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救出
逃亡
翌日、桜亮は学校に来なかった。
亮二は罠を仕掛けたのだろうか。あのお金は手切れ金か何かで、桜亮は逃げ出せないように監禁されたのか。翔太は悪い事ばかり考えた。
悶々としながら3日が過ぎた。
3日目に、桜亮は学校に来た。
明らかに辛そうで、わずかに足を引きずっていた。翔太はいつでも逃げられるように、お金や着替えを持って来ていた。桜亮のための服も買っていた。
翔太は校門で登校した桜亮に駆け寄り、この3日ずっと言おうと考えていた事を、必死で桜亮に伝えた。
「桜亮、よく聞いて。俺と一緒に逃げよ。俺が桜亮の事をずっと守るから。着いて来て。お願い、桜亮。」
桜亮は目を見開いたまま、固まった。何かが桜亮の目に浮かび、そしてゆっくりと消えた。桜亮は俯いて、静かに首を振った。
『翔太、ありがとう。翔太、幸せになって。翔太を巻き込みたくなんかないんだ。翔太はずっと、オレの憧れのままでいて。』
桜亮はそう書くとそれを翔太に渡し、歩き去ろうとした。その直前、桜亮の口がさようなら、という形に動いた。
翔太は後ろから、桜亮の手を握った。強く握り、そして手を引いて歩き出した。桜亮が振り解こうともがいても翔太は離さず、桜亮の手を引き歩き続けた。
2人はもつれ合うように歩きながら校門に背を向け、来た道を戻って大通りまで出た。翔太はタクシーを捕まえると、桜亮を無理やり乗せ、自分も乗った。行き先を告げると、桜亮は驚いたように翔太を見つめ、それから、もう手を振り解く事はなかった。
翔太は桜亮を病院に連れて行った。
桜亮は観念したかのようにもう逃げようともせず、翔太に手を引かれるまま、病院の窓口で翔太が受付のスタッフと交渉するのをじっと項垂れて聞いていた。
「保険証はありません。訳あって、家に帰れないんです。でも、怪我をしているし、体調もひどく悪いんです。お願いします。お金ならあります。10割払います。現金で、今すぐ払いますから、診てください。お願いします。」
何度も頭を下げる翔太を、桜亮はじっと悲しげに見つめていた。
「どうしましたか?」
「あ、小林先生!すみません、こちらの高校生の子達、診てくれってそればっかりで。怪我をしてるって。でも、保険証もないし、どこに怪我をしてるかも、なぜ怪我をしたかも言わないんです。名前も何も言わずに…未成年ですし。
しかも、友達が一方的に話すばかりで、診て欲しいって本人は何も話さないし。」
「さっきから何分も。」
「あの、これ以上無理を言うなら警察を呼びますよ。」
警察、と言う言葉に桜亮はビクリと身体をこわばらせた。
「あ、良いですよ。ちょうど空いてるから、私が診ましょう。確かに彼、さっきから立っているのも辛そうだし。」
「え?でも…」
良いから、診察室に通して、と小林は躊躇う受付のスタッフに言い、診察室に入って行った。
桜亮は診察室の椅子に座り、医師の小林に向かって落書き帳の一枚目を広げて見せた。小林は、その落書き帳と桜亮の胸のバッヂを見て、桜亮が話せない事を知ると
「ゆっくりで大丈夫ですから、どこが辛いか、書いてください。」
と優しく言った。
医師の問いかけに桜亮は、たった一言こう書いた。
『性病の検査がしたいです』
小林は驚いた。どうやらこの子は相当なトラブルを抱えているらしい。
小林は迂闊に手を差し伸べた事をほんの少し後悔しながら、でもこの子を助けられるのは今は自分しかいないと思い直し、まずゆっくりと頷いた。
「何か、心配な症状があるのですか?」
桜亮は少し困ったように俯き、それから
『不特定多数の人と、コンドームなしで性交渉しました』
と書いた。
この年齢の子供にしては、随分な言い方だ。その、照れや含みの何もない保健体育の教科書を読んだかのような言い様が、むしろ痛ましさを感じさせた。
桜亮は発熱しており、扁桃腺は真っ赤に腫れ上がり膿んでいた。貧血で栄養失調でもあった。血液を採取した後、栄養と水分を点滴する為に1日入院させる事にした。点滴をしてベッドに横たわらせると、桜亮は電池が切れたように眠り始めた。寝ている間に、小林は桜亮の服を入院着に着替えさせた。桜亮の全身にある傷を見て、看護師も小林も息を飲んだ。
新しいものから古いものまで、痩せた小さな身体は傷のないところを探す方が難しい程だった。小林はすぐに点滴を一旦中止し、鎮静剤を投与してからCTやレントゲンを撮った。外科の医師を呼んで、詳しく見てもらった。今すぐ治療が必要な骨折はなかったが、自然治癒した骨折痕が複数見つかった。傷のほとんどは擦過傷や切り傷、打ち身、火傷で、外科の医師は傷害の被害者だと断言し、警察に通報する事になった。
再び点滴を始めた桜亮の傷の処置を看護師がしている間に、小林は翔太に少し話を聞く事にした。
翔太は待合室でひどく心配し、目に涙を浮かべていた。小林を見ると自分から駆け寄ってきた。
「桜亮は?怪我、酷いんですか!?今は桜亮は?」
「ちょっと座ろうか。私の方からも聞きたいことがある。」
「あ、はい。」
「まず、あの子、桜亮くんって言うんだね。あの子は、身体中に怪我をしていた。たぶん、誰かに暴力を振るわれた怪我。今は、鎮静剤の効果で寝てる。栄養失調だし、扁桃腺炎で熱も高い。一日入院する事になります。」
「はい…」
「お2人の名前を教えて欲しい。少なくとも患者さんの名前が分からないとカルテが作れないからね。」
「矢幡桜亮。俺は安田翔太です。」
「同じ学校の友達?」
「はい。」
「桜亮くんが、どうしてあの怪我をしたのか、なにか分かってる事はある?」
「……」
「知ってるけど言いたくない?それとも知らない?」
「す、少しは… でも、桜亮に黙ってあなたに言うわけには。それに、桜亮は、俺がそれ知ってるって事知らないし。」
「何となく分かります、その気持ちは。あなたは友達の事を思ってるんですね。私は個人的に、そのあなたの気持ちは尊重したい。
でも、ごめんなさい。医療機関としては患者の身元を明白にしないといけないし、未成年の子供の治療には保護者の同意が必要です。だから、通常では、保護者を特定し、連絡します。例えば、学校に連絡するとか、いろいろ方法はあるからね。」
「だめ!それはだめです!お願いします。家にだけは!!」
「なるほど。彼の身体の傷を、見た事はありますか?」
「い、いや、実際には…」
「私は、この病院で18年医師をしていますが、あれほど心が苦しくなる患者さんの姿を見た事は、そうはありません。看護師の1人は、泣いていました。私はね、彼に、あんな傷を負わせた人間を、許す事はできません。それに、私達医療従事者は、未成年の子供が虐待されている可能性があれば、警察に通報する義務があります。そして、先程、当院の事務を通して警察に通報しました。」
「け、警察!?」
「はい。もうすぐ警官がやってきて、私や、あなたに、事情聴取するでしょう。彼らは、暴行を働いた人物を特定し、法のもとで裁きます。そのために、すべての人間を疑うでしょう。もちろん、あなたも、容疑者の1人になります。あなたが、なぜ、彼が怪我をしていると知り得たのか、誰がそれをやったのかを、あなたは知っているのか。それを、納得がいくまで尋問します。それが彼らの仕事だからです。ですから、本当は、私はあなたに何かを問う必要もないし、その立場にもないんです。でも、私はあなたと話してみたかった。あなたが、桜亮くんを必死に治療させようとしてくれた事を、いつか私も桜亮くんも、あなたの今日の選択を、本当に感謝するのだと思います。」
「桜亮は俺が知ってるって事、知らないんです。俺には隠してる。あいつの、おじさんと従兄弟たちが、ずっと、あいつに酷い事を…」
「桜亮くんのご両親は?」
「死んでます。だから…」
「そう。つまり、そのおじさんが桜亮くんの今の保護者って事?」
「はい。たぶん。今は、従兄弟と2人で住んでるみたい。その…もうひとりの従兄弟から、俺は聞きました。従兄弟は2人いて、今も桜亮に酷い事してるのは兄の方で、家を出た弟の方から、俺は…」
「言いたくないことを教えてくれてありがとう。とにかく、警察と児童相談所と連携して、桜亮君が二度とその人達のところに帰らなくて良いように、出来る限りの事をします。安田くん、あなたにも協力してもらわないといけないかも知れません。」
「はい。何でもします!お願いします。」
「それと、安田君、あなたも未成年ですね。あなたの保護者を呼びたいのですが、あなたは大丈夫ですか?」
「俺は、施設にいます。だから保護者はいないです。」
「なるほど。」
翔太の施設に連絡が行き、スタッフが駆けつけたのは夜10時を回った頃だった。
その時翔太は、警察の事情聴取を受けていた。
亮二は罠を仕掛けたのだろうか。あのお金は手切れ金か何かで、桜亮は逃げ出せないように監禁されたのか。翔太は悪い事ばかり考えた。
悶々としながら3日が過ぎた。
3日目に、桜亮は学校に来た。
明らかに辛そうで、わずかに足を引きずっていた。翔太はいつでも逃げられるように、お金や着替えを持って来ていた。桜亮のための服も買っていた。
翔太は校門で登校した桜亮に駆け寄り、この3日ずっと言おうと考えていた事を、必死で桜亮に伝えた。
「桜亮、よく聞いて。俺と一緒に逃げよ。俺が桜亮の事をずっと守るから。着いて来て。お願い、桜亮。」
桜亮は目を見開いたまま、固まった。何かが桜亮の目に浮かび、そしてゆっくりと消えた。桜亮は俯いて、静かに首を振った。
『翔太、ありがとう。翔太、幸せになって。翔太を巻き込みたくなんかないんだ。翔太はずっと、オレの憧れのままでいて。』
桜亮はそう書くとそれを翔太に渡し、歩き去ろうとした。その直前、桜亮の口がさようなら、という形に動いた。
翔太は後ろから、桜亮の手を握った。強く握り、そして手を引いて歩き出した。桜亮が振り解こうともがいても翔太は離さず、桜亮の手を引き歩き続けた。
2人はもつれ合うように歩きながら校門に背を向け、来た道を戻って大通りまで出た。翔太はタクシーを捕まえると、桜亮を無理やり乗せ、自分も乗った。行き先を告げると、桜亮は驚いたように翔太を見つめ、それから、もう手を振り解く事はなかった。
翔太は桜亮を病院に連れて行った。
桜亮は観念したかのようにもう逃げようともせず、翔太に手を引かれるまま、病院の窓口で翔太が受付のスタッフと交渉するのをじっと項垂れて聞いていた。
「保険証はありません。訳あって、家に帰れないんです。でも、怪我をしているし、体調もひどく悪いんです。お願いします。お金ならあります。10割払います。現金で、今すぐ払いますから、診てください。お願いします。」
何度も頭を下げる翔太を、桜亮はじっと悲しげに見つめていた。
「どうしましたか?」
「あ、小林先生!すみません、こちらの高校生の子達、診てくれってそればっかりで。怪我をしてるって。でも、保険証もないし、どこに怪我をしてるかも、なぜ怪我をしたかも言わないんです。名前も何も言わずに…未成年ですし。
しかも、友達が一方的に話すばかりで、診て欲しいって本人は何も話さないし。」
「さっきから何分も。」
「あの、これ以上無理を言うなら警察を呼びますよ。」
警察、と言う言葉に桜亮はビクリと身体をこわばらせた。
「あ、良いですよ。ちょうど空いてるから、私が診ましょう。確かに彼、さっきから立っているのも辛そうだし。」
「え?でも…」
良いから、診察室に通して、と小林は躊躇う受付のスタッフに言い、診察室に入って行った。
桜亮は診察室の椅子に座り、医師の小林に向かって落書き帳の一枚目を広げて見せた。小林は、その落書き帳と桜亮の胸のバッヂを見て、桜亮が話せない事を知ると
「ゆっくりで大丈夫ですから、どこが辛いか、書いてください。」
と優しく言った。
医師の問いかけに桜亮は、たった一言こう書いた。
『性病の検査がしたいです』
小林は驚いた。どうやらこの子は相当なトラブルを抱えているらしい。
小林は迂闊に手を差し伸べた事をほんの少し後悔しながら、でもこの子を助けられるのは今は自分しかいないと思い直し、まずゆっくりと頷いた。
「何か、心配な症状があるのですか?」
桜亮は少し困ったように俯き、それから
『不特定多数の人と、コンドームなしで性交渉しました』
と書いた。
この年齢の子供にしては、随分な言い方だ。その、照れや含みの何もない保健体育の教科書を読んだかのような言い様が、むしろ痛ましさを感じさせた。
桜亮は発熱しており、扁桃腺は真っ赤に腫れ上がり膿んでいた。貧血で栄養失調でもあった。血液を採取した後、栄養と水分を点滴する為に1日入院させる事にした。点滴をしてベッドに横たわらせると、桜亮は電池が切れたように眠り始めた。寝ている間に、小林は桜亮の服を入院着に着替えさせた。桜亮の全身にある傷を見て、看護師も小林も息を飲んだ。
新しいものから古いものまで、痩せた小さな身体は傷のないところを探す方が難しい程だった。小林はすぐに点滴を一旦中止し、鎮静剤を投与してからCTやレントゲンを撮った。外科の医師を呼んで、詳しく見てもらった。今すぐ治療が必要な骨折はなかったが、自然治癒した骨折痕が複数見つかった。傷のほとんどは擦過傷や切り傷、打ち身、火傷で、外科の医師は傷害の被害者だと断言し、警察に通報する事になった。
再び点滴を始めた桜亮の傷の処置を看護師がしている間に、小林は翔太に少し話を聞く事にした。
翔太は待合室でひどく心配し、目に涙を浮かべていた。小林を見ると自分から駆け寄ってきた。
「桜亮は?怪我、酷いんですか!?今は桜亮は?」
「ちょっと座ろうか。私の方からも聞きたいことがある。」
「あ、はい。」
「まず、あの子、桜亮くんって言うんだね。あの子は、身体中に怪我をしていた。たぶん、誰かに暴力を振るわれた怪我。今は、鎮静剤の効果で寝てる。栄養失調だし、扁桃腺炎で熱も高い。一日入院する事になります。」
「はい…」
「お2人の名前を教えて欲しい。少なくとも患者さんの名前が分からないとカルテが作れないからね。」
「矢幡桜亮。俺は安田翔太です。」
「同じ学校の友達?」
「はい。」
「桜亮くんが、どうしてあの怪我をしたのか、なにか分かってる事はある?」
「……」
「知ってるけど言いたくない?それとも知らない?」
「す、少しは… でも、桜亮に黙ってあなたに言うわけには。それに、桜亮は、俺がそれ知ってるって事知らないし。」
「何となく分かります、その気持ちは。あなたは友達の事を思ってるんですね。私は個人的に、そのあなたの気持ちは尊重したい。
でも、ごめんなさい。医療機関としては患者の身元を明白にしないといけないし、未成年の子供の治療には保護者の同意が必要です。だから、通常では、保護者を特定し、連絡します。例えば、学校に連絡するとか、いろいろ方法はあるからね。」
「だめ!それはだめです!お願いします。家にだけは!!」
「なるほど。彼の身体の傷を、見た事はありますか?」
「い、いや、実際には…」
「私は、この病院で18年医師をしていますが、あれほど心が苦しくなる患者さんの姿を見た事は、そうはありません。看護師の1人は、泣いていました。私はね、彼に、あんな傷を負わせた人間を、許す事はできません。それに、私達医療従事者は、未成年の子供が虐待されている可能性があれば、警察に通報する義務があります。そして、先程、当院の事務を通して警察に通報しました。」
「け、警察!?」
「はい。もうすぐ警官がやってきて、私や、あなたに、事情聴取するでしょう。彼らは、暴行を働いた人物を特定し、法のもとで裁きます。そのために、すべての人間を疑うでしょう。もちろん、あなたも、容疑者の1人になります。あなたが、なぜ、彼が怪我をしていると知り得たのか、誰がそれをやったのかを、あなたは知っているのか。それを、納得がいくまで尋問します。それが彼らの仕事だからです。ですから、本当は、私はあなたに何かを問う必要もないし、その立場にもないんです。でも、私はあなたと話してみたかった。あなたが、桜亮くんを必死に治療させようとしてくれた事を、いつか私も桜亮くんも、あなたの今日の選択を、本当に感謝するのだと思います。」
「桜亮は俺が知ってるって事、知らないんです。俺には隠してる。あいつの、おじさんと従兄弟たちが、ずっと、あいつに酷い事を…」
「桜亮くんのご両親は?」
「死んでます。だから…」
「そう。つまり、そのおじさんが桜亮くんの今の保護者って事?」
「はい。たぶん。今は、従兄弟と2人で住んでるみたい。その…もうひとりの従兄弟から、俺は聞きました。従兄弟は2人いて、今も桜亮に酷い事してるのは兄の方で、家を出た弟の方から、俺は…」
「言いたくないことを教えてくれてありがとう。とにかく、警察と児童相談所と連携して、桜亮君が二度とその人達のところに帰らなくて良いように、出来る限りの事をします。安田くん、あなたにも協力してもらわないといけないかも知れません。」
「はい。何でもします!お願いします。」
「それと、安田君、あなたも未成年ですね。あなたの保護者を呼びたいのですが、あなたは大丈夫ですか?」
「俺は、施設にいます。だから保護者はいないです。」
「なるほど。」
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