亡き妻のノートと始める、ひとりごはん記

もちもちのごはん

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第四話 ちらし寿司

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 ノートのページをめくると、いきなり鮮やかなレシピが目に飛び込んできた。

 『ちらし寿司(お祝い・イベント用♡)』

 タイトルの横に、桜のシールが貼られている。
 さらにその下には、ピンクと黄色のペンで、子ども向けのアレンジレシピが手描きされていた。お花の形に抜かれたにんじん、星型の卵焼き、海苔を使って作る動物の顔——まるでキャラ弁のような細やかさ。

 ページ全体が、いつもと違う雰囲気だった。

 レシピの内容そのものはシンプルだ。寿司飯を炊いて、甘酢を混ぜる。具材はれんこん、にんじん、干し椎茸、炒り卵、きゅうり、海老。最後にいくらをちらして、三つ葉を添える。味つけは控えめで、食べやすく。

 それなのに、このページからは、まるで料理以上の何かがにじみ出ていた。

 ひとつひとつの具材に、メモが添えてある。

 『れんこんは輪切りで「未来が見える」縁起物!』

 『にんじんは柔らかめに煮てね。小さい子が食べやすいように』

 『卵は、ほんのり甘めがうちの味。星型にするとかわいいよ♡』

 そのすべてに、梓の「これから」への想いが込められていた。

「……あの時の、だな」

 陽一はそっと呟いた。

 妊娠がわかった日。あの日のちらし寿司だ。



 それは、春の終わりのことだった。

 まだ梅雨入り前の晴れた日曜日。
 陽一は洗濯物を干し、梓はリビングのソファでなにやらスマホを見つめていた。

「……陽一くん」

 珍しく、名前で呼ばれた。
 振り返ると、梓が真剣な表情でこちらを見ていた。
 目が潤んでいるような、でもその奥に喜びがあふれているような、そんな表情。

「……できたみたい」

「できた?」

「赤ちゃん」

 一瞬、言葉が出なかった。
 時間が止まったような気がした。洗濯バサミの音も、窓の外の車の音も、全部遠ざかって——ただ、その言葉だけが胸に響いた。

「ほんとに?」

「うん。病院でも確認してもらった。まだ小さいけど……ちゃんと、いるよ」

 彼女の手が、そっとお腹に添えられていた。

 陽一は、何も言えなかった。言葉が追いつかなかった。ただ、ゆっくりと歩み寄って、その手に自分の手を重ねた。

 その夜、梓はちらし寿司を作った。

「なんとなく、お祝いっぽいのがいいかなって」

 そう言いながら、キッチンで人参を煮ていた。にんじんは花形に切られていた。卵焼きは星型で、れんこんは輪切りになっていた。普段は見た目より味重視の彼女にしては、ずいぶん手の込んだ料理だった。

「この子、どっちだと思う? 男の子? 女の子?」

「……うーん、どっちだろ」

「名前、どうしようかなー」

 梓は、箸をくるくる回しながら楽しそうに話し続けた。

「女の子だったら、花の名前にしたいな。さくらとか、すみれとか。……あ、でも、もも、もかわいい!」

「それ、寿司の具とごっちゃにならない?」

「ひどーい!」

 そのやりとりが、まるで昨日のことのように思い出される。

 食卓に並んだちらし寿司は、華やかで、温かくて、ちょっとだけ照れくさかった。ふたりで「まだ親になる実感ないね」なんて言いながら、笑い合って食べた。

 ——あれが、未来の始まりだった。



 現在。
 陽一は、炊飯器の蓋を開けた。立ちのぼる湯気の向こうに、あの日の笑顔がよみがえる。

 米は研いで、水に浸けてから炊いた。具材もレシピどおり、あの日と同じように切り、煮て、混ぜる。干し椎茸の戻し汁で煮た甘辛いれんこんの香りが、部屋に広がっていく。錦糸卵を焼くときは、星型の型抜きを使ってみた。少し歪んだが、それも彼女っぽいと思えた。

 ノートを読み進めていくと、最後の一行がふいに目に飛び込んできた。

 『あなたの分も頑張るね』

 一瞬、何のことか理解できなかった。
 でも、次の瞬間——その意味が胸にしみた。

 彼女は、あの時もう覚悟していたのだ。
 新しい命を育むこと。その中で、自分に何が起きるかもわからない中で、それでも「あなたの分も」と言ってくれていたのだ。

 自分が、父親として、これからどう生きていくべきか。
 まだ何も決まっていない未来に向かって、彼女は一人でたくさんのことを考えてくれていた。

「梓……」

 思わず口から名前が漏れる。

 ちらし寿司の上に散らしたいくらが、宝石のように輝いていた。

 未来は、そこにあった。
 でも、その未来はもう来ない。

 彼女は、このレシピを遺して、いなくなった。

 けれど、レシピの中に、文字の中に、思い出の中に、彼女はまだ生きている。
 その確かさが、胸を打つ。

 陽一は、そっと箸を取り、ちらし寿司を一口。
 舌の上に広がったのは、酸味と甘み、そして記憶の味だった。
 ——あの日の、約束の味。
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