いないはずの子供

ken

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「おまえ、あの店にいたサトシだかサトルだかってやつだろ?」
彼がようやく刑務所での暮らしになんとか順応してきたころに、突然そう声をかけられた。刑務所の建物の外を清掃する作業をしていた時の事だった。
「売りさせられてたろ、15か16の頃、あの店で。オレもその店にいたから。おまえの事、よく覚えてるよ。誰とも喋らないから目立ってた。最初の頃パーティーもよく行かさせられてたろ。オレもよく行かさせられてた。おまえ、何やらさせられてる時も空っぽの目してたから、印象に残ってんだよ。でもなんか、変わったな、目。空っぽじゃなくなった。」
「あ、あの店に…」
「ああ。昔のよしみだ。何か困ったことがあったら言えよ。ここには頭がおかしな奴がいっぱいいるから。」
「あ、はい。ありがとうございます。」

去っていく後ろ姿を見ながら、彼は記憶の中を辿ってみたが、全く覚えていなかった。あの頃の事はぼんやりとしか思い出せない。
パーティー…
確かに、あの店に売られたばかりの頃はよくパーティーに連れて行かれた。パーティーは過酷なことが多く、嫌な仕事だった。金持ちの小児性愛者達が集まって、何人もの少年や時には少女が全裸で奉仕させられる。時には10人以上の男達に廻され、舞台の上で鞭打たれたり他の少年達とSEXさせられたりする事もある。身体が傷だらけの彼は痛めつけられる事が多く、パーティーが終わるといつも身体が回復するのに数日から2週間ほどかかった。その間も、客は減らして貰えるが休ませて貰える訳ではないので本当に辛かった。

あの人もあれを経験してきたのかと思うと、顔に覚えはなかったが親しみのようなものを感じた。三鷹冬馬というその受刑者と、彼は次第に仲良くなった。冬馬と行動するようになって、今まで彼を悩ませていた一部の受刑者からのちょっかいや下らない嫌がらせがピタリと止んだ。ヤクザの組長の愛人だったとか、その組長の命を狙った男を射殺してここに来たとか、真為は定かではない噂が飛び交っていたが、いずれにしても彼は受刑者達に一目置かれているのだった。
冬馬は彼よりひとつ歳下だったが、逞しく強かで、彼は冬馬を兄のように慕った。時折何かのきっかけでパニックの発作が起きると、冬馬は彼の手を握って、呼吸が整うまで
「吸って、吐いて、吸って、吐いて。」
と落ち着かせてくれる。
冬馬自身も時折気が塞ぎ、むしゃくしゃして誰彼構わず喧嘩をふっかけそうになるし、実際以前はそうしていたが、そんな時は彼のもとにやってきて、彼は本で読んだ物語や適当に自分で作った物語を聞かせる。そうすると不思議と、心の中の激しい渇きが少し潤うのだった。

彼が刑務所での生活で一番苦労したのは、運動の時間だった。天気の良い日はひたすら運動場を走らされ、雨の日は体育館で腕立て伏せやスクワットをさせられる。体力も筋力も無かった彼は最初の一年は皆の足を引っ張り続け、風当たりは強かった。その分室内の清掃や備品の点検など、出来る事は積極的にしたが、冬馬がいなかったらもっと過酷な虐めを受けていただろう。彼は冬馬に習って自由時間も運動をし、次第に青年らしい筋肉を付けていった。段々と食事もきちんと取れるようになり、余暇の時間はサッカーやバレーなどをやる仲間に入れてもらえるまでになった。時々彼は、ここが刑務所である事を忘れ、憧れていた学校にいるような気持ちになった。大人しく、几帳面で真面目な彼に、刑務官も目をかけた。刑務官は彼の事情を理解し、同情していた。一度も学校に通ったことがない彼は、他の人間が普通に分かることが分からなかったり、合わせられなかったりしたが、懸命に学び努力する姿に、厳しい叱責ではなく温かな励ましの目を向けるようになった。

彼にとって最も良かったのは、正規の教育を受けられた事だ。毎週3日彼は、冬馬を含む他の10数人の模範囚と一緒に、中学校の教員免許のある先生から授業を受ける事ができるようになった。彼は、おじ様と読んでいた数学者の男から突出して高い数学と物理の教育を受けており、またかなり難しい論文も読める読解力があったが、学んだ事には偏りがあり、小学生でも分かる事が分からなかったりした。
彼は高卒認定試験の合格を目指して、4年間勉強に励んだ。


『拝啓
お兄ちゃん、元気ですか。
僕は元気です。
僕は夏目先生のところを退院して、佐伯さんの家でお世話になっています。佐伯さんが、僕の里親になってくれました。
僕は今佐伯さんのご家族(佐伯さん、佐伯さんのだんなさんの智仁さん、佐伯さんの息子さんの悠杜さん、智仁さんのお母さんの路子さんの4人)と一緒に住んでいます。悠杜さんは大学生で、ゲームをたくさん持っていて時々一緒に遊んでくれます。
お兄ちゃんの手紙で、お兄ちゃんに友達ができた事、スクワットが100回できるようになった事、高卒にんてい試験に合格できると言われた事、佐伯さん達にも話して、みんなでカンパイしました。僕はお酒飲んでないですよ!
僕は、悠杜さんの通っていた中学校を受験する事にしました。お金は佐伯さんのだんなさんが出してくれます。将来、僕はお医者さんになりたいと言ったら、この中学校に行った方が良いと智仁さんが言ってくれました。
中学校はお金がかかるけど、高校からはそんなにかからないから、中学校の時の分は僕がお医者になったら返すという事にしました。

お兄ちゃんに会えるのを楽しみにしています。
辛い事もあると思いますが、頑張って下さい。僕はいつもお兄ちゃんを応援しています。
将来お医者さんになったら、お兄ちゃんと2人で暮らしましょう。

お身体に気をつけて。

大野蒼』

弟からくる手紙が、彼の励みで、拠り所だった。冬馬には家族がいなかった。誰にも、手紙を書く相手がいない。それが彼には辛かった。最初、彼は弟からの手紙を隠していたが、冬馬に見せて欲しいと言われて大切に枕の下に取っていた手紙を見せた。冬馬は読みながら、なんだかんだとケチをつけた。

弟、まだ小学生だろ?
今から医者なんて決めちまって良いのかよ。
あとあと辛くなるぜ。
ゲーム三昧してて医者になんかなれっかよ。
なんのゲームしてるかをもっと書けよ。
おい、俺様は友達じゃねーよ、親友だよ。
アニキのダチは先輩だぞ、冬馬さまと呼べよ。
彼はそういう冬馬の軽口を全部手紙に書いた。蒼はそれにちゃんと全部返事を書いてよこした。時々冬馬が蒼に手紙を書いて、それを彼は自分の手紙と一緒に同封した。
蒼はちゃんと冬馬宛に返事をくれた。

すぐに喧嘩をふっかけたり刑務官に楯突いたりして、懲罰房の常連だった冬馬が間宮ただしと仲良くなって模範囚になった事に、刑務官達は驚き、そして2人の友情を肯定的に捉えるようになった。法務省が、特に歳若い受刑者の更生に力を入れるよう各刑務所に通達しており、その実績として三鷹冬馬はちょうど良かった。彼は暴力団員ではなかったがその中枢と限りなく近い立場にあり、出所後は正構成員として、しかもかなり中枢に迎え入れられる可能性が高い受刑者だった。このまま、あと6年の満期を迎えて出所したら、恐らく彼の出所時には暴力団員が迎えにくるのだろう。
間宮ただしの出所はあと2年もない。
彼は当初から模範囚なので、出所が早まる可能性もあった。
彼の出所前に、三鷹冬馬をなんとか暴力団から引き離せないか。刑務官や保護司たちは2人の友情を温かく見守った。
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