浅い法華経 改

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脳幹脳梗塞③

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入院病室が準備されている間から延々4日間ほど、24時間ぶっ続けの点滴をされた。これは血をサラサラにする薬だったと思う。ほかに生理食塩水の3時間点滴が朝夕2回と、何か知らない薬の30分ほどの点滴があった。これらが一時にされることもあったから、私の左腕には常時2本の注射針が刺さっていた。腕の表裏に。裏(肘の外側の少し下)に針を刺される時は痛くて仕方なかった。味わったことのない感覚が、これは未知の病気なんだなと思わせた。
生理食塩水の袋には「生食」と大きく印字してあった。これがどうしても食パンを連想させて、病院食に物足りなさを感じていた私はこれを見るのが拷問だった。こんがり焼けたトーストにたっぷりバターを塗って、砂糖をかけて食べる幻覚に悩まされた。
昔と違って今の病院食は決して不味くはなく、栄養バランスはもちろん味覚のバランスもとれているのだが、私の場合なにせ少量で、なんでもいいからおやつが欲しくて仕方なかった。病院にはコンビニがあるのでそこへこっそり行ってチキンナゲットでも買いたかったが、飴ひとつ買うのも医師の許可が必要だったし、脱走防止で階上・階下への移動は看護師か介護士の同伴が必須だった。結局それらが億劫で、入院中はおとなしく我慢していた。
薬の副作用か入院中はほとんど寝ていた。とにかく眠くて仕方なかったのだ。それが幸いといえば幸いだった。
起きている間はひたすらテレビを観た。あとは窓から見える風景をスケッチした。絵が描けて良かったと思った。何かしていると気が紛れた。しかし長続きしない。何か変なのだ。生活リズムが急変したからだろうか?いや違う、これは平衡感覚がおかしくなってすぐに疲れるからだと分かった。手先にもすぐ力が入らなくなる。絵を描くペンが重い。
最初の3日ほどはふらつきがひどかった。車椅子を勧められたが断った。何かとても惨めに思えたのだ。トイレも意地を張って歩いて行った。念のための尿瓶(しびん)を置かれたが使わなかった。本当は使いたくて仕方なかったが、1回使ったら永遠に使いそうで嫌だった。一生歩かなくなると思った。
「今日もよく出ましたねー」
って言われるのも嫌だった。一気に老けたみたいでとにかく嫌だった。いや、逆に赤ん坊になったみたいだと言った方が正解か。
だから点滴の柱を杖代わりにして歩いた。人は2本足で歩くものなんだと初めて感じた。その分、車椅子の人の大変さが分かった。自分がもしこの先、車椅子生活になったら、こんな自分にその生活がちゃんと勤まるんだろうかと思った。その危険性はこの先十分ある。だが人はまたわがままだ。それでも退院したらタバコが思いっきり吸いたいと不謹慎なことを考えていた。そんな思考は進んで車椅子に乗り、速度を速めて病院の外へ出かけてしまった。もうどこかで思い切りタバコを吸っているだろう。あぁタバコ吸いたい。
そんな妄想をした時、所詮、人は十界の下6つ(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界)をうろうろする存在でしかないんだと痛感した。不健康になって、健康な頃に偉そうに語っていた仏の世界なんてないんだと思い、反面、いや、違う形であるんだ、それは「諦め」なんだと変に悟った。このことはまた改めて記そう。罹患の唯一の収穫は、このひねくれた仏教感だったから。
…病室の向かいのトイレへ行くまでに何度も左右によろけた。初めてこの病気の怖さを感じた。一生こんなのだろうか?まるで落武者じゃないかこれ。人生に負けた落武者?自分に負けた落武者?何本も点滴の矢が刺さった姿?ほら見たことかという親戚家族の顔?
そういえば外の空気を吸っていない。どうやら室内性窒息に陥ったようだ。入院鬱という奴か?短期間に思考が変になってる。さっきの変な仏教感は噓なんだろうか本当なんだろうか?本当なら大発見だ。新仏教の誕生だ。今度は入院躁か?(笑)
しかしまぁ、自分とはなんて鈍い人間なんだ。これだけのダメージを負っているというのにまだこの病気を他人事だと思っている。確かに頭では分かっている。少し壊死した頭だが。でも身体は分っていない。まだタバコを吸おうとしている。これはこれ、それはそれと呑気に線引きしている。
ふと、2回の脳梗塞でほとんど植物人間になってしまったかつての同僚の姿が浮かんだ。彼は1回目の時、私と同じように五体満足で社会復帰した。しかし生来の喫煙癖と飲酒癖から抜けられず、というか抜け出そうとせず、病気への挑戦のようにチェーンスモークをし、酒をあおり、女遊びをし、ギャンブルに溺れ、借金をし、年金の早期受給までして金を使い、復帰から2年目のある日に街頭で倒れ、通りがかりの人に発見された時には意識を残してみんな壊死してしまった。今彼はある病院の一室で、来る日も来る日もベッドの上に動かない身体を晒して、自分で普通に出来ていたことすべてをみんな他人の手で行なっている。その意識はきっと、今でもタバコと酒を求めているのだろう。その禁断症状に応えるのは、言うことを聞かなくなった身体の重さと形の自覚だけなのだ。お前もそうなるかも知れないぞと、病気を知った頭のどこかが叫ぶのだが、その声はこの脳梗塞と同じくらいの米粒の叫びでしかなかった。

そんな中、リハビリは入院2日目から始まった。
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