12 / 31
12. 安全な居場所
しおりを挟む
深夜二時を回り、山下の乗務は夜の核心に入っていた。
この時間帯の乗客の多くは、昼間の仮面を剥ぎ取り、本能に忠実になっていた。特に酔客の対応は、研修で学んだマニュアルでは到底さばききれない、生々しい人間の感情との闘いだった。
ある中年の男性客は、タクシーに乗り込むなり、大声で会社の不満と上司への罵倒を始めた。
「聞いてくれよ、運転手さん! 俺がどれだけ尽くしたと思ってる! あのバカ上司のせいで、俺の評価はいつも最低だ!」
その男は、山下がかつていた世界と同じ、サラリーマン社会の泥沼で足掻いているのだろう。しかし、山下は一切の感情を挟まなかった。
「そうでございますか」
「ええ、大変でございますね」
山下の返答は、極めて形式的で、抑揚がない。それは、相手の言葉を否定も肯定もせず、ただ車内のノイズとして処理するための、訓練された応対だった。
男は、山下の冷淡さに気づかない。あるいは、気づいていても構わないのだろう。彼は、ただ自分の鬱憤を吐き出すための壁を必要としていた。山下は、自分こそがその完璧な壁だと感じた。
以前の山下なら、このような客には「営業部長」としての威厳を見せ、冷たく黙らせただろう。しかし今は違う。彼は、後部座席の人間に対して、無関心という名の防護壁を完成させていた。
「俺はただの移動装置だ」
山下は心の中で呪文のように繰り返した。車を運転する肉体と、感情を持つ精神を、完全に分離させる作業だ。肉体だけが労働し、精神は車の外側に漂う観測者となる。
この無関心は、彼が過去の失敗や、妻と娘の冷たい視線から自分を守るために築いた、最も堅固な砦だった。乗客の人生のドラマに感情移入すれば、自分の人生の悲惨な現実がフラッシュバックする。それを恐れていた。
男が目的地に到着し、乱暴に料金を支払い、降りていった後、山下は車内を換気した。残ったのは、酒の匂いと、男のネガティブな感情の残りかすだけだ。
深夜三時。街はさらに静寂に包まれた。
次の乗客を待つ間、山下はバックミラーを調整した。ミラーに映るのは、疲れた自分自身の顔と、その後ろに広がる夜の闇だけ。
山下は、この仕事が持つ本質を理解し始めていた。タクシーの運転手は、都市の中で最も身近でありながら、最も匿名性の高い存在だ。一昔前のタクシーのように、運転手の氏名も車内に掲示されていない。乗客は、彼らが誰であろうと気にしない。運転手もまた、乗客が何者であろうと気にしない。
この無関心こそが、山下にとっての救済だった。かつて、彼は「山下部長」として周りの期待に応えなければならなかったが、今は「運転手」として、ただルールと目的地だけに従えばよい。
彼は、自分の過去の重さから、ついに解放されたように感じた。そして、この孤独な夜の道が、今の彼にとって唯一、安全な居場所になったのだ。山下は、再び車を発進させ、次のノイズを拾いに、夜の街へと溶け込んでいった。
この時間帯の乗客の多くは、昼間の仮面を剥ぎ取り、本能に忠実になっていた。特に酔客の対応は、研修で学んだマニュアルでは到底さばききれない、生々しい人間の感情との闘いだった。
ある中年の男性客は、タクシーに乗り込むなり、大声で会社の不満と上司への罵倒を始めた。
「聞いてくれよ、運転手さん! 俺がどれだけ尽くしたと思ってる! あのバカ上司のせいで、俺の評価はいつも最低だ!」
その男は、山下がかつていた世界と同じ、サラリーマン社会の泥沼で足掻いているのだろう。しかし、山下は一切の感情を挟まなかった。
「そうでございますか」
「ええ、大変でございますね」
山下の返答は、極めて形式的で、抑揚がない。それは、相手の言葉を否定も肯定もせず、ただ車内のノイズとして処理するための、訓練された応対だった。
男は、山下の冷淡さに気づかない。あるいは、気づいていても構わないのだろう。彼は、ただ自分の鬱憤を吐き出すための壁を必要としていた。山下は、自分こそがその完璧な壁だと感じた。
以前の山下なら、このような客には「営業部長」としての威厳を見せ、冷たく黙らせただろう。しかし今は違う。彼は、後部座席の人間に対して、無関心という名の防護壁を完成させていた。
「俺はただの移動装置だ」
山下は心の中で呪文のように繰り返した。車を運転する肉体と、感情を持つ精神を、完全に分離させる作業だ。肉体だけが労働し、精神は車の外側に漂う観測者となる。
この無関心は、彼が過去の失敗や、妻と娘の冷たい視線から自分を守るために築いた、最も堅固な砦だった。乗客の人生のドラマに感情移入すれば、自分の人生の悲惨な現実がフラッシュバックする。それを恐れていた。
男が目的地に到着し、乱暴に料金を支払い、降りていった後、山下は車内を換気した。残ったのは、酒の匂いと、男のネガティブな感情の残りかすだけだ。
深夜三時。街はさらに静寂に包まれた。
次の乗客を待つ間、山下はバックミラーを調整した。ミラーに映るのは、疲れた自分自身の顔と、その後ろに広がる夜の闇だけ。
山下は、この仕事が持つ本質を理解し始めていた。タクシーの運転手は、都市の中で最も身近でありながら、最も匿名性の高い存在だ。一昔前のタクシーのように、運転手の氏名も車内に掲示されていない。乗客は、彼らが誰であろうと気にしない。運転手もまた、乗客が何者であろうと気にしない。
この無関心こそが、山下にとっての救済だった。かつて、彼は「山下部長」として周りの期待に応えなければならなかったが、今は「運転手」として、ただルールと目的地だけに従えばよい。
彼は、自分の過去の重さから、ついに解放されたように感じた。そして、この孤独な夜の道が、今の彼にとって唯一、安全な居場所になったのだ。山下は、再び車を発進させ、次のノイズを拾いに、夜の街へと溶け込んでいった。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる