浅い法華経 改

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脳幹脳梗塞④

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介護士が行なうリハビリは3種類あった。それから看護師が行なうリハビリというか確認動作がひとつ。
看護師が行なうのは点滴や採血の時
「私の両手を思い切り握ってください」
というものだった。本当にいいのか?と思い強く握る。
「ここまでですか?」
と、か細い手の女性看護師が言った。
「え?思い切り握りましたけど?」
「もっと力、入りませんか?」
え?弱いの?これで?
正直ショックだった。やっぱり病気なんだと思った。
「宇宙は実はふたつある。ひとつは空に見える宇宙。もうひとつは自分の身体」
法華経の研究の中で出会った言葉だ。このショックの中、実は自分が知らない身体の中の宇宙というものを感じた。
簡単に言えば「自分ではどうにもならない自分の身体」だ。
そうだな、この脳梗塞も、自分がなりたくてなったものじゃないな。逆に治したくてももう治らない。身体が勝手になって、勝手に死んだんだもんな。
「少しずつ治しましょうね?」
やっぱりな。それしか言えない。

介護士のリハビリのひとつは知能テストのようなものだった。一定の法則に従って、文字や記号を組み合わせて行ったり、間違い探しをしたりする。
一例を挙げれば、見開いた本の左ページに○△◻︎✖️があったとする。右ページには○△◻︎✖️◇があったとする。それらを眺めてなるべく速く、余る図形を選び出す。この場合は◇だ。
ページを繰るごとに図形が増えて行く。これを数ページ分する。なるべく速く。
こんな感じのテストを入院中毎日された。これは結構楽しかった。瞬間認識度と反射神経のテストのようだったが、まったく問題はなかった。
2つ目は体幹を強くする運動。例えば四つん這いになって右手と左足を水平に上げて、普通に息をしながら30秒静止する。これを3セット。上げる手足を変えて3セット。他に両膝立ちで前後20歩ずつ歩いたり、腹筋運動の変形みたいなのをやったりした。これも毎日だ。この訓練も難なく出来た。
3つ目は歩行と起立の訓練だ。これが自分の場合一番必要で、また一番きつかった。そして怖かった。
訓練は病棟の廊下で行なった。
まずベッドから足を下ろす。そして立ち上がる。クラクラよろける。しかし何とか立つ。片足を前に出す。利き足の右が先だ。途端に右へツツツっと滑って行く。そう、歌舞伎で「かっかっかっか」と両手を広げて横に跳ねるあの動作ような姿だ。なんだこれ?情けない。
なんとか止まって左足を出す。普通に前に行く。やはり右側だ。右側がやられている。
また右足を出す。今度は意識して前進を指令する。上げた足先が震える。なんとか前に行く。左足を出す。前に進む。意識して右足を出す。なんとか前に進む。繰り返すうちに普通に歩いている。しかし前にというより上に跳ねてる感覚だ。一歩一歩が大げさに脳に伝わる。病室を出るのに2~3分もかかった。
病室を出て廊下のベンチに一度座りまた立つ。初めに戻っている。廊下を前に進むはずが廊下の真ん中から右側の壁に横向けに突進する。介護士が慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
情けない。
またベンチに座り立つ。ふらつく。また座り立つ。こんどはましだ。こんな繰り返しを何度かする。変な汗をかく。焦りと緊張の汗だろうか?意地になって前に歩く意識をする。次のベンチまでなんとか普通に歩けた。
「疲れましたか?」
介護士が労わる。
「大丈夫です」
痺れる右腕をさすりながら答える。
「一度座って、今度は片足で立ってみましょう」
片足?なんか怖いな。
廊下の手すりを持って立つ。
「目を閉じてください」
暗闇になる。
「まず両足を縦に並べて立ってください」
こう、か?
あ!
たちまちふらついた。
「立てますか?」
立ってやる!
「大丈夫ですか?」
大丈夫だ!
自分に腹が立ってしょうがない。
「右足を上げてください」
左足1本で立つ。少しふらつくが10秒くらい立てた。
「今度は左足を上げてください」
あっ!
1秒も立てない。手すりを以って仁王立ちになってしまった。仁王立ちのまま目を開けてうつむいた。やはり右が駄目だ。畜生!あの米粒め。
結局こんな怒りがエネルギーになったようで、そんな初日から2日ほどで、平衡感覚が狂ったなりにひとりでまっすぐ歩けるようになった。ふらつきの半分は、薬の副作用の倦怠感であったかも知れない。というのも、24時間点滴が済んでからは身体が軽くなり、意志のコントロールが効くようになったからだ。
入院から1週間で点滴がすべて外れた。薬は朝に飲む経口薬だけになった。
結局10日ほどの入院で、医師からは退院の打診があった。
「どうです?もう外へ出てもいいと思いますが」
外の空気、というよりタバコの煙に飢えていた私は一も二もなく「はい、お願いします」と言った。
入院中に、顔と両脚、左手の軽い痺れが一時的にあったが、これは脳ではなく、頚椎のヘルニアの可能性が高いとの話だった。今頃出て来やがったかヘルニアめ。
退院の日はよく晴れていた。家内が車で迎えに来た。普段の服を着て、退院手続きを済ませ、思い切り外の空気を吸った。天井のないことがこんなに頭を軽くするのかと思った。見上げた空が夜になったら、宇宙が見えるんだなと思った。この経験は私にとって何をこれから示唆するんだろうと思った。医師からの厳重注意が頭をよぎる。
「絶対、怪我をしないように」
怪我をしたら血が止まらなくなる恐れがあるのだ。これから一生、血をサラサラにする薬を飲むのだから。
それに酒もタバコも飲めなくなる。生活が180度変わってしまう。さてどう計画を立てようか?
まずは「一服」しようと思った。
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