそれをやった先輩は退会処分になったけど、あいつらはその先輩と親しかったから俺が気に入らないんだよ」
「直哉さん……俺さっき言ったこと本気だよ」
檸檬が真剣な顔で直哉を見つめる。
「委員やめちゃっていいと思うし、それであいつらに負けたことになんてならないよ」
それから檸檬は少し視線を逸らして、「……でも」と加えた。
「なんかあるんだろ……それでも続けてる理由」
直哉は学生たちが行き交うキャンパスの風景に目をやる。
「そうだな……最初は手伝いを頼まれて、なんとなく参加したんだ。そのうちに、会の良くない体質も見えてきたし、嫌になったこともあるけど……」
直哉は檸檬に視線を戻す。
「委員の中で、渡会さんの味方が一人減ると、不利になるだろ」
「……渡会さんのため……?」
「というより、共通の目的のため、かな。俺自身は、やめても逃げても負けにはならないかもしれないけど、俺は会の体質を変えたいと思ってる委員たちが、いつか本当に勝つことを考えてる」 
それから直哉は声を潜めて檸檬の耳元に寄る。
「来年、細井さんが俺を委員長に指名してくれたらチャンスだな、と」
檸檬は目を丸くする。
「……そっか……うん、そうなるよ、絶対」
「どうかな。細井さんはあれで得体の知れないところがあるから」
「そうですか?」
檸檬には、あの単純そうなパワハラ男がそんな風には思えない。
「毎年、あの人が残ると言った一年は必ず二年になるまで委員会を続けるってジンクスがあるんだ。本人が一年の時からドンピシャで全員当て続けてる」
「えー……」
「その判断力が、なぜ発言に表れないのかは謎だけどな」
またもや細井に辛辣な直哉に、檸檬は吹き出す。直哉も笑って、檸檬の背中をぽんと叩き立ち上がった。
「……さあ、作業に戻ろう」

繁華街に隣接したその小さな広場は、取り囲む緑が四月よりも濃くなったようだ。辺りは夕闇に染まり始めている。
先ほどは、校舎に戻った二人を渡会と栞が迎えてくれて、渡会は
「みんなには作業を続けるように指示出しといたから、あんたたちも持ち場に戻って」
と言った。栞は檸檬の肩に手を置いて頷いた。檸檬は、直哉が委員を続ける理由を実感できた気がした。こんなふうにトラブルの時フォローしてくれる人がいる組織は、実のところあまり多くはないと思う。
「何か話があるんだろ」
 直哉は「作業の後話したい」と言った檸檬の言葉を覚えていて、ここへ連れて来た。名前を書いた紙を交換したあの広場だ。
「あ、そうだ」
檸檬は二つ折りの財布を取り出して、内ポケットの一つからそれを出して見せた。「高坂直哉」と書かれた、小さな紙切れ。直哉は驚きの表情を浮かべる。
「……あの時からずっと大事に持ってたんだ」
ずっと心のどこかで、自分のことを本気で好きになってくれる人間なんていないんじゃないかと思っていた。遊びの相手に逃げていれば、本気で求められない虚しさを和らげられると。愛されない事実に直面して傷つくことばかり恐れていたけれど、直哉を傷つける人たちの存在を目の当たりにした時、そんなことはもうどうでもいいと思った。
──俺が、この人を愛したい。守ってあげたい。
「直哉さんのことが、好きです」

玄関から二人、雪崩れるように部屋に入って、待ちきれないようにキスをしながらベッドへと運ぶ。そのまま一緒に倒れ込んで、何度もキスした。
「直哉さん」
見上げながら檸檬がにやりと笑う。
「……付き合うっていうのは、何に同意したことになりますか」
直哉は意外な質問に一瞬怯む。
「そうか……ちゃんと考えないといけないよな」
これまでの自分自身を振り返っても、檸檬に対して独占欲が強いのは明白だ。檸檬がもし……
「オープンリレーションシップを望むんだったら……」
そこまで言って、直哉は「う……」と頭を抱える。檸檬にとって望ましいことなら受け入れたいけれど、友達にまで嫉妬してしまう自分に、それができるのだろうか。
「あーっと、そうじゃなくて! そういうことじゃないっす!」
檸檬は慌てて跳ね起きベッドの上に座る。
「ごめん。栞先輩に聞いたんだ」
檸檬が語り出したのは、直哉自身も忘れかけていた、高校時代の話だった。
「なんで俺には、自分から付き合おうって言ってくれたのかなって」
直哉は、檸檬から出てくるとは思わなかった過去の話に驚きながら、少しずつ思い出していた。
「あの頃は……人間らしくなりたい、とずっと思ってた」
好意を寄せてくれる人たちと、自分なりに関係性を築こうとしているつもりなのに、いつも齟齬が生じてしまう。そのたびに、やっぱり自分は普通の人間ではないのだと思い知らされるような気がしていた。当時の記憶が蘇ってきて、直哉は苦笑する。
「自分が人間らしくないと思ってたなんて、今考えるとおかしいよ」
今なら、あの時告白してくれた人たちの気持ちもわかる気がする。檸檬と出会ってから、どれほど自分が自分をコントロールできないのかを知った。触れたい気持ちを抑えられないなんて、自分には起こりえないことだと思っていた。
「こんなに人を好きになったのは初めてなんだ」
檸檬の頬に手をやって、親指の腹で撫でる。檸檬は眉を八の字にして直哉を見つめ返した。
「しかし……何に同意するかっていうのは、確かに大事だな」
「俺、別にオープンとか望んでないよ」
口をとがらせる檸檬に、直哉は微笑む。
「だけどいつか、その方が二人にとって良いと思ったら、話し合って考えよう。二人に一番いいルールを、一つひとつ作っていきたいんだ」
真剣な顔で告げる直哉に、檸檬はにんまり笑って仕返しのようにその頬をつまんだ。
「……ほんと、直哉さんは直哉さんだなあ」

揃いの法被を着た運営委員たちが、工学部キャンパスの各所に立って、通りかかる学生に声をかけている。
「キャンペーンでーす」
「よろしくお願いしまーす」
空は白く曇っているけれど、雨はどうやら免れた。生温く湿った風がキャンパスを吹き抜けていく。
「よろしくお願いしまーす」
檸檬も、直哉と並んでボール箱を抱え、道行く学生たちに声をかける。箱の中には、いっぱいのコンドーム。檸檬が直哉にちらりと視線をやる。
「なんでこのこと教えてくれなかったんだよ~」
「ごめん、疑問を抱かせるようなことだと思わなかったんだよ」
直哉は人の気持ちを考えてくれる人だけれど、実はけっこう鈍感なのでは、と檸檬は思う。まさかあの部屋にあったコンドームが、学部のセーファーセックスキャンペーンで配るものを運営委員がサンプルとしてもらったなんて、想像できるはずもない。
「だいたいさあ、手にキスとかしてくるキザな人が童貞とか思わないもん」
「ええ? キザ?」
直哉は笑ってしまう。自分は真面目なだけのつまらない男だと思っていたから、「キザ」だなんて、最も縁のない言葉だと思っていた。そう伝えると、檸檬は
「直哉さん、いつもドラマみたいにしゃべるしめっちゃ面白いじゃん」
と、良いのか悪いのかわからないことを真顔で言ってくる。
「一つください!」
三人組の女子が、不意に直哉と檸檬に声をかけた。なかなか恥ずかしがって受け取ってくれない人も多い中で、自分から取りに来てくれるのは珍しい。
「ああ、もちろん」
「一人一個ずつ持っていってね~」
手渡すと、きゃあと声を上げて走り去っていく。と同時に、周囲からも甲高い歓声が上がった。
「私もください!」
「私も!」
あっという間に檸檬と直哉の周りに小さな人だかりができる。直哉は、なぜ檸檬とペアになって配布するよう先輩たちから指示されたのか、今わかった気がした。
先日直哉が構内で白昼堂々檸檬を抱きしめていたのが、学内に広まってSNSなどで騒がれているらしい。おそらく、この二人が配っているなら受け取りたいファンがいることを見越した先輩たちの策略なのだろう。
「待って待って、順番ね!」
最初のグループを皮切りに、我も我もと集まる人たちに檸檬が慌てている。
「大丈夫!? 手伝おうか」
渡会も事態をいち早く察して駆けつけてくれたけれど、その渡会の腕を引く手があった。
「舞ちゃん違う違う! そうじゃないでしょ」
それは栞だった。
「私たちが組めば、この二人の人気なんて霞んじゃうから!」
栞は脇に抱えていた箱を一つ手渡すと、虚を突かれてぽかんとしている渡会を引っ張っていく。大イチョウの周りにぽつぽつとベンチが置かれた広場の向こう側で、栞は高らかに、
「最強バディ『しおまい』の復活だよ!」
と宣言した。派手なアピールのおかげで、実際人だかりは、少なからず栞たちの方に移って緩和される。
「……なんすか、あれ?」
「最強バディだそうだ、二年前からの。けっこう人気あるらしいぞ」
怪訝な表情で見上げる檸檬に、直哉は片眉を上げる。
「渡会さんもまんざらでもないらしい、バディ」
檸檬は「はあ」と呟いて、集まる学生たちを鮮やかにさばく二人の姿を眺める。
もう五月も半ば、今や一年生たちも勝手知ったる風情で歩くキャンパスには、初夏の香りが漂い始めていた。
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