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第一話 ふわふわ卵焼き
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朝の光が差し込むキッチンは、静かだった。
静かすぎて、呼吸の音さえ妙に大きく響く。
冷蔵庫のモーター音が、低くくぐもっている。換気扇は回っていない。湯気も立たず、香りも音もない。ただ、沈黙だけが部屋の隅々にまで満ちていた。
成瀬陽一は、使い込まれた古い椅子に腰を下ろし、テーブルの上に置いた小さなノートをじっと見つめていた。まだ開いていないそのノートには、薄く埃が積もっている。
もう一年になる。
最愛の妻・梓が逝ってから、今日でちょうど一年。
命日だからといって、特別なことをしようとは思っていなかった。誰かを呼ぶ気にもなれなかったし、花を買いに行くことすら、朝の時点では考えていなかった。ただ、ふと目が覚めて、ふと立ち上がって、ふとキッチンに来た。それだけだった。
にもかかわらず、自然と手が伸びていた。吊り戸棚の、いちばん奥。普段は触れないその場所を、今日は迷わずに開けた。なぜか、自分でもわからなかった。
——いや、本当は、わかっていたのかもしれない。
そこで見つけたのが、このノートだった。
やや厚手の紙に、リングで綴じられたA5サイズのノート。カバーには、色あせたイラストのシールがいくつか貼られている。どれも動物の形をしていて、猫と、パンダと、うさぎ。梓が好きだったキャラクターだ。
表紙の右上に、丁寧な文字でこう書かれていた。
『あずさレシピ』
陽一は手のひらでそっと表紙を撫でた。紙の感触の下に、彼女の温度がまだ残っているような気がした。記憶の中の彼女は、いつもこのノートを手にしていた。食卓の端や、ソファの上や、キッチンの作業台で、レシピを書き足していた。料理番組を観ながら、スマホで何かを検索しながら、鼻歌をうたいながら。
彼女にとってこのノートは、ただのメモ帳ではなかったのだろう。
大切な「日々」の記録だった。
だからこそ、陽一はこの一年、一度も開けなかった。
見るのが怖かった。ページをめくるたびに、文字のひとつひとつに彼女の気配が宿っている気がして。言葉が、線が、形が、全部——生きていたころの彼女そのもののようで。
きっと耐えられないと思っていた。
けれど今日は、違った。
手は自然と、ノートの角をめくっていた。
ぺらり、と最初のページが開く。
そこには、丸い文字でこう書かれていた。
『ふわふわ卵焼き』
何でもない文字なのに、心臓が静かに跳ねる。
たったそれだけの言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
陽一はゆっくりと息を吐いた。まるで、深く息を吸うことさえ忘れていたかのように。
卵焼き。
それは、彼女との最初の記憶だった。
──大学三年の春。サークルの昼休み。
日当たりの良い屋上のベンチで、ひとりでコンビニのおにぎりを食べていた陽一に、声をかけてきたのが梓だった。
「よかったら、これ……どうぞ」
そう言って差し出された弁当箱。仕切りの隅に、小さく区切られて入っていた卵焼きは、驚くほど甘かった。
「甘っ……!」
思わず口に出すと、彼女はくすりと笑った。
「ごめんなさい。うち、関西風なの」
たしかに、ふわふわで、じんわり甘くて、ちょっとだけ出汁の香りがして。
それなのに、妙に懐かしい味がした。
あれが、すべての始まりだった──。
陽一は立ち上がった。ノートを片手に、冷蔵庫の扉を開ける。
卵は、まだ三つあった。幸い、賞味期限は今日まで。
「……よし」
ひとりごとのように呟いて、ボウルと菜箸を用意する。
埃をかぶっていたフライパンを引き出して、軽く水で洗う。コンロのスイッチをひねると、青い火がぱちりと灯った。
キッチンが、少しだけ息を吹き返す。
ノートにはこう書いてある。
『卵三つに、砂糖を大さじ1と1/2。塩を少し。出汁を少し入れて、よく混ぜてね。甘めだから、焦げやすいよ。焦がさないように、火加減注意!』
「焦がさないように、ね……」
思わず口に出して、ひとりで苦笑する。
行間から、声が聞こえる気がした。
やってみよう。
たとえうまくできなくても、今日だけは。
もう一度だけ——「ふわふわ卵焼き」を作ってみよう。
静かなキッチンに、卵を割る音が響いた。
静かすぎて、呼吸の音さえ妙に大きく響く。
冷蔵庫のモーター音が、低くくぐもっている。換気扇は回っていない。湯気も立たず、香りも音もない。ただ、沈黙だけが部屋の隅々にまで満ちていた。
成瀬陽一は、使い込まれた古い椅子に腰を下ろし、テーブルの上に置いた小さなノートをじっと見つめていた。まだ開いていないそのノートには、薄く埃が積もっている。
もう一年になる。
最愛の妻・梓が逝ってから、今日でちょうど一年。
命日だからといって、特別なことをしようとは思っていなかった。誰かを呼ぶ気にもなれなかったし、花を買いに行くことすら、朝の時点では考えていなかった。ただ、ふと目が覚めて、ふと立ち上がって、ふとキッチンに来た。それだけだった。
にもかかわらず、自然と手が伸びていた。吊り戸棚の、いちばん奥。普段は触れないその場所を、今日は迷わずに開けた。なぜか、自分でもわからなかった。
——いや、本当は、わかっていたのかもしれない。
そこで見つけたのが、このノートだった。
やや厚手の紙に、リングで綴じられたA5サイズのノート。カバーには、色あせたイラストのシールがいくつか貼られている。どれも動物の形をしていて、猫と、パンダと、うさぎ。梓が好きだったキャラクターだ。
表紙の右上に、丁寧な文字でこう書かれていた。
『あずさレシピ』
陽一は手のひらでそっと表紙を撫でた。紙の感触の下に、彼女の温度がまだ残っているような気がした。記憶の中の彼女は、いつもこのノートを手にしていた。食卓の端や、ソファの上や、キッチンの作業台で、レシピを書き足していた。料理番組を観ながら、スマホで何かを検索しながら、鼻歌をうたいながら。
彼女にとってこのノートは、ただのメモ帳ではなかったのだろう。
大切な「日々」の記録だった。
だからこそ、陽一はこの一年、一度も開けなかった。
見るのが怖かった。ページをめくるたびに、文字のひとつひとつに彼女の気配が宿っている気がして。言葉が、線が、形が、全部——生きていたころの彼女そのもののようで。
きっと耐えられないと思っていた。
けれど今日は、違った。
手は自然と、ノートの角をめくっていた。
ぺらり、と最初のページが開く。
そこには、丸い文字でこう書かれていた。
『ふわふわ卵焼き』
何でもない文字なのに、心臓が静かに跳ねる。
たったそれだけの言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
陽一はゆっくりと息を吐いた。まるで、深く息を吸うことさえ忘れていたかのように。
卵焼き。
それは、彼女との最初の記憶だった。
──大学三年の春。サークルの昼休み。
日当たりの良い屋上のベンチで、ひとりでコンビニのおにぎりを食べていた陽一に、声をかけてきたのが梓だった。
「よかったら、これ……どうぞ」
そう言って差し出された弁当箱。仕切りの隅に、小さく区切られて入っていた卵焼きは、驚くほど甘かった。
「甘っ……!」
思わず口に出すと、彼女はくすりと笑った。
「ごめんなさい。うち、関西風なの」
たしかに、ふわふわで、じんわり甘くて、ちょっとだけ出汁の香りがして。
それなのに、妙に懐かしい味がした。
あれが、すべての始まりだった──。
陽一は立ち上がった。ノートを片手に、冷蔵庫の扉を開ける。
卵は、まだ三つあった。幸い、賞味期限は今日まで。
「……よし」
ひとりごとのように呟いて、ボウルと菜箸を用意する。
埃をかぶっていたフライパンを引き出して、軽く水で洗う。コンロのスイッチをひねると、青い火がぱちりと灯った。
キッチンが、少しだけ息を吹き返す。
ノートにはこう書いてある。
『卵三つに、砂糖を大さじ1と1/2。塩を少し。出汁を少し入れて、よく混ぜてね。甘めだから、焦げやすいよ。焦がさないように、火加減注意!』
「焦がさないように、ね……」
思わず口に出して、ひとりで苦笑する。
行間から、声が聞こえる気がした。
やってみよう。
たとえうまくできなくても、今日だけは。
もう一度だけ——「ふわふわ卵焼き」を作ってみよう。
静かなキッチンに、卵を割る音が響いた。
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