示彩 豊

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 それは、一人暮らしを始めて一か月が過ぎた、蒸し暑い夏の夜のことだった。
 昼間の熱気がアスファルトにこもり、夜になってもじっとりとした湿気が空気にまとわりつく。窓の外では、遠くの交差点から時折、車のエンジン音が響く。冷房の効いた部屋の中で、倉田真一は夕飯の支度をしていた。
 フライパンを温め、まな板の上で手際よく野菜を刻む。包丁が野菜を捉える心地よい音が、キッチンに軽やかに響いていた。しかし、どこか落ち着かない。
「……?」
 ふと、違和感を覚える。何かが変だ。
 キッチンの窓が、ずっと赤く光っている。
 最初は気に留めなかった。救急車か消防車が通り過ぎたのだろうと考えた。しかし、光はずっとそこに留まっている。まるで、警告灯のように静かに、しかし執拗に赤い光を投げかけている。
「どうかしたの?」
 横で見ていた唯が、不思議そうに首を傾げる。
「キッチンの窓……外がずっと赤く光ってるんだ」
 そう言いながら、真一はまな板に手をついたまま窓の方へ視線を向けた。窓越しに広がる夜の風景には、見慣れたアパート前の小さな公民館と、その脇にある猫の額ほどの広場。そして、そこに停まっているのは——
 パトカーだった。
「……救急車じゃないんだ」
「何か事件でもあったのかな?」
 ――唯の言葉に、真一は頷いた。じわりと、背中に汗が滲む。不穏な空気が肌にまとわりついてくる。
 原因を確かめようと、彼は窓を開けた。外気が流れ込み、ぬるい風が頬を撫でる。夜の闇に、パトカーの赤い光がゆっくりと回転しながら浮かび上がっていた。
 アパートの隣室の前には、一人の警察官が立っていた。彼は玄関のドアを開け、中を覗き込んでいる。
 真一は、自然を装いながら外へ出た。階段を降りると、もう一人の警察官が無線で誰かとやりとりしているのが見えた。
 ——酔っ払い……以前にも……同居人が……
 断片的に聞こえる言葉に、背筋が冷える。ただの酔っ払いの騒動ではない。これは、何か事件の匂いがする——そんな気がした。
 用事があったふりをして、近くのコンビニで適当に買い物を済ませ戻ってきた。しかし、状況は変わらなかった。
「どうだった?」
 部屋に戻ると、唯が不安そうに問いかけた。
「……事件性が強そうだった」
 真一が見てきたことを伝えると、唯は言葉なく窓の外を見つめる。
「もう、悲しいことは起こってほしくないな……」
 その言葉に、真一は胸が締めつけられるようだった。唯を悲しませたくない。守りたい——だが、それが叶わない無力さを噛み締める
 翌朝、真一はスマホで検索をかけた。
「○○市 △△アパート」
 昨晩の騒動がニュースに載っているかもしれない——そう思ったが、検索に引っかかったのはまったく別の記事だった。
【強姦強盗殺人】
 目を疑った。心臓が跳ねる。記事に目を走らせると、信じがたい言葉が並んでいた。
 事件が起こったのは半年前。場所は202号室。
 202号室——それは、隣室ではなかった。今、彼が住んでいる部屋だった。
「……唯?」
 喉の奥が引きつる。声が震える。
「知ってしまったんですね」
 真一がスマホを見つめたまま固まっていると、唯が悲しげに呟いた。
「唯……お前……」
「初めて会ったとき、不幸な死に方はしてないって言いましたよね」
 唯は微笑む。しかし、その笑顔はどこか儚く、痛ましい。
「……嘘だったんです。綺麗な私を見ていてほしかったから」
 真一は息を呑んだ。
 唯と初めて出会ったのは、入居する前の内見のときだった。担当者が離れ、一人で室内を見回っていると、ふと彼女が現れた。
「ここは幽霊が出るから、借りないほうがいいですよ」
 唯は真一に、そう告げる。
 真一は管理会社に確認を取った。確かに、この部屋で二つ前の住人が死亡していた。ただの病死——そう説明を受けた。
 だが、それが嘘だったのだ。
 唯は、ここで——殺された。
 目の前の唯の姿が、今までと違って見える。
 破れた服、血にまみれた肌、腫れ上がった顔——
「私のこと、見ていられないでしょ?」
 唯は哀しげに微笑む。その姿は痛々しく、目を背けたくなるほどだった。
「霊体って、見える人のイメージが影響するんです。真実を知った今の真一には、私はひどく残酷な姿に映ってるんでしょ?」
 真一は強く唇を噛んだ。そして、まっすぐ唯を見つめた。
「確かに、さっきまでは見てもいられない姿に見えた」
 そう伝えた後、ボロボロな姿になってしまっている唯を見つめ、真一は真っ直ぐな言葉で伝える。
「でも……今は、いつも通りの唯が、ただ悲しそうな顔をしてるように見える」
 唯の目が見開かれる。
「記事の内容が唯と重なったとき、一瞬だけ……見るに堪えない姿になった。でも、今は違う」
 言葉を継ぐ。
「俺は唯の辛い部分も受け止めて、一緒に生きていきたい
 唯は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「……生きていきたいって、私はもう死んでるよ?」
 そう言って、小さく笑う。
 真一は、ボロボロの唯を見ながら、それでも静かに言った。
「唯は綺麗な服を着ていて、とても可愛いよ」
 それは——彼がついた、唯一の嘘。
 だが、その嘘が唯を苦しみから救うのなら。
 真一は、何度でもその言葉を口にするだろう。
 真一のつく嘘が真実になり、結は綺麗な姿に戻っていくだろう。
 その為に、新一は目を晒さずに嘘をつき続ける

 ——了——
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