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第一章 僕の自殺を止めたのは

第8話 ……また将棋したいな

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「じゃあね。三日後にまた戻ってくる」

「……やっぱり、今すぐ自殺しちゃだめなんですか?」

「うん。だめ。絶対にね。さっきも言ったけど、ただ苦しいだけで死ねないんだから」

 死神さんは、そう言って立ち上がりました。これ以上、こちらから何を言っても無駄なようです。彼女には、僕の魂を今すぐ回収する気はさらさらありませんでした。

 僕に残された道は、この状況を受け入れることだけ。

「なるべく早く帰ってきてくださいよ。本当に、お願いしますから」

 僕の口から出たのは、とても弱々しい声。死神さんがいなければ、僕は死ぬことができないのです。この世から解放されないのです。死神さんには、一秒でも早く戻ってきてもらう必要があります。死神さんの言う三日という数字ですら、僕には永遠のように感じられました。

「分かってる。にしても、早く帰ってきて、か。なんだかお母さんの帰りを待つ小学生みたいだね」

「いやいや、小学生って。僕、もう高校生なんですよ」

「ふむふむ。じゃあ、外見上の年齢はそんなに変わらないし、彼女の帰りを待つ彼氏の方がいいかな?」

「ちょ!? か、彼氏って!?」

 去り際になんてことを言い出すのでしょう。死神さんの言葉に反応するように、僕の顔の温度が急激に上昇していきます。急に彼氏彼女とか。そもそも、僕には友達すらいたことないのに。

 あれ? そういえば、死神さんの年齢っていくつなんだろ? そもそも死神の寿命って人間よりも長かったりするのかな?

 ……いや、聞くのはやめましょう。ややこしいことになりそう。

「ふふ。さて、恥ずかしがってる彼氏君に一つ。これ捨てないでね。一応私物だし」

 僕をからかうように笑いながら、こたつテーブルの上を指さす死神さん。そこにあるのは、先ほどまで僕たちが使っていた将棋盤と駒、そして駒袋。

「勝手に捨てたりなんてしませんよ。といいますか、鎌みたいに消しちゃえばいいじゃないですか。そんなに時間かからないですよね」

「それはまあ……うん。置いといてもいいかなって。ははは」

「何言ってるんですか」

 僕はわざとらしくため息を吐きます。死神さんの言葉は訳が分からないものばかりです。



♦♦♦



 死神さんのいなくなった部屋は、とても寂しく感じられました。

「突然背後に現れて、目の前にいたと思ったら突然いなくなって。死神というより、幽霊に近いような」

 寂しさをごまかすために、そんなことを呟く僕。ですが、全くの無駄でした。しんと静まり返る六畳一間に、僕の言葉が溶けていくだけ。

 あれから死神さんは、「バイバイ」と僕に手を振った後、忽然と姿を消してしまったのです。まるで、最初からそこには何もなかったかのよう。まあ、突然何の気配もなく背後に現れた彼女のことですから、特に驚いたりはしませんでした。人間と同じように扉を開けないと部屋に入れないとか、そもそも鍵がかかってたらだめとか、そういった制約はきっとないのでしょう。死神業的に。

 ……なに冷静になって考えちゃってるんだろ。死神の仕事に詳しいわけでもないのにさ。

 今日一日でいろいろなことがありすぎました。自殺しようとして。死神さんが現れて。将棋して。自分の感情を吐き出して。結局自殺できなくて。たぶん今、僕の頭は少しおかしくなっているんだと思います。

「あ」

 ふと、僕はとあることに気がつきました。

「駒、片付けなきゃ」

 こたつテーブルの前に座る僕。盤上に並べられたままの駒たちを一枚ずつ手にとっては、駒袋の中へ。袋の中で駒同士がぶつかり、カチャリ、カチャリと優しい音を響かせます。その音を聞く度、自分が、死神という得体の知れないものと将棋を指していたことを強く実感しました。

「せめて片付けてから行ってくださいってお願いすればよかった」

 駒をしまい終え、軽く袋の紐を結びます。袋を持ち上げると、駒たちの微かな重さが伝わりました。

 その時。

「……また将棋したいな」

 思わず、僕はそんな言葉を漏らしていたのです。

 死神さんとの将棋。結果は、僕の大勝。これまでの将棋人生の中で、大勝の将棋なんて何度も経験してきました。ですが、どうしてでしょうか。死神さんと指した将棋をこんなにも楽しかったと思ってしまうのは。

 ただ勝ったから。相手が死神だから。そんなちんけな理由では決してないはずです。次の一手を考えて前のめりになる彼女の体。負けはほぼ決まっているのにまだ逆転することを諦めていない彼女の瞳。「うーん。うーん」と唸り声をあげ続ける彼女の口。その全てを、鮮明に思い出すことができるのですから。

 ああ。やっぱり頭がおかしくなってるんだ。

 僕は足に力を入れて立ち上がりました。そのまま、すぐ傍にあるベッドの上へ。横になって掛け布団を被り、目を閉じます。電気はつけっぱなしですが、気にしません。いろいろ疲れました。

「おやすみなさい」

 言葉を受け取ってくれる誰かなんていない。それが分かっていながら、僕はそう口にしたのでした。
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