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第八話 セシリア
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セシリア・アルジェントは、今日もノートを開く。
オルフェリア様観察日誌──現在、十八冊目。
朝の起床時刻:六時四分。
着用されたドレス:マリンブルーのベルベット。左肩にわずかな繊維の乱れあり。
食事:紅茶はダージリン。ミルク多め、砂糖なし。パンを裂いた指先が白魚のように震えていた。
発言数:今朝は全体で二十八語。使用された語彙は中立系が多い。
筆を走らせながら、セシリアは小さく息を吐いた。
(……本日も、完璧でしたわ)
ただ見ているだけでは意味がない。
記録して、把握して、理解して、すべてを掌握しなければ。
そうしなければ、愛される資格なんて、ないのだから。
◇
セシリアは幼い頃から、誰にも気づかれなかった。
姿勢が正しくても、褒められない。
話しかけても、返事がない。
泣いても、怒っても、何も変わらなかった。
彼女の存在は、家の中で「無かったこと」にされていた。
(じゃあ、どうすれば──気づいてもらえる?)
唯一、母が反応したのは、セシリアが兄の行動を逐一報告したときだった。
「まあ、よく見ていたのね。……ええ、ありがとう」
その一言が、彼女の価値観を決定づけた。
愛されるには、観察するしかない。
すべてを知り尽くさなければ、存在する意味がない。
それからのセシリアは、周囲のすべてを「記録」しはじめた。
家族、使用人、教師、クラスメイト。
そしてある日、彼女は──絶対的な存在に出会った。
オルフェリア・フォン・グリムハイト。
完璧な貴族。冷徹な眼差し。容赦ない物言い。
そのすべてが、セシリアの中の「記録欲」を呼び起こした。
(この人を、知り尽くしたい……)
知ることが、愛すること。
記録することが、近づくこと。
オルフェリアが朝、どちらの足から立ち上がるか。
スカートを翻す角度が、気分でどう変わるか。
誰と会話したときだけ、瞳が細くなるのか。
──彼女は、完璧だった。
だから、セシリアは記録し続けた。
(私が、オルフェリア様のすべてを残しておかないと……)
そう信じていた。
──けれど。
最近のオルフェリア様には、「記録できない何か」が増えてきた。
他の令嬢たちに向ける、無表情の中の微かな笑み。
命令されて従う騎士の頭を、ふっと撫でた指先。
紅茶を口に含んだ後、少しだけ笑った、理由のない気まぐれな笑顔。
その一つひとつが、セシリアの記録からこぼれ落ちていく。
(違う……こんなはずでは……)
焦燥、困惑、苛立ち。
完璧に記録しているはずの存在が、私の知らない顔を見せる。
それが、怖かった。
なぜなら彼女は、「知らなければ愛されない」と信じて生きてきたから。
記録できないオルフェリア様を、私は──。
どうやって、愛せばいいの?
◇
昼下がりのテラス。
陽の光は柔らかく、風は涼しい。
けれど、セシリアの胸の中には、ずっと重たいものが沈んでいた。
手帳を開いても、ペンが進まない。
オルフェリア様の動きは、以前よりもなめらかで、柔らかく、時折感情が混じる。
それは「進化」とも呼ぶべき変化だった。
──だが、セシリアにとっては「記録不能」の危機だった。
(このままでは……私の愛は、追いつけなくなる……)
彼女に許されているのは、観察だけ。
触れることも、話すことも、求めることもできない。
それなのに、ミレットは踏まれていた。
ヴィオラは命令を乞うようになった。
だけど自分は、ただ遠くから見ることしかできない。
私だけ……何も変われていないのでは?
◇
「セシリア」
呼びかけられて、心臓が跳ねた。
オルフェリア様が、微笑んでいた。
……否、違う。わたくしにだけ、微笑んでいた。
「ペン、止まってるわよ。今日は記録、しなくていいの?」
「あっ……い、いえ……っ、これは……その……」
動揺が、止まらない。
言葉が、詰まる。
思考が、記録のように整理されない。
(どうして……!? この表情……どのデータにも、載ってない……っ)
「セシリア」
もう一度、名を呼ばれた。
次の瞬間、オルフェリアがふわりとスカートを翻して、テーブル越しに身を寄せる。
そして、いたずらっぽく、ほんの少しだけ――微笑んだ。
「この顔、あなたの記録には、ないでしょ?」
その言葉は、セシリアの胸を突き刺した。
全身が、熱くなった。
冷たいはずの指先が震える。
ノートの角が、滲むほど汗ばんでいた。
「な、なぜ……いま、微笑まれたのですか……? どうして……そのような表情を……」
「理由なんて、いらないわ。ただの気まぐれよ」
「……記録できません……」
セシリアは、小さく呟いた。
「その笑顔も、声の調子も……今のあなたは、わたくしのデータのどこにも存在しませんの……」
「記録じゃなくて──「いま」を見なさい」
オルフェリアの声は、優しかった。
でも、その瞳は命令のように、強かった。
「記録なんて、燃やせとは言わない。でも、そばにいたいなら、「未来のページ」を見て頂戴」
その言葉が、セシリアの胸を撃ち抜いた。
「記録することでしか愛せない」と思っていた自分。
だけど、今この瞬間だけは──。
記録できない感情に、心を奪われていた。
◇
セシリアは手帳を閉じた。
ペンをしまい、目の前の紅茶を一緒に味わう。
ただそれだけの時間が、こんなにも満ちていたなんて。
「……オルフェリア様。もし……よろしければ……」
「なに?」
「本日から、観察だけでなく……おそばで、一緒に過ごしてもよろしいでしょうか」
「いいわ。これは許可じゃなくて、命令よ」
その言葉に、セシリアは、記録に残せないほど美しく笑った。
オルフェリア様観察日誌──現在、十八冊目。
朝の起床時刻:六時四分。
着用されたドレス:マリンブルーのベルベット。左肩にわずかな繊維の乱れあり。
食事:紅茶はダージリン。ミルク多め、砂糖なし。パンを裂いた指先が白魚のように震えていた。
発言数:今朝は全体で二十八語。使用された語彙は中立系が多い。
筆を走らせながら、セシリアは小さく息を吐いた。
(……本日も、完璧でしたわ)
ただ見ているだけでは意味がない。
記録して、把握して、理解して、すべてを掌握しなければ。
そうしなければ、愛される資格なんて、ないのだから。
◇
セシリアは幼い頃から、誰にも気づかれなかった。
姿勢が正しくても、褒められない。
話しかけても、返事がない。
泣いても、怒っても、何も変わらなかった。
彼女の存在は、家の中で「無かったこと」にされていた。
(じゃあ、どうすれば──気づいてもらえる?)
唯一、母が反応したのは、セシリアが兄の行動を逐一報告したときだった。
「まあ、よく見ていたのね。……ええ、ありがとう」
その一言が、彼女の価値観を決定づけた。
愛されるには、観察するしかない。
すべてを知り尽くさなければ、存在する意味がない。
それからのセシリアは、周囲のすべてを「記録」しはじめた。
家族、使用人、教師、クラスメイト。
そしてある日、彼女は──絶対的な存在に出会った。
オルフェリア・フォン・グリムハイト。
完璧な貴族。冷徹な眼差し。容赦ない物言い。
そのすべてが、セシリアの中の「記録欲」を呼び起こした。
(この人を、知り尽くしたい……)
知ることが、愛すること。
記録することが、近づくこと。
オルフェリアが朝、どちらの足から立ち上がるか。
スカートを翻す角度が、気分でどう変わるか。
誰と会話したときだけ、瞳が細くなるのか。
──彼女は、完璧だった。
だから、セシリアは記録し続けた。
(私が、オルフェリア様のすべてを残しておかないと……)
そう信じていた。
──けれど。
最近のオルフェリア様には、「記録できない何か」が増えてきた。
他の令嬢たちに向ける、無表情の中の微かな笑み。
命令されて従う騎士の頭を、ふっと撫でた指先。
紅茶を口に含んだ後、少しだけ笑った、理由のない気まぐれな笑顔。
その一つひとつが、セシリアの記録からこぼれ落ちていく。
(違う……こんなはずでは……)
焦燥、困惑、苛立ち。
完璧に記録しているはずの存在が、私の知らない顔を見せる。
それが、怖かった。
なぜなら彼女は、「知らなければ愛されない」と信じて生きてきたから。
記録できないオルフェリア様を、私は──。
どうやって、愛せばいいの?
◇
昼下がりのテラス。
陽の光は柔らかく、風は涼しい。
けれど、セシリアの胸の中には、ずっと重たいものが沈んでいた。
手帳を開いても、ペンが進まない。
オルフェリア様の動きは、以前よりもなめらかで、柔らかく、時折感情が混じる。
それは「進化」とも呼ぶべき変化だった。
──だが、セシリアにとっては「記録不能」の危機だった。
(このままでは……私の愛は、追いつけなくなる……)
彼女に許されているのは、観察だけ。
触れることも、話すことも、求めることもできない。
それなのに、ミレットは踏まれていた。
ヴィオラは命令を乞うようになった。
だけど自分は、ただ遠くから見ることしかできない。
私だけ……何も変われていないのでは?
◇
「セシリア」
呼びかけられて、心臓が跳ねた。
オルフェリア様が、微笑んでいた。
……否、違う。わたくしにだけ、微笑んでいた。
「ペン、止まってるわよ。今日は記録、しなくていいの?」
「あっ……い、いえ……っ、これは……その……」
動揺が、止まらない。
言葉が、詰まる。
思考が、記録のように整理されない。
(どうして……!? この表情……どのデータにも、載ってない……っ)
「セシリア」
もう一度、名を呼ばれた。
次の瞬間、オルフェリアがふわりとスカートを翻して、テーブル越しに身を寄せる。
そして、いたずらっぽく、ほんの少しだけ――微笑んだ。
「この顔、あなたの記録には、ないでしょ?」
その言葉は、セシリアの胸を突き刺した。
全身が、熱くなった。
冷たいはずの指先が震える。
ノートの角が、滲むほど汗ばんでいた。
「な、なぜ……いま、微笑まれたのですか……? どうして……そのような表情を……」
「理由なんて、いらないわ。ただの気まぐれよ」
「……記録できません……」
セシリアは、小さく呟いた。
「その笑顔も、声の調子も……今のあなたは、わたくしのデータのどこにも存在しませんの……」
「記録じゃなくて──「いま」を見なさい」
オルフェリアの声は、優しかった。
でも、その瞳は命令のように、強かった。
「記録なんて、燃やせとは言わない。でも、そばにいたいなら、「未来のページ」を見て頂戴」
その言葉が、セシリアの胸を撃ち抜いた。
「記録することでしか愛せない」と思っていた自分。
だけど、今この瞬間だけは──。
記録できない感情に、心を奪われていた。
◇
セシリアは手帳を閉じた。
ペンをしまい、目の前の紅茶を一緒に味わう。
ただそれだけの時間が、こんなにも満ちていたなんて。
「……オルフェリア様。もし……よろしければ……」
「なに?」
「本日から、観察だけでなく……おそばで、一緒に過ごしてもよろしいでしょうか」
「いいわ。これは許可じゃなくて、命令よ」
その言葉に、セシリアは、記録に残せないほど美しく笑った。
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