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高校生活
憧憬
踵を返して逃げていく桜亮を見て、翔太は桜亮が怒っているのだろうと思った。
桜亮との約束を破ったばかりでなく、結果的には自分だけ1人、島を逃げ出した。そんな卑怯な自分を、桜亮は許さないのだと思った。
だから、桜亮がそんなに嫌がるのなら、自分は桜亮の側にいる資格はないと思った。遠くから、こっそりと見ているだけで良い。十分だ。
だから、翔太は桜亮がニコニコと嘘くさい笑顔をその顔に張り付けたまま、揶揄われても小突かれても何も反応しないのを、胸を抉られるような気持ちで見つめていた。翔太の知っている桜亮は、どこにいってしまったのか。
胸に幼稚園児のような動物のキャラクターのバッヂを付けている桜亮は、どこでも目立った。『話す事が出来ません』とそのバッヂには書いてあった。桜亮の身に何が起きたのか、翔太は心配でならなかった。
桜亮はいつも落書き帳を持ち歩き、何か答える必要のある時にはそこで筆談をしようとした。でも、生徒のほとんどは桜亮が最後まで書き終えるのを待たず、時間切れだと言って桜亮を笑い物にした。むしろその為に、桜亮に何か質問するのだ。そして一生懸命落書き帳に文字を書く桜亮を、バカにする。それでも桜亮はうっすらと微笑んだまま、『ごめんなさい』と予め書き記したページをめくって見せた。『ごめんなさい』と記されたページはその落書き帳の1番最初にあって、結局桜亮はいつもそのページばかりめくって見せるのだった。
翔太は誰とも友達にならなかった。教室の隅で桜亮ばかり見ながら、桜亮にも桜亮をいびる連中にも苛立ちを隠せなかった。翔太は、施設の先輩のお下がりの制服を着ていて、身体も大きく、水泳部で鍛えた逞しい筋肉は隠しようもなく、クラスメイトは触らぬ神に祟りなしというように翔太を遠巻きにした。翔太は特に不良ではなかったし不良に1ミリの憧れも抱いていなかったが、そのように振る舞う事は自分を守ると、身寄りのない施設暮らしの中で自然に覚えていった。
翔太は桜亮へのからかいが度を越すように感じると
「うるせーな!ガキみてーに騒ぐんじゃねぇゴラァ!」
と壁を蹴った。
施設の先輩の中には本当の不良も何人もいて、この高校にも数人そんな先輩がいた。彼らに可愛がられていた翔太に、楯突くクラスメイトはいなかった。
授業中、桜亮は心ここに在らずといった様子で窓の外ばかり見ていた。桜亮のそんな横顔を、翔太はヒリヒリと胸を焼かれるような思いで見つめた。教室の中で、桜亮は絶対に翔太のことを見なかった。それが翔太には悲しくてならなかった。桜亮と話したかった。昔みたいにまた、一緒に並んで黙ってそれぞれの好きな事をして過ごしたかった。何があったのか?どうして声を失ったのか。もうあの家から逃げ出せたのか。
聞きたい事は山のようにあった。
でも、それら全部よりもただ、ただ一言、謝りたかった。許されなくても、謝りたかった。
高校で、桜亮は実習棟と教室を繋ぐ渡り廊下の片隅から、第二グラウンドを眺める時間が、唯一ほんの少し心を落ちつけられる時間だった。放課後の3階の渡り廊下は、あまり人が通らなかったからだ。桜亮は毎日帰る前に、そこから、グラウンドを走る翔太を見つめた。その場所から水泳部のトレーニングをする翔太を眺められると気付いたのは、偶然だった。そもそも、翔太が水泳部だという事も、桜亮は知らなかった。ある日、1人押し付けられた実習室の掃除を終えて帰宅しようと渡り廊下を歩いていて、ふとグラウンドを見たら走る翔太が見えたのだ。翔太だ!そう気付くと思わず窓に駆け寄った。教室の中では、桜亮は翔太を見ないように厳しく自分に言い聞かせていた。汚れ切った自分を翔太には知られたくなかったし、自分が翔太の近くにいたら翔太まで汚してしまうかも知れない。それに、いつも嘲笑と嫌がらせに囲まれた自分なんかが翔太に近づいたら、翔太に迷惑がかかる。桜亮は翔太の顔を見たくなる度に、空を見つめて昔のように翔太の顔を空想した。自分にはこれだけで十分だ。そう言い聞かせた。
でも、この距離なら、翔太を見つめても翔太に迷惑をかけないかも知れない。気付かれないようにそっと見るだけなら、許されるかも知れない。そう思うともう、桜亮は自分を止められなかった。窓から身を乗り出して、夢中で翔太を見つめた。翔太が走っている。本物の翔太だ。翔太は死んでなんかいなかった。良かった。やっぱり篤太郎様は嘘をついていたんだ。学校で教師から翔太は本土の児童施設に入ったと聞かされても、桜亮は心のどこかで翔太が海で死んでしまったのではないかと心配していた。母を奪った海が、今度は翔太も奪ったのではないか。そう、心のどこかで怯えていた。高校で翔太と再開した時も、全部自分の空想が作り出した幻覚ではないかと、何度も翔太の存在を確かめたくなる気持ちを堪えていた。
桜亮は、自分が涙を流している事に気付いた。久しぶりの涙だった。自分がなぜ泣いているのか、桜亮にはもう分からなかった。
それから、毎日桜亮はそこから翔太を眺めた。あと五分。もうあと五分だけ。早く帰って征太郎様と亮二様のご飯を作らないと。掃除もしないといけないし、今日は征太郎様の車の中の掃除もするよう言われている。
桜亮はそれでも窓から離れがたく、毎日、あと五分、あと五分と眺めては、慌てて走って帰るのだった。
走る翔太はキラキラとして見えた。そして、夏が来て、その渡り廊下からはプールがグランドよりも近くに見えた。桜亮は泳ぐ翔太を見つめた。翔太は泳ぐのがあまり好きではなかったのに、今は誰よりも美しいフォームで泳いでいた。昔、翔太とよく海で遊んだ。桜亮は泳ぐのが好きだったけど、翔太はすぐに泳ぐのをやめて砂浜で絵を描いた。翔太だけは、あの頃のままきれいだった。いや、あの頃よりもずっと、ずっと美しい。
桜亮は、翔太を眺めるだけで幸せだと思った。相変わらず、自分の身体は好きに扱われる。亮二は桜亮の存在をほとんど無視していたが、征太郎は時に篤太郎よりも手荒く桜亮を犯す。それに、頻度は減ったが、篤太郎や征太郎に言いつけられれば他の男にも身体を許さないといけない。
痛む身体を引き摺るように夜遅くまでかかって家事を終わらせて、二人の残した残飯を食べて廊下の片隅で毛布にくるまって眠る。心も身体も休まる間暇のない日々でも、翔太を眺めるこのたった30分ほどがあれば、桜亮は幸せだった。
桜亮との約束を破ったばかりでなく、結果的には自分だけ1人、島を逃げ出した。そんな卑怯な自分を、桜亮は許さないのだと思った。
だから、桜亮がそんなに嫌がるのなら、自分は桜亮の側にいる資格はないと思った。遠くから、こっそりと見ているだけで良い。十分だ。
だから、翔太は桜亮がニコニコと嘘くさい笑顔をその顔に張り付けたまま、揶揄われても小突かれても何も反応しないのを、胸を抉られるような気持ちで見つめていた。翔太の知っている桜亮は、どこにいってしまったのか。
胸に幼稚園児のような動物のキャラクターのバッヂを付けている桜亮は、どこでも目立った。『話す事が出来ません』とそのバッヂには書いてあった。桜亮の身に何が起きたのか、翔太は心配でならなかった。
桜亮はいつも落書き帳を持ち歩き、何か答える必要のある時にはそこで筆談をしようとした。でも、生徒のほとんどは桜亮が最後まで書き終えるのを待たず、時間切れだと言って桜亮を笑い物にした。むしろその為に、桜亮に何か質問するのだ。そして一生懸命落書き帳に文字を書く桜亮を、バカにする。それでも桜亮はうっすらと微笑んだまま、『ごめんなさい』と予め書き記したページをめくって見せた。『ごめんなさい』と記されたページはその落書き帳の1番最初にあって、結局桜亮はいつもそのページばかりめくって見せるのだった。
翔太は誰とも友達にならなかった。教室の隅で桜亮ばかり見ながら、桜亮にも桜亮をいびる連中にも苛立ちを隠せなかった。翔太は、施設の先輩のお下がりの制服を着ていて、身体も大きく、水泳部で鍛えた逞しい筋肉は隠しようもなく、クラスメイトは触らぬ神に祟りなしというように翔太を遠巻きにした。翔太は特に不良ではなかったし不良に1ミリの憧れも抱いていなかったが、そのように振る舞う事は自分を守ると、身寄りのない施設暮らしの中で自然に覚えていった。
翔太は桜亮へのからかいが度を越すように感じると
「うるせーな!ガキみてーに騒ぐんじゃねぇゴラァ!」
と壁を蹴った。
施設の先輩の中には本当の不良も何人もいて、この高校にも数人そんな先輩がいた。彼らに可愛がられていた翔太に、楯突くクラスメイトはいなかった。
授業中、桜亮は心ここに在らずといった様子で窓の外ばかり見ていた。桜亮のそんな横顔を、翔太はヒリヒリと胸を焼かれるような思いで見つめた。教室の中で、桜亮は絶対に翔太のことを見なかった。それが翔太には悲しくてならなかった。桜亮と話したかった。昔みたいにまた、一緒に並んで黙ってそれぞれの好きな事をして過ごしたかった。何があったのか?どうして声を失ったのか。もうあの家から逃げ出せたのか。
聞きたい事は山のようにあった。
でも、それら全部よりもただ、ただ一言、謝りたかった。許されなくても、謝りたかった。
高校で、桜亮は実習棟と教室を繋ぐ渡り廊下の片隅から、第二グラウンドを眺める時間が、唯一ほんの少し心を落ちつけられる時間だった。放課後の3階の渡り廊下は、あまり人が通らなかったからだ。桜亮は毎日帰る前に、そこから、グラウンドを走る翔太を見つめた。その場所から水泳部のトレーニングをする翔太を眺められると気付いたのは、偶然だった。そもそも、翔太が水泳部だという事も、桜亮は知らなかった。ある日、1人押し付けられた実習室の掃除を終えて帰宅しようと渡り廊下を歩いていて、ふとグラウンドを見たら走る翔太が見えたのだ。翔太だ!そう気付くと思わず窓に駆け寄った。教室の中では、桜亮は翔太を見ないように厳しく自分に言い聞かせていた。汚れ切った自分を翔太には知られたくなかったし、自分が翔太の近くにいたら翔太まで汚してしまうかも知れない。それに、いつも嘲笑と嫌がらせに囲まれた自分なんかが翔太に近づいたら、翔太に迷惑がかかる。桜亮は翔太の顔を見たくなる度に、空を見つめて昔のように翔太の顔を空想した。自分にはこれだけで十分だ。そう言い聞かせた。
でも、この距離なら、翔太を見つめても翔太に迷惑をかけないかも知れない。気付かれないようにそっと見るだけなら、許されるかも知れない。そう思うともう、桜亮は自分を止められなかった。窓から身を乗り出して、夢中で翔太を見つめた。翔太が走っている。本物の翔太だ。翔太は死んでなんかいなかった。良かった。やっぱり篤太郎様は嘘をついていたんだ。学校で教師から翔太は本土の児童施設に入ったと聞かされても、桜亮は心のどこかで翔太が海で死んでしまったのではないかと心配していた。母を奪った海が、今度は翔太も奪ったのではないか。そう、心のどこかで怯えていた。高校で翔太と再開した時も、全部自分の空想が作り出した幻覚ではないかと、何度も翔太の存在を確かめたくなる気持ちを堪えていた。
桜亮は、自分が涙を流している事に気付いた。久しぶりの涙だった。自分がなぜ泣いているのか、桜亮にはもう分からなかった。
それから、毎日桜亮はそこから翔太を眺めた。あと五分。もうあと五分だけ。早く帰って征太郎様と亮二様のご飯を作らないと。掃除もしないといけないし、今日は征太郎様の車の中の掃除もするよう言われている。
桜亮はそれでも窓から離れがたく、毎日、あと五分、あと五分と眺めては、慌てて走って帰るのだった。
走る翔太はキラキラとして見えた。そして、夏が来て、その渡り廊下からはプールがグランドよりも近くに見えた。桜亮は泳ぐ翔太を見つめた。翔太は泳ぐのがあまり好きではなかったのに、今は誰よりも美しいフォームで泳いでいた。昔、翔太とよく海で遊んだ。桜亮は泳ぐのが好きだったけど、翔太はすぐに泳ぐのをやめて砂浜で絵を描いた。翔太だけは、あの頃のままきれいだった。いや、あの頃よりもずっと、ずっと美しい。
桜亮は、翔太を眺めるだけで幸せだと思った。相変わらず、自分の身体は好きに扱われる。亮二は桜亮の存在をほとんど無視していたが、征太郎は時に篤太郎よりも手荒く桜亮を犯す。それに、頻度は減ったが、篤太郎や征太郎に言いつけられれば他の男にも身体を許さないといけない。
痛む身体を引き摺るように夜遅くまでかかって家事を終わらせて、二人の残した残飯を食べて廊下の片隅で毛布にくるまって眠る。心も身体も休まる間暇のない日々でも、翔太を眺めるこのたった30分ほどがあれば、桜亮は幸せだった。
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