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26. 再認識
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前夜のニュースで、過去の怒りが再燃した山下は、この日、心の壁をさらに高く厚くしていた。外部からの感情的な干渉を、徹底的に遮断する必要があった。
深夜一時。山下が乗せたのは、三十代後半の、疲れた顔をした男性客だった。男は、乗り込むなり、スマートフォンで誰かにメッセージを打ち込みながら、溜息をついた。
「運転手さん、中央区の社宅まで。急ぎません、ゆっくり行ってください」
山下は静かに車を発進させた。しばらくの沈黙の後、男はメッセージを終え、バックミラー越しの山下に、独り言のように話し始めた。
「聞いてくださいよ、もう最悪ですよ。うちの上司、本当に何もわかってない。自分の責任を全部こっちに押し付けて、自分は定時で帰るんです」
山下は、反射的に「そうでしたか。大変でございますね」という、訓練された形式的な返事をした。彼の心は、昨夜のニュースの怒りに囚われており、この男の愚痴に付き合う余裕はなかった。
しかし、男は止まらない。今度は矛先が家庭に向かった。
「家に帰っても地獄ですよ。妻はパートで疲れてる、って言うだけで、俺がどれだけ会社で苦労してるか、全く理解しない。子供はゲームばっかり。俺は一体、何のために働いてるんですかね」
男の言葉は、山下の過去を正確にトレースしていた。自分もかつては、仕事の不満を家庭に持ち帰り、妻の理解も得られずに苛立っていた。
男は続けた。「まあ、運転手さんには分からないでしょうね。気楽なもんですか、夜は」
その言葉に、山下の怒りが静かに燃え上がった。気楽? 他人の嘔吐物を処理し、深夜の孤独の中、過去の亡霊から逃げ回る生活のどこが気楽だというのか。
しかし、彼はプロのドライバーだ。感情を表に出すわけにはいかない。山下は、低く、押し殺した声で答えた。
「お客様。どなたにも、それぞれの仕事の難しさがございます」
男は、山下の冷静な返答に、さらに苛立ちを募らせたようだ。
「なんだ、その他人事みたいな言い方は! あんたは、俺の話をちゃんと聞いてるのか? 結局、あんたも、金さえもらえればそれでいい、っていう冷たい人間なんだろう!」
男は、仕事や家庭で発散できない不満を、匿名で安全な相手、つまり山下にぶつけているのだ。山下は、この見下されたような態度に、激しい屈辱を感じたが、動じなかった。彼は、この男の感情のゴミ箱になることを、この夜の仕事の一部だと割り切っていた。
「申し訳ございません。お客様のご心境、お察しいたします」山下は、感情のない、最も穏便な言葉を選んだ。
目的地に到着すると、男は料金を無愛想に支払い、扉を乱暴に閉めて去っていった。
山下は、車を発進させる前に、深呼吸をした。男の吐き出したネガティブな感情が、まだ車内に残っているようだ。
彼は、改めて認識した。夜のタクシーは、都市に生きる人々の、隠された不満や苛立ちの終着点だ。そして、彼はそのすべてを受け止める、感情を持たない器でなければならない。
昨夜のニュースで揺らいだ感情は、この男の身勝手な愚痴によって、再び強固な壁となって戻ってきた。山下は、孤独ではあるが、誰にも感情を揺さぶられないこの役割を、今は手放すわけにはいかないのだ。
深夜一時。山下が乗せたのは、三十代後半の、疲れた顔をした男性客だった。男は、乗り込むなり、スマートフォンで誰かにメッセージを打ち込みながら、溜息をついた。
「運転手さん、中央区の社宅まで。急ぎません、ゆっくり行ってください」
山下は静かに車を発進させた。しばらくの沈黙の後、男はメッセージを終え、バックミラー越しの山下に、独り言のように話し始めた。
「聞いてくださいよ、もう最悪ですよ。うちの上司、本当に何もわかってない。自分の責任を全部こっちに押し付けて、自分は定時で帰るんです」
山下は、反射的に「そうでしたか。大変でございますね」という、訓練された形式的な返事をした。彼の心は、昨夜のニュースの怒りに囚われており、この男の愚痴に付き合う余裕はなかった。
しかし、男は止まらない。今度は矛先が家庭に向かった。
「家に帰っても地獄ですよ。妻はパートで疲れてる、って言うだけで、俺がどれだけ会社で苦労してるか、全く理解しない。子供はゲームばっかり。俺は一体、何のために働いてるんですかね」
男の言葉は、山下の過去を正確にトレースしていた。自分もかつては、仕事の不満を家庭に持ち帰り、妻の理解も得られずに苛立っていた。
男は続けた。「まあ、運転手さんには分からないでしょうね。気楽なもんですか、夜は」
その言葉に、山下の怒りが静かに燃え上がった。気楽? 他人の嘔吐物を処理し、深夜の孤独の中、過去の亡霊から逃げ回る生活のどこが気楽だというのか。
しかし、彼はプロのドライバーだ。感情を表に出すわけにはいかない。山下は、低く、押し殺した声で答えた。
「お客様。どなたにも、それぞれの仕事の難しさがございます」
男は、山下の冷静な返答に、さらに苛立ちを募らせたようだ。
「なんだ、その他人事みたいな言い方は! あんたは、俺の話をちゃんと聞いてるのか? 結局、あんたも、金さえもらえればそれでいい、っていう冷たい人間なんだろう!」
男は、仕事や家庭で発散できない不満を、匿名で安全な相手、つまり山下にぶつけているのだ。山下は、この見下されたような態度に、激しい屈辱を感じたが、動じなかった。彼は、この男の感情のゴミ箱になることを、この夜の仕事の一部だと割り切っていた。
「申し訳ございません。お客様のご心境、お察しいたします」山下は、感情のない、最も穏便な言葉を選んだ。
目的地に到着すると、男は料金を無愛想に支払い、扉を乱暴に閉めて去っていった。
山下は、車を発進させる前に、深呼吸をした。男の吐き出したネガティブな感情が、まだ車内に残っているようだ。
彼は、改めて認識した。夜のタクシーは、都市に生きる人々の、隠された不満や苛立ちの終着点だ。そして、彼はそのすべてを受け止める、感情を持たない器でなければならない。
昨夜のニュースで揺らいだ感情は、この男の身勝手な愚痴によって、再び強固な壁となって戻ってきた。山下は、孤独ではあるが、誰にも感情を揺さぶられないこの役割を、今は手放すわけにはいかないのだ。
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