いないはずの子供

ken

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 いつもより念入りに佐伯の家を掃除してから、間宮ただしは全ての荷物を持って彼女の家を出た。彼は、自分が何をしようとしているのか、きちんと分かってはいなかった。ただ、今まで一度も感じた事のない激しい感情が彼の心を駆け巡っていて、抑えられなかった。苦しさや悲しさとはまた違った、叫び出したくなるような感情で、彼はその感情の名前を知らなかった。彼は自分が佐伯を傷つけてしまわないか不安だった。佐伯にこの感情をぶつけてしまうのが怖かった。もうここには居られない、そう彼は思った。

佐伯の家を出て、彼はまず夜のうちにスマホで調べておいたインターネットカフェに行った。身分証明書を得た彼は、お金を出せばインターネットカフェに数日泊まれる事を知っていた。

昔、リュウジに連れて行ってもらったインターネットカフェはもっと古くてボロかった。それでも、その中の個室は彼の憧れだった。時々リュウジは個室で泊まったけど、身分証明書のなかった彼は個室に入る事はできなかった。彼は、パソコンのない椅子席のブースに3時間しかいられなかったのだ。
新しく綺麗なインターネットカフェの個室で、彼は死んだリュウジの事を思った。リュウジは時々、酔って誰彼構わず喧嘩をふっかけて、逆にボコボコにされていた。
「喧嘩するから殴られるんです。」
と言うと、
「シロちゃんはむかつかねぇの?シロももっと怒れよ。そんなふうに諦めてさ、なんでも受け入れちまわずに、怒れよ!」
と言った。思わずごめんなさいと謝ると
リュウジはいつも困ったように笑って
「ごめん、ごめんな。そんな事言われたってな、怒れねぇんだよな、シロちゃんは。かわいそうに。怒る気持ちすら取り上げられて…」
とシロだった彼の頭を撫でて抱きしめてくれるのだった。
リュウジに会いたい、そう彼はリュウジが死んでから初めて思った。リュウジが死んだ時は悲しくてたまらなかった。リュウジの代わりに自分が死ねば良かったのにと思った。でも、リュウジに会いたいとは思わなかった。もう会えないのだ、という事実だけが彼の心に突き刺さった。でも今、彼はリュウジに会いたかった。今ならリュウジともっといろいろな事が話せる。あの頃は、初めてできた友達に嬉しくてたまらなかったのに、ほとんど何も話す事ができなかった。今は違う。汚れてしまった身体が苦しくて、厭わしくて、新しい身体が欲しいのだと、叫び出したいほどなんだと、リュウジに言える。リュウジなら、その自分の気持ちを分かってくれる気がした。リュウジ、これが怒るって事?そうだとしたら、怒るのってなんて苦しいのだろう。リュウジ、苦しかったんだね。そう、リュウジに言いたかった。

 大阪府豊中市上野東⚪︎丁目⚪︎⚪︎

ねえリュウジ。もしリュウジが生きていたら、一緒に行ってくれたかな。きっと付いてきてくれたよね。それか、止めてくれたかな。行ったってしょうがないよって、そう言ってくれたかな。裁判所で見て以来忘れられないんだ。この住所が。

彼は心の中でリュウジに話しかけた。
ちょっと行ってみるだけ。別に何もしない。ただ、見てみるだけ。僕と違って、売られなかった子を、見てみたいだけ。
いや、違う。あの人に聞いてみたい。
どうして僕を売ったのって?
違う、どうして僕を産んだの?ってだよ。
どうして、要らなかったのなら、殺してくれなかったの?僕の生物学上の父親は、僕が要らなかったから、殺してって頼んだんでしょう?どうしてその通りにしてくれなかったの?
どうしてもう1人の子は、要らなくなかったの?どうして?
知ってたの?
僕をあの男に売る時、僕がどんな目に遭うか、知ってたの?
聞いてみたいだけ。
聞いてどうするの?
どうもしない。
じゃ、余計に辛くなるだけだよ。
いや、大丈夫。聞いたりしない。
一目見るだけ。
でも、見てどうするの。

そのインターネットカフェで、彼は3日を過ごした。3日目の朝、まだ日が昇り切らないうちに彼はそこを出た。そして歩いて駅に向かった。駅までは歩くと2時間ほどかかった。バスがあったが、彼は歩いた。黙々と歩き、駅に着くと切符を買って隣県の大きな駅に向かった。6年前の冬に、全く逆の方向の電車に乗って、その大きな駅からこの町の駅にやってきた。あの時は切符の買い方も分からなかったし、ひどく怖かった。
今では彼はスマホを持っていて、切符の買い方だけでなく、知らない土地への行き方も調べられる。未だに人混みは怖かったが、帽子を深く被ってサングラスをしたら、何とか耐えられるようになった。
映画館に映画を観に行くために、彼は人のたくさんいる場所に行く恐怖を乗り越える術を身につけた。初めて映画館で映画を観た日、彼は胸がドキドキして夜眠れなかった。あんな大きなスクリーン。大きな、振動が伝わるくらい大きな音。身体中が映画に包まれた。それ以来、彼は刺繍を売ったお金で時々映画を観に行った。一番近くの映画館はショッピングモールの中にあって、そこで見かけたたくさんの家族を見て、彼は、自分がいかに狂った幼少期を送ってきたか思い知った。自分のように育った子供はたくさんいるのだと、そうじゃない子供が特別なのだと信じていたが、それは間違っていた。多くの子供達が、それぞれの両親と何の不安もなさそうに、泣いたり、駄々をこねたりしていた。それを見ていると、彼はいつも胸がギュッと踏み潰されるような気持ちがした。そのうち、映画に行く事をやめてしまった。
おじ様と呼ばされていた男の家にいた頃、彼はハリーポッターシリーズが大好きだった。初めておじ様のテレビで、本で読んだ物語が実際に動く映画になって観る事ができて、彼は感激した。でも、映画を観るために、彼は何時間もおじ様の拷問に耐えなければいけなかった。
まず、お風呂で、その男の身体を洗う。丁寧に丁寧に。お風呂は怖かった。少しでも気に入らない事があると水の中に沈められたり熱湯を浴びせられたりするからだ。機嫌を損ねないよう慎重に洗うと、その男は湯船に浸かる。湯船に浸かった男の股間に顔を埋め、性器を咥えるのは本当に辛かった。水の中に顔を入れる恐怖。時には後ろ手に縛られる事もあり、そうされると、本当に死の恐怖と闘いながらフェラチオした。ようやく風呂での奉仕が終わっても、まだまだ続きがある。縛られ吊るされ鞭で打たれ、蝋燭を垂らされ、肛門に様々な物を挿れられ、それでも気絶せずに耐えられた時だけ、褒美に映画を観せてもらえる。
でも、ほとんどの子供達はそんな事、された事はもちろん想像した事すらないのだろう。それは、彼が普通の暮らしを手に入れて、徐々に気付いて行った事だった。

自分の生育環境の異常さに気付くと、彼には様々な疑問が芽生えた。
なぜ?
なぜ僕はあんな目に遭ったのか。
なぜ誰も助けてはくれなかったのか。
なぜ。なぜ…
答えの出ないその疑問を、彼は胸の奥にしまい込んだ。でも、胸の奥でそれはどんどん膨れ上がって、もはや彼自身にも抑えられないものになった。刺繍をしている時だけ、そのことを忘れられた。忌まわしい身体のことも。
けれどそれは一時の逃避で、胸の奥の疼きはどんどんひどくなった。だから、あの事、広告代理店の仕打ちは、ただきっかけに過ぎない。

彼は、もうどうしようもできない胸の苦しさを抱えて、新幹線に乗り込んだ。
大阪行き。

裁判所で見たその住所に、母親が住んでいた。
彼女の夫と、彼女が売らなかった子供と一緒に。今は穏やかに幸せに暮らしている、裁判でそう彼女は言った。
なぜ?
僕には与えられなかった穏やかで幸せな暮らし。
なぜ?


なぜ、彼が大阪駅の駅ビルの中のデパートで包丁を買ったのか、彼自身にも分からなかった。何がしたかったのかも。
急に、包丁を買おうと思い立ったのだ。母親が答えてくれなかったら、これを見せてみよう。
いや、彼女を殺そうと、そう思ったのかも知れない。彼女を殺して自分も死のうと。 

とにもかくにも、彼はリュックに全財産と包丁を詰めて、その家に向かった。
閑静な住宅街に建つ、瀟洒な家だった。


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