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第十話 ロゼット
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ロゼット・ミューザンには、愛し方がわからなかった。
幼い頃から、彼女は「普通」ができなかった。
笑い方がわからない。
拍手のタイミングがずれる。
空気を読むという言葉の意味が、ずっと理解できなかった。
だが、石や音や色は、彼女の声に応えた。
チョークで描いた線は、彼女の言葉よりも的確に“心”を表現し、
譜面に書いた罵倒の旋律は、胸の奥にある焦がれるような感情を代弁してくれた。
(わたくしには、芸術しかないのです)
芸術を通さなければ、誰も自分を見てくれない。
芸術を生み出すことでしか、他人の視線を引き寄せられない。
そう信じていた。
◇
「これは、オルフェリア様の『睨み』を再構築した連作シリーズですの。この斜光の入り方が、最高に冷たい軽蔑を表していて──」
「これは罵倒アリア第三楽章の草稿です。『吐き捨てるような音』にこだわって……」
「これは……」
「……これは……」
ロゼットは、黙った。
指先が触れたのは、白い石膏像。
未完成の、オルフェリア像。
顔はまだ彫られていない。輪郭も曖昧なまま、時間だけが過ぎている。
(どうして……これだけは、仕上げられないのかしら)
どんなに筆を振るっても、どんなにノミを振るっても、
この像だけは、完成のイメージにたどり着けなかった。
他の令嬢たちは言う。
「ロゼット様は、感情が読めない」
「天才だけど、人間味がない」
「ちょっと怖い……何を考えてるかわからない」
彼女は笑ったことがなかった。
他人と、心から向き合ったこともなかった。
けれど──。
オルフェリア様だけは、違った。
初めてその姿を見たとき。
美しいと思った。
冷たいと感じた。
そして、何よりも「彫りたい」と強く思った。
(この方こそが、わたくしのすべて。世界の美を凝縮した女神……この人なら、わたくしを見てくれる)
現実ではなく、芸術の中にいる存在。
だから彼女は、すべてを捧げた。
睨み、罵倒、足音、すべてを芸術に刻んだ。
だが──最近、何かが変わってきた。
セシリア・アルジェント。
かつては無言の同志だった彼女が、最近、「話す」ようになった。
記録を閉じて、笑うようになった。
手帳を持たずに、紅茶を飲んでいた。
オルフェリア様の隣で、ただそこにいるだけの時間を、幸福そうに過ごしていた。
(……変わったのね、あなたは)
そう、思った。
同時に、自分だけが「額縁の中」に置いてけぼりになった気がした。
ロゼットは、自室の片隅で未完成のオルフェリア像をじっと見つめた。
この像の顔を彫れないのは、なぜだろう。
美としては完成している。
でも、それだけでは足りないと、彼女の心が囁く。
(わたくしが……、本当に見せたいものは)
今さら気づいた。遅すぎるほどに。
(オルフェリア様……わたくしを、作品じゃなく、わたくし自身として、見ていただけますか……?)
◇
その日の夕暮れ、私はロゼットに呼び出されて、美術棟の奥、人気のないアトリエへと足を運んだ。
ロゼットは、静かにそこに立っていた。
絵の具のついた作業着。細く結ばれた赤髪。
そして、隣には――未完成のオルフェリア像。
「……今日は、完成を見届けていただきたくて」
「彫るの?」
彼女は小さく頷いた。
けれど、その手は震えていた。
「……でも、わたくし、ずっと彫れませんでしたの」
「なぜ?」
「『顔』が、わからなかったからです。わたくしが見ているオルフェリア様は、美しくて、冷たくて、完璧で――。だけど最近のあなたは……それだけじゃない顔を、なさるようになった」
ロゼットは、石像にそっと触れる。
「笑うようになって。優しい言葉をくれて。……他の子たちに、違う顔を見せて。わたくしの中の『オルフェリア像』が、壊れ始めたのです」
その言葉に、私は静かに近づき、ロゼットの隣に立った。
「壊れたのは、『像』じゃないわ」
彼女が、目を見開く。
「壊れかけていたのは、あなたよ。芸術に閉じこもって、自分を見てもらえない苦しさを、『美』で塗りつぶそうとしていた」
「わたくしが……?」
「ロゼット。よく聞いて」
私は、未完成の像に手を伸ばした。
そして、そっとロゼットの手をとって、自分の頬に触れさせた。
「芸術は素晴らしい。あなたの作品は、世界で一番、美しいわ」
ロゼットの目が揺れる。
「でもね、それよりも――あなた自身が、一番魅力的よ」
「……わたくしが?」
「あなたの震えも、迷いも、未完成なその手も。オルフェリア像なんかよりも、ずっと、ずっと――愛おしい」
その瞬間、ロゼットの目から、ぽたりと涙が落ちた。
「……そんなふうに……言っていただいたのは……はじめて……」
それは、芸術の神にも、誰にも与えられなかった“肯定”だった。
◇
ロゼットは、石像に背を向け、私の方を向いた。
「もう、像はいりませんわ」
そう呟く彼女の瞳は、どこか穏やかだった。
「これからわたくしが刻むのは、あなたの美ではなく……あなたとわたくしの、物語そのものですの」
芸術家の目が、「愛されたい少女」の瞳へと変わった瞬間だった。
「どうか……これからも、わたくしだけに、あなたの『完成しない姿』を、見せていただけませんか?」
「もちろん。わたくしの『未完成』は、あなただけのものよ」
◇
それからというもの、ロゼットの創作は変わった。
構図が優しくなった。筆が柔らかくなった。
表情の中に、孤独ではなく、希望の色が混ざるようになった。
「ロゼット、これは?」
「『オルフェリア様が微笑む前』の瞬間ですの。あの笑顔を、完全に描くつもりはありませんわ。だって、あの笑顔は……わたくしだけが、見るものですもの」
そう言って笑った彼女は、
ようやく「額縁の外」で、生きはじめたのだった。
幼い頃から、彼女は「普通」ができなかった。
笑い方がわからない。
拍手のタイミングがずれる。
空気を読むという言葉の意味が、ずっと理解できなかった。
だが、石や音や色は、彼女の声に応えた。
チョークで描いた線は、彼女の言葉よりも的確に“心”を表現し、
譜面に書いた罵倒の旋律は、胸の奥にある焦がれるような感情を代弁してくれた。
(わたくしには、芸術しかないのです)
芸術を通さなければ、誰も自分を見てくれない。
芸術を生み出すことでしか、他人の視線を引き寄せられない。
そう信じていた。
◇
「これは、オルフェリア様の『睨み』を再構築した連作シリーズですの。この斜光の入り方が、最高に冷たい軽蔑を表していて──」
「これは罵倒アリア第三楽章の草稿です。『吐き捨てるような音』にこだわって……」
「これは……」
「……これは……」
ロゼットは、黙った。
指先が触れたのは、白い石膏像。
未完成の、オルフェリア像。
顔はまだ彫られていない。輪郭も曖昧なまま、時間だけが過ぎている。
(どうして……これだけは、仕上げられないのかしら)
どんなに筆を振るっても、どんなにノミを振るっても、
この像だけは、完成のイメージにたどり着けなかった。
他の令嬢たちは言う。
「ロゼット様は、感情が読めない」
「天才だけど、人間味がない」
「ちょっと怖い……何を考えてるかわからない」
彼女は笑ったことがなかった。
他人と、心から向き合ったこともなかった。
けれど──。
オルフェリア様だけは、違った。
初めてその姿を見たとき。
美しいと思った。
冷たいと感じた。
そして、何よりも「彫りたい」と強く思った。
(この方こそが、わたくしのすべて。世界の美を凝縮した女神……この人なら、わたくしを見てくれる)
現実ではなく、芸術の中にいる存在。
だから彼女は、すべてを捧げた。
睨み、罵倒、足音、すべてを芸術に刻んだ。
だが──最近、何かが変わってきた。
セシリア・アルジェント。
かつては無言の同志だった彼女が、最近、「話す」ようになった。
記録を閉じて、笑うようになった。
手帳を持たずに、紅茶を飲んでいた。
オルフェリア様の隣で、ただそこにいるだけの時間を、幸福そうに過ごしていた。
(……変わったのね、あなたは)
そう、思った。
同時に、自分だけが「額縁の中」に置いてけぼりになった気がした。
ロゼットは、自室の片隅で未完成のオルフェリア像をじっと見つめた。
この像の顔を彫れないのは、なぜだろう。
美としては完成している。
でも、それだけでは足りないと、彼女の心が囁く。
(わたくしが……、本当に見せたいものは)
今さら気づいた。遅すぎるほどに。
(オルフェリア様……わたくしを、作品じゃなく、わたくし自身として、見ていただけますか……?)
◇
その日の夕暮れ、私はロゼットに呼び出されて、美術棟の奥、人気のないアトリエへと足を運んだ。
ロゼットは、静かにそこに立っていた。
絵の具のついた作業着。細く結ばれた赤髪。
そして、隣には――未完成のオルフェリア像。
「……今日は、完成を見届けていただきたくて」
「彫るの?」
彼女は小さく頷いた。
けれど、その手は震えていた。
「……でも、わたくし、ずっと彫れませんでしたの」
「なぜ?」
「『顔』が、わからなかったからです。わたくしが見ているオルフェリア様は、美しくて、冷たくて、完璧で――。だけど最近のあなたは……それだけじゃない顔を、なさるようになった」
ロゼットは、石像にそっと触れる。
「笑うようになって。優しい言葉をくれて。……他の子たちに、違う顔を見せて。わたくしの中の『オルフェリア像』が、壊れ始めたのです」
その言葉に、私は静かに近づき、ロゼットの隣に立った。
「壊れたのは、『像』じゃないわ」
彼女が、目を見開く。
「壊れかけていたのは、あなたよ。芸術に閉じこもって、自分を見てもらえない苦しさを、『美』で塗りつぶそうとしていた」
「わたくしが……?」
「ロゼット。よく聞いて」
私は、未完成の像に手を伸ばした。
そして、そっとロゼットの手をとって、自分の頬に触れさせた。
「芸術は素晴らしい。あなたの作品は、世界で一番、美しいわ」
ロゼットの目が揺れる。
「でもね、それよりも――あなた自身が、一番魅力的よ」
「……わたくしが?」
「あなたの震えも、迷いも、未完成なその手も。オルフェリア像なんかよりも、ずっと、ずっと――愛おしい」
その瞬間、ロゼットの目から、ぽたりと涙が落ちた。
「……そんなふうに……言っていただいたのは……はじめて……」
それは、芸術の神にも、誰にも与えられなかった“肯定”だった。
◇
ロゼットは、石像に背を向け、私の方を向いた。
「もう、像はいりませんわ」
そう呟く彼女の瞳は、どこか穏やかだった。
「これからわたくしが刻むのは、あなたの美ではなく……あなたとわたくしの、物語そのものですの」
芸術家の目が、「愛されたい少女」の瞳へと変わった瞬間だった。
「どうか……これからも、わたくしだけに、あなたの『完成しない姿』を、見せていただけませんか?」
「もちろん。わたくしの『未完成』は、あなただけのものよ」
◇
それからというもの、ロゼットの創作は変わった。
構図が優しくなった。筆が柔らかくなった。
表情の中に、孤独ではなく、希望の色が混ざるようになった。
「ロゼット、これは?」
「『オルフェリア様が微笑む前』の瞬間ですの。あの笑顔を、完全に描くつもりはありませんわ。だって、あの笑顔は……わたくしだけが、見るものですもの」
そう言って笑った彼女は、
ようやく「額縁の外」で、生きはじめたのだった。
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