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ロミオとジュリエットの大儲け
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※トリガー警告
作中の展開として、親からのDV、同性愛者差別、自殺未遂の描写があります。
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ガーリックがオリーブオイルに焦げる香りが、店の数メートル前からもう漂ってくる。今の疲れた体には少しそれがきつい。店の脇を通って家の玄関に回り込む。扉を開けると同時に、中でつながっている店の賑わいがわっと耳に入る。このまま寝に行きたいけれど、それは我が家では許されない。
「……ただいま」
「お、珠里帰ったか」
厨房を覗いて一言声をかけると、コック姿の父がそう言って振り返った。
「珠里ちゃんおかえりなさい、毎晩遅いんだね」
コック見習いの鳥栖くんは忙しなく手を動かしながらも愛想がいい。少し首を伸ばして店内を覗くと、母が注文を取っているのが見えた。
珠里の生まれ育ったこの家は、本格派イタリアンレストラン「カプレッティ」。二十年以上営業し続けているちょっとした老舗だ。味も良いと評判で、「本格派」を掲げる店主、つまり父の自負も相当なものがある。そのプライドが、他人と衝突する原因にもなっているのだけれど。とくに、商店街の……
「そういえば、門太のとこの息子はまだ引きこもってるらしいなあ」
そう、その「門太」というのが、父となぜか昔から犬猿の仲の、焼き肉屋「もんた牛」の店主である。
「父親があんなのだから子どももロクな育ち方しないんだ」
「父さん、やめてよ」
父親同士はいがみ合っていても、「もんた牛」の息子は珠里にとっては幼なじみの友人だ。珠里にとがめられて口をつぐんだけれど、父はまだ少し不服そうだった。
珠里は二階の自分の部屋に上がり、部屋着に着替えて、拭き取るメイク落としで顔を拭く。働き始めてから、毎日十時過ぎの帰宅で体はくたくただ。家のレストランは夜からの営業だけれど、十一時過ぎまで働く親たちは超人に思える。両親には就職せずに家の手伝いをすることを勧められたが、珠里はどうしても一度、家以外の環境で働いてみたかった。
(今日はもうとにかく寝ちゃおう)
明日は久しぶりの休日なので、スマホの目覚ましもオフにしてたっぷり寝るつもりだ。ふと、父の言っていたことが頭をよぎる。
(……未央、大丈夫かな)
明日久しぶりに訪ねてみるか、と、考えているうちに珠里は眠りに落ちた。
「未央ー!未央!!」
珠里が呼びながら叩いているのは、焼肉「もんた牛」の店の裏の二階、ベランダのガラス戸だ。ガラス戸の向こうは店の一人息子、未央の部屋だった。
珠里はいつもこの家のベランダに、隣の和菓子屋のベランダから侵入する。おそらく元の建物は三軒長屋だったのだろう。ぴったりくっついた和菓子屋のベランダに外階段があり、和菓子屋のおばちゃんは、珠里が小さい頃からいつも、未央の親の目を盗んで部屋に行く時、ここを通るのを許してくれた。
「寝てんのかー、オナニーしてんのかー!」
珠里が言うと同時に、ガラス戸が開いた。
「大声でやめてよ……」
出てきたのは、もじゃもじゃの天然パーマで伸びっぱなしの前髪に、黒縁眼鏡で顔の印象が隠れた、ずんぐりと背の低い青年だ。
「またヒゲのおっさんか?」
「オナニーしてないから! やだオナニーとか言わせんなバカ」
取り乱す未央の横を無理やりすり抜け、珠里は「おじゃましまーす」と、ずかずか部屋に上がる。
「もー、勝手に……」
未央の文句もそこまでで、それ以上は言わない。昔からよく遊びに来ているので、部屋に上がるのに遠慮も気後れも、お互いあまり感じなかった。
雑誌やらマグカップやらが床に雑然と置かれているけれど、壁に据え付けられた棚のぬいぐるみだけはきれいに整頓されている。それらは皆、ゲームやアニメに出てくる架空の動物やマスコットだ。
「最近、絵は? 描いてないの?」
少し前までは、デザインの専門学校で作ったものをいろいろ自慢げに見せてくれたのに、就活に失敗してから、部屋から出なくなった。
「描いては……いる」
そう言うと未央は、部屋の片隅に置かれたマックブックを開く。画面には、丸っこい二頭身の、さまざまなモンスターがずらりと並んでいた。一つ目のやつもいれば、丸みを帯びた三本のツノが頭に生えているやつもいる。可愛さと不気味さの絶妙なバランスが未央の持ち味だった。
「相変わらずだね」
昔は手描きでノートの端に描き連ねていた未央のモンスターたちが、今は、より立体的な姿でブラウザに並んでいる。子どもの頃、こういう絵を見せられるたび、珠里は「商売になるよ」と言っては、「珠里ちゃんはすぐお金の話する」と未央を膨れさせていた。
「……これ商売になるよ」
「ほらまた!珠里ちゃんはすぐお金の話だ」
「いや、マジな話。これで稼げたら、就職も引きこもりもしなくていいじゃん」
珠里のギラついた目を見て、未央は息を飲む。本気なのか。
「でも……僕には無理だよ」
「なんで」
珠里は真っ直ぐに未央を見つめた。未央は俯いて、振り絞るような声を出した。
「……ツイッター特定された……」
「……え?」
「本名でやってなかったのに……面接後に会社近くのカフェに寄って呟いたら、面接官に特定されてゲイだってバレた……!」
「……それで落とされたの」
「最終面接だった……」
「……ひどいな」
珠里はそれ以上何も言えず未央を見つめる。未央がゲイであることは、親にも言っていない、珠里だけが知る秘密だった。働き始めてから忙しくて、ずっと未央の話を聞いてやれずにいたことが悔やまれた。しかし、だからこそこのままにはしておけない。
「未央、やっぱ商売やろう」
「うええ……」
未央は俯いたまま情けない声を出す。その姿を見下ろしながら、珠里は続ける。
「とりあえず新風さんに相談に行こう」
その言葉に、未央は顔を上げて問い返す。
「……新風さんに……? 」
新風という人物は、「博物学」だとか「生命倫理」だとか、一般人には一体何を教えているのかさっぱりわからない学問を地元の大学で受け持っている教授だ。五十代半ばだが、年齢以上に落ち着いた雰囲気があり、町内会でもその知恵を頼りにされることが多い。
「コレです!」
珠里はその新風の目の前に、未央のマックブックを突き出した。新風の家は昔ながらの平屋で、彼は休日いつもこの畳の居間で過ごしている。居間は開け放たれた縁側とつながっていて、新風に相談に来る人は皆、庭の生垣の外から居間にいる新風に声をかける。
「ふ~ん……」
白髪混じりの髪をきれいにセットし、後ろでちょこんと結んだ新風は、しばらく画面をしげしげと眺めると、「うん」と頷いた。
「ダメですか……」
肩を落とす未央に、いや、と手を振る。
「若い子はすぐそうやって絶望する。いいも悪いもそう簡単に答えを出すもんじゃないよ」
「す、すいません」
未央が青ざめる。
「だからそんな顔しない。珠里さんはプログラマーだったね」
「そうです」
珠里ははっきりと答える。
「HTMLとかCSS、Javaは?」
「今の仕事ではあまりやってないけど専門学校で勉強してました」
「SEOなんかも?」
「はい、一通りは」
こういうところが新風が町内で頼られる所以だ。学者というと自分の専門分野だけ突き詰めているように思われるが、新風はなぜか幅広くさまざまな知識に明るかった。
「未央さんはウェブサイトのデザインなんかもできるのかな?」
「あ、はい一応学校で……」
未央もボソボソと答える。
「じゃあ、二人で商店街のウェブサイトを作ってみたら」
新風はいきなり提案した。
「……商店街のサイトですか……?」
「地味な仕事で不服かい?」
「いえ、そんな……っ」
珠里は本音を見透かされたようで、慌てて首を振る。
「プロっていうのは、こういうところから仕事を請け負うもんじゃないかい」
「……ってことは、報酬もあるんですか?」
「当然でしょう、タダ働きしてどうするの」
新風の話はこうだった。商店街の組合会議で、ちょうど今ウェブ展開の話が持ち上がっている。商店街全体のサイトを一つ作り、各店舗の業種と連絡先程度の簡単な紹介も入れるが、店の依頼次第で、より充実した店舗紹介ページも作っていく。各店舗ページの制作費用は基本的には店持ちだが、組合からも何割か援助することになっている。
「やっぱり最近、ショッピングモールにお客を取られがちで経営難の店が多いからね。でも昔ながらの商店街っていうのが付加価値に見られる向きもあるでしょう。そこをもっとアピールしようって話だね」
新風の説明を聞きながら、珠里は頭の中で整理する。
「つまり……商店街サイトが立ち上がった後も、しばらく店舗ページの依頼が続く可能性もあるってことですか」
「反応が良ければね。それと、商店街サイトで全面的に押し出す新しいマスコットキャラクターの作成も依頼したい」
「マスコット……!」
未央が思わず声を上げて、それから恥ずかしそうに口をつぐむ。
「つまりゆるキャラだね。未央さんは得意だろう。これも好評なら着ぐるみ作ってイベント事に登場させようなんて案もあるよ」
社会人経験の浅い二人にも、こんなに条件のいい仕事はないように思える。
「もともと私がツテで制作会社を探すように頼まれてたんだよ。紹介されたフリーランスのプログラマーとデザイナーってことにして、二人が作ることは、まずは伏せましょう」
珠里も未央も、その方がいいと思った。「カプレッティ」も「もんた牛」も、商店街の中では目玉の人気店だ。未央と珠里が一緒にサイトを作っているなんて知ったら、双方の店主が猛反対するのは明らかだ。
「ただし、納期は絶対に守ること。クオリティが低きゃ次の仕事は来ないけど、納期が守れなきゃ契約違反だからね。簡単なことじゃないけど、できるかい」
二人は同時に、深く頷いた。
見積もりや契約書の作成は新風が手伝ってくれて、二人は、初めてともに行うウェブ制作に着手した。
珠里は仕事終わりに、深夜にこっそり家を出て、未央の部屋で作業する。とりあえず第一段階として、商店街の統一サイトの納期に間に合わせなければならない。余裕を持って作業するつもりだったけれど、最終日はやはり徹夜になった。
「珠里やばい……キジバト鳴き出したじゃん……朝じゃん……」
「あー違いますうーホーホーって鳴くのはフクロウですうーまだ夜ですうー」
「変なテンションになってないであと二時間で仕上げるよ!」
ぎりぎりでなんとか仕上げた商店街サイトは、おおむね好評で、店舗ページの依頼も、想像以上にどんどん舞い込んできた。そして珠里は、ある決断をしようとしていた。
「未央、私、仕事辞めようと思う」
そう切り出したのは、未央の部屋でお互いにそれぞれのパソコンに向かって作業している最中だった。
「この仕事を本業にしたい。商店街サイトを制作事例として、他にも売り込んでいこう。今の仕事がいったん落ち着いたら、個人事業主としてやるか一緒に会社立ち上げるかとか、いろいろ考えよう」
未央はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……珠里ちゃんに仕事辞めさせちゃっていいのかって、正直めちゃくちゃ怖いんだけど……。でも、同じこと、僕も考えてた」
二人はそのまま画面に向かって、視線を交わすことはなかった。ただ、背中に仲間の気配を感じることが、頼もしかった。
「珠里、話がある」
父がそう切り出したのは、ちょうど珠里が仕事を辞めることを家族に話そうと思っていた休日の朝だった。未央と商店街のサイトを作っていることはまだ話すつもりはないけれど、「新風さんに紹介されたプログラマーの良い仕事があるからフリーランスでやっていく」と話せば、反対されないように思えた。
リビングの食卓へ行くと、なぜか父と母と、コック見習いの鳥栖が座っていた。
「座りなさい」
席に着く。嫌な予感がした。
「お前がどうしても外で働きたいと言うから好きにさせていたけど、毎日疲れた顔して帰ってくるのは、そろそろ父さんも母さんも見ていられないんだ」
「あ、そのことなんだけど……」
珠里が転職の話をしようとするのを制して、父は「最後まで聞きなさい」と続けた。
「鳥栖くんも婿に入っていいと言ってくれている」
珠里は、何かの聞き間違いじゃないかと思った。
「そろそろ結婚して、うちの仕事に戻りなさい」
「よかったね珠里、鳥栖くんみたいないい人が、お婿さんに来てくれるのよ」
母が畳みかける。珠里の頭には、ハテナマークしか出てこない。鳥栖の顔を見ると、ただニコニコ笑っている。それが不気味だった。
「……あの……付き合ってないですけど……」
やっと振り絞った言葉に、父が眉根を寄せる。
「お前、鳥栖くんが嫌いなのか」
「好きか嫌いで選べって言うなら嫌いの方ですけど!?」
「なんてこと言うんだお前は!」
父が立ち上がって叫ぶ。
「だって私、加瀬亮とかが好きだし! 鳥栖くん的場浩司だし!」
その瞬間、父の平手が珠里の頬に飛んだ。目の前がチカチカして、一瞬何も見えなくなる。母が「お父さん!」と叫んでいるのが遠く聞こえる。
そうだ、最近ではほとんどなくなっていたけれど、中学生くらいまでは、こういうことがよくあった。この人はビンタする親だった。でも、自分が大人になった今ならわかる。コレは最低だ。
珠里は無言で立ち上がり、ゆっくりと玄関の方へ後ずさりする。珠里の不思議な動きに、皆、茫然とそれを見ている。
「殴る人と話すことはありません……」
そうひとこと言い残すと、珠里は後ろ向きに靴を履いて、そのまま玄関を出た。
新風は、「加瀬亮」のところで「ぶっ」と吹き出して口元を抑えた。
「笑いごとじゃないです」
「……いや、悪い悪い」
最後まで話を聞くと、「だからその頬の跡ね」と新風はため息をついた。
「まったく大人たちはしょうがないね」
「昔からそうなんです、あの人は」
そう言いながらも、珠里の目には涙がにじんでいる。殴られて平気なわけがない。
「……実はね、あんた方に近々相談しようと思ってた話があるんですよ」
新風がそう切り出した。
「駅の向こうに、も一つ商店街があるでしょう。そこが、うちにも同じようなウェブサイト作ってくれって言ってるんだよ」
駅向こうの商店街は、この町の商店街とはある種ライバル関係にあった。
「そろそろ、珠里さんと未央さんとが作ってることを、明かしてもいいタイミングかもしれない。二人がこっちの契約を破棄して向こうの商店街のサイトを作ったら、みんな大打撃だ。『カプレッティ』も『もんた牛』もサイトのおかげで集客を増やしてる。サイトを盾に、珠里さんと未央さんの自由を要求したらいい。なんなら一度サーバーダウンさせて脅しをかけたっていい」
珠里は目を丸くした。
「……そんなこと、しちゃっていいんですか……?」
契約通り仕事をきちんとこなすように、珠里たちに口酸っぱく言い聞かせていた新風の大胆な発言に、珠里は驚いていた。
「個人の自由が大事であってこそ、仕事っていうのは大事なもんなんだよ」
「未央に話してきます!」
話もそこそこに、珠里は勢いよく立ち上がった。
珠里と新風がそんな話をしていたのと、ちょうど時を同じくして、未央は、徹夜仕事明けのまどろみに、ガラス戸がコツコツいう音を聞いていた。
音は断続的で、眠いのに気になって眠れない。未央は起き上がり、カーテンを開けて外を見た。ベランダの向こうの地上に、次の石を投げようとしている鳥栖の姿が見えた。
(うわー、ダルビッシュみたい……)
思わずときめく。鳥栖はひそかに未央の好みのタイプだった。彼はカーテンを開けた未央に気付いて、投げるのをやめ、親指を立てた拳をくいっと動かして外に出てくるようジェスチャーで促す。
慌てて髪を整え、とりあえずスウェットのズボンだけはジーンズに履き替えて、制汗スプレーを全身に振り掛けてから外に飛び出した。和菓子屋の外階段を下りると、すぐそこに鳥栖が立っていた。
「えっと……鳥栖くん、久しぶりだね」
「単刀直入に言おう」
鳥栖の強い口調に、未央はびくついた。
「珠里ちゃんと別れてほしい」
「……は?」
未央はしばし固まって動けなくなる。この人は何を言っているんだ?
「君が珠里ちゃんと親しくしてるのは知ってるんだ。珠里ちゃんが結婚をOKしないのは、君と付き合ってるからなんだろ?」
「け、結婚!?」
(珠里ちゃん鳥栖くんにプロポーズされたの? すごい!)
場違いにそんな感想が浮かぶが、鳥栖が明らかに珠里の好みのタイプでないことは、未央にもわかった。断られた理由が、この人は理解できていないらしい。
「あの、僕珠里ちゃんと付き合ってないです」
「君じゃ珠里ちゃんを幸せにできない!」
鳥栖はそう叫ぶと、未央の頭の横にある、和菓子屋の塀に拳をどんと打ち付ける。
(やだ、壁ドン……! じゃなくて、この人全然話聞いてない)
「いや、だから付き合ってないって……」
「頼むよ……!俺は本当に本当に、珠里ちゃんと結婚したいんだ……」
壁ドンのまま頭を垂れる鳥栖は、未央の胸にすがりつくような姿勢になる。泣きそうな声に未央の胸も痛む。
「……あの、僕ゲイなんで」
「……?」
初めて未央の言葉が鳥栖の耳に入ったようだった。
「だから、本当に珠里ちゃんとは友達なんで、安心して……」
そこまで未央が言いかけた瞬間に、バッと飛び退くように、鳥栖が未央から離れた。
「そうか、わかった。じゃあ」
逃げるように去っていく鳥栖の後ろ姿を見ながら、未央は次第に青ざめていった。
(バカだ僕、顔のいい男に泣きつかれたからってなに普通に言っちゃってるんだよ?どうしよう……)
今にも新風の家を飛び出して未央のところへ行こうとしていた珠里を、新風が「昼時だし出前を取るから食べてから行きなさい」と引き留めた。
珠里があんかけラーメンをすする向かいで、新風も中華丼をもそもそ食べながら、珠里が話す、とめどない家族の愚痴を聞いていた。たぶん、愚痴を聞いてもらう時間が今の珠里に必要だと思って、引き留めてくれたんだろう。途中から珠里も、それに気がつく。
「……なんか、親以外の大人の人が気にかけてくれるの、ありがたいっすね」
唐突に珠里が言うので、新風はちょっと笑った。
「珠里さんももう大人でしょう。二十一だっけ?」
「全然大人になれてる気がしないです……」
珠里の言葉に、新風はまたふっふっと笑う。
「なれてる気なんか、したってしなくたって、自分より後からくる人のことを考えてやらなきゃいけない時がくるんだよ」
珠里はうーん、と唸る。自分のことで精一杯で、考えたこともなかった。でも、新風や和菓子屋のおばちゃんのような、子どもや若者を気に掛けて見守ってくれる人は、誰かが引き継がないと、いつかいなくなってしまう。そのことに、今日初めて気付いた気がした。
「新風さん! 大変だ!」
その時、庭の生垣の向こうから声が飛び込んできた。
「『もんた牛』の息子が首括ろうとしてる!」
珠里と新風が駆け付けた未央の部屋のベランダの前には、すでに町内の人たちが集まっていた。未央はその人だかりを前にして、柵に括り付けた古い縄跳びを、輪にして自分の首にかけたまま、ベランダの上で身動きできなくなっていた。
「何やってんだ未央!」
思わず声を上げると、未央がたった今意識を取り戻したかのように、はっと珠里の方を見た。
「あ……ちがう……僕、わかんなくて……」
「もんた牛」の親父さんが、とにかく首の縄はずせ、下りてこい、と血相を変えて叫んでいる。
「わ、わかんない、わかんないよ……!」
どうやら未央自身もパニック状態で、今は死のうとしているというより、どうしたらいいかわからなくなっているようだ。なぜこんなことに……と戸惑う珠里の横で、野次馬の一人が叫んだ。
「いいじゃねーか、ホモくらい! 死ぬほどのことじゃねえぞ」
その言葉に、場がにわかにざわつく。何人かは、すでに知っていたように周りに説明し出す。
「鳥栖くんにせまったんだって……」
「それでふられて自暴自棄に……」
なんだこの話は? 珠里は人だかりを見回すけれど、鳥栖の姿は見えない。ただ、誰かが未央の秘密を知り、それを広めたということだけは理解できた。
「えーちょっといいですかね!?」
新風の、聞いたこともないような大きな声が辺りに響いた。未央もはっと我に返り、新風に注目する。
「こんな状況で話すのもなんですが、最近町内で話題の商店街のウェブサイト、あれを作ってるのは、この首に縄がかかってる未央さんと、ここにいる珠里さんです」
しばしの沈黙のあと、一気に皆が騒ぎ出す。一番あんぐりと大きく口を開けて驚いているのは、「もんた牛」の店主だ。
「お二人は商店街の恩人みたいなもんですよ。それを私たちは今、心ない噂で中傷して、全部パーにしようとしてるわけですね」
騒いでいた人々の声が、しゅんと火が消えたように静かになる。
「未央さんもねえ!」
新風の大声が再び響いた。
「この町の人たちが冷たけりゃ、こんな町捨てちまえばいいんだよ」
「でも……」
その時初めて、未央は言葉らしい言葉を発した。
「就活の時もだめだった……どこ行っても、僕はだめなんじゃないかって……」
さっきまで焦点が合っていないようだった未央の目が、今はまっすぐ新風の方を見て、涙をポロポロこぼしていた。
「僕が、僕じゃなけりゃよかったんじゃないかって……」
「馬鹿、未央が未央じゃなきゃ私らの商売成り立たないぞ」
その声は、未央のすぐ隣で聞こえた。いつの間にか珠里は、和菓子屋のベランダに上り、柵の手前まで近づいていた。
「じゅ、珠里ちゃん……」
「金金って言うなってお前言うけどさ、金稼ぐの面白かったじゃん」
未央は、話の意図がつかめずに、珠里の方をぼんやりと見ている。
「自分の仕事がちゃんと金っていう価値になって戻ってくるの、超面白いだろ」
未央は思わずゆらりと頷く。仕事をするとはこういうことかと身をもって知ったこの数週間は、生きている実感が強く感じられた。
その時、地上の人々をかき分けて小さな人影が近づいてきていることに、二人は気付いていなかった。
「……未央ちゃん、珠里ちゃん」
その微かな声がやっと二人の耳に届いた時、温かい甘い香りも一緒に漂ってきた。割烹着に身を包み、小柄な体で白髪の女性。昔から町の人は「和菓子屋のおばちゃん」と呼んでいるけれど、今やおばあちゃんの方がしっくりくる年齢だ。
「十円まんじゅう、未央ちゃん好きでしょ。これ食べてね、お茶も入れたげるからね」
おばちゃんは、蒸かしたてのまんじゅうを透明パックに詰めて持ってきていた。未央と珠里が、小さい時からよく食べさせてもらっていたものだ。
「うう……」
未央は思わず泣き崩れてうずくまる。
その瞬間、珠里は柵を乗り越えて隣のベランダに飛び移り、首の縄を外すと、代わりに自分の腕で未央の首を羽交い絞めにした。
「まだまだこれから大儲けさせてもらうんだからな! 逃がさねえぞ!」
「うう!?」
この時の珠里の身のこなしと鬼気迫る形相は、長く町内で語り継がれることとなった。
それからの二人はというと、町の一角にあるマンションに、オフィスを構えて会社を立ち上げた。今は商店街の仕事がひと段落し、売り込みや町の人からの紹介で、新しい仕事を増やしている。
未央と珠里の親たちも、当面は大人しくなって、会社に関しても黙認している。もし何か言ってきたとしても、その時は町を出ればいい。今の二人には、それも可能なのだということがわかっていた。
「そして珠里は佐々木蔵之介と結婚し、未央は的場浩司みたいな彼氏ができたのでした。めでたしめでたし」
「んなわけないでしょ! っていうか僕の彼氏も小栗旬とかにしといてよ」
新しいオフィスでも、相変わらずそれぞれのブラウザに向かって背中で会話しながら、珠里の都合のいい設定に未央がツッコむ。
「いいんだよ、ぜーんぶ都合よく思い通り上手くいくくらいがちょうどいいんだって。私そういうのが似合う女じゃん」
吹き出す未央に、「お前も私の強運に巻き込んでやるぜえ」と、珠里が背中越しににやりと笑う。
町の人たちがみんな理解あるわけじゃない。鳥栖もまだ「カプレッティ」で働いているし、今日も商店街のどこかでは、心ない噂がささやかれているのかもしれない。それでも思ったよりは、未央が未央であるということだけを大切に思ってくれる人も多いのだとわかった。そう思えば、珠里の言うように万事うまくいくと信じてみていいような気がしてくる。
「あー、なんか僕も小栗旬と付き合える気がしてきた」
笑いながら未央が言うと、珠里からは
「略奪愛か、とんでもない男だなお前」
と軽口が返ってきた。
作中の展開として、親からのDV、同性愛者差別、自殺未遂の描写があります。
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ガーリックがオリーブオイルに焦げる香りが、店の数メートル前からもう漂ってくる。今の疲れた体には少しそれがきつい。店の脇を通って家の玄関に回り込む。扉を開けると同時に、中でつながっている店の賑わいがわっと耳に入る。このまま寝に行きたいけれど、それは我が家では許されない。
「……ただいま」
「お、珠里帰ったか」
厨房を覗いて一言声をかけると、コック姿の父がそう言って振り返った。
「珠里ちゃんおかえりなさい、毎晩遅いんだね」
コック見習いの鳥栖くんは忙しなく手を動かしながらも愛想がいい。少し首を伸ばして店内を覗くと、母が注文を取っているのが見えた。
珠里の生まれ育ったこの家は、本格派イタリアンレストラン「カプレッティ」。二十年以上営業し続けているちょっとした老舗だ。味も良いと評判で、「本格派」を掲げる店主、つまり父の自負も相当なものがある。そのプライドが、他人と衝突する原因にもなっているのだけれど。とくに、商店街の……
「そういえば、門太のとこの息子はまだ引きこもってるらしいなあ」
そう、その「門太」というのが、父となぜか昔から犬猿の仲の、焼き肉屋「もんた牛」の店主である。
「父親があんなのだから子どももロクな育ち方しないんだ」
「父さん、やめてよ」
父親同士はいがみ合っていても、「もんた牛」の息子は珠里にとっては幼なじみの友人だ。珠里にとがめられて口をつぐんだけれど、父はまだ少し不服そうだった。
珠里は二階の自分の部屋に上がり、部屋着に着替えて、拭き取るメイク落としで顔を拭く。働き始めてから、毎日十時過ぎの帰宅で体はくたくただ。家のレストランは夜からの営業だけれど、十一時過ぎまで働く親たちは超人に思える。両親には就職せずに家の手伝いをすることを勧められたが、珠里はどうしても一度、家以外の環境で働いてみたかった。
(今日はもうとにかく寝ちゃおう)
明日は久しぶりの休日なので、スマホの目覚ましもオフにしてたっぷり寝るつもりだ。ふと、父の言っていたことが頭をよぎる。
(……未央、大丈夫かな)
明日久しぶりに訪ねてみるか、と、考えているうちに珠里は眠りに落ちた。
「未央ー!未央!!」
珠里が呼びながら叩いているのは、焼肉「もんた牛」の店の裏の二階、ベランダのガラス戸だ。ガラス戸の向こうは店の一人息子、未央の部屋だった。
珠里はいつもこの家のベランダに、隣の和菓子屋のベランダから侵入する。おそらく元の建物は三軒長屋だったのだろう。ぴったりくっついた和菓子屋のベランダに外階段があり、和菓子屋のおばちゃんは、珠里が小さい頃からいつも、未央の親の目を盗んで部屋に行く時、ここを通るのを許してくれた。
「寝てんのかー、オナニーしてんのかー!」
珠里が言うと同時に、ガラス戸が開いた。
「大声でやめてよ……」
出てきたのは、もじゃもじゃの天然パーマで伸びっぱなしの前髪に、黒縁眼鏡で顔の印象が隠れた、ずんぐりと背の低い青年だ。
「またヒゲのおっさんか?」
「オナニーしてないから! やだオナニーとか言わせんなバカ」
取り乱す未央の横を無理やりすり抜け、珠里は「おじゃましまーす」と、ずかずか部屋に上がる。
「もー、勝手に……」
未央の文句もそこまでで、それ以上は言わない。昔からよく遊びに来ているので、部屋に上がるのに遠慮も気後れも、お互いあまり感じなかった。
雑誌やらマグカップやらが床に雑然と置かれているけれど、壁に据え付けられた棚のぬいぐるみだけはきれいに整頓されている。それらは皆、ゲームやアニメに出てくる架空の動物やマスコットだ。
「最近、絵は? 描いてないの?」
少し前までは、デザインの専門学校で作ったものをいろいろ自慢げに見せてくれたのに、就活に失敗してから、部屋から出なくなった。
「描いては……いる」
そう言うと未央は、部屋の片隅に置かれたマックブックを開く。画面には、丸っこい二頭身の、さまざまなモンスターがずらりと並んでいた。一つ目のやつもいれば、丸みを帯びた三本のツノが頭に生えているやつもいる。可愛さと不気味さの絶妙なバランスが未央の持ち味だった。
「相変わらずだね」
昔は手描きでノートの端に描き連ねていた未央のモンスターたちが、今は、より立体的な姿でブラウザに並んでいる。子どもの頃、こういう絵を見せられるたび、珠里は「商売になるよ」と言っては、「珠里ちゃんはすぐお金の話する」と未央を膨れさせていた。
「……これ商売になるよ」
「ほらまた!珠里ちゃんはすぐお金の話だ」
「いや、マジな話。これで稼げたら、就職も引きこもりもしなくていいじゃん」
珠里のギラついた目を見て、未央は息を飲む。本気なのか。
「でも……僕には無理だよ」
「なんで」
珠里は真っ直ぐに未央を見つめた。未央は俯いて、振り絞るような声を出した。
「……ツイッター特定された……」
「……え?」
「本名でやってなかったのに……面接後に会社近くのカフェに寄って呟いたら、面接官に特定されてゲイだってバレた……!」
「……それで落とされたの」
「最終面接だった……」
「……ひどいな」
珠里はそれ以上何も言えず未央を見つめる。未央がゲイであることは、親にも言っていない、珠里だけが知る秘密だった。働き始めてから忙しくて、ずっと未央の話を聞いてやれずにいたことが悔やまれた。しかし、だからこそこのままにはしておけない。
「未央、やっぱ商売やろう」
「うええ……」
未央は俯いたまま情けない声を出す。その姿を見下ろしながら、珠里は続ける。
「とりあえず新風さんに相談に行こう」
その言葉に、未央は顔を上げて問い返す。
「……新風さんに……? 」
新風という人物は、「博物学」だとか「生命倫理」だとか、一般人には一体何を教えているのかさっぱりわからない学問を地元の大学で受け持っている教授だ。五十代半ばだが、年齢以上に落ち着いた雰囲気があり、町内会でもその知恵を頼りにされることが多い。
「コレです!」
珠里はその新風の目の前に、未央のマックブックを突き出した。新風の家は昔ながらの平屋で、彼は休日いつもこの畳の居間で過ごしている。居間は開け放たれた縁側とつながっていて、新風に相談に来る人は皆、庭の生垣の外から居間にいる新風に声をかける。
「ふ~ん……」
白髪混じりの髪をきれいにセットし、後ろでちょこんと結んだ新風は、しばらく画面をしげしげと眺めると、「うん」と頷いた。
「ダメですか……」
肩を落とす未央に、いや、と手を振る。
「若い子はすぐそうやって絶望する。いいも悪いもそう簡単に答えを出すもんじゃないよ」
「す、すいません」
未央が青ざめる。
「だからそんな顔しない。珠里さんはプログラマーだったね」
「そうです」
珠里ははっきりと答える。
「HTMLとかCSS、Javaは?」
「今の仕事ではあまりやってないけど専門学校で勉強してました」
「SEOなんかも?」
「はい、一通りは」
こういうところが新風が町内で頼られる所以だ。学者というと自分の専門分野だけ突き詰めているように思われるが、新風はなぜか幅広くさまざまな知識に明るかった。
「未央さんはウェブサイトのデザインなんかもできるのかな?」
「あ、はい一応学校で……」
未央もボソボソと答える。
「じゃあ、二人で商店街のウェブサイトを作ってみたら」
新風はいきなり提案した。
「……商店街のサイトですか……?」
「地味な仕事で不服かい?」
「いえ、そんな……っ」
珠里は本音を見透かされたようで、慌てて首を振る。
「プロっていうのは、こういうところから仕事を請け負うもんじゃないかい」
「……ってことは、報酬もあるんですか?」
「当然でしょう、タダ働きしてどうするの」
新風の話はこうだった。商店街の組合会議で、ちょうど今ウェブ展開の話が持ち上がっている。商店街全体のサイトを一つ作り、各店舗の業種と連絡先程度の簡単な紹介も入れるが、店の依頼次第で、より充実した店舗紹介ページも作っていく。各店舗ページの制作費用は基本的には店持ちだが、組合からも何割か援助することになっている。
「やっぱり最近、ショッピングモールにお客を取られがちで経営難の店が多いからね。でも昔ながらの商店街っていうのが付加価値に見られる向きもあるでしょう。そこをもっとアピールしようって話だね」
新風の説明を聞きながら、珠里は頭の中で整理する。
「つまり……商店街サイトが立ち上がった後も、しばらく店舗ページの依頼が続く可能性もあるってことですか」
「反応が良ければね。それと、商店街サイトで全面的に押し出す新しいマスコットキャラクターの作成も依頼したい」
「マスコット……!」
未央が思わず声を上げて、それから恥ずかしそうに口をつぐむ。
「つまりゆるキャラだね。未央さんは得意だろう。これも好評なら着ぐるみ作ってイベント事に登場させようなんて案もあるよ」
社会人経験の浅い二人にも、こんなに条件のいい仕事はないように思える。
「もともと私がツテで制作会社を探すように頼まれてたんだよ。紹介されたフリーランスのプログラマーとデザイナーってことにして、二人が作ることは、まずは伏せましょう」
珠里も未央も、その方がいいと思った。「カプレッティ」も「もんた牛」も、商店街の中では目玉の人気店だ。未央と珠里が一緒にサイトを作っているなんて知ったら、双方の店主が猛反対するのは明らかだ。
「ただし、納期は絶対に守ること。クオリティが低きゃ次の仕事は来ないけど、納期が守れなきゃ契約違反だからね。簡単なことじゃないけど、できるかい」
二人は同時に、深く頷いた。
見積もりや契約書の作成は新風が手伝ってくれて、二人は、初めてともに行うウェブ制作に着手した。
珠里は仕事終わりに、深夜にこっそり家を出て、未央の部屋で作業する。とりあえず第一段階として、商店街の統一サイトの納期に間に合わせなければならない。余裕を持って作業するつもりだったけれど、最終日はやはり徹夜になった。
「珠里やばい……キジバト鳴き出したじゃん……朝じゃん……」
「あー違いますうーホーホーって鳴くのはフクロウですうーまだ夜ですうー」
「変なテンションになってないであと二時間で仕上げるよ!」
ぎりぎりでなんとか仕上げた商店街サイトは、おおむね好評で、店舗ページの依頼も、想像以上にどんどん舞い込んできた。そして珠里は、ある決断をしようとしていた。
「未央、私、仕事辞めようと思う」
そう切り出したのは、未央の部屋でお互いにそれぞれのパソコンに向かって作業している最中だった。
「この仕事を本業にしたい。商店街サイトを制作事例として、他にも売り込んでいこう。今の仕事がいったん落ち着いたら、個人事業主としてやるか一緒に会社立ち上げるかとか、いろいろ考えよう」
未央はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……珠里ちゃんに仕事辞めさせちゃっていいのかって、正直めちゃくちゃ怖いんだけど……。でも、同じこと、僕も考えてた」
二人はそのまま画面に向かって、視線を交わすことはなかった。ただ、背中に仲間の気配を感じることが、頼もしかった。
「珠里、話がある」
父がそう切り出したのは、ちょうど珠里が仕事を辞めることを家族に話そうと思っていた休日の朝だった。未央と商店街のサイトを作っていることはまだ話すつもりはないけれど、「新風さんに紹介されたプログラマーの良い仕事があるからフリーランスでやっていく」と話せば、反対されないように思えた。
リビングの食卓へ行くと、なぜか父と母と、コック見習いの鳥栖が座っていた。
「座りなさい」
席に着く。嫌な予感がした。
「お前がどうしても外で働きたいと言うから好きにさせていたけど、毎日疲れた顔して帰ってくるのは、そろそろ父さんも母さんも見ていられないんだ」
「あ、そのことなんだけど……」
珠里が転職の話をしようとするのを制して、父は「最後まで聞きなさい」と続けた。
「鳥栖くんも婿に入っていいと言ってくれている」
珠里は、何かの聞き間違いじゃないかと思った。
「そろそろ結婚して、うちの仕事に戻りなさい」
「よかったね珠里、鳥栖くんみたいないい人が、お婿さんに来てくれるのよ」
母が畳みかける。珠里の頭には、ハテナマークしか出てこない。鳥栖の顔を見ると、ただニコニコ笑っている。それが不気味だった。
「……あの……付き合ってないですけど……」
やっと振り絞った言葉に、父が眉根を寄せる。
「お前、鳥栖くんが嫌いなのか」
「好きか嫌いで選べって言うなら嫌いの方ですけど!?」
「なんてこと言うんだお前は!」
父が立ち上がって叫ぶ。
「だって私、加瀬亮とかが好きだし! 鳥栖くん的場浩司だし!」
その瞬間、父の平手が珠里の頬に飛んだ。目の前がチカチカして、一瞬何も見えなくなる。母が「お父さん!」と叫んでいるのが遠く聞こえる。
そうだ、最近ではほとんどなくなっていたけれど、中学生くらいまでは、こういうことがよくあった。この人はビンタする親だった。でも、自分が大人になった今ならわかる。コレは最低だ。
珠里は無言で立ち上がり、ゆっくりと玄関の方へ後ずさりする。珠里の不思議な動きに、皆、茫然とそれを見ている。
「殴る人と話すことはありません……」
そうひとこと言い残すと、珠里は後ろ向きに靴を履いて、そのまま玄関を出た。
新風は、「加瀬亮」のところで「ぶっ」と吹き出して口元を抑えた。
「笑いごとじゃないです」
「……いや、悪い悪い」
最後まで話を聞くと、「だからその頬の跡ね」と新風はため息をついた。
「まったく大人たちはしょうがないね」
「昔からそうなんです、あの人は」
そう言いながらも、珠里の目には涙がにじんでいる。殴られて平気なわけがない。
「……実はね、あんた方に近々相談しようと思ってた話があるんですよ」
新風がそう切り出した。
「駅の向こうに、も一つ商店街があるでしょう。そこが、うちにも同じようなウェブサイト作ってくれって言ってるんだよ」
駅向こうの商店街は、この町の商店街とはある種ライバル関係にあった。
「そろそろ、珠里さんと未央さんとが作ってることを、明かしてもいいタイミングかもしれない。二人がこっちの契約を破棄して向こうの商店街のサイトを作ったら、みんな大打撃だ。『カプレッティ』も『もんた牛』もサイトのおかげで集客を増やしてる。サイトを盾に、珠里さんと未央さんの自由を要求したらいい。なんなら一度サーバーダウンさせて脅しをかけたっていい」
珠里は目を丸くした。
「……そんなこと、しちゃっていいんですか……?」
契約通り仕事をきちんとこなすように、珠里たちに口酸っぱく言い聞かせていた新風の大胆な発言に、珠里は驚いていた。
「個人の自由が大事であってこそ、仕事っていうのは大事なもんなんだよ」
「未央に話してきます!」
話もそこそこに、珠里は勢いよく立ち上がった。
珠里と新風がそんな話をしていたのと、ちょうど時を同じくして、未央は、徹夜仕事明けのまどろみに、ガラス戸がコツコツいう音を聞いていた。
音は断続的で、眠いのに気になって眠れない。未央は起き上がり、カーテンを開けて外を見た。ベランダの向こうの地上に、次の石を投げようとしている鳥栖の姿が見えた。
(うわー、ダルビッシュみたい……)
思わずときめく。鳥栖はひそかに未央の好みのタイプだった。彼はカーテンを開けた未央に気付いて、投げるのをやめ、親指を立てた拳をくいっと動かして外に出てくるようジェスチャーで促す。
慌てて髪を整え、とりあえずスウェットのズボンだけはジーンズに履き替えて、制汗スプレーを全身に振り掛けてから外に飛び出した。和菓子屋の外階段を下りると、すぐそこに鳥栖が立っていた。
「えっと……鳥栖くん、久しぶりだね」
「単刀直入に言おう」
鳥栖の強い口調に、未央はびくついた。
「珠里ちゃんと別れてほしい」
「……は?」
未央はしばし固まって動けなくなる。この人は何を言っているんだ?
「君が珠里ちゃんと親しくしてるのは知ってるんだ。珠里ちゃんが結婚をOKしないのは、君と付き合ってるからなんだろ?」
「け、結婚!?」
(珠里ちゃん鳥栖くんにプロポーズされたの? すごい!)
場違いにそんな感想が浮かぶが、鳥栖が明らかに珠里の好みのタイプでないことは、未央にもわかった。断られた理由が、この人は理解できていないらしい。
「あの、僕珠里ちゃんと付き合ってないです」
「君じゃ珠里ちゃんを幸せにできない!」
鳥栖はそう叫ぶと、未央の頭の横にある、和菓子屋の塀に拳をどんと打ち付ける。
(やだ、壁ドン……! じゃなくて、この人全然話聞いてない)
「いや、だから付き合ってないって……」
「頼むよ……!俺は本当に本当に、珠里ちゃんと結婚したいんだ……」
壁ドンのまま頭を垂れる鳥栖は、未央の胸にすがりつくような姿勢になる。泣きそうな声に未央の胸も痛む。
「……あの、僕ゲイなんで」
「……?」
初めて未央の言葉が鳥栖の耳に入ったようだった。
「だから、本当に珠里ちゃんとは友達なんで、安心して……」
そこまで未央が言いかけた瞬間に、バッと飛び退くように、鳥栖が未央から離れた。
「そうか、わかった。じゃあ」
逃げるように去っていく鳥栖の後ろ姿を見ながら、未央は次第に青ざめていった。
(バカだ僕、顔のいい男に泣きつかれたからってなに普通に言っちゃってるんだよ?どうしよう……)
今にも新風の家を飛び出して未央のところへ行こうとしていた珠里を、新風が「昼時だし出前を取るから食べてから行きなさい」と引き留めた。
珠里があんかけラーメンをすする向かいで、新風も中華丼をもそもそ食べながら、珠里が話す、とめどない家族の愚痴を聞いていた。たぶん、愚痴を聞いてもらう時間が今の珠里に必要だと思って、引き留めてくれたんだろう。途中から珠里も、それに気がつく。
「……なんか、親以外の大人の人が気にかけてくれるの、ありがたいっすね」
唐突に珠里が言うので、新風はちょっと笑った。
「珠里さんももう大人でしょう。二十一だっけ?」
「全然大人になれてる気がしないです……」
珠里の言葉に、新風はまたふっふっと笑う。
「なれてる気なんか、したってしなくたって、自分より後からくる人のことを考えてやらなきゃいけない時がくるんだよ」
珠里はうーん、と唸る。自分のことで精一杯で、考えたこともなかった。でも、新風や和菓子屋のおばちゃんのような、子どもや若者を気に掛けて見守ってくれる人は、誰かが引き継がないと、いつかいなくなってしまう。そのことに、今日初めて気付いた気がした。
「新風さん! 大変だ!」
その時、庭の生垣の向こうから声が飛び込んできた。
「『もんた牛』の息子が首括ろうとしてる!」
珠里と新風が駆け付けた未央の部屋のベランダの前には、すでに町内の人たちが集まっていた。未央はその人だかりを前にして、柵に括り付けた古い縄跳びを、輪にして自分の首にかけたまま、ベランダの上で身動きできなくなっていた。
「何やってんだ未央!」
思わず声を上げると、未央がたった今意識を取り戻したかのように、はっと珠里の方を見た。
「あ……ちがう……僕、わかんなくて……」
「もんた牛」の親父さんが、とにかく首の縄はずせ、下りてこい、と血相を変えて叫んでいる。
「わ、わかんない、わかんないよ……!」
どうやら未央自身もパニック状態で、今は死のうとしているというより、どうしたらいいかわからなくなっているようだ。なぜこんなことに……と戸惑う珠里の横で、野次馬の一人が叫んだ。
「いいじゃねーか、ホモくらい! 死ぬほどのことじゃねえぞ」
その言葉に、場がにわかにざわつく。何人かは、すでに知っていたように周りに説明し出す。
「鳥栖くんにせまったんだって……」
「それでふられて自暴自棄に……」
なんだこの話は? 珠里は人だかりを見回すけれど、鳥栖の姿は見えない。ただ、誰かが未央の秘密を知り、それを広めたということだけは理解できた。
「えーちょっといいですかね!?」
新風の、聞いたこともないような大きな声が辺りに響いた。未央もはっと我に返り、新風に注目する。
「こんな状況で話すのもなんですが、最近町内で話題の商店街のウェブサイト、あれを作ってるのは、この首に縄がかかってる未央さんと、ここにいる珠里さんです」
しばしの沈黙のあと、一気に皆が騒ぎ出す。一番あんぐりと大きく口を開けて驚いているのは、「もんた牛」の店主だ。
「お二人は商店街の恩人みたいなもんですよ。それを私たちは今、心ない噂で中傷して、全部パーにしようとしてるわけですね」
騒いでいた人々の声が、しゅんと火が消えたように静かになる。
「未央さんもねえ!」
新風の大声が再び響いた。
「この町の人たちが冷たけりゃ、こんな町捨てちまえばいいんだよ」
「でも……」
その時初めて、未央は言葉らしい言葉を発した。
「就活の時もだめだった……どこ行っても、僕はだめなんじゃないかって……」
さっきまで焦点が合っていないようだった未央の目が、今はまっすぐ新風の方を見て、涙をポロポロこぼしていた。
「僕が、僕じゃなけりゃよかったんじゃないかって……」
「馬鹿、未央が未央じゃなきゃ私らの商売成り立たないぞ」
その声は、未央のすぐ隣で聞こえた。いつの間にか珠里は、和菓子屋のベランダに上り、柵の手前まで近づいていた。
「じゅ、珠里ちゃん……」
「金金って言うなってお前言うけどさ、金稼ぐの面白かったじゃん」
未央は、話の意図がつかめずに、珠里の方をぼんやりと見ている。
「自分の仕事がちゃんと金っていう価値になって戻ってくるの、超面白いだろ」
未央は思わずゆらりと頷く。仕事をするとはこういうことかと身をもって知ったこの数週間は、生きている実感が強く感じられた。
その時、地上の人々をかき分けて小さな人影が近づいてきていることに、二人は気付いていなかった。
「……未央ちゃん、珠里ちゃん」
その微かな声がやっと二人の耳に届いた時、温かい甘い香りも一緒に漂ってきた。割烹着に身を包み、小柄な体で白髪の女性。昔から町の人は「和菓子屋のおばちゃん」と呼んでいるけれど、今やおばあちゃんの方がしっくりくる年齢だ。
「十円まんじゅう、未央ちゃん好きでしょ。これ食べてね、お茶も入れたげるからね」
おばちゃんは、蒸かしたてのまんじゅうを透明パックに詰めて持ってきていた。未央と珠里が、小さい時からよく食べさせてもらっていたものだ。
「うう……」
未央は思わず泣き崩れてうずくまる。
その瞬間、珠里は柵を乗り越えて隣のベランダに飛び移り、首の縄を外すと、代わりに自分の腕で未央の首を羽交い絞めにした。
「まだまだこれから大儲けさせてもらうんだからな! 逃がさねえぞ!」
「うう!?」
この時の珠里の身のこなしと鬼気迫る形相は、長く町内で語り継がれることとなった。
それからの二人はというと、町の一角にあるマンションに、オフィスを構えて会社を立ち上げた。今は商店街の仕事がひと段落し、売り込みや町の人からの紹介で、新しい仕事を増やしている。
未央と珠里の親たちも、当面は大人しくなって、会社に関しても黙認している。もし何か言ってきたとしても、その時は町を出ればいい。今の二人には、それも可能なのだということがわかっていた。
「そして珠里は佐々木蔵之介と結婚し、未央は的場浩司みたいな彼氏ができたのでした。めでたしめでたし」
「んなわけないでしょ! っていうか僕の彼氏も小栗旬とかにしといてよ」
新しいオフィスでも、相変わらずそれぞれのブラウザに向かって背中で会話しながら、珠里の都合のいい設定に未央がツッコむ。
「いいんだよ、ぜーんぶ都合よく思い通り上手くいくくらいがちょうどいいんだって。私そういうのが似合う女じゃん」
吹き出す未央に、「お前も私の強運に巻き込んでやるぜえ」と、珠里が背中越しににやりと笑う。
町の人たちがみんな理解あるわけじゃない。鳥栖もまだ「カプレッティ」で働いているし、今日も商店街のどこかでは、心ない噂がささやかれているのかもしれない。それでも思ったよりは、未央が未央であるということだけを大切に思ってくれる人も多いのだとわかった。そう思えば、珠里の言うように万事うまくいくと信じてみていいような気がしてくる。
「あー、なんか僕も小栗旬と付き合える気がしてきた」
笑いながら未央が言うと、珠里からは
「略奪愛か、とんでもない男だなお前」
と軽口が返ってきた。
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