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17.緩やかな覚悟
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クリスマスが近づく十二月初旬。
私は満琉といつものコースを過ごし、ラブホテルの一室にいた。
違うのは、部屋の中にピアノがあることだ。
ピアノが弾けるわけではなかったけれど、早いクリスマスデートだからと、いつもより少し料金が高い部屋を選ぼうとしたら、この部屋しか空いていなかったのだ。
「こんな大きなピアノ見たの、いつ以来だろ」
ポーン、と適当にラの音を押してみる。満琉も隣に立って、一オクターブ高いシの音を押した。
「小学生の時にピアノ教室をやめて以来だな。ピアノ触るの」
満琉が、懐かしそうに言う。
「満琉さん、ピアノ習ってたんだ」
「あぁ。宿題が嫌でやめたけどね」
「何か、弾いてみて。途中まででもいいから」
照れ笑いを浮かべながら、続けてポンポンと鍵盤を叩く満琉が楽しそうだったので、お願いしてみる。
「そうだな。もう途中から忘れてるかもしれないけど、一曲だけ。あ、期待しないでくれよ。小学生の時にやめたから、簡単な曲しか弾けないんだ」
そう言って、ピアノの椅子に座る満琉は、なんだか小さい男の子のような表情をしていた。ピアノにわくわくした目を向ける満琉は新鮮で、可愛く見える。
たおやかな音が、部屋に響き渡った。
叙情豊かな、緩急をつけた指使いから、心を込めて弾いているんだなと感じる。
初めて、満琉の心を真っ正面から見ているような気分になった。
手の届かない何かを求めるように弾く満琉の頭の中には、きっと私はいない。
何を思い出しているのか、頭の中にどんな情景が広がっているのか、見られたらいいのにと思う。
満琉は弾き終わると、名残惜しそうにしながら、こちらを見た。
「なんとか、覚えてるものだな」
「すごいね。引き込まれたよ。この曲って、確かあれだよね」
「里美のために」
すかさず、満琉が私の頬に触れながら言った。
「エリーゼでしょ」
お返しにと、満琉の頬も人差し指でつんつんとつつく。もっと少年のような満琉が見たくて、私も隣に座った。
「ね、どんな男の子だったの? なんで始めて、なんでやめたの?」
「そうだなあ」
満琉について聞いて、こんなに楽しそうな顔をするのは初めてだ。
「幼稚園の先生が弾くピアノが、好きだったんだ。憧れっていうのかな。先生の笑顔も、軽やかに動く指もキラキラ輝いて見えてさ。それで両親に頼んで始めて、最初はとても楽しかったよ。簡単だし、自分がどんどん上手くなるのが分かるしね。それに、個人宅でやってる教室だったから、たまにお菓子なんかももらってさ。でも、だんだんと友達と遊ぶほうが楽しくなって、宿題も面倒くさくなって。ピアノ教室の日までに二曲弾けるようにしておかなきゃいけなくてさ。ただ、やめた一番の理由は、少しずつピアノの先生が怖くなったことかな。俺の前の時間帯に小さい子が習っていたんだ。やんちゃでさ、先生もストレスがたまっていたんだと思う。笑顔がなくなって、褒め言葉もなくなって、間違えると舌打ちされるようになって、それでやめたよ。最後に先生から聞かれたんだ、何でやめるのって。友達と遊ぶ時間が減るからって答えたんだけどさ。その後に言われたんだよ。本当に? って。先生も自覚してたんだろうな。やめたくなるような時間を提供している自分をさ。それでも知ってる曲を弾くのはやっぱり楽しくてね。考えなくても指が動く爽快感が好きで、やめた後も弾ける曲を何度も弾いていたんだ。家を出るまで、ずっとね」
ポン、ポンと遊ぶように片手でピアノを鳴らして、私を見て笑った。
内緒の話をするような悪戯っぽい顔だ。
こんなに一気に話す彼を見るのは初めてで、心のガードが緩んでいる気がする。
実家暮らしではないとはっきり聞くのも、初めてだ。喋っているうちに、つい言ってしまったのだろう。
「そっか。ちょっと最後は残念だけど、こんなに素敵な曲が弾けるようになって、よかったね」
「そうだな。習ってよかったと思うよ」
「うん。そのお陰で、ちょっと可愛い満琉さんが見れて私も嬉しい」
「可愛いって言うなよ。可愛いのは、俺じゃない」
うなじに手を回され、引き寄せられた。満琉の耳元で、熱い吐息を漏らしながら、幼い満琉を想像する。
きっと、彼にも無邪気な顔で走り回る時期があったのだろう。
初めてドキドキしながらお酒を飲んだり、女の子の前で素直になれずに失敗したことだって、あったのかもしれない。
働いているからってだけで自分よりもずっと大人に見えて、憧れて、尻込みして、どうしても踏み込めずにいたけれど、今日はもう少しだけ食い下がってみよう。
それでも駄目だったら、別れよう。
「ベッドに、行こ」
荒い息のまま、満琉を誘う。
これが最後になるかもしれないと、満琉は微塵も思ってはいないだろう。
勝手にそんなことを決めながら甘えた顔を見せる私は、卑怯者なのだろうか。
手を絡ませて、ベッドへと向かう。
今だけは、何も考えずに身を任せたい。
私は満琉といつものコースを過ごし、ラブホテルの一室にいた。
違うのは、部屋の中にピアノがあることだ。
ピアノが弾けるわけではなかったけれど、早いクリスマスデートだからと、いつもより少し料金が高い部屋を選ぼうとしたら、この部屋しか空いていなかったのだ。
「こんな大きなピアノ見たの、いつ以来だろ」
ポーン、と適当にラの音を押してみる。満琉も隣に立って、一オクターブ高いシの音を押した。
「小学生の時にピアノ教室をやめて以来だな。ピアノ触るの」
満琉が、懐かしそうに言う。
「満琉さん、ピアノ習ってたんだ」
「あぁ。宿題が嫌でやめたけどね」
「何か、弾いてみて。途中まででもいいから」
照れ笑いを浮かべながら、続けてポンポンと鍵盤を叩く満琉が楽しそうだったので、お願いしてみる。
「そうだな。もう途中から忘れてるかもしれないけど、一曲だけ。あ、期待しないでくれよ。小学生の時にやめたから、簡単な曲しか弾けないんだ」
そう言って、ピアノの椅子に座る満琉は、なんだか小さい男の子のような表情をしていた。ピアノにわくわくした目を向ける満琉は新鮮で、可愛く見える。
たおやかな音が、部屋に響き渡った。
叙情豊かな、緩急をつけた指使いから、心を込めて弾いているんだなと感じる。
初めて、満琉の心を真っ正面から見ているような気分になった。
手の届かない何かを求めるように弾く満琉の頭の中には、きっと私はいない。
何を思い出しているのか、頭の中にどんな情景が広がっているのか、見られたらいいのにと思う。
満琉は弾き終わると、名残惜しそうにしながら、こちらを見た。
「なんとか、覚えてるものだな」
「すごいね。引き込まれたよ。この曲って、確かあれだよね」
「里美のために」
すかさず、満琉が私の頬に触れながら言った。
「エリーゼでしょ」
お返しにと、満琉の頬も人差し指でつんつんとつつく。もっと少年のような満琉が見たくて、私も隣に座った。
「ね、どんな男の子だったの? なんで始めて、なんでやめたの?」
「そうだなあ」
満琉について聞いて、こんなに楽しそうな顔をするのは初めてだ。
「幼稚園の先生が弾くピアノが、好きだったんだ。憧れっていうのかな。先生の笑顔も、軽やかに動く指もキラキラ輝いて見えてさ。それで両親に頼んで始めて、最初はとても楽しかったよ。簡単だし、自分がどんどん上手くなるのが分かるしね。それに、個人宅でやってる教室だったから、たまにお菓子なんかももらってさ。でも、だんだんと友達と遊ぶほうが楽しくなって、宿題も面倒くさくなって。ピアノ教室の日までに二曲弾けるようにしておかなきゃいけなくてさ。ただ、やめた一番の理由は、少しずつピアノの先生が怖くなったことかな。俺の前の時間帯に小さい子が習っていたんだ。やんちゃでさ、先生もストレスがたまっていたんだと思う。笑顔がなくなって、褒め言葉もなくなって、間違えると舌打ちされるようになって、それでやめたよ。最後に先生から聞かれたんだ、何でやめるのって。友達と遊ぶ時間が減るからって答えたんだけどさ。その後に言われたんだよ。本当に? って。先生も自覚してたんだろうな。やめたくなるような時間を提供している自分をさ。それでも知ってる曲を弾くのはやっぱり楽しくてね。考えなくても指が動く爽快感が好きで、やめた後も弾ける曲を何度も弾いていたんだ。家を出るまで、ずっとね」
ポン、ポンと遊ぶように片手でピアノを鳴らして、私を見て笑った。
内緒の話をするような悪戯っぽい顔だ。
こんなに一気に話す彼を見るのは初めてで、心のガードが緩んでいる気がする。
実家暮らしではないとはっきり聞くのも、初めてだ。喋っているうちに、つい言ってしまったのだろう。
「そっか。ちょっと最後は残念だけど、こんなに素敵な曲が弾けるようになって、よかったね」
「そうだな。習ってよかったと思うよ」
「うん。そのお陰で、ちょっと可愛い満琉さんが見れて私も嬉しい」
「可愛いって言うなよ。可愛いのは、俺じゃない」
うなじに手を回され、引き寄せられた。満琉の耳元で、熱い吐息を漏らしながら、幼い満琉を想像する。
きっと、彼にも無邪気な顔で走り回る時期があったのだろう。
初めてドキドキしながらお酒を飲んだり、女の子の前で素直になれずに失敗したことだって、あったのかもしれない。
働いているからってだけで自分よりもずっと大人に見えて、憧れて、尻込みして、どうしても踏み込めずにいたけれど、今日はもう少しだけ食い下がってみよう。
それでも駄目だったら、別れよう。
「ベッドに、行こ」
荒い息のまま、満琉を誘う。
これが最後になるかもしれないと、満琉は微塵も思ってはいないだろう。
勝手にそんなことを決めながら甘えた顔を見せる私は、卑怯者なのだろうか。
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今だけは、何も考えずに身を任せたい。
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