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17. 無関心
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その夜は、冷たい雨が降っていた。深夜一時。雨粒がタクシーの窓を叩きつけ、都市のネオンサインを水面に滲ませている。
山下は、静かな雨音の中で次の乗客を待っていた。雨の夜は、乗客の感情も路面と同じように濡れて、滑りやすくなる。
恵比寿の駅前ロータリーで、一人の若い女性を乗せた。二十代前半だろうか、トレンチコートのフードを深く被り、顔をほとんど隠していた。
「どちらまで?」山下は静かに尋ねた。
女性は、しばらく返事をしなかった。そして、フードを少しだけ上げ、震える声で住所を告げた。彼女の声は、涙で湿っていた。
山下が車を発進させると、後部座席から、静かな、しかし抑えきれない嗚咽が聞こえた。彼女は、口元を手で覆い、肩を震わせて泣いている。
山下は、この手の感情的な乗客に対しては、徹底的な無関心を貫くことを決めていた。彼が感情を動かせば、過去の失敗や娘のことが頭をよぎる。
彼は、バックミラーを見るのをやめ、目の前の濡れた道路に集中した。雨音とワイパーの規則的な動きが、女性の泣き声を、ノイズの一部に変えていく。
しかし、目的地まで残り数分のところで、女性は突然、堰を切ったように話し始めた。
「私……今、振られたんです。付き合って五年になる彼に」
声は震えているが、その言葉には、誰かに聞いてほしいという切実な響きがあった。
「五年間、彼の夢を応援して、自分の仕事も頑張って。結婚すると思っていたのに。『お前とは、もう未来が見えない』って……」
山下は、ただ無言で運転を続けた。彼の心の壁は、厚くそびえ立っている。彼は、ただの移動装置だ。この女性の悲しみに、自分は関わるべきではない。
だが、彼女の「未来が見えない」という言葉が、山下の心臓をチクリと刺した。山下自身も、数ヶ月前、妻に「未来が見えない」と見捨てられ、娘からは未来を共有することを拒絶された。
その時、山下は、自分の娘、美咲のことを思い出した。美咲もまた、いつか誰かに裏切られ、このように深い悲しみに暮れる日が来るのだろうか。
女性は、ハンカチで涙を拭いながら、続けた。
「あの人は、私の過去の成功しか見ていなかったの。私が、彼の望む『理想の彼女』じゃなくなった途端、簡単に捨てるなんて」
その言葉は、まるで過去の山下と妻の啓子の関係を映しているようだった。啓子が山下の「成功」を愛し、山下が失敗した途端に去っていったように。
山下は、ここで初めて、個人的な言葉を口にしたい衝動に駆られた。何か、この女性を慰める言葉を。
しかし、彼は結局、何も言えなかった。彼の喉は渇き、言葉を失っていた。彼は、彼女の悲しみに触れることによって、自分の悲しみが再燃するのを恐れたのだ。
車は目的地のアパート前に到着した。女性は、まだ顔を腫らしながら、料金を支払い、小さく「ありがとう……ございます」と言って、雨の中に消えていった。
山下は、残された後部座席を見た。濡れたコートの痕跡と、微かな香水の匂い。そして、女性の、生の感情の痕跡。
山下は、自分の無関心が、この夜の乗客の悲しみを軽くできたのか、それとも、ただ突き放しただけなのか、分からなかった。彼は、運転席で静かにエンジンをアイドリングさせながら、雨音と自分の心臓の音だけを聞いていた。
山下は、静かな雨音の中で次の乗客を待っていた。雨の夜は、乗客の感情も路面と同じように濡れて、滑りやすくなる。
恵比寿の駅前ロータリーで、一人の若い女性を乗せた。二十代前半だろうか、トレンチコートのフードを深く被り、顔をほとんど隠していた。
「どちらまで?」山下は静かに尋ねた。
女性は、しばらく返事をしなかった。そして、フードを少しだけ上げ、震える声で住所を告げた。彼女の声は、涙で湿っていた。
山下が車を発進させると、後部座席から、静かな、しかし抑えきれない嗚咽が聞こえた。彼女は、口元を手で覆い、肩を震わせて泣いている。
山下は、この手の感情的な乗客に対しては、徹底的な無関心を貫くことを決めていた。彼が感情を動かせば、過去の失敗や娘のことが頭をよぎる。
彼は、バックミラーを見るのをやめ、目の前の濡れた道路に集中した。雨音とワイパーの規則的な動きが、女性の泣き声を、ノイズの一部に変えていく。
しかし、目的地まで残り数分のところで、女性は突然、堰を切ったように話し始めた。
「私……今、振られたんです。付き合って五年になる彼に」
声は震えているが、その言葉には、誰かに聞いてほしいという切実な響きがあった。
「五年間、彼の夢を応援して、自分の仕事も頑張って。結婚すると思っていたのに。『お前とは、もう未来が見えない』って……」
山下は、ただ無言で運転を続けた。彼の心の壁は、厚くそびえ立っている。彼は、ただの移動装置だ。この女性の悲しみに、自分は関わるべきではない。
だが、彼女の「未来が見えない」という言葉が、山下の心臓をチクリと刺した。山下自身も、数ヶ月前、妻に「未来が見えない」と見捨てられ、娘からは未来を共有することを拒絶された。
その時、山下は、自分の娘、美咲のことを思い出した。美咲もまた、いつか誰かに裏切られ、このように深い悲しみに暮れる日が来るのだろうか。
女性は、ハンカチで涙を拭いながら、続けた。
「あの人は、私の過去の成功しか見ていなかったの。私が、彼の望む『理想の彼女』じゃなくなった途端、簡単に捨てるなんて」
その言葉は、まるで過去の山下と妻の啓子の関係を映しているようだった。啓子が山下の「成功」を愛し、山下が失敗した途端に去っていったように。
山下は、ここで初めて、個人的な言葉を口にしたい衝動に駆られた。何か、この女性を慰める言葉を。
しかし、彼は結局、何も言えなかった。彼の喉は渇き、言葉を失っていた。彼は、彼女の悲しみに触れることによって、自分の悲しみが再燃するのを恐れたのだ。
車は目的地のアパート前に到着した。女性は、まだ顔を腫らしながら、料金を支払い、小さく「ありがとう……ございます」と言って、雨の中に消えていった。
山下は、残された後部座席を見た。濡れたコートの痕跡と、微かな香水の匂い。そして、女性の、生の感情の痕跡。
山下は、自分の無関心が、この夜の乗客の悲しみを軽くできたのか、それとも、ただ突き放しただけなのか、分からなかった。彼は、運転席で静かにエンジンをアイドリングさせながら、雨音と自分の心臓の音だけを聞いていた。
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