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二章
三十三話
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その日は、部活を早めに切り上げて帰ることにした。やりたいことがあったからだ。
腕時計を見て確信する。この時間帯なら、まだ父親は帰ってきていない筈だ。商店街をぬけて帰宅する。鍵ならカバンに入っている。自宅に入る時には、スパイにでもなったかのように緊張したが、父親はいなかった。
いそいそとタンスを開ける。目当てのものを見付け、素早く取り出した。
新しい携帯を契約するのに必要な資料一式だ。以前母親と携帯を購入した際に、「翼が一人で携帯を買うときのために」と携帯の購入方法を教えてもらったのだ。必要な書類があれば、一人でも携帯は契約できる。
そうさ。あんなろくでなしがいなくなったところで、俺にとっては痛くも痒くもないのだ。
「壊れたスマホもあるから大丈夫かな」
ひとりごち、立ち上がろうとした時だった。
タンスの奥に一瞬、気がかりな紙が見えたのだ。しかし、何故それが気がかりなのか、正直自分でもよく分からなかった。
胸につかえるような厭な感情と、それでも見てみたいという奇妙な好奇心とがおれの中に同居していた。
俺はネガティブな感情に従うことにした。タンスを閉めようとする。
今度はもやもやしたものが蔓延した。やむを得ず、またタンスを開けて紙を引っ張りだす。自分にとって都合の悪いものでも、見なかったことにすればいい。
やや黄ばんだ紙に刻まれた黒い文字を目で追う。
「神崎家」
神崎家。神崎。神崎。
俺は忌まわしい過去を思い出していた。
雨の日のことだった。
俺は駅にいた。傘を忘れ、手持ち無沙汰で暗い曇天を見上げていた。
突然の大雨で、駅では多くの人が立ち往生していた。
駅の周りにはビジネスホテルが軒並みに乱立しており、泊まるつもりはなくてもつい熟視してしまった。
その内の一軒から、よく知った人が出てきた。父だ。
父は背広姿で、目を細めて空を見上げている。
驚かせようと思い、俺はびしょ濡れになるのも辞さずに駆け寄った。すぐそばの電柱に隠れ、様子を伺う。
父に続いて、誰かがホテルから出てきた。綺麗な女の人。傍らではパーカーを羽織った小さな女の子が伏し目がちに立っている。俺はすっかり出ていくタイミングを見失ってしまった。
「これで最後ね」
雨にかき消されそうなほどに小さな声。女の人は、綺麗なオレンジ色の傘をさして頭を下げた。
「今までありがとうございました」
父はこちらに背を向けており、表情は分からなかった。懐から小さな封筒を取り出し、女の人に握らせる。
そして二人は、降りしきる雨のなかで熱い抱擁を交わした。父の背広には雨が滲み、じっとりとした濃紺を醸していた。女の子は無表情で俯いている。
やがて二人はうなずきあって別れを告げ、互いに反対の方向へと歩き出した。背を向けた小さなパーカーは、鮮烈な色をなして俺の視界に焼き付いた。
無性にその色を掴みたくなって、俺は電柱から飛び出していた。
こちらに歩いてきた父の顔が強張る。
自分の足が震えているのは、きっと雨の冷たさが理由ではないのだろう。
父の口元が不自然に蠢く。肉体から唇だけが乖離し、それは完全に生き物として成り立っていた。
「翼。俺は、母さんを、愛している」
父だったモノは、宇宙人のように言葉を区切りながら、偽りの言葉を吐き出した。
気付くと踵を返し、家に向かって走り出していた。母に会いたかった。母に泣きつきたかった。
母に何と言えばいいのか、分からなかった。
無情なほどに冷たい雨だけが、俺の髪に絡み付き、その記憶を消えないものにした。
景色がフェードアウトして、現実に戻ってきた。
下を向いて、深く息をつく。今にも雨垂れが聞こえてきそうだった。
大丈夫だ。母親は知らない。母親は何も知らない。こんな気分になるのは俺一人で十分だ。
指先に力がこもりすぎたらしい。くしゃりと紙が歪んだ。
忌まわしい紙をタンスの奥に戻し、俺はなんとか直立した。
腕時計を見て確信する。この時間帯なら、まだ父親は帰ってきていない筈だ。商店街をぬけて帰宅する。鍵ならカバンに入っている。自宅に入る時には、スパイにでもなったかのように緊張したが、父親はいなかった。
いそいそとタンスを開ける。目当てのものを見付け、素早く取り出した。
新しい携帯を契約するのに必要な資料一式だ。以前母親と携帯を購入した際に、「翼が一人で携帯を買うときのために」と携帯の購入方法を教えてもらったのだ。必要な書類があれば、一人でも携帯は契約できる。
そうさ。あんなろくでなしがいなくなったところで、俺にとっては痛くも痒くもないのだ。
「壊れたスマホもあるから大丈夫かな」
ひとりごち、立ち上がろうとした時だった。
タンスの奥に一瞬、気がかりな紙が見えたのだ。しかし、何故それが気がかりなのか、正直自分でもよく分からなかった。
胸につかえるような厭な感情と、それでも見てみたいという奇妙な好奇心とがおれの中に同居していた。
俺はネガティブな感情に従うことにした。タンスを閉めようとする。
今度はもやもやしたものが蔓延した。やむを得ず、またタンスを開けて紙を引っ張りだす。自分にとって都合の悪いものでも、見なかったことにすればいい。
やや黄ばんだ紙に刻まれた黒い文字を目で追う。
「神崎家」
神崎家。神崎。神崎。
俺は忌まわしい過去を思い出していた。
雨の日のことだった。
俺は駅にいた。傘を忘れ、手持ち無沙汰で暗い曇天を見上げていた。
突然の大雨で、駅では多くの人が立ち往生していた。
駅の周りにはビジネスホテルが軒並みに乱立しており、泊まるつもりはなくてもつい熟視してしまった。
その内の一軒から、よく知った人が出てきた。父だ。
父は背広姿で、目を細めて空を見上げている。
驚かせようと思い、俺はびしょ濡れになるのも辞さずに駆け寄った。すぐそばの電柱に隠れ、様子を伺う。
父に続いて、誰かがホテルから出てきた。綺麗な女の人。傍らではパーカーを羽織った小さな女の子が伏し目がちに立っている。俺はすっかり出ていくタイミングを見失ってしまった。
「これで最後ね」
雨にかき消されそうなほどに小さな声。女の人は、綺麗なオレンジ色の傘をさして頭を下げた。
「今までありがとうございました」
父はこちらに背を向けており、表情は分からなかった。懐から小さな封筒を取り出し、女の人に握らせる。
そして二人は、降りしきる雨のなかで熱い抱擁を交わした。父の背広には雨が滲み、じっとりとした濃紺を醸していた。女の子は無表情で俯いている。
やがて二人はうなずきあって別れを告げ、互いに反対の方向へと歩き出した。背を向けた小さなパーカーは、鮮烈な色をなして俺の視界に焼き付いた。
無性にその色を掴みたくなって、俺は電柱から飛び出していた。
こちらに歩いてきた父の顔が強張る。
自分の足が震えているのは、きっと雨の冷たさが理由ではないのだろう。
父の口元が不自然に蠢く。肉体から唇だけが乖離し、それは完全に生き物として成り立っていた。
「翼。俺は、母さんを、愛している」
父だったモノは、宇宙人のように言葉を区切りながら、偽りの言葉を吐き出した。
気付くと踵を返し、家に向かって走り出していた。母に会いたかった。母に泣きつきたかった。
母に何と言えばいいのか、分からなかった。
無情なほどに冷たい雨だけが、俺の髪に絡み付き、その記憶を消えないものにした。
景色がフェードアウトして、現実に戻ってきた。
下を向いて、深く息をつく。今にも雨垂れが聞こえてきそうだった。
大丈夫だ。母親は知らない。母親は何も知らない。こんな気分になるのは俺一人で十分だ。
指先に力がこもりすぎたらしい。くしゃりと紙が歪んだ。
忌まわしい紙をタンスの奥に戻し、俺はなんとか直立した。
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