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祈り
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1年と少し続いたバイトをクビになってから、玲は塞ぎ込むようになった。僕自身も、玲がバイトをクビになった事は少しショックだった。そのバイト先は、2人で慎重に選んだ所で、年齢層の上の女性スタッフが多く男性恐怖症のある玲には都合が良かった。記憶障害にも理解のある人が多く、話を聞いている限り、玲は受け入れられているようだった。
初めて会社の親睦会にも招かれて、とても嬉しそうだった。毎日家でも仕事で覚えた事のメモを読み返し、ネットで調べたりして予習し、懸命に仕事に取り組んでいた。そして最近、来年度、正社員にならないかと言われたと、とても喜んでいた。
だから、僕もようやく玲が安心して働ける場所ができたと喜んでいた。
それなのに…。
1年以上経ってからどうして急に電車が乗られなくなったのかは、玲は言わなかった。
特にきっかけが無いのか、あっても言いたくないのか、きっかけとなった事の記憶を失くしてしまったのか。
玲がバイトをしなくても、もともとどちらもお金をそれほど使わないから、2人分の生活費は充分賄えたが、玲にとってはそういう問題ではなかった。玲は、ただでさえ低い自尊心や自己肯定感を挫かれて、必要以上に僕の世話を焼いたり、無理して日雇いの仕事に行こうとしたりした。
それに、もともと玲は神経症的と言っても良いくらいに、節約が染み付いていた。記憶障害を抱えてたった独りで生きていかないといけないと思うと、僕と暮らすまでずっとお金がないのが不安で仕方がなかったのだろう。
お金の心配はしなくて良いよ。
そう言ってもなかなか不安は拭えなかったし、僕のお金を使う事にいつも引け目を感じていた。
「ぼくはたかしには相応しくないね。」
時折、哀しそうにそう呟いた。
そんな事ない!
本当は、僕の方が玲には相応しくないんだよ。玲が苦しんでいる記憶障害は、僕のせいなんだ。僕が悪いんだ。
だから、玲は何も気にする事なんかない。
そう、叫びたくなる衝動を、僕は何度も歯を食いしばって堪えた。玲に、謝りたかった。許してくださいと、縋り付いて謝りたかった。でも、そんなのは、玲のためではない。自分自身の罪悪感を和らげる為の、身勝手な行為だ。
いや、玲に言わないでこうやって一緒に暮らすのだって、結局は自己満足の償いなのだ。でも、僕は、もう玲を離したくはなかった。
あの時、どうすれば良かったのだろうと、この12年、幾度も幾度も考えた。あの時、玲はきっともう、心も身体もとうに限界を超えていたのだろう。玲は、世界が終わる事を、それだけを願っていた。たった15年しか生きていなかった玲の、ほとんど唯一の希望だった。
あの時、僕は…
僕は、それを、叶えてあげたいと思ってしまった。
玲は時々、ぼーっとするようになった。悪夢を見て魘される事も増えて、外に行くのを怖がるようになった。
僕は、何時間でも玲を抱きしめて、背中をさすって大丈夫、大丈夫、と言った。
ある夜、ふと目を覚ますと隣に玲がいなかった。慌てて起き上がり、リビングに行くと、玲は電気も点けず真っ暗な中でソファに膝を抱えて座り、ブルブルと震えていた。
「どうしたの?」
「……」
隣に座っていつものように抱きしめようとしたら、玲はビクッと身体を跳ねさせて素早く身体を離した。
「玲?どうしたの?」
玲は何も言わなかった。こちらを見たけれど、その目は焦点が定まらず、何も見えていないかのようだった。
記憶を失くしてる。
ここがどこか分からないんだ。
「大丈夫だよ。君は花森玲。僕は君の恋人だよ。ここは2人の家。何にも怖い事なんて、ないよ。」
大丈夫、そう言ってもう一度肩を撫でようと近寄った瞬間、玲は弾かれたようにソファから降りるといきなり床に土下座した。
「ごめ、す、あ、も…も、申し訳ありません。ごめんなさい。ゆ、許してください。ご…ご奉仕します。」
「え??ちょっ、え?玲?どうしたの?」
玲は急に顔を上げると四つ這いのまま僕ににじり寄って、徐ろに口で僕のパジャマのウエストのゴムのところを咥えると下にずり下げようとした。
「ぅわ!!ちょっ!ちょっと!!
何するの、玲!?やめて!」
僕が驚いて思わず身を引くと、玲はバランスを崩し、慌てて伸ばした手も間に合わず床に顔を打ちつけた。
「ごめん!!玲、大丈夫!?」
駆け寄ると、玲は顔を打ちつけたまま身体を丸めて、小さな声でずっと
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
と呟いていた。
そしてそのまま、気を失うように眠ってしまった。
胎児のように身体を丸めて、規則正しい寝息をたてながら静かに眠る玲の隣で、ベッドに腰掛けて、僕は涙が止められなかった。
あれが、中学生の時に玲がさせられていた事なんだろう。なんて事だろう。
自分が犯された時の気持ちが、まざまざと蘇った。抵抗すると殴られて、何人もの同級生に手足を押さえつけられて、身動きできない状況で身体を好きにされた時の、肉体の苦痛と心を踏み躙られる屈辱感。自分が、まるで汚いゴミになったような、あの耐えがたい感覚。
玲は、それを、毎日毎日味わっていた。
それも、自ら望んでしているかのように振舞わされて。それを受け入れるまでに、どれほどの痛みと恐怖を与えられ、心を砕かれたのだろう。玲の身体に今も残る傷跡を思った。
叫び出しそうだった。
玲をそんな目に合わせた奴を、1人残らず八つ裂きにしたかった。
中学の時の、玲の透明な瞳を思い出した。何も映していないかのような、透明な瞳。きっと、何も、映したくなかったんだ。心を空っぽにする事でしか、正気を保てなかったんだろう。
ぼくを、殺して。
そう言った時の、玲の哀しい哀しい瞳。
ああ、僕は、どうすれば良かったのだろう。これから、どうすれば良いのだろう。どうすれば、玲を幸せにできるのだろう。僕は…
どれだけの時間泣いていたのか、分からない。空が白み始め、鳥の声がしてきた。朝が来て、また1日が始まる。
あの頃の玲は、どんな気持ちで朝を迎えていたのだろう…
不意に背中を触られて、振り向くと玲が掠れた声で言った。
「たかし…… 泣いてるの?」
僕は涙を拭って、にっこりと笑い振り向いた。
「大丈夫だよ。玲、ここがどこか、分かる?」
「うん。ぼく、昨日、また記憶失くしちゃったんだね。」
「うん、でも大丈夫だよ。すぐに眠ったから。」
僕は玲の頬の赤みを指で撫でた。
「痛くない?」
「うん。怪我してるの?」
「少し、打っただけだよ。」
玲は後ろから僕の背中をギュッと抱いた。背中に頬をピッタリとつけて、小さな声で言った。
神様お願いします、ぼく達を不幸にしないで下さい。
それは、僕と玲の、心の底からの祈りだった。玲を、もう二度と、不幸にしないで下さい。僕達の、ささやかな幸せを、奪わないで下さい。
お願いします。
神様…
初めて会社の親睦会にも招かれて、とても嬉しそうだった。毎日家でも仕事で覚えた事のメモを読み返し、ネットで調べたりして予習し、懸命に仕事に取り組んでいた。そして最近、来年度、正社員にならないかと言われたと、とても喜んでいた。
だから、僕もようやく玲が安心して働ける場所ができたと喜んでいた。
それなのに…。
1年以上経ってからどうして急に電車が乗られなくなったのかは、玲は言わなかった。
特にきっかけが無いのか、あっても言いたくないのか、きっかけとなった事の記憶を失くしてしまったのか。
玲がバイトをしなくても、もともとどちらもお金をそれほど使わないから、2人分の生活費は充分賄えたが、玲にとってはそういう問題ではなかった。玲は、ただでさえ低い自尊心や自己肯定感を挫かれて、必要以上に僕の世話を焼いたり、無理して日雇いの仕事に行こうとしたりした。
それに、もともと玲は神経症的と言っても良いくらいに、節約が染み付いていた。記憶障害を抱えてたった独りで生きていかないといけないと思うと、僕と暮らすまでずっとお金がないのが不安で仕方がなかったのだろう。
お金の心配はしなくて良いよ。
そう言ってもなかなか不安は拭えなかったし、僕のお金を使う事にいつも引け目を感じていた。
「ぼくはたかしには相応しくないね。」
時折、哀しそうにそう呟いた。
そんな事ない!
本当は、僕の方が玲には相応しくないんだよ。玲が苦しんでいる記憶障害は、僕のせいなんだ。僕が悪いんだ。
だから、玲は何も気にする事なんかない。
そう、叫びたくなる衝動を、僕は何度も歯を食いしばって堪えた。玲に、謝りたかった。許してくださいと、縋り付いて謝りたかった。でも、そんなのは、玲のためではない。自分自身の罪悪感を和らげる為の、身勝手な行為だ。
いや、玲に言わないでこうやって一緒に暮らすのだって、結局は自己満足の償いなのだ。でも、僕は、もう玲を離したくはなかった。
あの時、どうすれば良かったのだろうと、この12年、幾度も幾度も考えた。あの時、玲はきっともう、心も身体もとうに限界を超えていたのだろう。玲は、世界が終わる事を、それだけを願っていた。たった15年しか生きていなかった玲の、ほとんど唯一の希望だった。
あの時、僕は…
僕は、それを、叶えてあげたいと思ってしまった。
玲は時々、ぼーっとするようになった。悪夢を見て魘される事も増えて、外に行くのを怖がるようになった。
僕は、何時間でも玲を抱きしめて、背中をさすって大丈夫、大丈夫、と言った。
ある夜、ふと目を覚ますと隣に玲がいなかった。慌てて起き上がり、リビングに行くと、玲は電気も点けず真っ暗な中でソファに膝を抱えて座り、ブルブルと震えていた。
「どうしたの?」
「……」
隣に座っていつものように抱きしめようとしたら、玲はビクッと身体を跳ねさせて素早く身体を離した。
「玲?どうしたの?」
玲は何も言わなかった。こちらを見たけれど、その目は焦点が定まらず、何も見えていないかのようだった。
記憶を失くしてる。
ここがどこか分からないんだ。
「大丈夫だよ。君は花森玲。僕は君の恋人だよ。ここは2人の家。何にも怖い事なんて、ないよ。」
大丈夫、そう言ってもう一度肩を撫でようと近寄った瞬間、玲は弾かれたようにソファから降りるといきなり床に土下座した。
「ごめ、す、あ、も…も、申し訳ありません。ごめんなさい。ゆ、許してください。ご…ご奉仕します。」
「え??ちょっ、え?玲?どうしたの?」
玲は急に顔を上げると四つ這いのまま僕ににじり寄って、徐ろに口で僕のパジャマのウエストのゴムのところを咥えると下にずり下げようとした。
「ぅわ!!ちょっ!ちょっと!!
何するの、玲!?やめて!」
僕が驚いて思わず身を引くと、玲はバランスを崩し、慌てて伸ばした手も間に合わず床に顔を打ちつけた。
「ごめん!!玲、大丈夫!?」
駆け寄ると、玲は顔を打ちつけたまま身体を丸めて、小さな声でずっと
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
と呟いていた。
そしてそのまま、気を失うように眠ってしまった。
胎児のように身体を丸めて、規則正しい寝息をたてながら静かに眠る玲の隣で、ベッドに腰掛けて、僕は涙が止められなかった。
あれが、中学生の時に玲がさせられていた事なんだろう。なんて事だろう。
自分が犯された時の気持ちが、まざまざと蘇った。抵抗すると殴られて、何人もの同級生に手足を押さえつけられて、身動きできない状況で身体を好きにされた時の、肉体の苦痛と心を踏み躙られる屈辱感。自分が、まるで汚いゴミになったような、あの耐えがたい感覚。
玲は、それを、毎日毎日味わっていた。
それも、自ら望んでしているかのように振舞わされて。それを受け入れるまでに、どれほどの痛みと恐怖を与えられ、心を砕かれたのだろう。玲の身体に今も残る傷跡を思った。
叫び出しそうだった。
玲をそんな目に合わせた奴を、1人残らず八つ裂きにしたかった。
中学の時の、玲の透明な瞳を思い出した。何も映していないかのような、透明な瞳。きっと、何も、映したくなかったんだ。心を空っぽにする事でしか、正気を保てなかったんだろう。
ぼくを、殺して。
そう言った時の、玲の哀しい哀しい瞳。
ああ、僕は、どうすれば良かったのだろう。これから、どうすれば良いのだろう。どうすれば、玲を幸せにできるのだろう。僕は…
どれだけの時間泣いていたのか、分からない。空が白み始め、鳥の声がしてきた。朝が来て、また1日が始まる。
あの頃の玲は、どんな気持ちで朝を迎えていたのだろう…
不意に背中を触られて、振り向くと玲が掠れた声で言った。
「たかし…… 泣いてるの?」
僕は涙を拭って、にっこりと笑い振り向いた。
「大丈夫だよ。玲、ここがどこか、分かる?」
「うん。ぼく、昨日、また記憶失くしちゃったんだね。」
「うん、でも大丈夫だよ。すぐに眠ったから。」
僕は玲の頬の赤みを指で撫でた。
「痛くない?」
「うん。怪我してるの?」
「少し、打っただけだよ。」
玲は後ろから僕の背中をギュッと抱いた。背中に頬をピッタリとつけて、小さな声で言った。
神様お願いします、ぼく達を不幸にしないで下さい。
それは、僕と玲の、心の底からの祈りだった。玲を、もう二度と、不幸にしないで下さい。僕達の、ささやかな幸せを、奪わないで下さい。
お願いします。
神様…
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