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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
昨日までの長雨が嘘のように晴れ渡った昼下がり。
目映い太陽の光に目を細めながら、カホは人で溢れ返った道を迷いのない足取りで進んでいた。
城下町のメインストリートとも言えるこの通りは、いつも騒がしい。様々な店が建ち並び、人の行き来も多かった。
けれど、横道へ逸れると途端に賑やかさが緩和される。
朝食を食べそびれ昼食も取らずに部屋を出てきたカホは、メインストリートで軽く食事を取ったあと、いつもの脇道へ入っていく。
そして迷うことなく、ひとつの建物の前で足を止めた。
二階建てのその建物はひっそりしていて、営業中を示す看板が扉に出ていなければ、そこに店があることなど気が付かないだろう。
カホはそっと扉の取っ手に手を掛けた。ちりんちりんと、可愛らしいベルの音が店内に響き渡る。
踏み入れた室内の壁一面に広がるのは、本棚だ。広い階段の壁にも棚があり、本が陳列されている。
店内のどこを見回しても本棚が並ぶこの店は、書店だった。
メインストリートにある書店に比べたら品揃えは少ないが、面白いタイトルが揃っている。
カホがここを見つけたのは偶然だった。
迷子になり、この辺りを歩き回っていたときにたまたま発見したのだ。それからずっと通い続けるほど居心地の良いこの店に出会えたことは、幸運だと思っている。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
カホが挨拶をすると、明るい声が返ってきた。声とは別方向の棚に人影が見えた気がしたが、気にせず返事をくれた少女の顔を見る。
少女は頭上に生えた黒い猫耳を嬉しそうに揺らした。よく見れば、彼女の臀部には、耳とお揃いの黒い尻尾が生えている。
この国に来る前のカホであれば驚いて腰を抜かしていただろうが、今では当たり前に受けとめていた。この世界では動物の特徴を受け継いだ《獣人》と呼ばれる存在が、人間と共存しているのだ。
少女――ローザとこの書店の主であるブルーノは兄妹で、ふたりとも黒猫の獣人の血を引いている。その影響で、人間の姿に猫耳と尻尾が生えているのだ。
視線を走らせると、ブルーノは奥にあるカウンターの中で本を読んでいた。難しい単語の並ぶ表紙で、何を読んでいるのかはわからない。
ふと顔を上げたブルーノとカホの視線が合う。カホは一礼したが、ブルーノの視線は手もとの本に戻ってしまった。ただ、尻尾をゆらりと揺らし、彼流の挨拶を返してくれる。
愛想のない店主に代わって、ローザがカホの相手をしてくれた。
「多分、今日はお姉さんが来る日だなって思ってたので、晴れて良かったです! それで、何をお求めですか? ちょうど昨日、女の人に人気の男性作家さんの本が入荷したばっかりで……恋愛小説なんですけど」
「あ、お使い頼まれてたの、その人かな……シリーズの新しいもの?」
「そうです、それです! 今すごく売れてて、大きい本屋だと完売しちゃってるらしいですよ!」
「じゃあそれと、ええと、あと魔術の出る物語を探してて……。そういうのってあるかな?」
「私が覚えている範囲でもいくつかあったと思うんですけど……ちょっと探してみるので、待っててもらってもいいですか?」
「ありがとう、ローザちゃん。いつも、ごめんね」
「いえいえ! カホお姉さんは常連さんなので、これぐらい当たり前です」
しかしそこでローザは不思議そうに首を傾げた。
「でも、女の人でそういう本ばっかり読むって、珍しいですよね。この間なんか魔術の専門書まで見てましたけど、カホお姉さん、魔術師になるんですか?」
その問いに、カホの動きが止まる。だがすぐに気を取り直して笑みを浮かべると、首を横に振った。
「故郷にこの手の話が少なくて、目新しいなって思っただけなの。魔術の専門書を見てたのは、前に読んだ本に出てきた魔術が実際にあるのかなって、疑問だっただけで……魔術師になりたいわけじゃないかな」
「そうだったんですね」
ローザは頷き、カウンターに座る兄に声を掛ける。そして、壁際の階段を上っていった。
その後ろ姿を見送りながら、カホは胸もとの生地をぎゅっと握る。
――きちんと、誤魔化せているだろうか?
なんとか笑みを浮かべたけれど、心臓は嫌な音を立てている。
この書店に来るたびにローザとブルーノにはお世話になっているが、本当の理由を話すわけにはいかない。
もし話せば、きっと変な人だと思われてしまう。
なぜならカホは、この世界の住人ではないから。こことは異なる世界から来たのだ。だから、元の世界に帰る方法を見つけるために、こうして書店に通い詰めていた。
彼女――花宮香穂が生まれ育ったのは、地球の日本という国である。
ごく普通の家に生まれ、特に大きな病にかかることなく育ち、小中高大学と学んだ後に、とある企業で事務員として働いていた。
会社は中高年の男性ばかりで、女性は寿退社が多いところだった。気付けば、カホの周りは自分より若い子ばかりになっている。そのせいで、《お局様》などと茶化して呼ばれていた。
自分も寿退社がしたくても、相手にアテはない。仕事上での出会いは少なく、家に帰ってひとりで缶ビールを空ける日々だ。もう諦めちゃおうかなあ、と久しぶりに会った大学時代の友人とチェーン店の飲み屋で話した金曜日の夜にそれは起こった。
ほろ酔いのまま自宅アパートのベッドに倒れ込んだはずが――気付いたときには、見知らぬ家のベッドで、心配そうな表情の老夫婦に顔を覗き込まれていた。
状況がわからず困惑したカホは、その老夫婦に随分と失礼な態度を取ったものだ。そのあとできちんと謝ったが、今でも申し訳なく思う。
老夫婦はそんなカホを宥め、落ち着くのを待って、なぜカホがこの家にいるのかを説明してくれた。
彼らの話によると、この国はヴォルモンド国というそうだ。王城のある首都を中心として多くの街が連なる、わりと大きな国らしい。
そしてカホがいるここは、ヴォルモンド国の東方、ブラーゼ地方の北にある小さな村だ。森の入り口近くに倒れていたカホを、老父が見つけたということだった。
その話を聞いたカホは、驚きと困惑で頭の中がごちゃ混ぜになる。
彼女が知る限り、ヴォルモンド国なんて名前の国は地球上になかった。試しに日本という国を知っているかと老夫婦に尋ねたけれど、ふたりとも知らないと答える。
地図を出して確認させてくれたが、当然そこに、カホの生まれ育った国はなかった。
国が違うどころか世界が違う。所謂《異世界トリップ》という現象だ。
小説や漫画の中の出来事に実際に自分が遭うとは、思ってもみなかった。
なぜこの世界に来てしまったのかわからないし、どうやって帰ればいいのかもわからない。
さらに不可解なことに容姿が幼くなっている。おそらく十六歳くらいのころの姿だ。
酔っぱらいの戯言で「若返りたい」と言ったような気がするけれど、こんな形では望んでいない。
泣きながら帰りたいと呟くカホの身を、親切な老夫婦は保護してくれた。怪しい人間であるにもかかわらずだ。そうでなければきっと彼女は野垂れ死んでいただろう。
また、トリップ特典なのか、この国の言語限定ではあるが、最初から読み書きや、話すこと、聞くことができたのは幸いだった。
老夫婦の優しさに甘え、カホはふたりを手伝って穏やかで楽しい時間を過ごす。
そうして、この世界の文化に触れる。
日々の生活に魔術が使われること。この国には、《獣人》と呼ばれる存在が人間と共存していること。獣人と一口にいっても、姿は様々なのだということ、など。
体は獣なのに二足歩行で歩く動物がいたり、外見はどこからどう見ても人間なのに頭やお尻に獣の耳や尻尾が生えている人がいたり。はたまた、獣としての体と人間としての体、両方を持ち、変化する者がいたりする。
そんな獣人が、人間と婚姻を結ぶことも珍しくないと聞いたときには、ここは異世界なのだと改めて実感した。
またカホは、老夫婦からひとりの少女を紹介されてもいた。
十四歳のセアラという少女だ。
彼女と仲良くなったカホは、自分が異世界から来たことを打ち明けていた。カホが元の世界に帰りたがっていることを知ったセアラは、十五歳になると、情報を集めるためにと、王都にある城のメイドになる。
その一年後、彼女を追って、カホもまた城でメイドとして働くことにした。
便りをちょうだいね、と涙を浮かべる老夫婦に別れを告げ、カホはヴォルモンド国の王都にやってきた。それから、一年が経過している。
しかし、未だに帰る方法は見つかっていなかった。
使用人が生活する寮で相部屋になったセアラも尽力してくれているが、見つかる気配はない。
何か手がかりが出てくるかもしれないと思って、自分と同じような境遇の人間が出てくる本を探してみたり、勇者や神子を召喚する儀式の情報が載った本を書店や図書館を漁ってみたりしたが何もわからなかった。
――そして今、深呼吸をして心を落ち着かせたカホは、探している本をローザが確認してくれるのを待ちながら、本の並ぶ棚へ目を走らせた。
けれどその間、ただ待っているだけなのも落ち着かない。
少しでも手がかりに繋がる本があるのなら見ておきたかったが、これまでに手にしたどの本にもカホが求めていることは書かれていなかった。
――いっそのこと、今日は違うものを探してみようか。例えば、単なる娯楽のための読み物でも。
頭を切り替えたカホは、いつも見ている棚の向かい側に体を動かす。そこに並んでいるのは、推理小説と呼ばれるものだった。店主の好みなのか、他のどのジャンルのものより充実していて、厚さも大きさも様々な本がぎっしりと棚に詰まっている。
その棚を見上げて、カホは何から読もうかと考えた。
確か、先日買った勇者を召喚する話の作者が、推理小説を書いていたような気がする。タイトルは忘れてしまったけれど、いつか読んでみようと思っていたのだ。
アルファベットに似た、けれど異なる文字の羅列からその人の名前を捜す。それは意外と早く見つかり、カホはそっと指先を伸ばした。
その指先に、大きく骨ばった手が重なる。
「……あ」
本の背だけを見つめていた視線が、重なった指の先を辿る。
その先にいたのは、ひどく端整な顔立ちの男性だった。頬に掛かる銀髪がさらりと揺れている。
彼は触れられた指先を見つめ、それからカホに視線を向けると、驚いたような顔をした。
「っ申し訳ない」
「……っ」
カホは零れ出そうになった悲鳴を呑み込む。
――カイル・エドモン・ルーデンドルフ。彼の名前を、この国で知らない者はいないだろう。
この国を守る騎士団の団長を務める彼は、数多くの女性の視線を集めている眉目秀麗な人物だ。
銀色の長髪を括り、まるで宝石のような濃紺の瞳を持つ。その物腰は柔らかく、どちらかといえば軍人よりも文官が似合うが、両親譲りの剣の腕は確かで、国で行われる剣の大会ではここ数年、優勝を逃したことはないという。
彼の父親はかつて同じ騎士団の団長を務め、母親も騎士団分隊の隊長だったらしい。国内有数の貴族、ルーデンドルフ家の嫡男である一番上の兄も優秀で、その下の兄は魔術に精通し、国お抱えの魔術師団の副団長を務めている。さらに姉がひとりと妹がひとりいて、姉は隣国の公爵家に嫁ぎ、妹は騎士団分隊の副隊長という地位に就いていた。
カホにとって雲の上の人である彼が、微かに頬を赤らめながら謝罪を口にして手を退く。
いつも後ろで括られている銀色の髪は今は右側に流され、なんの変哲もない黒いリボンで緩く結ばれていた。服装も華美な騎士団の団服ではなく、シンプルなシャツにトラウザーズという格好だ。
貴族の格好にしてはシンプルすぎるので、お忍びなのだろう。
カホはそこまで考えて、ここは知らない振りをするのが良いと気付いた。
この場所で騒ぐのは行儀の良いことではないし、万が一にも彼に想いを寄せる令嬢に一緒にいるところを見られたら、恐ろしいことになる。
貴族であり、騎士団長という立場である彼と、ただの平民で使用人であるカホは、本来であれば関わりなどない。
引きつりそうになる頬をなんとか動かして、カホは顔に笑みを貼り付けた。愛想笑いは大切だ。
「わたしのほうこそ、すみません。集中すると周りが見えなくなるみたいで……」
そっと指先を引っ込め、わざとらしい口調にならないように気を付ける。
顔を直視するのは憚られて視線を落とすと、その先に彼の抱える本が見えた。
カホの知らない言語で書かれた専門書らしきものが、何冊か重なっている。だが、それより目を引いたのが、一番上に積まれていた小説だ。
関わらないようにと思っていたのに、ついカホは尋ねていた。
「あの、その作家さん、お好きなんですか?」
彼女が読み漁った、勇者や神子が召喚される小説。すでに何十冊読んだか覚えてはいないが、その中で頭に残ったものが数冊ある。
その中の一冊が、彼の抱えている本の一番上に置かれていたのだ。
けれどそこで、我に返ったカホは慌てて「すみません」と謝罪した。すると彼は驚いたような顔をして、それから困惑に似た笑みを浮かべる。
「いや、実はあまり詳しくはないんだ。友人にすすめられたから読んでみようと思ったんだが」
「そう、なんですね。――ちなみに普段はどんな本を読まれますか? このお話、確かに心理描写が細かくて綺麗な文章だから面白いんですけど、恋愛要素が濃くて。普段ミステリー――推理小説を読まれることが多いのでしたら、この方が前に書かれた……この英雄譚のほうが雰囲気を掴みやすいと思います」
その本の文章に惹かれて何冊も著書を買ったことは、カホの記憶に新しい。
棚に並ぶ本の背中を指先でなぞっていき、一カ所で止める。そしてその一冊を抜き取り、表紙を彼に見せるように持った。
余計なことだと気付いたのは、すでに本の紹介を済ませたあとだ。
「……ごめんなさい、いらぬお節介でした。忘れてください」
「いや、君がこの作者の本を好んでいるという気持ちが真っ直ぐ伝わってきて、そちらの本にも興味が湧いた」
「へ?」
「君がそれほどすすめるのなら、そちらを先に読むことにしよう」
「え、え?」
「ちなみに、その……さっき君が取ろうとしていた本だけど、実は持っているんだ。今は手もとになくてしばらく読んでいなかったものだから、懐かしくて……登場人物の描写が巧みで骨組みのしっかりしたものだった。女性にすすめるには少し硬いんだけど、良ければ読んでみてほしい。君がどう感じるのか、知りたい」
向けられた濃紺の瞳は、柔らかな光を浮かべて真っ直ぐにカホを見つめている。
彼の瞳を宝石のようだ、と言ったのは誰だったか。けれどカホから見れば、宝石というより、吸い込まれそうな優しい夜の闇の色のほうが、正しく感じる。
「ああ、そろそろ時間だ。また会えたらそのときに感想を聞かせて。……君のことも」
カイルはそう言ってカホがすすめた本を優しく手に取り、背中を向けた。
店主の低い声と、今し方言葉を交わしたばかりの彼の声がカウンターのほうから聞こえる。
それから間もなくして出入り口の扉が開く音がして、彼が店を出ていったのがわかった。
「お待たせしてごめんなさい! この辺とかどうですか? ……カホお姉さん?」
二階から戻ってきたローザがそう声を掛けて肩を揺すぶってくれるまで、カホはその場に立ち尽くしていた。
「何かありました?」
尋ねてくるローザに首を横に振る。
カホは探してきてもらった小説を一冊と、彼がすすめてくれた本を買って、店を出た。
城へ戻る道すがら冷静になった頭で考えると、先ほどのことは夢か幻だったのだろうという気がしてくる。きっとそうだと自分を納得させて、城内にある使用人寮の部屋に帰り、買った本を読み始めた。
購入した本に元の世界に戻る手がかりになりそうな記述はなかったが、カイルにすすめられた小説はとても面白く、たちまち読み終える。
今度給料が入ったら、この作者の書いた本を揃えて買おうと、カホは心に決めた。
それからひと月後の休日。
向かった書店で、カホは再びカイルと出会う。
話し掛けられて慌てふためく彼女に、彼は微笑みながら前回すすめた本の感想を教えてくれた。
どうやら彼にとっても、楽しめる作品だったらしい。
しかも面白いと感じたところがほとんど同じで、気付けばカホも、本の感想を熱く語ってしまっていた。
うっとうしいだろうに彼は嫌な顔ひとつせず、「楽しんでもらえて良かった」と柔らかい笑みすら浮かべてくれる。
普段、こんなふうに誰かと本の話で盛り上がれることはない。貴族令嬢でも平民の娘でも、周囲の女性が好むのは恋愛小説だ。
けれどカイルは、カホが好む推理小説や冒険ものを読んでくれ、その上、感想を聞かせてくれた。その優しさが嬉しい。
ただ、これが最初で最後だろう。
そう思って少し寂しさを覚えたカホだったが、気付けば次の約束を取り付けられていた。
次も、その次も、言葉巧みに誘導されて、彼に本をすすめ、すすめ返されている。毎回《次》を約束されて、いつの間にかそれが当たり前になっていった。
話すのは、本のことばかりだ。たまにお互いの本の貸し借りをすることもあるけれど、名乗っていないし、どんな職業に就いているのかも教え合っていない。相手の素性は何も知らない――ことになっている。
カホは、カイルに会いそうなときは、彼を慕う令嬢対策として眼鏡を掛け、素顔を見られないようにしていた。だから彼は、彼女が城で働く使用人だとは気付いていないはずだ。
カイルの素性をカホが知っていると匂わせることもしなかった。
毎週のように会って、話して。
楽しい時間が過ぎていく。あまりに接近してくる彼に、ふと、遊ばれているのだろうかと思うこともあったけれど、多忙な彼が貴重な時間をそんなことに使うはずがない――カホはそう信じたかった。
そしてまた今日もカホは、文献探しを兼ねてブルーノの店に立ち寄っていた。
店内にローザの姿はない。珍しいなと思いながら新刊の並ぶ棚を見るが、惹かれるものは何もなかった。
ブルーノに尋ねようにも、彼は先ほどからカイルと真剣な表情で話をしている。
声を掛けられる雰囲気ではないので、カホは店内をふらりと回ってみることにした。
棚をひとつ移動すると、歴史小説のコーナーになる。この世界でも歴史に名を残した英雄を主人公にした小説は好んで読まれていた。読者に男性が多いからか、骨太なタイトルが並ぶ。
気になったタイトルの本を取り出し、ぺらぺらと捲ってみるが、どうにも合わないようで、内容が頭に入ってこない。元々この世界の歴史をあまりよく知らないから、なおさらだ。
棚の一番下にあった本の冒頭を軽く読んだあと、元の場所に戻した。
そして、立ち上がろうとしたその瞬間――
「……ぁ」
視界が揺れて、平衡感覚が曖昧になった。咄嗟に何かに掴まろうと手を伸ばしたが、指先が本棚を掠めただけだった。
昨夜は、忙しくて読めていなかった本を消化するために、睡眠時間を削っていた。図書館で借りた本の返却期限が迫っていたので、少しだけ無理をしたのだ。
カホは目を閉じて衝撃を待つ。
けれど彼女が感じたのは、固い床でも痛みでもなく、温もりだった。背後から、誰かに支えられている。
「……間に合った」
安堵したような声が耳もとに落ちる。
恐る恐る目を開けて声の主へ目をやると、そこにいたのは焦った顔をしたカイルだった。
どうやらカホを抱き寄せて、転倒を阻止してくれたらしい。
「あ……りがとう、ございます」
咄嗟にお礼を言えたのは、予想以上に彼の顔が近かったことに驚いて羞恥心が抑えられたからだ。
「いや、君を守れて良かった」
そう言って、カイルは頬を緩ませた。
一瞬だけ、腰に巻き付いている彼の腕の力が強まった気がする。けれど、我に返ったカホはそれどころではなくなってしまう。
――ルーデンドルフ団長に、抱き締められている!?
遅れて認識したその事実に、顔がぶわっと熱くなった。
細身に見えて、意外と逞しい肢体だとか。ふわりと香るフレグランスの匂いだとか。耳もとに落ちてくるいつも以上に近い、優しさと甘さを帯びている声だとか。
ひとつひとつを意識してしまって、心がひどく落ち着かない。
そんなカホにカイルは一体何を思ったのか、腕の拘束を名残惜しそうに解くと、彼女を見つめた。
「これから夕方にかけて雷雨になるようだから、今日は早めに帰ったほうがいい」
その言葉が、自身の体調を気遣ってくれているものだとカホは気付いた。何せ今日は朝から快晴で、雨が降る気配はない。
その申し出に、カホはひとつ頷く。
「……そうします」
「すぐに馬車を用意しよう。俺が送っていけたら良かったんだけど、このあと予定があって……申し訳ない」
「ば……い、いえ、大丈夫です! 慣れた道ですし、それほど遠くもないんです。歩いて帰れますので、お気持ちだけ頂いておきます」
馬車で帰ったりなんかしたら、注目の的になる。
それに送られれば、カホが城で働く使用人で、カイルの地位もすべて知っていることを気付かれてしまう。
そうしたら、この楽しい時間がなくなってしまうかもしれない。
カホの胸の奥が小さく軋んだ。
「ブルーノさん、今日はごめんなさい。また来ますね」
カウンターの中にいる彼にそう伝えると、ゆらりと尻尾が振り返される。
去り際、店の入り口まで見送ってくれたカイルから一冊の本を差し出された。
「また次の休みに、待ってる」
労るように言われて、カホは僅かに頬を赤く染めたまま、こくりと頷いた。
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