いないはずの子供

ken

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その日、松部巡査長がその河川敷に行ったのは何か目的があっての事ではなかった。松部は、時折通常業務の合間に佐竹透の件を調べていた。居ても立っても居られない、という心境だった。
今回の事件は、複数の若者による監禁暴行事件として捜査本部が設置されていた。暴行は極めて残酷で、売春防止法違反の疑いもあり、人身売買の可能性もあった。しかし、犯人グループは大学生やフリーターなど若者の友達グループで、組織犯罪ではなく、それほど重要事件という扱いではなかった。大きな事件など滅多にない田舎街だからまだマシな扱いだが、ここが都会で大事件が度々起こるようなところだったら捜査本部すら設置されなかったかも知れない。
松部はどこかダレた署の雰囲気に怒りを覚えた。被害者が未成年ではなく、立ちんぼをやっていたという情報が入ってからは、主犯の男の供述通り、被害者があの部屋で売りをやっていただけなのではないかとまで言う捜査員もいた。被害者が救出された今、必死に捜査をしているのは、被害者発見時に居合わせた刑事2人と松部くらいなものだった。
松部は、発見時の被害者の姿が目に焼き付いて離れなかった。あれほど傷つけられ、尊厳を踏み躙られた人を見た事がなかった。特に彼の目が、忘れられない。悲しみを通り越して、絶望に沈んだ目だった。でも、その目は怖いほどに澄んでいた。深く、暗く、澄み渡った瞳だった。

松部は彼が一時住んでいたという河川敷のダンボールハウスに足を運んだ。ここで、彼はどんな日々を過ごしていたのだろう。ダンボールハウスの中に入ってみると、ゴミがきれいに分別されていた。暑い夏の最中であるのに、ほとんど異臭を放ってはいなかった。コンビニ弁当のような容器は、川の水を使ったのかきれいに洗われていた。たくさんの猫の餌の缶詰のゴミがあった。それも、きれいに洗われていた。猫を飼っていたのか。その猫は、どこにいるのだろう。
隅の方に、本が数冊と国語辞典があった。どれも何度も読まれたのか、草臥れて表紙が擦り切れていた。時々彼を図書館で見かけた、というバーのママの証言を思い出した。

その時、「シロー、シロー」と呼ぶ声が聞こえた。子供の声だった。
松部はハッとしてダンボールハウスから出て、声の主に近づいた。ランドセルを背負った小学生だった。
「シロって、誰のこと?」
そう言うと、子供は驚いたように目を見開き、制服姿の松部を見て警戒心を隠さず後ずさった。 
「大丈夫、心配しないで。学校は?なんて野暮なこと言わないから。シロって誰の事か、聞きたいだけ。」
松部は務めて軽い調子で尋ねた。
「猫。たぶん近くにいるけど、あなたがいるから出てこない。」
「そっか。ごめんね。ここに住んでたお兄さんが飼ってたの?」
「うん。お兄さん、やっぱり何かあったの?どうして警察がここに来たの?あの人達、捕まえてくれたの?」
「あの人達?」
「お兄さんに何かしてた。殴ってたのかも。」
「いつ?」
「4月のおわり。」
「何があったのか、聞かせてくれる?」
「お兄さんとここでシロを撫でてたら、あいつらが来た。お兄さんの事、シロちゃんって呼んで、嫌な感じで笑った。お兄さんが僕に、逃げて、って言った。でも、怖くて動けなかった。そしたらその人たちが来て、僕のほっぺとか頭とか、ベタベタ触ってきて。でもお兄さんが、止めてくれた。お願い、何でもしますからって言って、僕に、早く!お家に帰って下さいって言った。お兄さんは、僕からその人達を引き離そうと必死で、あっちの方にその人達を連れてった。お兄さん、何でもするからお願いしますって。それで、あっちの方で、あいつらお兄さんを囲んで何かしてた。殴ってたのかも。僕が、大丈夫?って行こうとしたら、お兄さん、すごい顔で怒鳴った。早く!早く逃げて!もうここに来ちゃダメ!って。僕、そんなお兄さんの顔初めて見たから、怖くなって逃げちゃった。」
「怖かったね。頑張って逃げたのね。」
「でもそれから、お兄さん消えちゃった。シロ残して、いなくなった。」
「もう大丈夫。そいつらは警察が捕まえたし、お兄さんは今病院で治療してるから。」
「お兄さん、怪我したの?」
「うん、でももう大丈夫だよ。」
「どうしてお兄さん、怪我したの?
お兄さん、すごく優しかったのに。僕の話聞いてくれた。あいつら… 
あいつらお兄さんになにしたの?
ねえ、お巡りさん、お見舞い行ける?」
「まだ分からない。でも、いつかお見舞いできたら良いね。」
少年の着ている体操服の胸には名札が縫い付けられていた。中林翔太。
あの青年が看護師に名乗った名前だった。
松部はその後、その少年を家まで送った。
少年の家にはまだ両親は帰ってきていなかった。

後日、松部は刑事課の刑事と2人で少年の家に行った。あらかじめ、彼の母親に電話で話をし、正式な証言調書を取るために来たのだ。

小学四年生のその少年、中林翔太は賢い子だった。
両親は共働きで、父親は東京に単身赴任していた。母親も小さな輸入会社を経営しており、忙しかった。一人っ子の翔太は、あまり学校に馴染めず、友達がいなかった。
周りのクラスメイトが大きな声で騒ぐのがストレスだったし、意味のわからない細かなルールや暗黙の常識のようなものが、理解できなかった。大声で叫びながら乱暴な遊びを好むクラスメイトとは全く気が合わず、むしろ恐怖だった。床は汚く、何かほんのりと不快な臭いがいつもして、心が休まる時がなかった。
家で、母親との関係は悪くなかったし、ひと月に数回会う父親とも仲良かった。でも、両親は2人とも忙しく、独りで過ごす時間も多かった。学校に馴染めない事を、毎日仕事と家事で忙しい母親には相談できなかったし、たまに会う父親を失望させたくもなかった。だから、翔太は学校に行き、何とか無難に過ごす事に努めた。不快感が顔に出ないように気をつけ、教師に言われた事はたとえ理解できなくても、納得できなくても、文句を言わずに従った。やりたくない事も我慢してやった。なぜこんな簡単な事にこんなに時間をかけるのか分からなかったけれど、授業中も周りに合わせて程よく挙手をして発言したり、質問したりした。
うまくやれた。翔太は教師から手のかからない優等生とみなされていたし、それでいて周りの生徒からいけ好かない優等生とまでは思われていなかった。多少変わった子供だと思われていたけれど、大人しい、目立たない生徒だった。
でも時々、翔太は学校で吐きそうになった。トイレに駆け込んで実際に吐く時もあった。叫び出しそうになる時もあった。そんな時は、体調が悪いとか、母親と病院に行くとか言って学校を早退した。母親は、そんな翔太の嘘を、仕方がないと受け止めて翔太に口裏を合わせた。母親自身、小学校には全く馴染めなかった。今でも懇談や授業参観などで学校に行くと、頭痛がするくらいだ。

無理しなくて良いよ。
嫌だったら帰りなさい。
翔太は翔太の世界を守れば良いよ。

母親はそう言ってくれた。
他人には無責任に映るかも知れないけれど、それは翔太にはとてもありがたいことだった。
母親が、自分を1人の人間として尊重してくれている。それはとても心強く、嬉しい事だった。

でも時々、翔太は寂しくなった。
誰かに甘えたかった。

そんな時に、独りでふらりと散歩に出た河川敷で、あのお兄さんに会った。




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