笑顔の消えたおまえを

ken

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決意

翔太

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学校が終わると、翔太はすぐに帰宅する。帰宅して軽く食事をし、風呂を済ませると病院に向かう。
あれから2年、翔太は看護学校に通っている。看護師になって桜亮の入院する病院で働きたい。翔太は部活もやめてバイトをし、残りの高校生活を必死に勉強と貯金に励んだ。そして今年から、看護学校に通っているのだ。

病室に着くと翔太は、桜亮の身体を濡らした布巾で毎日丹念に拭く。冬は温かくし夏は冷たくし、桜亮の心地良いと感じるだろう温度にした布巾で、何度も何度も全身を拭き清める。それから、筋肉や関節が萎縮したり固まってしまったりしないよう、全身を動かしストレッチし、最後にオイルマッサージをする。
高校生の時に、毎日見舞いに来ては泣くばかりの翔太に、見かねた看護師長が直々に翔太にそれを教えた。翔太はすぐにそれを覚えて、もっと何かできる事はないかと聞いた。
看護師長は、翔太に看護師になる事を勧めた。看護師にしかできないケアはたくさんある。泣いてばかりいた翔太はそれから、泣かなくなった。バイトのない時はいつも桜亮のケアをし、それから桜亮の隣で勉強した。
半年に及んだ怪我の治療を終えて、桜亮は神宮寺の勤める病院の精神科に入院している。桜亮は、窓の外を見つめたまま外的刺激に対して一切の反応を示さない。意識が無いのではない。脳波は、桜亮の脳が正常に活動している事を示している。脊椎が損傷した桜亮は、下半身に不全麻痺が残った。本来ならすぐにでも歩行リハビリを始めるべきなのだが、桜亮はリハビリを開始することができないまま2年が過ぎた。恐らくもう、歩けるようにはならないだろう。
しかしさらに深刻な問題は、桜亮の肉体ではなく精神だった。事件後、数週間昏睡状態だった桜亮は、数週間後、目を開けた。しかし、桜亮の目にはもう何も映っていなかった。声かけや光、接触などの外的刺激に、桜亮は全く反応しなかった。顔にはなんの表情もなく、桜亮はずっと窓の外を見続けていた。桜亮の精神はもう、この世界から遠く離れた、桜亮だけの世界にいるのだ。そこで桜亮が何を見ているのか、何をして、誰と過ごしているのか、それは誰にも分からない。

耐えがたい苦しみと恐怖の中、桜亮の心は桜亮を守るために解離し、そして桜亮はもうその世界から戻ってこなかった。桜亮の穏やかな顔から、その世界はきっと温かく幸せな世界なのだろうと、翔太は思った。だから、翔太は安心した。もう何も、桜亮を苦しめるものはない。

「もう終わったんだよ、桜亮。」

翔太は桜亮に、ずっと幸せでいて欲しかった。でも、それでも翔太は、寂しくて寂しくて、時々叫び出したくなった。

「桜亮、オレを見て。」

そう叫びたくなる度に、翔太は桜亮の全身をマッサージしたり、揉んだりした。
それが今、翔太にできる全てだった。時折翔太は、桜亮の髪を撫でた。毎日翔太が手入れしている髪の毛は、清潔でサラサラしていた。桜亮に触れていると、翔太は胸の昂りがスッと落ち着いた。桜亮は生きている。頑張って生き延びてくれた。それだけで充分だ。

「桜亮、今日は蕎麦を食べたよ。学食の日替わりは、いつもガッツリ系なんだけどね、今日は蕎麦とコロッケだったんだ。米じゃなきゃ腹にたまんないってみんなブーブー文句言ってたけどさ、オレ、けっこう蕎麦好きなんだよね。」

反応が無くても構わずに、翔太は話し続けた。手を握り、そっと桜亮の頭を撫でながら、窓の外を見続ける桜亮に話しかける。穏やかなその時間が、翔太は何よりも好きだった。


事件は、センセーショナルに報じられた。地元の名士である県議会議員が、身内の未成年の少年に身体的、性的虐待を繰り返し、そしてその少年の身体を男達に売っていた。犯行は家族ぐるみで行われ、妻や息子、住み込みの従業員も関与していた。
矢幡篤太郎と征太郎、妻の順子、田代をはじめとした従業員も数人逮捕された。亮二も取り調べをうけた。
秋原らは懸命に捜査し、携帯電話やパソコンの解析から桜亮を買った人間を幾人か逮捕した。しかし、リストの全容解明には至らなかった。顧客リストは電子データで保存されておらず、家宅捜索の前に燃やされた形跡があった。亮二の証言で更に数人が逮捕されたが、手が届きそうだった容疑者の何人かは、諦めざるを得なかった。
亮二は、警察の取り調べに最初から協力的だった。洗いざらい、見聞きした全ての事を話し、自分が犯した罪も全て自供した。警察に対する協力的な姿勢と強い悔恨の思い、幼少期から父と兄に強く支配されて、桜亮に対する虐待への加担は半ば強制されるように行われた事を考慮して、亮二は保護観察処分となった。卒業まで半年程だったが、亮二は退学処分となった。亮二の証言で学園の理事が2人逮捕されていた事も、影響したのだろう。

翔太は、怒りと悲しみ、そして後悔に我を忘れそうになった。拘置所の征太郎を殺そうと包丁を持って県警本部の前に立ちすくんでいた事もあった。
しかし、神宮寺が翔太の暮らす施設の職員と連携して、翔太は定期的にカウンセリングを受けた。いや、実のところはカウンセリングとは名ばかりで、神宮寺と翔太は悲しみや後悔、罪悪感を互いに吐露し合っていたに過ぎない。しかし、それが翔太を何とか踏みとどまらせた。そして、桜亮の身体ケアをする毎日が、更に翔太に希望を与えた。

何にも反応しなかった桜亮だったが、ある日、翔太のマッサージを受けている時心地良さそうに目を瞑った。ただ、眠気が偶然その時にそうさせただけかも知れない。でも、翔太はそれが桜亮からの、気持ち良いよ、というメッセージのように思えた。そして、それから半年後、桜亮は手を繋ぐ翔太の手を、微かに、ほんの微かに握り返した。それも、筋肉の反射作用かも知れなかったが、その日から、翔太はいつか桜亮はきっとこちらの世界に戻って来ると信じる事ができるようになった。


「桜亮、そろそろ行くね。」
翔太はそう言うと病院のロッカールームに向かう。桜亮と過ごす時間の後、翔太は夜間の看護助手としてバイトし、それから家に帰る。忙しい毎日だったが、翔太は時間を見つけては絵を描く事を再開した。桜亮が、翔太の絵が好きだと言っていたのを思い出したのだ。久しぶりに描くので中々思うようには描けなかったが、それでも翔太は絵を描いている時、桜亮と語り合っているような気持ちだった。

桜亮。
桜亮は昔、絵を描く俺にいつも綺麗な石を持ってきてくれたね。
あれ、全部、今も持ってるよ。
桜亮は海で泳ぐのが大好きだったね。
怖がる俺の手をギュッと握ってくれたよね。俺、その時から泳ぐ事が好きになったんだよ。
いつか、南の島の海を2人で観に行こうな。2人でよく話してたよね、南の島。見た事もない綺麗な魚が泳ぐ南の島にいつか行こうって。あの島の海で話してたよね。

この2年、翔太はずっと後悔していた。
あの時、病院に連れて行かずに桜亮と逃げれば良かったのか。しかし、病院に連れて行ったから、桜亮はHIVの投薬治療を始められた。それは桜亮の命を救う事だった。
病院から抜け出した桜亮を、病院に帰るよう説得するべきだったのだろうか。しかし、桜亮を直接脅迫したのは、その病院の、金に目が眩んだ看護師だった。
病院は、安全ではなかった。
どうすれば良かったのだろう。
怒りと後悔が、翔太の心を押し潰そうとした。心が苦しくなって耐えられず、壊れてしまいそうになる、その度に、絵を描いた。最初の頃の絵は、怒りと悲しみのどん底にいる事がありありと分かる、陰鬱で暴力的なものだった。殴るように紙に絵の具を叩きつけ、泣きながら、時には叫びながら、翔太は描いた。
看護学校で様々な事を学び、桜亮にしてあげたい事、自分ができる事、できるようになると思える事が増えていくと、翔太は次第に落ち着いた絵を描くようになった。色合いが徐々に優しいものになり、筆も繊細で丁寧な本来の翔太のタッチに戻っていった。
それでも時々、心に嵐が吹き荒れて、翔太は禍々しい憎しみを紙に叩きつけた。そうしないと、征太郎や篤太郎を探し出して殺してしまいそうで、亮二を無茶苦茶に殴りつけてしまいそうで、翔太は歯を食いしばって自分の憎しみを抑えた。自分が桜亮の側に居られなくなるような事を、する訳にはいかない。その思いだけで、翔太は憎しみを堪えた。



翔太が美しい故郷の海の絵を描けるようになったのは、看護師として働き始めて2年が過ぎた頃だった。故郷の海は、翔太と桜亮にとっては美しい思い出で、幸せだった頃の象徴で、しかし2人の母を奪った海だった。冷たい夜のその海で母達は生き絶え、そのせいで桜亮は過酷な生活を強いられた。
翔太は故郷とその海を心の底から憎み、しかしどうしようもなく愛した。


「桜亮、おはよう。今日は良い天気だよ。あとで散歩に行こうね。」
そう言いながら窓に海の絵を貼る。
「桜亮、覚えてる?昔、桜亮があの海で俺に泳ぎ方を教えてくれたんだよ。」

桜亮は、相変わらず窓の外を見ていた。
窓には何枚も、故郷の海の絵が貼られていた。
翔太は桜亮の髪を撫でた。
温かい日差しが桜亮と翔太に降り注ぎ、色素の薄い桜亮の髪をキラキラと輝かせた。

ふと、桜亮が視線を動かした。

「……桜亮?」

桜亮は、窓の外ではなく、窓に貼られた翔太の絵を見た。じっと、いつになく力のこもった目で、桜亮は翔太の描いた故郷の海の絵を見つめた。

「……桜亮!!分かるのか?見えるの?そうだよ、あの海だよ。一緒に過ごした、あの海だよ。」

翔太の目から涙がボロボロと零れ落ちた。桜亮の目が、この7年間で初めて現実の世界のものを映し出した。

「……しょ……」

桜亮の目から、涙が一筋流れた。

「……しょ…う………た……」

掠れて消えいるような声だった。
桜亮が、ゆっくりと、翔太を見た。
桜亮は、じっと、涙を流しながら、翔太を見つめた。




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