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救出
解離
翌日、神宮寺は桜亮の病室で彼を診察した。
「こんにちは。僕は、神宮寺友隆と言います。すごい名前でしょう?芸能人見たいってよく言われます。でも本名ですよ。最初にあなたを診察した、内科の小林って冴えない医師、覚えてます?忘れちゃいそうな顔ですよね、彼。その小林から言われて来ました。精神科の医師です。」
桜亮は全く反応しなかった。ほとんど表情のない顔で、天井の一点をじっと見つめていた。身体はぐったりと弛緩して、指先ひとつ動かなかった。ただ、息をしている証に胸だけが小さく上下していた。
解離の症状が出ているな。
神宮寺は椅子を取り出し、座って彼を眺めた。解離は逃避行為なので、無理に刺激を与えて引き戻すと酷いパニックを起こす事がある。しばらく様子を見ながら待つ事にした。
桜亮は1時間以上、そのまま天井を見つめ続けた。神宮寺は途中、看護師に頼んでパソコンと資料を取ってきてもらい、仕事をしながら気長に待つ事にした。
1時間が過ぎた頃、桜亮の瞬きの間隔が早くなった。涙がツーッと頬に流れて、ゆっくりと手が動き、そっとそれを拭った。桜亮は一つ、深くため息を吐くと、ふと神宮寺の方を見た。瞳にうっすらと恐怖が浮かび、そして桜亮はひっそりと微笑んだ。
まるで泣いているような微笑みだ。
と、神宮寺は思った。
神宮寺はもう一度、この部屋に入って来た時と同じ台詞を口にした。
桜亮はゆっくりと首を縦に振った。
「少し話がしたくてきました。今、良いですか?」
桜亮は淡く微笑んだまま、こくりと頷いた。それから、思い出したように枕元のノートとペンを手に取った。
「話す時間を取ってくれて、ありがとうね。僕が1時間くらいここにいたのは、気付いてましたか?」
桜亮首を横に振り、それから慌てたようにノートに『ごめんなさい』と書いた。
「あ、いいえ、責めてるんじゃありません。あの、僕は、桜亮くんが困った事が何かあれば、それをどうにかするのをお手伝いするのが仕事です。だから、桜亮くんが何か困った事がないか、それが聞きたいだけなんです。例えば、ああいう事、身体が動かなくなったり、周りの様子が分からなくなったりする事、どこか違う世界に行ってしまうような感覚になる事、そういう事って、よくありますか?」
桜亮はしばらくじっと何かを考え、そしてちらりと神宮寺の方を見て、少し怯えたような目をして、そしてにっこり微笑んだ。
あ、この子は怖いと感じたら微笑むんだな。
神宮寺は、まるで小さな子供が泣き出す前のような表情で笑う桜亮を見ながら思った。この子は、怖い事をたくさん経験し過ぎて、それに対処する為に微笑むようになったのかも知れない。神宮寺はカルテに添付された写真の、彼の全身の酷い怪我を思い出した。
おもむろに桜亮がまた、『ごめんなさい』と書いたページをめくって見せた。
神宮寺は胸が痛んだ。
でも、務めて感情を押し殺し、にこりと微笑んで言った。
「桜亮くん、あなたは何も悪くはないですよ。安心して、僕には言いたい事は何でも言って下さい。」
しばらくじっと天井を見つめていた桜亮が、ゆっくりとノートを開き、書いた。
『母さんが死ぬ前の時の事を思い出してました。すごくすごく細かく思い出すと、そっちに行けるから。行けたら、身体の感覚が薄くなって、それで、幸せな気持ちになれます。だから、困ってはいません。先生が来るのに気付かなくてごめんなさい。』
「そっか。桜亮くんだけの思い出の世界があるんだね。幸せな気持ちになれるのなら、それは良かった。」
『先生達がいらっしゃるのに気付かなくなっちゃうから、やめないといけないですか?』
「全然大丈夫だよ。いつでも好きな時に思い出せば良いよ。そうだ、でも、もし良かったら、時間を決めようか?もし、また僕と話をしても良いと桜亮くんが思ってくれたら、僕は毎日、朝の9時にここに来る。その時間だけは、こっちの世界にいてくれる?」
桜亮は淡く微笑みながら首を縦に振った。
「警察が、桜亮くんと話がしたいと言ってます。桜亮くん、怪我してるよね。僕も桜亮くんの身体に酷い怪我があるのを見ました。場所や傷の形状からして、誰かに暴力を振るわれていましたね?それも、けっこう長い間。それを、誰にされたのか、警察は知る必要があります。暴行罪は、非親告罪、つまり、桜亮くんが警察に訴えなくても起訴できる犯罪です。だから、桜亮くんに事情を聞いて、それで犯罪を犯した人を起訴するのが警察の仕事です。分かりますか?」
桜亮は微笑みをさらに深めて首を縦に振った。
「でも、今すぐじゃなくても良いです。桜亮くんが身体を先ず回復させて、心を整理する時間が必要です。内科の小林や外科の吉田という医師が、桜亮くんの身体の回復を手伝います。病棟の看護師さん達も、お手伝いします。そして僕は、桜亮くんの心の整理を手伝いたいです。
それから、安田翔太くん、お友達ですね?」
桜亮は目を少し見開いて大きく頷いた。
「安田くんがここにあなたを連れて来てくれました。覚えてる?彼、すごくあなたの事を心配してたそうです。彼とは仲が良いの?」
桜亮はしばらく考えて、そして大きく頷いた。
「そう、それなら、彼はまた学校が終わったら来るそうだから、彼と話す事も、あなたが心を落ち着ける助けになるかも知れない。」
安田翔太の話が出ると、桜亮の顔からスッと微笑みが消えた。
「安田くんと、彼の施設の職員、そして警察とこの病院の一部の人間だけが、あなたが今ここに入院している事を知っています。安田くんを除く大人は、プロフェッショナルですから、あなたに関する全ての事に守秘義務を負っています。つまり、絶対に喋ってはいけないって事。安田くんも、誰かにベラベラと話すような事はしない子だと思います。だから、安心して下さい。あなたに暴力を振るった人が誰であれ、それが分かって安全が保障されるまではあなたはここにいます。」
『ありがとうございます。』
「お礼は安田くんにだけで十分です。僕達はこれが仕事だからね。だから、気にせずどんな事でも頼って下さいね。」
小さく頷きながら、桜亮の顔から徐々に微笑みが消えた。
「それから、小林が午後に検査の結果を持って来ます。その時、一緒にいても良い?検査の結果を受けて、これからの治療について一緒に考えていきたいんだ。心と身体は繋がっているからね。」
桜亮はまたほんのり微笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあ次は3時半に。何かあったらナースコールを押してね。分かる?」
桜亮は頷き、それからまた『ありがとうございます。』と書いたページを出した。
「こんにちは。僕は、神宮寺友隆と言います。すごい名前でしょう?芸能人見たいってよく言われます。でも本名ですよ。最初にあなたを診察した、内科の小林って冴えない医師、覚えてます?忘れちゃいそうな顔ですよね、彼。その小林から言われて来ました。精神科の医師です。」
桜亮は全く反応しなかった。ほとんど表情のない顔で、天井の一点をじっと見つめていた。身体はぐったりと弛緩して、指先ひとつ動かなかった。ただ、息をしている証に胸だけが小さく上下していた。
解離の症状が出ているな。
神宮寺は椅子を取り出し、座って彼を眺めた。解離は逃避行為なので、無理に刺激を与えて引き戻すと酷いパニックを起こす事がある。しばらく様子を見ながら待つ事にした。
桜亮は1時間以上、そのまま天井を見つめ続けた。神宮寺は途中、看護師に頼んでパソコンと資料を取ってきてもらい、仕事をしながら気長に待つ事にした。
1時間が過ぎた頃、桜亮の瞬きの間隔が早くなった。涙がツーッと頬に流れて、ゆっくりと手が動き、そっとそれを拭った。桜亮は一つ、深くため息を吐くと、ふと神宮寺の方を見た。瞳にうっすらと恐怖が浮かび、そして桜亮はひっそりと微笑んだ。
まるで泣いているような微笑みだ。
と、神宮寺は思った。
神宮寺はもう一度、この部屋に入って来た時と同じ台詞を口にした。
桜亮はゆっくりと首を縦に振った。
「少し話がしたくてきました。今、良いですか?」
桜亮は淡く微笑んだまま、こくりと頷いた。それから、思い出したように枕元のノートとペンを手に取った。
「話す時間を取ってくれて、ありがとうね。僕が1時間くらいここにいたのは、気付いてましたか?」
桜亮首を横に振り、それから慌てたようにノートに『ごめんなさい』と書いた。
「あ、いいえ、責めてるんじゃありません。あの、僕は、桜亮くんが困った事が何かあれば、それをどうにかするのをお手伝いするのが仕事です。だから、桜亮くんが何か困った事がないか、それが聞きたいだけなんです。例えば、ああいう事、身体が動かなくなったり、周りの様子が分からなくなったりする事、どこか違う世界に行ってしまうような感覚になる事、そういう事って、よくありますか?」
桜亮はしばらくじっと何かを考え、そしてちらりと神宮寺の方を見て、少し怯えたような目をして、そしてにっこり微笑んだ。
あ、この子は怖いと感じたら微笑むんだな。
神宮寺は、まるで小さな子供が泣き出す前のような表情で笑う桜亮を見ながら思った。この子は、怖い事をたくさん経験し過ぎて、それに対処する為に微笑むようになったのかも知れない。神宮寺はカルテに添付された写真の、彼の全身の酷い怪我を思い出した。
おもむろに桜亮がまた、『ごめんなさい』と書いたページをめくって見せた。
神宮寺は胸が痛んだ。
でも、務めて感情を押し殺し、にこりと微笑んで言った。
「桜亮くん、あなたは何も悪くはないですよ。安心して、僕には言いたい事は何でも言って下さい。」
しばらくじっと天井を見つめていた桜亮が、ゆっくりとノートを開き、書いた。
『母さんが死ぬ前の時の事を思い出してました。すごくすごく細かく思い出すと、そっちに行けるから。行けたら、身体の感覚が薄くなって、それで、幸せな気持ちになれます。だから、困ってはいません。先生が来るのに気付かなくてごめんなさい。』
「そっか。桜亮くんだけの思い出の世界があるんだね。幸せな気持ちになれるのなら、それは良かった。」
『先生達がいらっしゃるのに気付かなくなっちゃうから、やめないといけないですか?』
「全然大丈夫だよ。いつでも好きな時に思い出せば良いよ。そうだ、でも、もし良かったら、時間を決めようか?もし、また僕と話をしても良いと桜亮くんが思ってくれたら、僕は毎日、朝の9時にここに来る。その時間だけは、こっちの世界にいてくれる?」
桜亮は淡く微笑みながら首を縦に振った。
「警察が、桜亮くんと話がしたいと言ってます。桜亮くん、怪我してるよね。僕も桜亮くんの身体に酷い怪我があるのを見ました。場所や傷の形状からして、誰かに暴力を振るわれていましたね?それも、けっこう長い間。それを、誰にされたのか、警察は知る必要があります。暴行罪は、非親告罪、つまり、桜亮くんが警察に訴えなくても起訴できる犯罪です。だから、桜亮くんに事情を聞いて、それで犯罪を犯した人を起訴するのが警察の仕事です。分かりますか?」
桜亮は微笑みをさらに深めて首を縦に振った。
「でも、今すぐじゃなくても良いです。桜亮くんが身体を先ず回復させて、心を整理する時間が必要です。内科の小林や外科の吉田という医師が、桜亮くんの身体の回復を手伝います。病棟の看護師さん達も、お手伝いします。そして僕は、桜亮くんの心の整理を手伝いたいです。
それから、安田翔太くん、お友達ですね?」
桜亮は目を少し見開いて大きく頷いた。
「安田くんがここにあなたを連れて来てくれました。覚えてる?彼、すごくあなたの事を心配してたそうです。彼とは仲が良いの?」
桜亮はしばらく考えて、そして大きく頷いた。
「そう、それなら、彼はまた学校が終わったら来るそうだから、彼と話す事も、あなたが心を落ち着ける助けになるかも知れない。」
安田翔太の話が出ると、桜亮の顔からスッと微笑みが消えた。
「安田くんと、彼の施設の職員、そして警察とこの病院の一部の人間だけが、あなたが今ここに入院している事を知っています。安田くんを除く大人は、プロフェッショナルですから、あなたに関する全ての事に守秘義務を負っています。つまり、絶対に喋ってはいけないって事。安田くんも、誰かにベラベラと話すような事はしない子だと思います。だから、安心して下さい。あなたに暴力を振るった人が誰であれ、それが分かって安全が保障されるまではあなたはここにいます。」
『ありがとうございます。』
「お礼は安田くんにだけで十分です。僕達はこれが仕事だからね。だから、気にせずどんな事でも頼って下さいね。」
小さく頷きながら、桜亮の顔から徐々に微笑みが消えた。
「それから、小林が午後に検査の結果を持って来ます。その時、一緒にいても良い?検査の結果を受けて、これからの治療について一緒に考えていきたいんだ。心と身体は繋がっているからね。」
桜亮はまたほんのり微笑みを浮かべて頷いた。
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桜亮は頷き、それからまた『ありがとうございます。』と書いたページを出した。
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