標識上のユートピア

さとう

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二章

三十七話

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   重い気持ちで、自宅の扉を開ける。
とても「ただいま」などと言う気分にはなれなかった。いっそ北欧のコテージにワープできればいいのに。扉を開けると、スウェーデンかフィンランドの土地が広がっている。吹雪が空気を白く染めて、その名残が地面を覆っている。自然の美しさと過酷さが同居する場所。素晴らしい。少なくとも、人工的な秩序と人間関係の過酷さよりは幾分かましだ。
残念ながら銀世界などない。扉の先で待ち受けていたのは、お馴染みのフローリングと蒸れるような空気、そして食卓に居座る父。
父はなにも言わなかった。俺は黙って自分の部屋に行こうとした。
「待て」
 父に呼び止められる。無視するのも気が引けて、渋々振り返る。上手く取り繕ったその表情は、次の瞬間たちまち崩れたに違いなかった。
あの時と全く同じ顔。全体が強張っているのに、唇だけがクリーチャーみたいに蠢動している。
「翼。俺は、母さんを、愛している」
 ひどく緩怠な口調で、彼はあの時と同じことを告げた。 
耳鳴りがする。沈黙しているのに、聴覚は静けさを許さなかった。
先に沈黙を破ったのは父の方だった。
「頭がよじれそうだ。痛くて仕方がない」
 前の言葉と何ら関連性のない発言だ。しかし、父の顔は未だに強張り、それでいて爬虫類のような無機質さが全面に押し出されていた。
「頭痛薬飲んで寝れば」
 引っ付いた唇を苦労して開いた。
これ以上父の顔を見ていたくない。かといって早急に逃げるのも気がとがめた。
迷った末に自室のドアを開ける。動揺の色を隠すようにして、ドアをそっと閉めた。
込み上げてくる記憶と感情を押し込めるようにして、俺は目を閉じた。
 
 
 
 
 ガラス越しの朝日が、瞼を照らす。
起き上がってすぐに、お腹が鳴った。そういえば昨日はほとんど食べていない。目覚まし時計をセットするのを忘れていたが、どうせ今日は休日だ。
いつもにまして冷たい床を踏みしめ、フローリングに向かう。
食卓には、ラップがかけられた朝食が並べられている。焦げた目玉焼きに、着色の目立つベーコンが添えられている。
父はいなかった。
気まずくなって出ていったのだろうか? そう思いかけた時、置き手紙があることに気付いた。
『仕事があるので行ってきます』
 走り書きをしたのか、筆跡は掠れていた。
「……痛っ」
 足の裏に何かがのめり込む。椅子に座ろうとして、気付かず踏みつけてしまったのだ。
座ってから片足を上げ、異物の正体を確認する。
硬く丸いもの。摘まむと石特有の冷たさが指先にまで伝わってきた。
蝶の鱗粉のようにはためく、小さな黄金の世界。
物語に出てくる金鉱でも、この絢爛さには及ばないはずだ。手のひらで転がすと、黒い筋がナイフの如き鋭い光を放った。

タイガーアイ。
 
父のブレスレットから弾けとんだものに違いなかった。
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