16 / 31
16. 虚無感
しおりを挟む
深夜零時過ぎ、山下は新宿駅近くの裏通りで、一組の男女を乗せた。
男は四十代半ば、山下よりやや若い年代で、高級そうなコートを着ていた。女は三十代前半、華やかだがどこか影のある美しさを持っていた。二人は乗り込むなり、警戒することもなく、親密な空気に包まれた。
行き先は、都心から少し離れた、静かな場所にあるラブホテルだった。
山下はすぐに察した。彼らは、互いに家庭を持つ不倫カップルなのだろう。
車内では、二人の甘く、囁くような会話が繰り広げられた。
「会いたかったよ。今週は長かった」男が、女の髪に顔を埋めるようにして言う。
「私もよ。家のこととか、全部忘れて、あなたといるこの時間だけが、本当の私になれるの」女は、夢見るような声で答えた。
彼らの言葉は、まるで青春ドラマのようだったが、山下には、その裏側に流れる「空虚さ」が痛いほど感じられた。
彼らは、自分の人生の「真実」から逃げ出すために、このタクシーという密室と、これから向かうホテルという非日常的な空間を必要としている。彼らの愛は、現実逃避の上に築かれた、期限付きの幻想なのだ。
男は、妻への不満を、女への愛の言葉と絡めて語った。「あいつはもう、俺の仕事の成功しか見ていない。君だけが、俺の『本当の心』を見てくれる」
山下は、ハンドルを握りながら、思わず自身の過去を振り返った。かつて、妻の啓子も彼の成功を誇っていた。そして、彼の失敗と共に去っていった。あの時、啓子は、自分の「本当の心」を見てくれていたのだろうか。あるいは、自分のほうこそ、彼女を「成功を共有する道具」として扱っていたなかっただろうか。
過去の記憶と、後部座席の会話が重なり合う。
「ねぇ、今日は朝までいられる?」女が甘えるような声で尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。妻には緊急の出張だと話してある」
男のその平然とした嘘に、山下は冷たい感覚を覚えた。彼もまた、営業部長時代、妻に多くの嘘をついていた。それは仕事のための嘘だったが、家族への誠実さを蔑ろにしている自分から目を背けるための、自己保身の嘘でもあった。
タクシーは目的地であるホテルの前で停まった。二人は、名残惜しそうに唇を重ね、男が山下に料金を支払った。
「お釣りはいいよ」
男はそう言い放ち、女と腕を組んで、ホテルの自動ドアの中に消えていった。
山下は、メーターの数字が示す料金と、男が弾んだチップを眺めた。このチップは、彼らが一時的な幻想を買うために支払った代償だ。
そして、山下自身もまた、この仕事で「誰とも関わらない孤独」という幻想を買っている。彼の孤独は、彼らの愛と同じくらい、空虚なものかもしれない。
山下は、静かに車内を換気した。残されたのは、甘い香水の匂いと、二人の情熱の残滓。しかし、山下の心には、どこまでも冷たい虚無感が残った。夜の街は、本物の愛も、偽りの愛も、等しく飲み込んでいく。
彼は再び車を発進させ、次の「ドラマ」の断片を拾うために、闇の中へと進んでいった。
男は四十代半ば、山下よりやや若い年代で、高級そうなコートを着ていた。女は三十代前半、華やかだがどこか影のある美しさを持っていた。二人は乗り込むなり、警戒することもなく、親密な空気に包まれた。
行き先は、都心から少し離れた、静かな場所にあるラブホテルだった。
山下はすぐに察した。彼らは、互いに家庭を持つ不倫カップルなのだろう。
車内では、二人の甘く、囁くような会話が繰り広げられた。
「会いたかったよ。今週は長かった」男が、女の髪に顔を埋めるようにして言う。
「私もよ。家のこととか、全部忘れて、あなたといるこの時間だけが、本当の私になれるの」女は、夢見るような声で答えた。
彼らの言葉は、まるで青春ドラマのようだったが、山下には、その裏側に流れる「空虚さ」が痛いほど感じられた。
彼らは、自分の人生の「真実」から逃げ出すために、このタクシーという密室と、これから向かうホテルという非日常的な空間を必要としている。彼らの愛は、現実逃避の上に築かれた、期限付きの幻想なのだ。
男は、妻への不満を、女への愛の言葉と絡めて語った。「あいつはもう、俺の仕事の成功しか見ていない。君だけが、俺の『本当の心』を見てくれる」
山下は、ハンドルを握りながら、思わず自身の過去を振り返った。かつて、妻の啓子も彼の成功を誇っていた。そして、彼の失敗と共に去っていった。あの時、啓子は、自分の「本当の心」を見てくれていたのだろうか。あるいは、自分のほうこそ、彼女を「成功を共有する道具」として扱っていたなかっただろうか。
過去の記憶と、後部座席の会話が重なり合う。
「ねぇ、今日は朝までいられる?」女が甘えるような声で尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。妻には緊急の出張だと話してある」
男のその平然とした嘘に、山下は冷たい感覚を覚えた。彼もまた、営業部長時代、妻に多くの嘘をついていた。それは仕事のための嘘だったが、家族への誠実さを蔑ろにしている自分から目を背けるための、自己保身の嘘でもあった。
タクシーは目的地であるホテルの前で停まった。二人は、名残惜しそうに唇を重ね、男が山下に料金を支払った。
「お釣りはいいよ」
男はそう言い放ち、女と腕を組んで、ホテルの自動ドアの中に消えていった。
山下は、メーターの数字が示す料金と、男が弾んだチップを眺めた。このチップは、彼らが一時的な幻想を買うために支払った代償だ。
そして、山下自身もまた、この仕事で「誰とも関わらない孤独」という幻想を買っている。彼の孤独は、彼らの愛と同じくらい、空虚なものかもしれない。
山下は、静かに車内を換気した。残されたのは、甘い香水の匂いと、二人の情熱の残滓。しかし、山下の心には、どこまでも冷たい虚無感が残った。夜の街は、本物の愛も、偽りの愛も、等しく飲み込んでいく。
彼は再び車を発進させ、次の「ドラマ」の断片を拾うために、闇の中へと進んでいった。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる