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救出
脅迫
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「桜亮くん、ごめんね。ノック、何回かしたんだけど、反応がなかったから心配で開けました。勝手に入ってごめんなさい。窓の外を見ていたね。何を見ていたの?」
窓の外?そう言われて、桜亮は震えながらそっと窓の外を見た。何を見ていたのだろう。何も見ていなかった。翔太と海にいた。美しい、懐かしい、あの海。ずっとあそこにいたかった。
桜亮は震えながらニコニコと微笑み、ノートを取り出した。
『海を見てました。』
「そう、海を見てたんだね。邪魔してごめんね。少し、話がしたくてきました。」
桜亮は頷いた。
「来週の火曜日まで、僕は仕事で少し遠くに行きます。毎朝9時に来るの、火曜日まで来られない。それでね、その間に、桜亮くん、もう少し詳しく身体の検査をしようと思います。まあ、健康診断みたいなもんだよ。それから、性感染症の専門のドクターと、ソーシャルワーカーの人と話し合って、今後の桜亮くんのHIVの治療方針を決めたいと思うんだ。今後、何十年も、桜亮くんが付き合っていく治療だからね。分からない事があれば何でも聞いて、納得がいくまで考えて決めて欲しい。一通り説明を聞いてから、また火曜日、2人で話をしよう。良い?」
桜亮は頷いた。
でも、桜亮にとってそれは、どこか他人の身体の話のようだった。今後何十年も生きられるなんて、桜亮には思えなかった。
それでも次の日、桜亮は言われた通り、検査室を幾つも回って血を抜かれたり尿を紙コップに入れて渡したり、桜亮にはよく分からない機械に入れられたりした。真っ暗な機械の中に入れられて桜亮は恐怖でパニックになりそうになったが、手を血が出るまで噛んで耐えていたらそのうち空想の中の世界に逃げ込めた。
HIVの専門医が治療について話してくれている間、桜亮はずっと翔太からもらった手紙を思い返していた。もう何度も読んで、一文字一句覚えていた。桜亮の中でその手紙は、命綱のような物だった。ずっと昔、それが燃やされてしまう前、翔太からもらった絵が桜亮の命綱であったように。何もかも奪われ続けた桜亮は、この手紙もいつか奪われるのだろうと思っていた。奪われる前にあの絵を目に焼き付けたように、手紙も記憶に焼き付けた。桜亮にとっては記憶と空想だけが唯一、誰からも奪われないものだった。
次の日、いつもの中年の女性看護師ではなく、若い男性の看護師が検温に来た。桜亮は怖くて震えそうになるのを堪え、彼の質問に首を振って答えた。
「気分悪くないですか?」
「痛いところはないですか?」
「食欲はありますか?」
全ての質問に首を縦に振ると、看護師はいつものように持っている用紙にチェックを入れ
「もうすぐ朝ごはん来ますからね。」
と言って病室を出ようとした。
桜亮がほっと息を吐いたその時、彼はふと立ち止まってゆっくりと桜亮の方を振り返り、ツカツカと歩み寄ると一枚の封筒を手渡した。
「あ、そうそう。お兄さんからお手紙です。」
にっこり笑うと、目を見開いて震え出す桜亮に目もくれず、看護師は部屋を出て行った。
お兄さん…?
征太郎様の事だろうか。
桜亮はいよいよ身体の震えを抑え切れず、歯を食いしばって手の中の封筒を見つめた。
しっかりしろ。
分かっていた事じゃないか。
いつかはあの人達が来るって、最初から分かっていたじゃないか。
1、2、3、4、5…
桜亮はパニックで過呼吸にならないよう指を噛みながら頭の中で数を数えた。
落ち着いて。
また元に戻るだけ。
大丈夫。自分はまだ耐えられる。
桜亮は、必死に呼吸を整えて、そして震える指で封筒を開けた。
中からは写真が何枚かと、紙切れが一枚出て来た。
翔太の写真だった。
通学のために歩く翔太。
コンビニに立ち寄って飲み物を買う翔太。
学校の中のプールを泳ぐ翔太を、望遠レンズで写した写真もあった。
眩暈がした。
誰が、何のためにこの写真を撮ったのか。桜亮にはすぐに分かった。
そのメモ用紙を読まなくても、桜亮は彼らのメッセージを理解した。
『安田翔太が身代わりになるのか?』
メモ用紙の字は、征太郎のものだった。
桜亮はメモ用紙と封筒を細かく破ると、トイレに行って流した。写真も破ろうとしたが、写真の翔太の顔を見たら破れなかった。あの人達が、卑劣な目的の為に隠し撮りした物であっても、写っている顔は翔太だった。桜亮はそれを破る事はできなかった。
桜亮はトイレの個室で、写真を胸に抱いて声を殺して泣いた。
翔太。翔太に会いたい。
お願いします。
何でもします。
どんな事でも耐えます。
翔太だけは。翔太の幸せだけは、奪わないで下さい。
僕はもう、どうなっても良いから。
僕はもう、死んだって良いから。
でもその前に、一目だけでも、翔太に会いたい。翔太に触れたい。
桜亮はひとしきり泣くと、涙を拭い部屋に戻って顔を洗った。
朝食を持って来てくれたスタッフに、にっこりと笑って
『ありがとうございます』
と書いたノートを見せた。
出された朝食を残さず食べると、食器を返却するふりをして、桜亮は非常階段を探した。そして非常階段から屋外に出られる事を確認し、部屋に戻るとノートを取り出した。
『火曜日には戻ります。ごめんなさい。許して下さい。必ず火曜日には戻ります。』
『翔太にさよならだけ言わせてください。お願いします。必ず戻ります。誰にも何も言いません。もう二度と逃げません。』
『売店に本を買いに行きたいです。』
そう書いた3枚のページを破り、丁寧に畳んだ。
1枚目は、この部屋に残していくもの。
2枚目は、万が一途中であの人達に捕まった時のために。
3枚目は、抜け出す前に看護師に見つかった時のために。
渡す紙を間違えないよう、桜亮は形を変えて折ったその紙を左右のポケットに入れた。右が看護師に。左はあの人達。
それから、またノートを広げて、今度は翔太への手紙を書いた。
『翔太。手紙ありがとう。しばらく離れ離れになるかも知れないから、1日だけ一緒に過ごしたい。これからどれだけ入院するか分からないし、それぞれ違う施設に引き取られる可能性も高いから。1日だけ、ずっと翔太と2人きりで、昔みたいに何も怖い事のないところで過ごしたい。そうしたら、その思い出を胸に、僕は頑張るから。お願いします。』
そのページは破らず、ノートと、それから紙袋に入った高校の制服を持って、桜亮は非常階段から外に出た。
土曜日で詰めている看護師の人数は少なく、誰も桜亮を見咎める者はいなかった。それどころか、看護師達が彼がいなくなったことに気付いたのは、夕方の頃だった。
「昼過ぎの見回りの時にはいました。」
応援で急遽入った違う科の若い男性看護師は、慌てふためく様子でそう証言した。
窓の外?そう言われて、桜亮は震えながらそっと窓の外を見た。何を見ていたのだろう。何も見ていなかった。翔太と海にいた。美しい、懐かしい、あの海。ずっとあそこにいたかった。
桜亮は震えながらニコニコと微笑み、ノートを取り出した。
『海を見てました。』
「そう、海を見てたんだね。邪魔してごめんね。少し、話がしたくてきました。」
桜亮は頷いた。
「来週の火曜日まで、僕は仕事で少し遠くに行きます。毎朝9時に来るの、火曜日まで来られない。それでね、その間に、桜亮くん、もう少し詳しく身体の検査をしようと思います。まあ、健康診断みたいなもんだよ。それから、性感染症の専門のドクターと、ソーシャルワーカーの人と話し合って、今後の桜亮くんのHIVの治療方針を決めたいと思うんだ。今後、何十年も、桜亮くんが付き合っていく治療だからね。分からない事があれば何でも聞いて、納得がいくまで考えて決めて欲しい。一通り説明を聞いてから、また火曜日、2人で話をしよう。良い?」
桜亮は頷いた。
でも、桜亮にとってそれは、どこか他人の身体の話のようだった。今後何十年も生きられるなんて、桜亮には思えなかった。
それでも次の日、桜亮は言われた通り、検査室を幾つも回って血を抜かれたり尿を紙コップに入れて渡したり、桜亮にはよく分からない機械に入れられたりした。真っ暗な機械の中に入れられて桜亮は恐怖でパニックになりそうになったが、手を血が出るまで噛んで耐えていたらそのうち空想の中の世界に逃げ込めた。
HIVの専門医が治療について話してくれている間、桜亮はずっと翔太からもらった手紙を思い返していた。もう何度も読んで、一文字一句覚えていた。桜亮の中でその手紙は、命綱のような物だった。ずっと昔、それが燃やされてしまう前、翔太からもらった絵が桜亮の命綱であったように。何もかも奪われ続けた桜亮は、この手紙もいつか奪われるのだろうと思っていた。奪われる前にあの絵を目に焼き付けたように、手紙も記憶に焼き付けた。桜亮にとっては記憶と空想だけが唯一、誰からも奪われないものだった。
次の日、いつもの中年の女性看護師ではなく、若い男性の看護師が検温に来た。桜亮は怖くて震えそうになるのを堪え、彼の質問に首を振って答えた。
「気分悪くないですか?」
「痛いところはないですか?」
「食欲はありますか?」
全ての質問に首を縦に振ると、看護師はいつものように持っている用紙にチェックを入れ
「もうすぐ朝ごはん来ますからね。」
と言って病室を出ようとした。
桜亮がほっと息を吐いたその時、彼はふと立ち止まってゆっくりと桜亮の方を振り返り、ツカツカと歩み寄ると一枚の封筒を手渡した。
「あ、そうそう。お兄さんからお手紙です。」
にっこり笑うと、目を見開いて震え出す桜亮に目もくれず、看護師は部屋を出て行った。
お兄さん…?
征太郎様の事だろうか。
桜亮はいよいよ身体の震えを抑え切れず、歯を食いしばって手の中の封筒を見つめた。
しっかりしろ。
分かっていた事じゃないか。
いつかはあの人達が来るって、最初から分かっていたじゃないか。
1、2、3、4、5…
桜亮はパニックで過呼吸にならないよう指を噛みながら頭の中で数を数えた。
落ち着いて。
また元に戻るだけ。
大丈夫。自分はまだ耐えられる。
桜亮は、必死に呼吸を整えて、そして震える指で封筒を開けた。
中からは写真が何枚かと、紙切れが一枚出て来た。
翔太の写真だった。
通学のために歩く翔太。
コンビニに立ち寄って飲み物を買う翔太。
学校の中のプールを泳ぐ翔太を、望遠レンズで写した写真もあった。
眩暈がした。
誰が、何のためにこの写真を撮ったのか。桜亮にはすぐに分かった。
そのメモ用紙を読まなくても、桜亮は彼らのメッセージを理解した。
『安田翔太が身代わりになるのか?』
メモ用紙の字は、征太郎のものだった。
桜亮はメモ用紙と封筒を細かく破ると、トイレに行って流した。写真も破ろうとしたが、写真の翔太の顔を見たら破れなかった。あの人達が、卑劣な目的の為に隠し撮りした物であっても、写っている顔は翔太だった。桜亮はそれを破る事はできなかった。
桜亮はトイレの個室で、写真を胸に抱いて声を殺して泣いた。
翔太。翔太に会いたい。
お願いします。
何でもします。
どんな事でも耐えます。
翔太だけは。翔太の幸せだけは、奪わないで下さい。
僕はもう、どうなっても良いから。
僕はもう、死んだって良いから。
でもその前に、一目だけでも、翔太に会いたい。翔太に触れたい。
桜亮はひとしきり泣くと、涙を拭い部屋に戻って顔を洗った。
朝食を持って来てくれたスタッフに、にっこりと笑って
『ありがとうございます』
と書いたノートを見せた。
出された朝食を残さず食べると、食器を返却するふりをして、桜亮は非常階段を探した。そして非常階段から屋外に出られる事を確認し、部屋に戻るとノートを取り出した。
『火曜日には戻ります。ごめんなさい。許して下さい。必ず火曜日には戻ります。』
『翔太にさよならだけ言わせてください。お願いします。必ず戻ります。誰にも何も言いません。もう二度と逃げません。』
『売店に本を買いに行きたいです。』
そう書いた3枚のページを破り、丁寧に畳んだ。
1枚目は、この部屋に残していくもの。
2枚目は、万が一途中であの人達に捕まった時のために。
3枚目は、抜け出す前に看護師に見つかった時のために。
渡す紙を間違えないよう、桜亮は形を変えて折ったその紙を左右のポケットに入れた。右が看護師に。左はあの人達。
それから、またノートを広げて、今度は翔太への手紙を書いた。
『翔太。手紙ありがとう。しばらく離れ離れになるかも知れないから、1日だけ一緒に過ごしたい。これからどれだけ入院するか分からないし、それぞれ違う施設に引き取られる可能性も高いから。1日だけ、ずっと翔太と2人きりで、昔みたいに何も怖い事のないところで過ごしたい。そうしたら、その思い出を胸に、僕は頑張るから。お願いします。』
そのページは破らず、ノートと、それから紙袋に入った高校の制服を持って、桜亮は非常階段から外に出た。
土曜日で詰めている看護師の人数は少なく、誰も桜亮を見咎める者はいなかった。それどころか、看護師達が彼がいなくなったことに気付いたのは、夕方の頃だった。
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