刺朗

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店内には彼女の他に客はいなかった。
地味な女性だった。
色は白いが、明るい白ではなく、どこか青っぽかった。
春が終わって、そろそろ夏の気配がしていたが、彼女からは春も夏も感じられなかった。
ピンクのカーディガンを羽織っていたが、なんとなくくすんでいた。くすんだピンクほど惨めな色はない。しかしそれが彼女の雰囲気にはぴったりと似合っていた。くすんだピンクに支配された彼女が、他に何を着ていたかはまったく記憶に無い。
髪は肩より少し長いくらいだろうか。後ろでひとつに束ねられているようだ。
顔つきも地味で、美人の部類でも、可愛らしい部類でもなかった。目鼻の線だけが引かれているようで、立体感が無かった。
彼女は窓の外を見るでもなく、うつむき加減で座っていた。手は膝の上に置かれていて、一点を見て、椅子に座って座禅をしているようだった。動くのはたまに目の前の、コーヒーか紅茶が入ったカップを口にする時だけだった。それも唇の先をチョンとつける程度で、カップを置いた手はまた、膝の上に戻された。

新たな客が入って来た。奥さんが静かに「いらっしゃいませ」と言うと、なんと彼女が立ち上がった。
彼女は自分のカップを持って、カウンターの中に入り、水の入ったグラスとおしぼりを銀の盆に載せて、客のもとへ行った。
私はカウンターの奥さんに
「あの方もアルバイトなんですか?」
と聞いた。
「そうなんですけど、辞めちゃうんですよ」
奥さんはそう言って、彼女の取る注文を待った。
奥さんに注文を告げると、彼女はカウンターの外で、縁にお尻を軽く当てて、注文のコーヒーが入るのを待っていた。
その間にマスターが用紙らしきものを持って出て来た。
さっきまで彼女が座っていた席に案内され、簡単な面接の後、マスターの持って来た用紙に氏名や連絡先などを書いていると、マスターは彼女を手招きした。
「幸恵ちゃん、この方が明日からきっとくれることになったよ、よかったね」
彼女が来るなりマスターは言い、私が書いたばかりの用紙を見て
「川原ろくろ?変わった名前だな、ま、こちら川原君だ」
と私を紹介した。
「西島、西島幸恵です」
か細い声だった。
「幸恵、あ、西島さんは今週一杯で辞めるので、ああやって貼り紙してたわけ。するとその尻から君が応募してくれて助かったよ。君は何回かお客さんで来てくれてるよね?」
マスターはそう言い、カウンターの奥さんにコーヒーを3つ注文した。
マスターは彼女の用事が済むと私の隣に座らせ、3人で静かにコーヒーを飲み、その日は終わった…

「疲れるな…しかし延々と馴れ初めらしきことを書いているが、この文字の洪水はまだ数ページあるぞ。しかし細かく書いてるなぁ、こっちにはどうでもいいことなんだが。まぁよく覚えているもんだ。…この先一体、何が言いたいんだ」
後藤は瞼を揉みながら言い、また先を続けた。
「そのうち着いちゃいますよ」
ハンドルを持つ平井が笑った。

…彼女と一緒に仕事をするのは今日を入れて4日だけだ。
仕事は単純なものだった。
たまに来る客に水とおしぼりを出し、注文を取り、伝え、注文の品とレシートを届け、済んだら引き上げ、マスターか奥さんに渡し、客がいたテーブルを拭く、その繰り返しだった。
あとはたまに代金の受け取りをするか、店内を簡単に掃除するくらい。
これならアルバイトなんて要らないのではと思ったが、なんでも老夫婦は店内の行き来もおぼつかないくらい、脚が弱っているらしい。
そういえば昨日、マスターが窓際の席に私を案内する時も、ずいぶんヨチヨチした歩き方だった。
それに店はあくまで老後の趣味で、元々マスターは大会社でそこそこの地位まで行った人らしく、資産は十分過ぎるくらいあるらしかった。
そんな時間が止まったような空間で、彼女は何年働いていたのだろう?
なんのために働いていたのだろう?
それと彼女はいくつなのだろう?

彼女と一緒に働いているといっても、店がこんな状態だから、ほとんどは彼女と、待機を兼ねて例の窓際の席に座っていた。
大抵私は本を読み、彼女はただじっと座っていた。
表情の無い人だなと思った。
沈黙は気にならないたちだが、私は彼女と話さなければと思った。
あと2日で彼女がいなくなるところまで来ていた。
いなくなるまでにせめて、彼女の住みかが知りたかった。いざとなればマスターに聞くつもりではあったが、やはり彼女の口からそれを聞き出したかった。
なぜ私がそんな気持ちになったのかは、初めて見た日からずっと彼女が着ている、カーディガンのくすんだピンクにあった。
くすんだピンクに私は憐れみを感じ、しばらく忘れていた家族へのいたぶりを思い出していたのだ。可哀想な色だ…
このくすみは、おそらく貧しさから来ているのだろう。いつも同じ物を着ているから、埃に汚れ、陽に色褪せたのだろう。
私は無性に彼女を救いたい衝動に駆られていたが、救うべき人なのかどうかは確定していないし、もしかしたら彼女は既婚者であるかも知れない。
いよいよ今日限りという日、私は突拍子もないことを彼女に言った。
「幸恵さん、実は初めて見た時に僕は君にとても深い縁を感じたんだ。それが何かは分からないんだけど、この縁は切っちゃいけないと思うんだ。辞めてからも会ってくれないか?」
その時だ、私は初めて彼女の表情の変化を見た。
それはほんの些細なもので、細い瞳が少し開いて、目の周りが赤らんだ程度なのだが、彼女は結局、何も教えずに店を去って行った。
…その1年後に、私と彼女は同棲し、今彼女は、毎日私の目の前にいる。
妻として。

「最後は尻切れトンボになっているが…気になるのはくすんだピンクのくだりかな。それに「いたぶり」と「可哀想」という言葉だ」
後藤はノートを閉じた。
「いや私は、むしろ書かれていない1年に何があったのか知りたいですね。まるで、知ってくれって言ってるみたいですからね…あ、そろそろ着きますよ」
平井がハンドルを切った。
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