その日、私は龍に喰われた。

蒼井泉

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序章

第2話 千と一人目

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 体の至る所から血が流れている。裂傷。裂傷。裂傷。体の至る所から、赤黒く変色した傷が血を噴いていた。
 頭を何度も打ったせいか、視界に映る全てがぼやけて見える。四肢は千切れそうなほどに強く痛みを上げ、焼け爛れた胃がじゅくじゅくと腹の中のモノを押し出してくる。私は痛みに蝕まれていた。
 それでも進まなくてはならなかった。壊滅しかけているこの村の中に生存者を探していた。
 特に、の義兄の無事が心配でならなかった。私は死しても構わないから、あと一度だけ彼の顔を見たかった。
 無我夢中で体を進ませるが、途中で足が動かなくなり転んでしまう。痛い。痛い。脳が痛みに揺れる。
 それでも彼を探すことは諦められなかった。ぐちゃぐちゃの体を引き摺って、私は無理やり前に進む。
「ッ……う……」
 傷口が地面と擦れ、意識が飛ぶほどの痛みとショックに襲われる。
 助からないと思っていた。だから、彼が無事で明日も生きていくという希望が欲しかった。どれだけ痛くても耐えてみせるつもりだった。
 しかし。
「……あ」
 亡骸を見つけた。
 まさかそんなはずはない。そう思っていても、本能と僅かな理性が亡骸の正体を告げてくる。
 私が頼りにしていた彼の姿はそこになかった。その大きさと眠ったような倒れ方、かろうじて判る赤髪からその人物を特定した。わかるのはそれくらい。惨たらしい最後だった。
 これは彼じゃない。いや、そんなはずはない。
 事実を否定したつもりでも、頭がすぐにその見解を否定する。
 いや、何が違う?
 これは彼? 私のおにいちゃん?
 違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。
「あ——あぁぁぁぁぁぁ」
 違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。

 ——たすけて。

 ◇

「嫌っ! はーッ、はーッ、はーッ」
 ベッドから飛び起きた私は、そのまま激しく咳き込んだ。全身を冷たい汗が流れているのがわかる。
 私——風晴涼華かぜはるりょうかは、悪夢と共に目を覚ました。
 ここのところ毎日、自分が少女になったような夢を見る。だのに、少女の姿は客観的に見ることができて、そのせいで苦しみながらその姿を俯瞰するような夢になっていた。一人の人間が壊れる夢は気が狂うほどの恐怖を孕んでいた。
 クローゼットから手頃な私服を取り出して着替え、机の上に放置していたスマートフォンの電源をつける。
 時刻は八時ちょうど、狙い通りだった。
 私はスマートフォンの電源を落として階段を降り、洗面台の前に立つ。
 
 ……それにしても、なんて残酷な夢なのだろう。毎晩目の前で助けを求める少女がいるのに、私に救う手段はない。手を伸ばせば届くのに味わいながら見ることしか許されず、どんな日もその夢が私を襲う。
 許せなかった。私に夢を見せている者ではなく、少女を苦しめたその者を。

 苦い夢の記憶に頭痛を覚えつつ、髪の毛を整える。
 夏休みの真っ最中だが、今日はカフェのバイトが入っていた。
 私は身じたくを整え外へ飛び出す。日差しがさんさんと照りつける夏の空、私は目的のカフェへと歩き出した。青空には真っ白な雲と特大のお天道様が並んでいて、スマートフォンの画面を見ていることが勿体無く感じられる。
 駅の方に続く道を辿る途中、自販機でペットボトルの炭酸を購入した。キャップを開けてボトルを傾けると、強烈な刺激が私の喉に溜まったものをまるごと掻っ攫っていった。
 バイト先のカフェは家から約十五分程度。落ち着いた風貌のカフェにはフランス語で「エトワール」と書かれた大看板、その下には「closed」と書かれた小さな看板があった。
 看板の内容を無視してドアを開けると、中ではコーヒーカップを拭いている男性の姿があった。
 間取りは広くも狭くもない。最大の特徴は外を見渡せる大きな窓のついた席が別で用意されていること。もちろん外側からも見えてしまうので、好んで使う人は少ないそうだが。
風晴かぜはるくん、おはよう。眠たそうだが具合はどうかね?」
 四角いメガネに灰色の髪を携えた五十代の男性は、私の姿に気がつくと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「おはようございます、伊桜いざくら店長。ちょっと悪い夢見ちゃって」
 落ち着いた様子でメガネを上げる伊桜店長は、拭き終わりのコップを片付けてコーヒーを淹れてくれた。
「お代は結構だよ。悪い夢を見たならコーヒーで覚ますに限る」
 カウンターの席に腰掛けて、私はコーヒーを飲んだ。苦味がなく甘いそれは素人の舌でもわかるくらい美味しくて、私を落ち着かせてくれる。

 
 しかし、神様はとことん意地悪な性格らしい。
 コーヒーを半分飲み終えて一息ついたところで、窓の外を眩い光が包み込んだ。
「きゃっ!?」
 目に突き刺さる光が私の視界を奪い去る。十数秒後に前が見えるようになった頃、周りにあったはずの建物がなくなっていることに気がついた。
「……伊桜店長、外」
「あぁ、見ているとも。座席利用率二パーセントのガラス席を残した甲斐があったというものだ」
 落ち着いた笑みを浮かべた伊桜店長は、小さなクッキーを一枚私の前に置いて窓の付近へと近づいた。
 ありがたくクッキーを口に放り込んだあと、私は少し離れたところから外の様子を眺めてみる。
 夢でも見ているような、或いはマジックのような、現実離れした世界がそこにあった。
「鳥取砂丘かね、アレ」
「いやいや、まさか。……でも、確かにそれらしいですよね」
 半ばふざけたように頷くと、伊桜さんはカウンターまで戻ってきた。そして何事もなかったかのようにコップを磨き始めた。
「店長、何してるんです?」
「いやいや、表に出ても飢え死にがオチだろう。日課からやり直して考えようと思ってね」
 コーヒーカップをもう一度拭く店長をよそに、私は窓の外の景色に改めて目をやった。
 ……どう見ても砂漠だった。建物がなくなるだけならまだしも、砂漠なんて異常だ。カフェに備蓄してある食料にだって限りがあるし、ここが海外の砂漠なら助けは絶対に来ない。
 なんとかしないと。
「外には出ない方が安全だぞ、風晴くん」
「ここにいたって誰も来ないかもしれないじゃないですか。ちょっと様子を見るくらいなら、迷いませんし大丈夫ですよ」
 直感で体を動かして、私はそのまま扉を開けた。
 広がっていたのは、窓から見たのと同じ景色。どこまでも続きそうな青空に、平行に続いていく砂色の砂漠があった。
 不思議と暑さは感じない。太陽が直接当たっていないようだが、砂漠に遮蔽物なんてあるのだろうか。
 そんなことを考えていると、後ろから私の名を呼ぶ伊桜さんの声が聞こえてきた。
 ……前?
 言われた通りに前、或いは真上に目をやってみた。すると、そこには予想外の存在があった。
「なに、これ」
 真っ黒で巨大な体躯に黄金の瞳。口から白い煙を吐き出して、ドラゴンが私を見下ろしていた。
「風晴くん!」
 伊桜店長の呼びかけを何度か聞いて、私はようやく我に返る。どうやら、黄金の瞳を見つめているうちにぼうっとしていたらしい。
「あ——」
 そのせいで間に合わなかった。
 ドラゴンは大きく口を開けたと思うと、私とカフェへと降ってくる。
 体温なのか蒸気なのか、絶妙な熱が私の体を包んでいた。背後でカフェの建物がメキメキと音を立てているのがわかる。ドラゴンの牙が屋根を打ち砕いているのだろうか。怖くて後ろは確認できない。
 それが覚えている最後の思考だった。
 
 その日、私は龍に喰われた。
 
 ◇
 
 それから、——風晴涼華は全身を駆け巡った強い衝撃によって目を覚ます。
 視界がぼやけていてよくわからないが、微かな森の匂いからそこが砂漠でないことを察した。体の感覚が曖昧で声も喉を通らない。
 体が現実に落ち着いてきたのは、意識が戻って一、二分が経過したあとのことだった。
 店長はどこ? 砂漠から移動したみたいだけれど、この場所がなんなのかよくわからない。
 ぼやけた視界のまま、目の前に人影がいると信じて言葉をなんとか口に出す。
 すると、すぐに答えが返ってきた。
「シェーン・ヴェルトという。キミ、名前は――?」
 落ち着いた女性の声だった。
 タイミングよく視界が少女に定まった。

 それと同時、私は愕然とした。
 私より少し低い背丈に、茶髪のツインテールと緑の双眸を携える褐色の少女——私の夢に出てくる、助けを求める人そのものだった。
 途端に心臓の鼓動が激しくなる。動悸を覚えるくらいの衝撃と緊張を表に出さぬようなんとか抑え、平静を装って質問に答えた。
 どうやらうまく誤魔化せたらしく、少女メリアは変わらぬ様子で言葉を続けた。
「……っ!」
 私は絶句する。
 言葉には落ち着きを感じるが、その裏に秘めた思いは昔と何ら変わりない。今も変わらず、少女は誰かの助けを求めていた。
 メリアは気づいていないようだったが、平然と振る舞うのも限界があった。
 この距離なら彼女を救うことができる。毎夜届かぬ苦しみに苛まれることもなく、彼女のそばにいて助けてあげられる。
 そして、目の奥の鈍い光や必死に顔のところどころに残る疲弊。メリアが限界を迎えているとすぐに察した。
 放っておける訳がなかった。
 私と変わらない年の少女が壊れかかっているのを、なんとしてでも救わなければならないと思った。
「もちろん。よろしくね」
 脈打つ心臓の鼓動を抑えて、私は彼女の手をぎゅっと握り返した。

 これが私と彼女メリアの出会い。
 突然の出来事に戸惑うが故の緊張もあったのだろうが、異常な脈拍の心臓は別の何かを訴えているようだった。
 空は真っ青で輝いているのに、私は背中に冷たい汗を流していた。
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