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第28話 開戦
第28話・3 想い合う夜
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処置と検査が一段落し、夜の静けさが医務室に広がっている。
リルは白いベッドに横たわっていた。
鎮痛剤の影響で満足に動けないが、意識ははっきりと残っている。
天井の灯りが滲んで見えた。
「…………」
ゆっくりと瞬きをして、目を細めると──。
「……リル……寝てるフリ、意味ねーぞ」
「…………」
その低い声に反応して視線を横に動かすリル。
椅子に腰かけたセセラがカルテの整理もせず、ただリルを見ていた。
「……あー、バレてたか」
微かに笑うリル。しかしその笑みは、どこか苦くて脆かった。
セセラはゆっくり立ち上がり、ベッドの脇に歩み寄る。
「……ジキルの顔、見たんだってな」
「…………」
その言葉に、リルの瞼が一度だけ震える。
「……うん」
しばらく、言葉を探すように間が空いた。
「……生身じゃない、ただの映像だっつうのに……顔見ただけであんなに……冷静さ、欠けるとはな。“あの日”から、もう……ずっと、死んだと思ってたのに」
リルの声は低く、乾いている。
「……言葉にならねえ感情って、ほんとにあるんだな。ブッ殺したいとか泣きたいとかあったのに……あの時はただ、頭ん中が真っ白になって……」
ふと、口を閉じた。
リルの様子を見ながら、セセラは慎重に声をかけていく。
「……なあリル、それでも暴走もせず、準完全龍化もせずに……踏み留まったよな」
それだけを、静かに。
「……!」
リルは目を見開き、セセラを見上げる。
「よく……堪えたな」
セセラはいつになくまっすぐな眼差しで、しかし決して慰めではなく、評価でもなく──。
ただ、リルの選んだ生き方を見つめていた。
「……偉かったよ」
「……!」
一瞬、リルの表情が揺れる。
「……っ……」
いつもなら照れながら『うるせえ』と返していたであろうその言葉が、今はなぜか胸に深く刺さる。
「…………ありがと。薊野さん」
天井を見上げたまま、リルはそう呟いた。
「……なんか、少しだけ、救われた気がする」
「……なら良かった」
それ以上セセラは何も返さなかった。
ただ静かに、リルの枕元にカルテを置くと、小さくため息をついて呟く。
「……何があっても、自分を見失うなよ。お前はもう、誰の実験材料でも試作品でもねえ。……お前自身が選んで、ここに生きてるんだ」
その言葉に──。
「…………」
リルは目を閉じた。
胸の奥に、静かに何かが沁み込んでいくようだった。
◇
──夜の機関は、昼間の研究施設の忙しなさとは打って変わって静か。
照明は落とされ、足元灯だけが廊下をぼんやりと照らしている。
その中を、音を立てないように歩くひとりの少女の姿。
水色の髪に、眼帯。
疲労の色を隠しきれないまま、それでも足を止めなかった。
その少女──レイラ。
とある医務室の扉の前で、立ち止まる。
その中に、リルがいることを知っている。
「…………」
一度、深く息を吸い込んだ。
(……別に、気になってるわけじゃない。ただ、状態確認……それだけ)
自分に言い訳をするように、そっと扉を開ける。
薄暗い部屋。
静かに、機械のモニターが瞬いている。
ベッドの上、リルが眠っていた。
穏やかな呼吸。
帰還時の荒れた呼吸は、もう聞こえない。
レイラはそっと中へ入り、静かに椅子を引く。ほんの数秒、ただその横顔を見つめていた。
(……血の気、戻ってる。よかった……)
安堵と共に、視線が自然と胸元に落ちる。
あの爪が貫いた個体のことを思い出す。
リルは、ギリギリで堪えた。錯乱も、龍化の暴走もせず、自我を保ち続けた。
あの時のリルの声が、今も耳に残っている。
『──あいつらに出会って、仲間ができて……ッ、今、オレは今を選んで生きてんだよ!!』
(……リルは、すごく変わった。変わってくれた)
レイラは無意識に膝の上で指を組んだ。
「……ありがとうくらい、言いたかったのに」
無意識に漏れた小さな言葉に、レイラは自分で驚いたように目を見開く。
(……べ、別に、そういう意味じゃなくて……。危なかったし……助け合いってやつで……、あの、その……)
ひとりでモゾモゾと指先が落ち着かない。
──その時。
「……なに、ありがとうって……」
「──ッ!?」
ビクリと肩が跳ねるレイラ。
ベッドの中、目を開けたリルが少しだけ薄く笑っていた。
「……来てたの、お前」
「べっ、別に!? 気になってとかじゃなくて!? ただの見回りっていうか、様子見っていうか……!」
「うん、うん。なるほどねぇ……ありがとな、ただの見回りさん」
リルの茶化したような声に、レイラはムッと頬を膨らませる。
「う……うるさい……薊野さんみたいな茶化し方しないで……」
「……誰があの性悪だよ」
少しの沈黙。
その後レイラは息を整え、椅子に深く座り直した。
「……でも……ほんとに、よかったよ。無事で」
リルの赤い瞳は、静かにレイラを見つめている。
「……ああ。お前たちがいたから、堪えられたんだと思う。……マジで」
「……!」
その言葉に、レイラは反応できなかった。
ただ、俯いて──小さく、ふっと笑う。
部屋は、穏やかな空気に包まれていた。
やわらかな静けさの中。
「…………」
リルの瞼は、半分ほど下りていた。
レイラはそっと立ち上がろうとする。
長居は良くない、と自分に言い聞かせるように。
「……そろそろ、戻るね。私も、ちゃんと休まないと」
椅子を少し引いた──その瞬間だった。
「……お前、ここにいたら?」
「……え?」
小さく、確かに届いた声。
驚いて振り返ると、リルは視線を逸らしたまま──ボソッと続ける。
「……お前、オレの顔見に来たんだろ。別にそのまま……もう少しここにいればいいじゃねえか」
「……リル……?」
「ていうか……いろ。オレが寝てから戻れ。……命令」
唇を尖らせるように、どこか不機嫌そうに。
でも、それはきっと照れ隠し。
レイラは黙ってその姿を見つめた。
──ああ、なんだろう。懐かしい気持ち。
(……ひとりじゃ、どうにも寝られない時ってあるよね……)
思い出す。
かつて、腕を怪我したばかりの日。
ひとりだと眠れなくて苦しくて、セセラに「ここにいて」と無理にお願いした夜があった。
(……リル、ついに見たんだもんね……ジキルの、顔を)
心の奥底でずっと渦巻いていたものに、ついに触れてしまった夜。
それを受け止めて、なおも崩れなかったリルを、今支えてやれるのはきっと──自分だけ。
レイラは椅子を戻し、ゆっくり腰を下ろした。
「……いいよ。もう少しいる」
返事はすぐに返ってきた。
「ん。……まあ、秒で寝るから」
無愛想に答えたリルの顔はレイラからは見えなかったが、たぶん、ほんの少しだけ安心した顔をしてる──そんな気がした。
レイラは黙って、そっとその隣に座り続けた。
◇
深夜。
龍調査機関の職員寮エリアは、すっかり静まり返っていた。
今夜は自宅ではなく、機関内の自室にてベッドにひとり横たわっている──セセラ。
「…………」
眼鏡は外しているが、目は閉じられていない。
見えない瞳で天井を見つめたまま、ため息をひとつ。
(……眠れねえ)
肉体は疲れ果てている。
けれど、頭だけがずっと回転し続けていた。
今日の任務、リルの無茶、ジキルの登場、スカルの宣告。
(……コーヒー……切れてたんだっけか)
キッチンのストック棚が空になっていたのを思い出す。
仕方なく、セセラは眼鏡をかけ直して部屋着のまま外に出た。
職員寮エリアはまるでホテルのようだ。タイルカーペットが敷かれた静かな廊下を抜け、職員寮エリア内の休憩ラウンジの前まで来たとき──。
ふと、煙の匂いが鼻をかすめる。
「……あれ?」
ラウンジの窓際で、煙草をくゆらせていたのは──。
金のロングヘアの女性職員。
──ラルト。
「……あれ、薊野さん」
セセラは少し驚いた顔でラルトに近づく。
「……ラルトじゃん。こんな時間まで珍しいな。あんたも帰らねえでここに泊まり込み?」
ラルトは、やや気恥ずかしそうに笑った。
「そう。……色々調べてたら、いつの間にか遅くなっちゃって。今夜はここでいいかなあ~って」
「……あんたも、結構寝なくても平気な人だったっけな」
セセラの口調は、どこか懐かしげだった。
ラルトは肩をすくめる。
「そういう薊野さんこそ、無理してない?」
「……してる。けど、寝れねえ」
そう返すとセセラは小さく笑って、自販機にコインを入れた。
紙コップに注がれるホットコーヒーの音が、妙に静かに響く。
ラルトは灰を皿に落としながら、自分の煙草を1本、セセラへと差し出す。
「……一服、付き合う?」
「…………」
セセラは一瞬だけ迷ったのち、受け取った。
「……たまには、お前の煙草でもいいか」
静かなラウンジの片隅で、ふたりの職員は何も言わずに、暫く煙をくゆらせていた。
やがて、カラン……と灰皿に吸殻が落ちる音だけが響く。
ラルトとセセラは、しばらく黙って煙の消えたフィルターを見つめていた。
その沈黙を破ったのは、ラルト。
「……色々、あるねえ」
セセラは鼻で笑うように返す。
「色々、ありすぎだ。……おかげで最近寝不足だし、かと言って寝ようと思っても眠れねえし……」
カップの中のコーヒーを見ながら、セセラはぼそりと続けた。
「まあ、体は丈夫だからそんな気にしてねえけどよ」
「…………」
その言い方が、どこか諦め混じりだったのを──ラルトは聞き逃さなかった。
そっと、セセラの手元に視線を落とす。
「……でも、壊れないでね。薊野さん」
「ん?」
一瞬だけ、ラルトを見やるセセラ。
ラルトはゆっくりと、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「薊野さん、決して壊れないで……。薊野さんの存在は、あまりにも大きい」
「…………」
「機関としてもそう。所長も、レイラちゃんたちも……みんな、薊野さんの頑張りに支えられてる」
少し、視線を伏せるラルト。
「私は……ここが大好き。薊野さんが壊れたら、きっとここも壊れる。そんなのは……嫌だよ」
言い終えて顔を上げたラルトに、セセラはしばらく何も言わなかった。
だがやがて、ふっと口元だけを緩ませる。
「……ほんっと、ここにはお姫様が多いこと多いこと」
自嘲とも、優しさとも取れる声でそう返したその時──。
「…………」
ラルトの指先が、そっとセセラの手に触れた。
セセラはすぐに、それに気がついた。
そして、顔をラルトの方へ向ける。
その視線にラルトは、僅かに戸惑ったように微笑んで──。
「……私たち、結局仕事仲間っていう関係に戻ったけど……、わ……私のことも、お姫様として……見てくれる?」
少しだけ、空気が変わった。
「…………」
──薊野セセラと葉室ラルトには、婚歴がある。
気が合うところが多く、自然と交際に至り、結婚した。
しかし、どちらも仕事が多忙を極めていた。
それに加え、セセラはシエリという特別すぎる存在と幼い頃から共依存の関係にある。
お互い落ち着くまでは結婚したことを周囲には極力伏せていたが、職場も同じラルトとの関係を“日常”として築くことが、どこかで難しくなっていった。
ラルトは妊娠もしたが早期にその子は流れ──結局、ふたりは早々に籍を抜いた。
もう、3年ほど前の話だった。
──今のふたりに、その頃の空気は残っていない。
だが、無くなったわけでもなかった。
「…………」
視線を、合わせ続ける。
セセラは肩を揺らしながら、少し苦笑した。
「……ラルトお前、そういうこと言うタイプじゃねえだろ」
「どうしちゃったんだろ……。疲れちゃったのかな」
「……それはお互い様だ」
その言葉と共に、どちらからともなく──。
互いの距離が、顔が、ゆっくりと近づいた。
「…………」
触れ合った唇は、何も言わずに離れていく。
余計な言葉は無かった。
だが、その一瞬で交わされた感情は、昔のどんな口約束よりも確かだった。
そして、もう一度。
「……っ」
そっと唇が離れると、セセラが小さな声を漏らす。
「……誰かに見られたらヤベーな」
「ふふ……」
ラルトは目を伏せながら、微かに笑った。
セセラは少し考えるように視線を横に向けてから、コーヒーを飲み干すと──。
「……お前も寝れねえんだろ。……俺の部屋、来る?」
問う。
「…………」
ラルトは、その問いに返す言葉を探すこともせず──ただ黙って、こくりと頷いた。
◇
部屋のドアが閉まった瞬間、言葉も無く──。
「……っ……!」
ラルトがセセラに、セセラがラルトに、再び唇を重ね合った。
「んう……!」
先程よりも、深く。
まるで、誰にも邪魔されない場所でようやく息ができたように。
舌と舌が絡み合い、お互いの吐息が漏れた。
もつれるように足元が乱れ、ベッドに倒れ込む。
「……ッ……薊野さ、んっ……」
ラルトを押し倒すような格好で、セセラはその上に覆いかぶさっていた。
「……くそ……マジで……こんな……ガキじゃねえんだから……」
唇と唇の間で、そんな言葉が零れる。
だが、止まらない。
深く、何度も、貪るように唇を重ね合った。
まるで疲れた精神を取り戻すように。
空いた心の隙間を、埋めるように。
互いの存在を、改めて体温で確かめるように。
「……ん、……セセラくん……」
名前で呼ぶその呼び方は、当時ラルトが使っていたもの。
「……!」
一瞬、セセラの肩が揺れた。
ふたりの鼓動が重なっていく。
静かな夜に、それだけが妙にうるさく聞こえた。
「……眼鏡、外していいよ」
「……!」
囁くようなラルトの声に、動きが止まる。
「……っ、眼鏡取ったら……何にも見えねえの、知ってるだろ」
「いいの。見えなくて」
ラルトの瞳はまっすぐだった。
薄暗い部屋の中でも、そこに確かな光があった。
「今は、何も見えなくていい。見なくていい……焦りも、怒りも、不安も、葛藤も……。全部、私にぶつけて」
「…………っ」
セセラは目を見開いたまま、言葉を詰まらせる。
やがて、苦しげに眉を顰めた。
「……そんなこと、言うなよ……マジで……止まらなくなるから……」
それでもラルトは微笑んだ。
「止まらないで、いいから。私が、あなたの癒しとなれるなら……今夜は、それでいいんだよ」
その微笑みに、セセラの中で何かが──。
「……ッ……」
静かに、弾けていく。
「…………」
セセラは無言で眼鏡を外した。
視界が失われる。
でも、それでいい。
今夜だけは、何も見なくていい。
「……言ったな、お前」
呟いたその声は、少しだけ震えていた。
「……俺、色々……溜まってるから……知らねえぞ」
そして、唇が再び深く重なり合う。
そのままお互い、肌を顕にしていく。
それは優しさでもあり、依存でもあり、確かな渇き。
絡まる指先。
乱れていく呼吸。
押し殺そうにも漏れる声。
互いに触れ合う音──。
ベッドの上で、静かな夜の中で、響いていた。
「……は、あ……ぁ、……んっ……」
「……ん、ラルト……っ……」
(俺は……もう、壊れてるのかもしれない)
この夜、誰にも知られず──。
ふたりだけの赦しの時間が、そこに確かに存在していた。
リルは白いベッドに横たわっていた。
鎮痛剤の影響で満足に動けないが、意識ははっきりと残っている。
天井の灯りが滲んで見えた。
「…………」
ゆっくりと瞬きをして、目を細めると──。
「……リル……寝てるフリ、意味ねーぞ」
「…………」
その低い声に反応して視線を横に動かすリル。
椅子に腰かけたセセラがカルテの整理もせず、ただリルを見ていた。
「……あー、バレてたか」
微かに笑うリル。しかしその笑みは、どこか苦くて脆かった。
セセラはゆっくり立ち上がり、ベッドの脇に歩み寄る。
「……ジキルの顔、見たんだってな」
「…………」
その言葉に、リルの瞼が一度だけ震える。
「……うん」
しばらく、言葉を探すように間が空いた。
「……生身じゃない、ただの映像だっつうのに……顔見ただけであんなに……冷静さ、欠けるとはな。“あの日”から、もう……ずっと、死んだと思ってたのに」
リルの声は低く、乾いている。
「……言葉にならねえ感情って、ほんとにあるんだな。ブッ殺したいとか泣きたいとかあったのに……あの時はただ、頭ん中が真っ白になって……」
ふと、口を閉じた。
リルの様子を見ながら、セセラは慎重に声をかけていく。
「……なあリル、それでも暴走もせず、準完全龍化もせずに……踏み留まったよな」
それだけを、静かに。
「……!」
リルは目を見開き、セセラを見上げる。
「よく……堪えたな」
セセラはいつになくまっすぐな眼差しで、しかし決して慰めではなく、評価でもなく──。
ただ、リルの選んだ生き方を見つめていた。
「……偉かったよ」
「……!」
一瞬、リルの表情が揺れる。
「……っ……」
いつもなら照れながら『うるせえ』と返していたであろうその言葉が、今はなぜか胸に深く刺さる。
「…………ありがと。薊野さん」
天井を見上げたまま、リルはそう呟いた。
「……なんか、少しだけ、救われた気がする」
「……なら良かった」
それ以上セセラは何も返さなかった。
ただ静かに、リルの枕元にカルテを置くと、小さくため息をついて呟く。
「……何があっても、自分を見失うなよ。お前はもう、誰の実験材料でも試作品でもねえ。……お前自身が選んで、ここに生きてるんだ」
その言葉に──。
「…………」
リルは目を閉じた。
胸の奥に、静かに何かが沁み込んでいくようだった。
◇
──夜の機関は、昼間の研究施設の忙しなさとは打って変わって静か。
照明は落とされ、足元灯だけが廊下をぼんやりと照らしている。
その中を、音を立てないように歩くひとりの少女の姿。
水色の髪に、眼帯。
疲労の色を隠しきれないまま、それでも足を止めなかった。
その少女──レイラ。
とある医務室の扉の前で、立ち止まる。
その中に、リルがいることを知っている。
「…………」
一度、深く息を吸い込んだ。
(……別に、気になってるわけじゃない。ただ、状態確認……それだけ)
自分に言い訳をするように、そっと扉を開ける。
薄暗い部屋。
静かに、機械のモニターが瞬いている。
ベッドの上、リルが眠っていた。
穏やかな呼吸。
帰還時の荒れた呼吸は、もう聞こえない。
レイラはそっと中へ入り、静かに椅子を引く。ほんの数秒、ただその横顔を見つめていた。
(……血の気、戻ってる。よかった……)
安堵と共に、視線が自然と胸元に落ちる。
あの爪が貫いた個体のことを思い出す。
リルは、ギリギリで堪えた。錯乱も、龍化の暴走もせず、自我を保ち続けた。
あの時のリルの声が、今も耳に残っている。
『──あいつらに出会って、仲間ができて……ッ、今、オレは今を選んで生きてんだよ!!』
(……リルは、すごく変わった。変わってくれた)
レイラは無意識に膝の上で指を組んだ。
「……ありがとうくらい、言いたかったのに」
無意識に漏れた小さな言葉に、レイラは自分で驚いたように目を見開く。
(……べ、別に、そういう意味じゃなくて……。危なかったし……助け合いってやつで……、あの、その……)
ひとりでモゾモゾと指先が落ち着かない。
──その時。
「……なに、ありがとうって……」
「──ッ!?」
ビクリと肩が跳ねるレイラ。
ベッドの中、目を開けたリルが少しだけ薄く笑っていた。
「……来てたの、お前」
「べっ、別に!? 気になってとかじゃなくて!? ただの見回りっていうか、様子見っていうか……!」
「うん、うん。なるほどねぇ……ありがとな、ただの見回りさん」
リルの茶化したような声に、レイラはムッと頬を膨らませる。
「う……うるさい……薊野さんみたいな茶化し方しないで……」
「……誰があの性悪だよ」
少しの沈黙。
その後レイラは息を整え、椅子に深く座り直した。
「……でも……ほんとに、よかったよ。無事で」
リルの赤い瞳は、静かにレイラを見つめている。
「……ああ。お前たちがいたから、堪えられたんだと思う。……マジで」
「……!」
その言葉に、レイラは反応できなかった。
ただ、俯いて──小さく、ふっと笑う。
部屋は、穏やかな空気に包まれていた。
やわらかな静けさの中。
「…………」
リルの瞼は、半分ほど下りていた。
レイラはそっと立ち上がろうとする。
長居は良くない、と自分に言い聞かせるように。
「……そろそろ、戻るね。私も、ちゃんと休まないと」
椅子を少し引いた──その瞬間だった。
「……お前、ここにいたら?」
「……え?」
小さく、確かに届いた声。
驚いて振り返ると、リルは視線を逸らしたまま──ボソッと続ける。
「……お前、オレの顔見に来たんだろ。別にそのまま……もう少しここにいればいいじゃねえか」
「……リル……?」
「ていうか……いろ。オレが寝てから戻れ。……命令」
唇を尖らせるように、どこか不機嫌そうに。
でも、それはきっと照れ隠し。
レイラは黙ってその姿を見つめた。
──ああ、なんだろう。懐かしい気持ち。
(……ひとりじゃ、どうにも寝られない時ってあるよね……)
思い出す。
かつて、腕を怪我したばかりの日。
ひとりだと眠れなくて苦しくて、セセラに「ここにいて」と無理にお願いした夜があった。
(……リル、ついに見たんだもんね……ジキルの、顔を)
心の奥底でずっと渦巻いていたものに、ついに触れてしまった夜。
それを受け止めて、なおも崩れなかったリルを、今支えてやれるのはきっと──自分だけ。
レイラは椅子を戻し、ゆっくり腰を下ろした。
「……いいよ。もう少しいる」
返事はすぐに返ってきた。
「ん。……まあ、秒で寝るから」
無愛想に答えたリルの顔はレイラからは見えなかったが、たぶん、ほんの少しだけ安心した顔をしてる──そんな気がした。
レイラは黙って、そっとその隣に座り続けた。
◇
深夜。
龍調査機関の職員寮エリアは、すっかり静まり返っていた。
今夜は自宅ではなく、機関内の自室にてベッドにひとり横たわっている──セセラ。
「…………」
眼鏡は外しているが、目は閉じられていない。
見えない瞳で天井を見つめたまま、ため息をひとつ。
(……眠れねえ)
肉体は疲れ果てている。
けれど、頭だけがずっと回転し続けていた。
今日の任務、リルの無茶、ジキルの登場、スカルの宣告。
(……コーヒー……切れてたんだっけか)
キッチンのストック棚が空になっていたのを思い出す。
仕方なく、セセラは眼鏡をかけ直して部屋着のまま外に出た。
職員寮エリアはまるでホテルのようだ。タイルカーペットが敷かれた静かな廊下を抜け、職員寮エリア内の休憩ラウンジの前まで来たとき──。
ふと、煙の匂いが鼻をかすめる。
「……あれ?」
ラウンジの窓際で、煙草をくゆらせていたのは──。
金のロングヘアの女性職員。
──ラルト。
「……あれ、薊野さん」
セセラは少し驚いた顔でラルトに近づく。
「……ラルトじゃん。こんな時間まで珍しいな。あんたも帰らねえでここに泊まり込み?」
ラルトは、やや気恥ずかしそうに笑った。
「そう。……色々調べてたら、いつの間にか遅くなっちゃって。今夜はここでいいかなあ~って」
「……あんたも、結構寝なくても平気な人だったっけな」
セセラの口調は、どこか懐かしげだった。
ラルトは肩をすくめる。
「そういう薊野さんこそ、無理してない?」
「……してる。けど、寝れねえ」
そう返すとセセラは小さく笑って、自販機にコインを入れた。
紙コップに注がれるホットコーヒーの音が、妙に静かに響く。
ラルトは灰を皿に落としながら、自分の煙草を1本、セセラへと差し出す。
「……一服、付き合う?」
「…………」
セセラは一瞬だけ迷ったのち、受け取った。
「……たまには、お前の煙草でもいいか」
静かなラウンジの片隅で、ふたりの職員は何も言わずに、暫く煙をくゆらせていた。
やがて、カラン……と灰皿に吸殻が落ちる音だけが響く。
ラルトとセセラは、しばらく黙って煙の消えたフィルターを見つめていた。
その沈黙を破ったのは、ラルト。
「……色々、あるねえ」
セセラは鼻で笑うように返す。
「色々、ありすぎだ。……おかげで最近寝不足だし、かと言って寝ようと思っても眠れねえし……」
カップの中のコーヒーを見ながら、セセラはぼそりと続けた。
「まあ、体は丈夫だからそんな気にしてねえけどよ」
「…………」
その言い方が、どこか諦め混じりだったのを──ラルトは聞き逃さなかった。
そっと、セセラの手元に視線を落とす。
「……でも、壊れないでね。薊野さん」
「ん?」
一瞬だけ、ラルトを見やるセセラ。
ラルトはゆっくりと、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「薊野さん、決して壊れないで……。薊野さんの存在は、あまりにも大きい」
「…………」
「機関としてもそう。所長も、レイラちゃんたちも……みんな、薊野さんの頑張りに支えられてる」
少し、視線を伏せるラルト。
「私は……ここが大好き。薊野さんが壊れたら、きっとここも壊れる。そんなのは……嫌だよ」
言い終えて顔を上げたラルトに、セセラはしばらく何も言わなかった。
だがやがて、ふっと口元だけを緩ませる。
「……ほんっと、ここにはお姫様が多いこと多いこと」
自嘲とも、優しさとも取れる声でそう返したその時──。
「…………」
ラルトの指先が、そっとセセラの手に触れた。
セセラはすぐに、それに気がついた。
そして、顔をラルトの方へ向ける。
その視線にラルトは、僅かに戸惑ったように微笑んで──。
「……私たち、結局仕事仲間っていう関係に戻ったけど……、わ……私のことも、お姫様として……見てくれる?」
少しだけ、空気が変わった。
「…………」
──薊野セセラと葉室ラルトには、婚歴がある。
気が合うところが多く、自然と交際に至り、結婚した。
しかし、どちらも仕事が多忙を極めていた。
それに加え、セセラはシエリという特別すぎる存在と幼い頃から共依存の関係にある。
お互い落ち着くまでは結婚したことを周囲には極力伏せていたが、職場も同じラルトとの関係を“日常”として築くことが、どこかで難しくなっていった。
ラルトは妊娠もしたが早期にその子は流れ──結局、ふたりは早々に籍を抜いた。
もう、3年ほど前の話だった。
──今のふたりに、その頃の空気は残っていない。
だが、無くなったわけでもなかった。
「…………」
視線を、合わせ続ける。
セセラは肩を揺らしながら、少し苦笑した。
「……ラルトお前、そういうこと言うタイプじゃねえだろ」
「どうしちゃったんだろ……。疲れちゃったのかな」
「……それはお互い様だ」
その言葉と共に、どちらからともなく──。
互いの距離が、顔が、ゆっくりと近づいた。
「…………」
触れ合った唇は、何も言わずに離れていく。
余計な言葉は無かった。
だが、その一瞬で交わされた感情は、昔のどんな口約束よりも確かだった。
そして、もう一度。
「……っ」
そっと唇が離れると、セセラが小さな声を漏らす。
「……誰かに見られたらヤベーな」
「ふふ……」
ラルトは目を伏せながら、微かに笑った。
セセラは少し考えるように視線を横に向けてから、コーヒーを飲み干すと──。
「……お前も寝れねえんだろ。……俺の部屋、来る?」
問う。
「…………」
ラルトは、その問いに返す言葉を探すこともせず──ただ黙って、こくりと頷いた。
◇
部屋のドアが閉まった瞬間、言葉も無く──。
「……っ……!」
ラルトがセセラに、セセラがラルトに、再び唇を重ね合った。
「んう……!」
先程よりも、深く。
まるで、誰にも邪魔されない場所でようやく息ができたように。
舌と舌が絡み合い、お互いの吐息が漏れた。
もつれるように足元が乱れ、ベッドに倒れ込む。
「……ッ……薊野さ、んっ……」
ラルトを押し倒すような格好で、セセラはその上に覆いかぶさっていた。
「……くそ……マジで……こんな……ガキじゃねえんだから……」
唇と唇の間で、そんな言葉が零れる。
だが、止まらない。
深く、何度も、貪るように唇を重ね合った。
まるで疲れた精神を取り戻すように。
空いた心の隙間を、埋めるように。
互いの存在を、改めて体温で確かめるように。
「……ん、……セセラくん……」
名前で呼ぶその呼び方は、当時ラルトが使っていたもの。
「……!」
一瞬、セセラの肩が揺れた。
ふたりの鼓動が重なっていく。
静かな夜に、それだけが妙にうるさく聞こえた。
「……眼鏡、外していいよ」
「……!」
囁くようなラルトの声に、動きが止まる。
「……っ、眼鏡取ったら……何にも見えねえの、知ってるだろ」
「いいの。見えなくて」
ラルトの瞳はまっすぐだった。
薄暗い部屋の中でも、そこに確かな光があった。
「今は、何も見えなくていい。見なくていい……焦りも、怒りも、不安も、葛藤も……。全部、私にぶつけて」
「…………っ」
セセラは目を見開いたまま、言葉を詰まらせる。
やがて、苦しげに眉を顰めた。
「……そんなこと、言うなよ……マジで……止まらなくなるから……」
それでもラルトは微笑んだ。
「止まらないで、いいから。私が、あなたの癒しとなれるなら……今夜は、それでいいんだよ」
その微笑みに、セセラの中で何かが──。
「……ッ……」
静かに、弾けていく。
「…………」
セセラは無言で眼鏡を外した。
視界が失われる。
でも、それでいい。
今夜だけは、何も見なくていい。
「……言ったな、お前」
呟いたその声は、少しだけ震えていた。
「……俺、色々……溜まってるから……知らねえぞ」
そして、唇が再び深く重なり合う。
そのままお互い、肌を顕にしていく。
それは優しさでもあり、依存でもあり、確かな渇き。
絡まる指先。
乱れていく呼吸。
押し殺そうにも漏れる声。
互いに触れ合う音──。
ベッドの上で、静かな夜の中で、響いていた。
「……は、あ……ぁ、……んっ……」
「……ん、ラルト……っ……」
(俺は……もう、壊れてるのかもしれない)
この夜、誰にも知られず──。
ふたりだけの赦しの時間が、そこに確かに存在していた。
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