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第五話 豚汁
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ページの端が、ほんの少しだけ波打っていた。
きっと、濡れた指で触ったのだろう。
ノートの真ん中に大きく書かれているのは、「豚汁」の二文字。
その周囲に、レシピとは思えないほどの細かい注釈がびっしりと書き込まれていた。
『味噌は控えめ。塩分気をつけること!』
『にんじんは薄め、柔らかめ。れんこんは消化にいいって』
『豚肉は脂の少ないロース。細かく刻んで、軽く湯通ししてから!』
ページをめくるたびに、分量が少しずつ変わっているのがわかった。
味噌の量、出汁の濃さ、具材の大きさ、火加減。
そのどれもが、徐々に、やさしくなっていた。
——それはつまり。
「……」
陽一はノートをそっと閉じた。
けれど、その言葉たちは、もう焼きついてしまっていた。
そのレシピは、まぎれもなく——闘病の記録だった。
◇
彼女の体調がおかしくなったのは、ある春の日だった。
「最近、ちょっと食欲ないなって思ってて……」
最初はそんな程度だった。
けれど、何日経っても良くならず、病院で検査を受けた結果——。
病状は、すでに難しいところまで進行していた。
最初は信じられなかった。
体調の波はあるけれど、いつも笑っていたし、食べることが好きで、冗談ばかり言っていた。
そんな彼女が、病気になるなんて。
けれど、彼女は、受け入れるのが早かった。
「生きたいと思う。だから、治療はするよ。でも……ごはんもちゃんと食べたい」
そのとき、陽一はただ頷くしかなかった。
その言葉の意味が、どれほど切実だったか——その時点では、まだ想像できなかったのだ。
治療が始まると、梓の身体はどんどん痩せていった。
副作用で吐き気が強く、食べたものが戻ってしまうことも多かった。
それでも彼女は、料理をやめなかった。
「……味見くらいはできるし」
にっこり笑って、鍋の前に立つ姿は、以前と変わらなかった。
けれど、包丁を持つ手が細くなっていくのが、陽一には見えていた。
にんじんを薄く切るのに時間がかかるようになった。
出汁の味が分からなくなった日もあった。
それでも、彼女はノートに書き続けた。
どうすればもっと食べやすくなるか。
どうすれば、少しでも「美味しい」と思えるか。
どうすれば、ふたりの食卓が続けられるか。
その工夫のすべてが、このページに詰まっていた。
◇
陽一は冷蔵庫を開け、にんじんと大根、じゃがいも、こんにゃくを取り出す。
豚肉はロース。できるだけ脂の少ないものを選んだ。
あの日と同じように、熱湯で湯通しする。
鍋に具材を入れて、出汁で煮込む。
味噌を溶く前に、ひと呼吸おく。
ノートにはこう書かれていた。
『最後に、ひとすくいだけ入れる。味が薄くても、それがやさしい味』
その言葉が、どうしようもなく沁みた。
かつての陽一は、味噌汁は「味濃いめ」が好きだった。
具材は大きく、汁は出汁がしっかり効いているのが好みだった。
でも、彼女の身体が弱るにつれて、その味は少しずつ変わっていった。
「今日のは、ちょっと薄い?」
そう訊かれても、陽一は「ううん、美味しい」と答えていた。
それは嘘ではなかった。
たしかに味は淡かったけれど、それ以上に、彼女の作ってくれる、あたたかさが嬉しかった。
鍋から湯気が立ちのぼる。
薄い味噌の香り。にんじんとこんにゃくのやわらかな香り。
そのすべてが、あの時間の記憶を呼び起こす。
◇
病室でも、彼女はノートを開いていた。
点滴スタンドの隣、ベッドの脇の小さなテーブルの上。
鉛筆でメモを取っている姿を、陽一は何度も見た。
「これ、最後まで書きたいな。私、途中で放り出すの好きじゃないから」
そう言って笑った彼女は、目の下に濃い影を落としていた。
それでも、笑顔だけは変わらなかった。
「また……豚汁、作ってくれる?」
その問いに、彼女は「もちろん」と笑っていた。
——けれど、その約束は、果たされなかった。
退院することはできず、彼女はそのまま病室で……
ノートだけが、今も手元に残っている。
◇
火を止めて、鍋の蓋を開ける。
湯気が、ふわりと立ちのぼった。
その中に、彼女の笑顔が見えた気がした。
あの痩せた頬、優しく微笑む唇、そして静かな目元。
「味見くらいはできるし」
声が聞こえた気がした。
湯気が消えたあとも、その面影はずっと残っていた。
陽一は椀に豚汁を注ぎ、ゆっくりとひと口すする。
味は、淡い。
けれど、その淡さが心を包み込むようだった。
ノートの言葉どおり、「やさしい味」だった。
そしてその味こそが——彼女が、最後まで伝えようとした、想いだった。
きっと、濡れた指で触ったのだろう。
ノートの真ん中に大きく書かれているのは、「豚汁」の二文字。
その周囲に、レシピとは思えないほどの細かい注釈がびっしりと書き込まれていた。
『味噌は控えめ。塩分気をつけること!』
『にんじんは薄め、柔らかめ。れんこんは消化にいいって』
『豚肉は脂の少ないロース。細かく刻んで、軽く湯通ししてから!』
ページをめくるたびに、分量が少しずつ変わっているのがわかった。
味噌の量、出汁の濃さ、具材の大きさ、火加減。
そのどれもが、徐々に、やさしくなっていた。
——それはつまり。
「……」
陽一はノートをそっと閉じた。
けれど、その言葉たちは、もう焼きついてしまっていた。
そのレシピは、まぎれもなく——闘病の記録だった。
◇
彼女の体調がおかしくなったのは、ある春の日だった。
「最近、ちょっと食欲ないなって思ってて……」
最初はそんな程度だった。
けれど、何日経っても良くならず、病院で検査を受けた結果——。
病状は、すでに難しいところまで進行していた。
最初は信じられなかった。
体調の波はあるけれど、いつも笑っていたし、食べることが好きで、冗談ばかり言っていた。
そんな彼女が、病気になるなんて。
けれど、彼女は、受け入れるのが早かった。
「生きたいと思う。だから、治療はするよ。でも……ごはんもちゃんと食べたい」
そのとき、陽一はただ頷くしかなかった。
その言葉の意味が、どれほど切実だったか——その時点では、まだ想像できなかったのだ。
治療が始まると、梓の身体はどんどん痩せていった。
副作用で吐き気が強く、食べたものが戻ってしまうことも多かった。
それでも彼女は、料理をやめなかった。
「……味見くらいはできるし」
にっこり笑って、鍋の前に立つ姿は、以前と変わらなかった。
けれど、包丁を持つ手が細くなっていくのが、陽一には見えていた。
にんじんを薄く切るのに時間がかかるようになった。
出汁の味が分からなくなった日もあった。
それでも、彼女はノートに書き続けた。
どうすればもっと食べやすくなるか。
どうすれば、少しでも「美味しい」と思えるか。
どうすれば、ふたりの食卓が続けられるか。
その工夫のすべてが、このページに詰まっていた。
◇
陽一は冷蔵庫を開け、にんじんと大根、じゃがいも、こんにゃくを取り出す。
豚肉はロース。できるだけ脂の少ないものを選んだ。
あの日と同じように、熱湯で湯通しする。
鍋に具材を入れて、出汁で煮込む。
味噌を溶く前に、ひと呼吸おく。
ノートにはこう書かれていた。
『最後に、ひとすくいだけ入れる。味が薄くても、それがやさしい味』
その言葉が、どうしようもなく沁みた。
かつての陽一は、味噌汁は「味濃いめ」が好きだった。
具材は大きく、汁は出汁がしっかり効いているのが好みだった。
でも、彼女の身体が弱るにつれて、その味は少しずつ変わっていった。
「今日のは、ちょっと薄い?」
そう訊かれても、陽一は「ううん、美味しい」と答えていた。
それは嘘ではなかった。
たしかに味は淡かったけれど、それ以上に、彼女の作ってくれる、あたたかさが嬉しかった。
鍋から湯気が立ちのぼる。
薄い味噌の香り。にんじんとこんにゃくのやわらかな香り。
そのすべてが、あの時間の記憶を呼び起こす。
◇
病室でも、彼女はノートを開いていた。
点滴スタンドの隣、ベッドの脇の小さなテーブルの上。
鉛筆でメモを取っている姿を、陽一は何度も見た。
「これ、最後まで書きたいな。私、途中で放り出すの好きじゃないから」
そう言って笑った彼女は、目の下に濃い影を落としていた。
それでも、笑顔だけは変わらなかった。
「また……豚汁、作ってくれる?」
その問いに、彼女は「もちろん」と笑っていた。
——けれど、その約束は、果たされなかった。
退院することはできず、彼女はそのまま病室で……
ノートだけが、今も手元に残っている。
◇
火を止めて、鍋の蓋を開ける。
湯気が、ふわりと立ちのぼった。
その中に、彼女の笑顔が見えた気がした。
あの痩せた頬、優しく微笑む唇、そして静かな目元。
「味見くらいはできるし」
声が聞こえた気がした。
湯気が消えたあとも、その面影はずっと残っていた。
陽一は椀に豚汁を注ぎ、ゆっくりとひと口すする。
味は、淡い。
けれど、その淡さが心を包み込むようだった。
ノートの言葉どおり、「やさしい味」だった。
そしてその味こそが——彼女が、最後まで伝えようとした、想いだった。
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