センス・オブ・ワンダー

イグサコウジ

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part.9

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 いつの間にか、わたしが話し始めるのを待つだけ、といった空気になっていた。内藤は座り直すと少し前のめりになって、じっとわたしを見つめてくる。
 怖い、と感じた。話すのが、聞かれるのが、怖い。恥ずかしい、とか場合が場合なら可愛らしい感情ではない。

「……内藤」

 やたらと喉が渇いていた。喋るために口を開くと、口の中もみるみる渇き始める。こんなに体が言うことを聞かないのは、初めてだった。
 思えば、他人にこのことを話すのも、初めてだった。きっとそのせいに違いない。

「内藤は、情けなくなんか、ないから」

 これからわたしのことを話す前に、それだけは言っておきたかった。
 なぜなら、わたしのほうが、内藤よりもずっと情けないのだから。

「……わたしも、いじめられていたの。小さい頃から、ずっと」

 わたしのひと言目を聞くなり、内藤は大きく目を見開いた。その様子を見た瞬間、口に出しかけていた言葉が、直前で詰まる。相手の動きひとつひとつに、こんなに揺れ動かされるとは思っていなかった。
 内藤はわたしの内心を察したのか、はっとして、顔を両手で覆い隠した。そのまま、顔全体を揉みほぐすような動きをする。
 少しして、内藤は再び顔を上げた。その表情は真剣そのものだった。口元を隠すように、両手は顔の前で組まれている。

 図らずとも間を置いたおかげか、わたしの思考は平静に戻っていた。同時に、正面からわたしを受け止めようとしてくれる内藤の行動を見て、安心感を覚えてもいた。
 きっと内藤なら受け止めてくれる。大丈夫だ。大きく息を吸い込んだ。込み上げてくる安堵の気持ちで、胸を満たすように。

「……年の離れた兄がいるんだけど、あまり素行がよくなくて。そのせいなのか、物心ついた頃から、わたしの両親は喧嘩ばかりしてた」

 思い出せる限りで、一番古い記憶を呼び起こす。その中で、わたしは激しく言い争う両親を見て、泣いていた。
 喧嘩を止める人間も、わたしを慰める人間も出てこない。その役目を果たすべき兄自身が喧嘩の原因なのだから、当然かもしれない。

「そんな家庭だから、わたしも小さい頃から塞ぎ込みがちな性格になって、それに拍車をかけたのが……周りの反応」

 内藤の眉が、わずかに吊り上がったのを、わたしは見逃さなかった。

「兄や両親のことは周囲の人たちには有名だったし、当然、大人を通じてわたしと同年代の子供にも伝わっていたの」

あの不良の妹。あの喧嘩ばかりしている夫婦の娘。
 そういった先入観のせいで、いつも腫れ物でも触るかのように扱われてきた。暴力を振るわれることもあった。兄のことがあってか、それほど激しくはなかったけれど。

「周囲から冷たい目で見られて、理不尽な目に何度もあって。なんでわたしがこんな目に合わないとならないんだろう、って思ってた」

 思い出すだけで、悔しさが込み上げてくる。
 地元に住む人達は、いまもわたしの家族をよく思っていない。両親は、今度はわたしの教育の責任を押し付けあっているし、兄は刑務所暮らしだ。内藤と違って、わたしが詩を書き始めたきっかけは、過去の出来事ではないのだ。

「そんな気持ちがいよいよ爆発しそうなとき、たまたま新品のノートが目に入って……書き殴ったの。思い浮かんだ気持ちを、かたっぱしから」

 誤字も文字の汚さも気にせず、一心不乱に書いていたことを思い出す。
 芯がなくなったシャーペンを放り投げたり、少し破れたページを根元から引きちぎったりもした。家具を壊したり、家族に暴力をふるうのと、大差はないと思う。対象がノートで、方法が感情をありのままぶつけるというものだっただけだ。

「気が済むまでやったあと、少しだけ楽になった。少しだけ救われたような気がした。だからわたしは、いまも詩を書いているの。わたしがなんで、って思ったことをぶつけて、答えを見つけて、吐き出すために」

 そこまで言い切ってから、わたしは息苦しさを覚えて何度も深呼吸をした。思い返して、自分が息をするのを忘れて、一気に最後まで話していたことに気付く。
 内藤は、わたしが話し終わってからも無言だった。むやみに口を開けば、すべてが瓦解する。そんな、さっきまでのわたしと同じことを考えているのかもしれない。

「内藤。ひとつ、聞きたいことがあるの」

 わたしは話を続けた。内藤と自分を比べて、どうしても分からない、聞きたいことがあった。

「内藤はどうして、いまも、詩を書いているの?」

 内藤はとっくに救われているのだ。吐き出したい感情なんて、どこにもないのだ。
 なのに、内藤はいまも詩を書き続けている。そこにどんな目的があるのか、わたしには想像もつかなかった。

「……詩を書き始めてから、いくつか賞をもらったりして、それでいじめていた相手も僕を見直して、いじめられることはなくなったんだ。友達も増えた。父さんも母さんも自分のことのように喜んでくれた。嬉しかった」

 内藤は、自身の話の続きを語り始める。
 結果が出ると、周囲の態度が変わる。わたしも体験したよくある話だ。違うのは、内藤の周囲の人間は、結果を生み出した内藤自身を見てくれたということ。結果だけを見る人間しかいなかったわたしとの、決定的な差だ。

「周りが褒めてくれることに気を良くして、ずっと書いてきたけど……正直、分からない。ただの惰性ではない、と思う。かといって、明確な目的があるわけでもない」

 内藤がうつむき、表情が完全に見えなくなる。弱まり始めた夕日が目元に影を落としていた。

「……ごめん、こんなことしか言えなくて」

 しばらくの間、沈黙が場を支配する。

「ほんとにこんなこと、ね。分からないままで悶々とするわ」

「……ごめん」

「だから、さっさと見つけて、教えてよね。いまも詩を書いている理由」

「……うんっ」

 内藤は顔を上げると、大きく頷いた。返事は静かだったけれど、確かな決意と力強さが感じられた。

「そろそろ帰らないと。だいぶ暗くなってきたし」

 内藤に言われて窓の外を見る。さっきまで淡い橙色が広がっていた空は、すでに藍色が大部分を占めていた。連なった住宅の向こう側から、わずかに太陽が顔をのぞかせている。

「……そうね」

 自分の席に戻っていく内藤の背中に語りかけ、机の上のものを鞄にしまっていく。隣の席からも、机や椅子が動く音が聞こえる。ずいぶん荒っぽい帰り支度だと思った。

「じゃあ、帰ろう」

 支度を終えて顔を上げると、内藤はとっくに準備を終えて、律儀にわたしを待っていた。内藤がわたしを見てから、教室の出口に向かう。わたしはその少し後ろをついていく。

「……内藤」

 ふと思い立ったことがあって、内藤を呼ぶ。

「うん?」

 内藤は歩きながら、顔だけ振り向いた。
 すぐに言ってしまおうと用意しておいた長い言葉が、喉元で詰まる。動揺したせいか、やけに顔が熱くなるのを感じた。

「……ありがとう」

「……こちらこそ」

 考えていたことのほんの一部分しか言えなかった言葉に、内藤は笑ってそう返した。
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