救い

ken

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記憶

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痴漢に遭ってから、悪夢を見たり記憶を失くす事が増えた。それまで、漠然とした恐怖に襲われていたのが、急に恐怖の対象が具体的な形となった。
最初、ぼくは何度も痴漢される夢を見た。電車の中で、何人もの男達に身体を弄られ、やめてくれと暴れてもよってたかって押さえつけられた。そのうちに電車の中ではなく、どこかベッドのある部屋で男達に弄られるようになった。
朝起きると、男達に触られた感触が身体に残るくらい、リアルな夢だった。そして、心のどこかで、これは、初めての事ではないのではないか、という疑念が湧いた。でも、それ以上考え続けると、記憶を飛ばしてしまう。

繰り返される悪夢と記憶喪失に、ぼくは次第に精神を消耗していった。起きているのが辛くなったし、外に出るのが怖くなった。日常生活を送れなくなるという恐怖が、常に付き纏った。

ぼくには昔から疑問に思っている事が幾つかあった。
身体中についている古い傷。
それは、事故でできたとは思えないものだった。何か、細い棒のようなもので打たれたような傷や、点々とした火傷。
最初に働いた会社で、更衣室で着替える時に先輩に言われた言葉が蘇る。
「おまえ、これ、根性焼きだろ?何?いじめられっ子だったの?」
気になって根性焼きを調べたら、タバコの火を押し付ける事だと知った。そうして見るとその火傷は、なるほどタバコの火を押し付けた傷によく似ていた。

不可解な警察による事情聴取。
そして、ある時から急にそれまで質問してきた人達が饒舌に話し始めた事。
それなのに、誰も、事故についての詳細は教えてくれなかった。なぜか皆、僕の過去の話をしたがらなかった。もし突然の事故なら、その前の生活についてなぜそんなに隠そうとするのだろう。

でも、今まで考えるのを避けていた。
知ってどうするのだ、という気持ちと、知るのが怖いという気持ち。それに、深く考えようとすると、記憶を失った事もあり、その事について考える事を避けた。そのため、両親の事も考えられなかった。ぼくは、どうやってこの世に誕生して、どうやって15歳まで生きてきたのか。両親はぼくの事を愛していたのだろうか?ぼくは、誰かに愛されていたのだろうか?

何も分からなかった。
だから、ぼくはどこかずっと、自分が本当には生きていないように感じる瞬間があった。時々自分が幽霊のように感じる時があった。感情がどんどん希薄になって、自分が消えてなくなるような感覚に襲われた。

たかしだけが、ぼくの命綱だった。
たかしへの気持ちだけが、唯一リアルに感じられる感情だった。
そのたかしが泣いているのを見た時、ぼくはこのままではいけないと気付いた。記憶を取り戻して、自分の感情を取り戻そう。そう思った。

それが、これ程辛いものになるとは、その時は分からなかった。ぼくの過去は、吐き気がするほど穢れた悍ましいもので、ぼくは何度も何度も入院した事を後悔した。思い出さなければ良かった、そう思った。でも、たかしの事だけを考えて、前に進んだ。たかしがぼくにしてくれた事を思い出したから。だから、どんなに辛くても逃げてはいけないと思えた。たかしに救われた人生を、今度はたかしのために捧げよう、そう思った。

それに父の事を思い出せた事も、ぼくにとっては辛い治療を頑張るご褒美だった。母は滅多に家に帰らず、ほとんど父と2人暮らしのようだった幼い頃の出来事を、ぼくはいくつも思い出した。それから、母がずっと家にいるようになって、3人で過ごした束の間の穏やかな日々。その頃の母は、母なりにぼくと父を愛そうとしてくれていたのかも知れない。少なくとも、穏やかな生活を送ろうとはしていたと思う。
でも、ぼくが小学生の半ば頃にはまた、母は帰ってこなくなった。そして父は、母が至る所でつくる借金を返済する為、仕事を幾つも掛け持ちして働くようになった。ぼくは児童養護施設に預けられた。
でも、仕事の合間を縫って父はぼくに会いに来てくれた。短い時間だったけど、ぼくは父と会うのが楽しみだった。


ぼくは父に愛されていた。
それはぼくにとって、自分の存在が許されたと感じる瞬間だった。


退院する1週間程前に、先生はぼくに母の事をさらに詳しく教えてくれた。裁判記録と供述調書から分かった、ぼくの知らなかった事だ。

母は、幼い頃から母親に虐待されて育ったらしい。母の母、つまりぼくの祖母は、スナックで働いて、男性と付き合っては別れる事を繰り返していた。母は、母親の度々変わる男性達から虐待された事もあったという。そして中学生の時に、当時母親が付き合っていた男にレイプされた。祖母はそれを知って、自分の恋人ではなく娘を詰った。母は家を追い出された。そして中学を卒業してすぐに、風俗で働くようになったという。

父とは、母が21歳の時に、客と風俗嬢として出会ったという。当時父は25歳で、
まだ一度も女性と付き合った事がなかった。極度の人見知りと気の弱さが、彼を女性から遠ざけていた。
このまま、死ぬまで誰とも肌を合わせないで生きていくのかも知れない。父は縋るように風俗を訪れた。
母の証言によると、父は何回か訪れたが、いつもベッドに腰掛けて話をするだけで、何もせずに帰って行ったという。最初は訝しんだ母も、性的サービスをしなくても良い父との時間は楽だったから歓迎した。父は自分はあまり話さず、母の話を聞いてくれて、ちゃんと覚えていてくれた。時々、前の時に好きと言ったお菓子や花を、買ってきてくれた。
この男はきっと、性的に不能なんだ、と母は思ったらしい。
でも、5回か6回目に、父は手を繋いで良いか?と聞いてきた。そうやって少しずつ少しずつ、距離が近くなり、初めてキスをしたのは半年後の事だった。それからしばらくして、母から父を誘った。
「自分は、一度もした事がないんです。自信がない。うまくできないと思う。」
そう父は断ったが、母は言った。
「大丈夫、全部私がやってあげるから。」

母がそんな風に父を誘ったのには、理由があった。母はその時、妊娠していた。
客の男に無理矢理コンドーム無しで本番をさせられ、妊娠させられた。
困った母は、父なら責任を取ってくれるだろうと思った。父とSEXし、父の子であると言ったなら、この男なら疑わずに私と結婚してくれそうだ。

そして産まれたのが、ぼくだった。
ぼくは、父と血は繋がっていなかったのだ。母の証言によると、父は途中でその事に気付いたらしい。ぼくの血液型と父の血液型は、血が繋がっているはずのない型だったのだ。その事が発覚しても、父は母を全く責めなかった。ぼくに対する愛情も、失わなかった。父にとって母は、初めて自分に優しく接してくれた女性で、初恋の人で、守るべき大切な存在だったのだ。父は一途に母を守り続けようとした。母は生育環境から来るトラウマを乗り越える事ができず、性的にも金銭的にも奔放で節度のない暮らしをする事でしか、心の痛みを紛らわす事ができなかった。父は、そんな母に、どこまでも寄り添おうとした。

悲しい話だった。
そしてぼくは、そんな母の悲しみのために、身を捧げさせられた。

母を憎む気持ちにはなれなかった。誰を憎む事もできなかった。ただただ、悲しかった。母親に、少しずつ壊されていった母の人生。そして、そんな母に壊された、ぼくの人生。忌まわしい鎖のような、ぼくたちの人生。


なんて悲しい人生なのだろう。
人は、なんと愚かで弱い生き物なのだろう。


たかしに会いたい。
早く、たかしと一緒の部屋に帰りたい。

ぼくは無性にそう思った。

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