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第二章
(26)
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別人を装おうと、彼女は彼女でしかない。ゆえに、隣を歩くローウェルに醜い嫉妬をしたのは、大人気なかったけれど、当然のことだった。
『やだなあ。そんな怖い顔しなくたって──』
そしてこの男には、そんなふうにヴィルヘルムが思ったことも、お見通しだったのだ。
『アシュリーちゃんは、ボクの恋愛対象にはならない。妹分でしかないから安心してよ』
昔からおかしなことを言うような男だったが、観察眼は鋭かった。
まるで人の心を見抜いて的確な言葉を寄越すあたりは、本当に敵に回したくない相手だ。
──だからと言って、俺の目の前でアシュリー嬢に迫ったり、舞踏会に誘ったことは許さないが。
研究室で、アシュリーがローウェルに迫られているのを見たとき、頭に血が上った。彼女に婚約を申し込むという話をしたあとのことだったから、どう言うことなのだと詰め寄りたくもなった。
実際にアシュリーが部屋から出たあとに詰め寄りはしたが、その場だけでも冷静さを取り戻せたのは、そこにアシュリーがいたからと、ローウェルの目に戯れの色が浮かんでいたからだ。
だが仮にローウェルが誘わなくても、ヴィルヘルムではアシュリーを誘うことすらできなかっただろう。
そもそもヴィルヘルムの誘いにアシュリーが頷いてくれるかもわからないし、頷いてくれたとしても王太子の護衛で側に居られる時間は限られる。
しかし、ローウェルがアシュリーを舞踏会に参加させたことは、視点を変えて考え直すと、別の見方もできる。
ローウェルが彼女を選んだのは、性格を知っているアシュリーがサポートに回るのが最適だったからだ。
そして同時に、ヴィルヘルムとアシュリーがふたりで話す機会を与えようとしてくれたのではないか。
でなければ、ローウェルだけでなく、王太子までアシュリーが姿を騙っていたことを知っていたわけがない。ジェラルドは知らなかっただろうが、王太子とローウェル、ヴィルヘルムの会話に何かを感じ取りはしたはずだ。
……だがさすがにお膳立てしてくれた彼らも、ふたりがこんな状況になってしまったことは予想外だっただろうが。
ヴィルヘルムも、いつもならいくら誘われてもその誘いに乗ることはなかった。下手を打って結婚でも迫られたら堪ったものではないからだ。
だが、彼女にだけは、我慢ができなかった。
寧ろこれで結婚を迫られたら、悩む間もなく婚約の話をして、外堀だけではなく彼女自身を囲い込むことができる。
──そのぐらい単純で簡単であれば、俺はもっと早くにあなたを妻にできただろうな。
思わずヴィルヘルムの顔に自嘲の笑みが浮かぶ。
しかしアシュリーは、まだ知らない。一夜だけの恋人を強請った相手が、彼女があれほどまでに避けたがっていた求婚の相手だと言うことを。
何せ、アシュリーは相手の写真も見ていなければ、名前も知らない。
ローウェルから聞いたときはまさかと思ったが、今日の振る舞いを見ていたらわかる。
ヴィルヘルムが婚約相手だと知っていたら、彼女にあんな演技はできない。
「どうしたらあなたは、俺を受け入れてくれる……?」
妻となるべき人以外を、この腕に抱くつもりはない。
生涯、彼女以外の女性は、いらない。
隣に立ってくれるのも、子を産んでくれるのも、最期まで一緒にいたいと思うのも、アシュリーだけだ。
貴族社会では、伴侶以外の者を傍に置く者はいる。だが、生涯伴侶だけを愛す夫婦も、多くはないが存在しているのだ。
そしてヴィルヘルムにとって、アシュリーだけを愛し抜くことは難しいことではなかった。
「──アシュリー」
呼ぶのならば、彼女の本当の名前を。
そう思うと、エスコートしている最中はともかく、抱いている最中には《シェリー》と言う名を口にすることはできなくて。
だからこそ目が覚めたら、彼女の名前を目一杯呼びたかった。
できる限り彼女の体を綺麗に拭って、ほつれた髪を引っ張らないように解く。
濡れた布でもあれば良かったが、そのためには一度部屋を出なければならない。
必要なものを伝えれば、勘のいい者には気付かれてしまうし、それを自身で用意して人目を阻んで部屋に戻ってくるにはヴィルヘルムの顔は知られ過ぎていた。
──……すまない。
ヴィルヘルムは謝罪の言葉を心の中で呟き、その腕にアシュリーを抱き締める。
温もりを求めてなのか、アシュリーが擦り寄ってくるのが可愛くて、悶えながら額に口付けを落とした。
「……良い夢を」
優しくて甘い声が、静かに部屋に響く。
アシュリーが目覚めたら、きちんと話をしよう。
ヴィルヘルムはそう思いながら、遠くで賑やかに響き渡るワルツの音を聞いていた。
けれどそれからしばらくして、ヴィルヘルムは部屋を出ることになってしまう。
騎士団の人間から場所を聞いたジェラルドが、部屋を訪れたのだ。
事情を察したのかもしれない。ジェラルドは部屋までは入って来ずに、ヴィルヘルムの支度を待ち、そしてふたりは部屋を出た。
その部屋には、しっかりと施錠をして。
そして、事態を知った王太子とローウェルからねちねちとしたお説教を聞かされたヴィルヘルムが部屋に戻ってくると──そこにアシュリーの姿はなかった。
『やだなあ。そんな怖い顔しなくたって──』
そしてこの男には、そんなふうにヴィルヘルムが思ったことも、お見通しだったのだ。
『アシュリーちゃんは、ボクの恋愛対象にはならない。妹分でしかないから安心してよ』
昔からおかしなことを言うような男だったが、観察眼は鋭かった。
まるで人の心を見抜いて的確な言葉を寄越すあたりは、本当に敵に回したくない相手だ。
──だからと言って、俺の目の前でアシュリー嬢に迫ったり、舞踏会に誘ったことは許さないが。
研究室で、アシュリーがローウェルに迫られているのを見たとき、頭に血が上った。彼女に婚約を申し込むという話をしたあとのことだったから、どう言うことなのだと詰め寄りたくもなった。
実際にアシュリーが部屋から出たあとに詰め寄りはしたが、その場だけでも冷静さを取り戻せたのは、そこにアシュリーがいたからと、ローウェルの目に戯れの色が浮かんでいたからだ。
だが仮にローウェルが誘わなくても、ヴィルヘルムではアシュリーを誘うことすらできなかっただろう。
そもそもヴィルヘルムの誘いにアシュリーが頷いてくれるかもわからないし、頷いてくれたとしても王太子の護衛で側に居られる時間は限られる。
しかし、ローウェルがアシュリーを舞踏会に参加させたことは、視点を変えて考え直すと、別の見方もできる。
ローウェルが彼女を選んだのは、性格を知っているアシュリーがサポートに回るのが最適だったからだ。
そして同時に、ヴィルヘルムとアシュリーがふたりで話す機会を与えようとしてくれたのではないか。
でなければ、ローウェルだけでなく、王太子までアシュリーが姿を騙っていたことを知っていたわけがない。ジェラルドは知らなかっただろうが、王太子とローウェル、ヴィルヘルムの会話に何かを感じ取りはしたはずだ。
……だがさすがにお膳立てしてくれた彼らも、ふたりがこんな状況になってしまったことは予想外だっただろうが。
ヴィルヘルムも、いつもならいくら誘われてもその誘いに乗ることはなかった。下手を打って結婚でも迫られたら堪ったものではないからだ。
だが、彼女にだけは、我慢ができなかった。
寧ろこれで結婚を迫られたら、悩む間もなく婚約の話をして、外堀だけではなく彼女自身を囲い込むことができる。
──そのぐらい単純で簡単であれば、俺はもっと早くにあなたを妻にできただろうな。
思わずヴィルヘルムの顔に自嘲の笑みが浮かぶ。
しかしアシュリーは、まだ知らない。一夜だけの恋人を強請った相手が、彼女があれほどまでに避けたがっていた求婚の相手だと言うことを。
何せ、アシュリーは相手の写真も見ていなければ、名前も知らない。
ローウェルから聞いたときはまさかと思ったが、今日の振る舞いを見ていたらわかる。
ヴィルヘルムが婚約相手だと知っていたら、彼女にあんな演技はできない。
「どうしたらあなたは、俺を受け入れてくれる……?」
妻となるべき人以外を、この腕に抱くつもりはない。
生涯、彼女以外の女性は、いらない。
隣に立ってくれるのも、子を産んでくれるのも、最期まで一緒にいたいと思うのも、アシュリーだけだ。
貴族社会では、伴侶以外の者を傍に置く者はいる。だが、生涯伴侶だけを愛す夫婦も、多くはないが存在しているのだ。
そしてヴィルヘルムにとって、アシュリーだけを愛し抜くことは難しいことではなかった。
「──アシュリー」
呼ぶのならば、彼女の本当の名前を。
そう思うと、エスコートしている最中はともかく、抱いている最中には《シェリー》と言う名を口にすることはできなくて。
だからこそ目が覚めたら、彼女の名前を目一杯呼びたかった。
できる限り彼女の体を綺麗に拭って、ほつれた髪を引っ張らないように解く。
濡れた布でもあれば良かったが、そのためには一度部屋を出なければならない。
必要なものを伝えれば、勘のいい者には気付かれてしまうし、それを自身で用意して人目を阻んで部屋に戻ってくるにはヴィルヘルムの顔は知られ過ぎていた。
──……すまない。
ヴィルヘルムは謝罪の言葉を心の中で呟き、その腕にアシュリーを抱き締める。
温もりを求めてなのか、アシュリーが擦り寄ってくるのが可愛くて、悶えながら額に口付けを落とした。
「……良い夢を」
優しくて甘い声が、静かに部屋に響く。
アシュリーが目覚めたら、きちんと話をしよう。
ヴィルヘルムはそう思いながら、遠くで賑やかに響き渡るワルツの音を聞いていた。
けれどそれからしばらくして、ヴィルヘルムは部屋を出ることになってしまう。
騎士団の人間から場所を聞いたジェラルドが、部屋を訪れたのだ。
事情を察したのかもしれない。ジェラルドは部屋までは入って来ずに、ヴィルヘルムの支度を待ち、そしてふたりは部屋を出た。
その部屋には、しっかりと施錠をして。
そして、事態を知った王太子とローウェルからねちねちとしたお説教を聞かされたヴィルヘルムが部屋に戻ってくると──そこにアシュリーの姿はなかった。
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