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4. 孤独
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崩壊は、あっという間だった。啓子は、現実の厳しさから逃れるように、実家へ帰ることを決めた。
「もう限界よ、修一さん。こんな生活、耐えられない」
彼女がそう告げたのは、前回のお金に関する会話から一週間後の、肌寒い朝だった。啓子は、自分の荷物を詰めたスーツケースを玄関に置き、山下と向き合った。彼女の瞳には、愛も憎しみもなく、ただただ疲弊と諦めが宿っていた。
「待ってくれ、啓子。私が必ず、この状況を立て直す。小さな家でも、二人でやり直せる」山下は必死にすがった。しかし、彼の言葉は、もはや彼女の心に届かなかった。
「もうあなたの言葉を信じられないわ。あなたは、成功者である限りは優しい夫だったけど、そうじゃなくなった途端に、ただの無力な男になった。あなたと一緒には、もう闘えない」
啓子は、山下と、彼の能力への依存を、同時に捨て去ることを選んだのだ。
「しばらく実家で、頭を冷やすわ。美咲のことは、あなたがちゃんと見てあげて」
それが、山下と啓子の最後の会話となった。彼女はスーツケースを引き、躊躇することなく、玄関のドアを閉めた。山下は、鍵がカチャリと回る音を、自分の人生の扉が閉まる音のように感じた。
高層マンションの広い部屋には、山下と娘の美咲だけが残された。
昼間、美咲は大学に行き、夜はアルバイトに出て、ほとんど家にいなかった。美咲が帰宅するのはいつも深夜で、山下は彼女の足音を聞くことなく、眠りにつくことが多かった。
ある週末の昼下がり。山下は意を決して、自室にこもっている美咲の部屋をノックした。
「美咲。少し、話せないか」
しばらくの沈黙の後、「何?」という、迷惑そうな声が返ってきた。
山下はドアを開けた。美咲はヘッドホンを外し、スマホから目を離さずに、座ったまま山下を待っていた。部屋には、父の転落とは無関係な、彼女自身の「世界」が構築されていた。
「母さんのことなんだが…」
「別にいいじゃん。お母さん、疲れてたんだよ。しばらく帰らないって、私には連絡あったし」美咲は淡々と答えた。
「そうか。だが、お父さんと美咲、二人で、これからどうするか……」
美咲はそこでようやく山下を見た。その目は、感情の動きを一切読み取れない、透明なガラス玉のようだった。
「どうするか、って。私は今まで通りだよ。大学行って、バイトして。お父さんは、お父さんの問題でしょ?」
その言葉は、まるで冷水を浴びせられたようだった。美咲は、山下の問題を「自分の問題」とは考えていなかった。彼女にとって、父の転落は、彼女自身の生活の邪魔でしかなかったのだ。
「私、今、レポートの締切が近いから。ごめんね」
美咲は再びヘッドホンを耳に当て、山下は会話を打ち切るしかなかった。
広いリビングに戻った山下は、重い沈黙に包まれた。成功によって築き上げた家族という名の共同体は、もはや存在しない。そこにあるのは、同じ屋根の下に住む、二つの断絶した個人だけだった。山下は、孤独という重く冷たい塊が、自分の中で脈動しているのを感じた。
「もう限界よ、修一さん。こんな生活、耐えられない」
彼女がそう告げたのは、前回のお金に関する会話から一週間後の、肌寒い朝だった。啓子は、自分の荷物を詰めたスーツケースを玄関に置き、山下と向き合った。彼女の瞳には、愛も憎しみもなく、ただただ疲弊と諦めが宿っていた。
「待ってくれ、啓子。私が必ず、この状況を立て直す。小さな家でも、二人でやり直せる」山下は必死にすがった。しかし、彼の言葉は、もはや彼女の心に届かなかった。
「もうあなたの言葉を信じられないわ。あなたは、成功者である限りは優しい夫だったけど、そうじゃなくなった途端に、ただの無力な男になった。あなたと一緒には、もう闘えない」
啓子は、山下と、彼の能力への依存を、同時に捨て去ることを選んだのだ。
「しばらく実家で、頭を冷やすわ。美咲のことは、あなたがちゃんと見てあげて」
それが、山下と啓子の最後の会話となった。彼女はスーツケースを引き、躊躇することなく、玄関のドアを閉めた。山下は、鍵がカチャリと回る音を、自分の人生の扉が閉まる音のように感じた。
高層マンションの広い部屋には、山下と娘の美咲だけが残された。
昼間、美咲は大学に行き、夜はアルバイトに出て、ほとんど家にいなかった。美咲が帰宅するのはいつも深夜で、山下は彼女の足音を聞くことなく、眠りにつくことが多かった。
ある週末の昼下がり。山下は意を決して、自室にこもっている美咲の部屋をノックした。
「美咲。少し、話せないか」
しばらくの沈黙の後、「何?」という、迷惑そうな声が返ってきた。
山下はドアを開けた。美咲はヘッドホンを外し、スマホから目を離さずに、座ったまま山下を待っていた。部屋には、父の転落とは無関係な、彼女自身の「世界」が構築されていた。
「母さんのことなんだが…」
「別にいいじゃん。お母さん、疲れてたんだよ。しばらく帰らないって、私には連絡あったし」美咲は淡々と答えた。
「そうか。だが、お父さんと美咲、二人で、これからどうするか……」
美咲はそこでようやく山下を見た。その目は、感情の動きを一切読み取れない、透明なガラス玉のようだった。
「どうするか、って。私は今まで通りだよ。大学行って、バイトして。お父さんは、お父さんの問題でしょ?」
その言葉は、まるで冷水を浴びせられたようだった。美咲は、山下の問題を「自分の問題」とは考えていなかった。彼女にとって、父の転落は、彼女自身の生活の邪魔でしかなかったのだ。
「私、今、レポートの締切が近いから。ごめんね」
美咲は再びヘッドホンを耳に当て、山下は会話を打ち切るしかなかった。
広いリビングに戻った山下は、重い沈黙に包まれた。成功によって築き上げた家族という名の共同体は、もはや存在しない。そこにあるのは、同じ屋根の下に住む、二つの断絶した個人だけだった。山下は、孤独という重く冷たい塊が、自分の中で脈動しているのを感じた。
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