33 / 133
第9話 食事の時間です・前編
第9話・1 何かが見ている
しおりを挟む
時刻は既に夜。
ここは龍調査機関の、地下資料保管室。
分厚い書類棚の列を抜けた先、警備の目が届きにくい最奥の記録端末。
そこに、銀髪のひとりの男性職員が静かに座っていた。
淡い光の中、カタカタと端末を操作する細く白い指。シャープな輪郭の顔は伏せられ、黒い包帯が右目を覆っている。
この職員の名は──禰寝ネク。
機関に籍を置いて、もうすぐ3年。
研究能力に特化した職員として採用され、静かに、淡々と、無難に仕事をこなしてきた。
線が細く、物腰柔らかで、同僚との摩擦も無く。「真面目」「大人しい」「気づけばいるけど目立たない」──そんな印象で語られる人物。
……誰も、疑う者などいなかった。
(……龍因子データ更新完了。セクターD……対象A・B──両名一致記録……完了)
画面に映るのは、リルとレイラの因子波形。
それが“誰か”のデータベースへと、自動的にアップロードされていく。
“ある種の龍”が“餌”に反応するよう、慎重に選ばれた因子サンプルが学習用に提供されていた。
その行為に、迷いも罪悪感も無い。
「……ふぅ。これで、次の段階に進めますね」
伏せ目がちに小さく呟いた声に、喜びの色も無かった。
ただ、予定をひとつ完了させたという進行の確認にすぎない。
だが、その声とは裏腹に──包帯の奥の右目は、まるで青い龍の瞳へと変異していた。
そう──ネクもまた、異質な存在。
ネクは目元を伏せ、静かに立ち上がる。
ごく普通の、目立たぬ研究員のひとりとして、誰にも気づかれることなく。
「……さて。次の餌が、どれだけ暴れてくれるか……楽しみですね」
その声に、温度すらも無い。
ただ、底知れぬ冷酷さだけが滲んでいた。
◇
翌日の医療棟。
白い天井。柔らかいカーテン越しに射し込む朝の光。
リルは、ベッドの上でぼんやりと目を開けた。
「……ん、……今、何時だ……」
軽く寝返りを打つと、そのまま隣を見る。
そこには、隣のベッドで眠っているレイラの姿。
呼吸は安定していて、顔色も昨日より良さそうだった。
(……よかった。やっと落ち着いてきたか)
ふと、眠るレイラの左目が視界に入る。眼帯はしていない。
あの体から“何か”が漏れ出した瞬間の光景が、今もリルの脳裏に焼き付いていた。
(オレたち……何に狙われてんだ)
その疑問に対する答えはまだ得られていない。
すると──。
「…………ん……」
レイラが静かに目を覚ました。
「……あ…………リル、……起きてたの……」
掠れた声でそう言うと、リルは少しだけ眉を動かす。
「ああ……。よう、寝てろよ。まだ治りきっちゃいねえんだろ?」
「……そっちこそ」
ふたりはその短い会話だけで、なんとなく気持ちが通じ合った。
騒々しかった数日が嘘のような、静かな朝。
──別室、分析室。
「……で、昨日の監視データだが」
朝から機嫌の悪そうなセセラがいた。机の上に並べた端末の画面には、異常な波形が表示されている。
「何度見てもおかしい。ある時間帯、確かに誰かが因子サーバーにアクセスした形跡がある」
「…………」
隣にいたシエリは、静かに頷く。
「痕跡は薄いが、その痕跡を残したような形跡があるようにも見える。つまり、意図的だ」
「チッ……、内部犯、確定だな」
セセラはため息をついて、モニターを睨んだ。
「さあて……お楽しみの犯人探しか。めんどくせえ仕事増やしやがって……」
呟きながら、自嘲気味に笑う。
「全くだ。なんて事をしてくれたんだか……」
シエリもそう言いながら、神妙そうな顔つきでセセラを見やる。
「な。勘弁してくれよ……マジで」
セセラは立ち上がり、脱いでいた白衣を羽織った。
「……外堀から埋める。あの時、端末の記録を触れる立場にいた奴を洗い出すぞ」
「了解。……セセラ」
「ん?」
「くれぐれも、深追いは慎重に。敵が“人間の皮を被った何か”である可能性も否定できない」
その言葉に、セセラは真顔で頷く。
「……わかってるよ」
静かに、調査が始まった。
──資料端末を持ったまま、セセラは地下フロアへ向かう。龍因子関連の記録サーバーへアクセスできる権限を持つ職員は、ごく限られている。
(……俺と先生を除けば……十数人。そいつらのログを全て洗えば、何か出るはずだ)
廊下を歩く足音が、いつになく硬い。
そのまま個人ID管理室へ入り、端末に並ぶリストを睨みつける。
「こいつも……違う……、この時間帯には出張中……、こいつも物理ログ一致せず……」
静かに呟きながら、ひとつひとつ潰していく。
だが、あるひとつの名前で、セセラの指が止まった。
──『禰寝ネク』。
「……?」
知らないわけではない。大人しくて、現場でも目立たない研究員のひとり。
だが、なぜかこの名前だけが、すんなりと頭に入ってこなかった。
(……妙だな。ほとんど印象がねえ)
だが、アクセスログだけは正しく残っている。
対象時間帯──ピンポイント。
「……お前か……?」
◇
午後の療養室。
「あ」
レイラは本を閉じて、ふと顔を上げた。
「どうした?」
「……お腹、空いたかも」
「……そっちかよ」
リルは苦笑しながら立ち上がり、部屋の隅に置かれたインターホンのボタンを押す。
「──すみません、紅崎ですけど。食事……まだですかね」
『準備しております。まもなくお持ちしますね』
機械越しに聞こえる看護スタッフの声。リルは「どーも」と軽く返し、ベッドの端に腰を下ろした。
「なんか、日常に戻った気がしてくるな……こういう時間」
「そうだね。……でも」
ぼそりと呟くレイラ。
「……全部、本当の日常に戻るってわけじゃないんだよね。きっと」
「…………」
リルは少しだけ頷いた。
「それでも……オレは、今みたいなのが……ずっと続いてほしいと思うよ」
「…………うん」
扉の向こうで、小さくワゴンの音が響いてくる。
やがてふたりの前に昼食が運ばれてきた。
あたたかくて柔らかな香り。お粥と野菜のスープ、小鉢には鯖缶と大根の煮物。
「……やけに栄養バランス整ってんな」
「療養食だもん。まあ、ありがたいけど」
箸を手に取ったレイラは、静かに口をつける。リルもその隣で、無言のままスープをすすった。
外で見せるような大食いは無い。今はむしろ、それが自然だ。
「……リル」
「ん?」
「もし……もしも、またあんな風になったら、私は──」
レイラの言葉が言い終わる前に──。
突然、部屋の照明がちらついた。
「……?」
リルが顔を上げた瞬間、廊下から微かに、何かを引き摺るような異音が聞こえてくる。
「……今の、何……?」
「…………」
緊張が、一気に走った。
再び照明がチカチカと揺らぎ、壁の警報ランプが赤く点滅し始める。
──ただならぬ異常。
「……!?」
リルとレイラは、同時に立ち上がった。
──キィィ……ギィ……ギ……ッ……
何かを引き摺り擦っているような、金属とも肉ともつかない濁音が廊下に響いている。
「……どう考えても職員の足音じゃねえよな」
リルが低く呟くと同時に、廊下では警報ランプがピコッ……ピコッ……とゆっくりと明滅していた。
その赤色が廊下を怪しく照らすたび、天井の角や扉の淵に、影が濃く落ちていく。
「……レイラ……こっち来い」
「…………うん……」
リルはレイラを自分の背後に庇うように位置取り、そっと療養室の扉に近づく。
「……イタズラにしては可愛くねえな」
リルは目を細めながら、扉の横の制御パネルを見た。通常緑で点灯しているはずのステータスランプが、今は不穏なオレンジ色に切り替わっている。
──ピコン……ピコン…………ピ……
不規則に点滅するランプ。
まるで“息を潜めている者”の鼓動のようだった。
「リル……この感じ、なんとなくわかる…………」
僅かに震えるレイラの声。
リルは小さく息を吐くと、少し移動し部屋のロッカーから非常用の伸縮棒を取り出した。
そしてまた、レイラの前に戻る。
「……どんな奴が来ても、オレが前に出るから」
「うん……でも、私も……」
「……わかってるよ」
ふたりの間に、確かな決意の視線が交わる。
その瞬間──。
──ド ン ッ !!!
療養室の扉が、外から大きく叩かれた。
「ッ!!」
衝撃に空気が震える。レイラは小さく息を呑んだ。
「……来たな」
身構えるリル。
扉の隙間、覗き窓の向こう。
“何か”が、蠢いている。
だが、それはまだ形を見せていない。
──バァンッ!!!
扉が再度、外から蹴り飛ばされたかのように揺れた。
頑丈なセキュリティドアだ。そう簡単に破られるはずはない──のに、扉は歪みヒンジは悲鳴を上げて軋んでいる。
「……普通じゃねえ。やっぱりこの感じ……龍だな」
リルは低く呟き、伸縮棒を構え直す。
レイラは身を沈め、ロッカーをそっと開けて、緊急用の小型スタンガンを手にした。
「施設の中に龍がいるなんて……そんなこと……」
「……あったよ、前に。だけど、今のは……あの時より、もっと狙ってる感じがする」
レイラは眉をひそめる。
「誰を?」
「オレたちだろ……他にいるかよ、このタイミングで」
再び、扉に──“何か”が手を当てたような音。
ググ……ギリギリ……と金属がねじ曲がる嫌な音が室内に響いた。
その時。
──パチッ……
非常灯のひとつが、唐突に切れた。
直後に残りの灯りもバチッ、バチッ……と弾けるように消え、暗闇に変わった。
「リル!」
「っ、落ち着け……!」
闇の中、リルの瞳孔が細く縦に収束する。
視界が黒く塗り潰されても、リルの龍の目は微かな気配を捉えていた。
──動いている。
這うように、滑るように、扉の向こうを“それ”が動いている。
(まずい……突破されたら、レイラが……!)
その瞬間、警報が切り替わった。
──ブゥウウウウウ……ッ!!
『──非常事態コード・Ω──施設内に侵入者の可能性──職員は直ちに避難行動を──』
自動音声が繰り返す中、ようやく動きが起きる。
そして遠くからもバタバタと走る不気味な足音──。避難する職員のものではなさそうだった。
もうひとつの“何か”が駆けているのか。
「誰か来るよ……!」
「チッ……、何なんだよ……!」
レイラの手に握られたスタンガンが震える。
リルの手は扉に添えられ、あと一撃に備えていた。
──そして、扉の向こう。非常灯の明かりの下。
黒く、長く、異様に細い何かが、床を這うようにすり寄ってきている。
──ギィ……ッ……ズズ…………
床を擦る音と、警報のサイレンが交錯する。
レイラが目を凝らすと、薄暗い非常灯の光の中──細長い黒い尾のようなものが、床を這って近づいてくるのが歪んだ扉の隙間から見えた。
「……あれ、尻尾……?」
否、尾とは違う。
それは髪のようにも見えた。
粘液のように床に張り付きながら蠢く、生命体のようでもあり、無機物のようでもあった。
「……やっぱり、龍だよな、これ……」
リルが舌打ちと共に構えを強める。
扉はまだ保っている──が、時間の問題だ。
──ドゴォッ!!!
ついに、扉がひしゃげる音と共に、上部が内側にたわんだ。
「っ……ダメだッ……!!」
リルは叫び、レイラの手を引いた。
「後ろに下がれ! 非常通路に繋がる扉、手動で開けられるか!?」
「……やってみる!」
レイラは壁の裏側、緊急通路に繋がるハッチのレバーに飛びつく。
通常は職員専用。だがレイラも何度かここを使ったことがある。パネルは半壊していたが、手動レバーがまだ生きているのを確認した。
──ガチャリ……ッ!
「開いた!」
「よしっ、レイラ、先に──」
その瞬間、扉の覗き窓が──割れた。
鋭く伸びた黒い“何か”が、そこからニュルリと侵入してくる。
「ッ!!」
リルは反射的に棒を振り抜いた。
──バキィッ!!
鈍い音。何かが砕けるような音と共に、侵入しかけた“それ”が跳ね飛んだ。
「行け! レイラ!」
「でも──!」
「いいから!! オレもすぐ行く!」
レイラは悩んだ末に──。
「………ッ……」
歯を食いしばって通路に飛び込んだ。
その後をリルも滑り込む。
直後、破裂音のように、療養室の扉が吹き飛んだ。
暗闇から伸びてきた黒い“それ”が、ギィ……と音を立てながら、逃げたふたりの後を追う。
「…………ギ………………」
警報は鳴り続ける。
機関内部。
かつてない異常事態が、今、始まった。
ここは龍調査機関の、地下資料保管室。
分厚い書類棚の列を抜けた先、警備の目が届きにくい最奥の記録端末。
そこに、銀髪のひとりの男性職員が静かに座っていた。
淡い光の中、カタカタと端末を操作する細く白い指。シャープな輪郭の顔は伏せられ、黒い包帯が右目を覆っている。
この職員の名は──禰寝ネク。
機関に籍を置いて、もうすぐ3年。
研究能力に特化した職員として採用され、静かに、淡々と、無難に仕事をこなしてきた。
線が細く、物腰柔らかで、同僚との摩擦も無く。「真面目」「大人しい」「気づけばいるけど目立たない」──そんな印象で語られる人物。
……誰も、疑う者などいなかった。
(……龍因子データ更新完了。セクターD……対象A・B──両名一致記録……完了)
画面に映るのは、リルとレイラの因子波形。
それが“誰か”のデータベースへと、自動的にアップロードされていく。
“ある種の龍”が“餌”に反応するよう、慎重に選ばれた因子サンプルが学習用に提供されていた。
その行為に、迷いも罪悪感も無い。
「……ふぅ。これで、次の段階に進めますね」
伏せ目がちに小さく呟いた声に、喜びの色も無かった。
ただ、予定をひとつ完了させたという進行の確認にすぎない。
だが、その声とは裏腹に──包帯の奥の右目は、まるで青い龍の瞳へと変異していた。
そう──ネクもまた、異質な存在。
ネクは目元を伏せ、静かに立ち上がる。
ごく普通の、目立たぬ研究員のひとりとして、誰にも気づかれることなく。
「……さて。次の餌が、どれだけ暴れてくれるか……楽しみですね」
その声に、温度すらも無い。
ただ、底知れぬ冷酷さだけが滲んでいた。
◇
翌日の医療棟。
白い天井。柔らかいカーテン越しに射し込む朝の光。
リルは、ベッドの上でぼんやりと目を開けた。
「……ん、……今、何時だ……」
軽く寝返りを打つと、そのまま隣を見る。
そこには、隣のベッドで眠っているレイラの姿。
呼吸は安定していて、顔色も昨日より良さそうだった。
(……よかった。やっと落ち着いてきたか)
ふと、眠るレイラの左目が視界に入る。眼帯はしていない。
あの体から“何か”が漏れ出した瞬間の光景が、今もリルの脳裏に焼き付いていた。
(オレたち……何に狙われてんだ)
その疑問に対する答えはまだ得られていない。
すると──。
「…………ん……」
レイラが静かに目を覚ました。
「……あ…………リル、……起きてたの……」
掠れた声でそう言うと、リルは少しだけ眉を動かす。
「ああ……。よう、寝てろよ。まだ治りきっちゃいねえんだろ?」
「……そっちこそ」
ふたりはその短い会話だけで、なんとなく気持ちが通じ合った。
騒々しかった数日が嘘のような、静かな朝。
──別室、分析室。
「……で、昨日の監視データだが」
朝から機嫌の悪そうなセセラがいた。机の上に並べた端末の画面には、異常な波形が表示されている。
「何度見てもおかしい。ある時間帯、確かに誰かが因子サーバーにアクセスした形跡がある」
「…………」
隣にいたシエリは、静かに頷く。
「痕跡は薄いが、その痕跡を残したような形跡があるようにも見える。つまり、意図的だ」
「チッ……、内部犯、確定だな」
セセラはため息をついて、モニターを睨んだ。
「さあて……お楽しみの犯人探しか。めんどくせえ仕事増やしやがって……」
呟きながら、自嘲気味に笑う。
「全くだ。なんて事をしてくれたんだか……」
シエリもそう言いながら、神妙そうな顔つきでセセラを見やる。
「な。勘弁してくれよ……マジで」
セセラは立ち上がり、脱いでいた白衣を羽織った。
「……外堀から埋める。あの時、端末の記録を触れる立場にいた奴を洗い出すぞ」
「了解。……セセラ」
「ん?」
「くれぐれも、深追いは慎重に。敵が“人間の皮を被った何か”である可能性も否定できない」
その言葉に、セセラは真顔で頷く。
「……わかってるよ」
静かに、調査が始まった。
──資料端末を持ったまま、セセラは地下フロアへ向かう。龍因子関連の記録サーバーへアクセスできる権限を持つ職員は、ごく限られている。
(……俺と先生を除けば……十数人。そいつらのログを全て洗えば、何か出るはずだ)
廊下を歩く足音が、いつになく硬い。
そのまま個人ID管理室へ入り、端末に並ぶリストを睨みつける。
「こいつも……違う……、この時間帯には出張中……、こいつも物理ログ一致せず……」
静かに呟きながら、ひとつひとつ潰していく。
だが、あるひとつの名前で、セセラの指が止まった。
──『禰寝ネク』。
「……?」
知らないわけではない。大人しくて、現場でも目立たない研究員のひとり。
だが、なぜかこの名前だけが、すんなりと頭に入ってこなかった。
(……妙だな。ほとんど印象がねえ)
だが、アクセスログだけは正しく残っている。
対象時間帯──ピンポイント。
「……お前か……?」
◇
午後の療養室。
「あ」
レイラは本を閉じて、ふと顔を上げた。
「どうした?」
「……お腹、空いたかも」
「……そっちかよ」
リルは苦笑しながら立ち上がり、部屋の隅に置かれたインターホンのボタンを押す。
「──すみません、紅崎ですけど。食事……まだですかね」
『準備しております。まもなくお持ちしますね』
機械越しに聞こえる看護スタッフの声。リルは「どーも」と軽く返し、ベッドの端に腰を下ろした。
「なんか、日常に戻った気がしてくるな……こういう時間」
「そうだね。……でも」
ぼそりと呟くレイラ。
「……全部、本当の日常に戻るってわけじゃないんだよね。きっと」
「…………」
リルは少しだけ頷いた。
「それでも……オレは、今みたいなのが……ずっと続いてほしいと思うよ」
「…………うん」
扉の向こうで、小さくワゴンの音が響いてくる。
やがてふたりの前に昼食が運ばれてきた。
あたたかくて柔らかな香り。お粥と野菜のスープ、小鉢には鯖缶と大根の煮物。
「……やけに栄養バランス整ってんな」
「療養食だもん。まあ、ありがたいけど」
箸を手に取ったレイラは、静かに口をつける。リルもその隣で、無言のままスープをすすった。
外で見せるような大食いは無い。今はむしろ、それが自然だ。
「……リル」
「ん?」
「もし……もしも、またあんな風になったら、私は──」
レイラの言葉が言い終わる前に──。
突然、部屋の照明がちらついた。
「……?」
リルが顔を上げた瞬間、廊下から微かに、何かを引き摺るような異音が聞こえてくる。
「……今の、何……?」
「…………」
緊張が、一気に走った。
再び照明がチカチカと揺らぎ、壁の警報ランプが赤く点滅し始める。
──ただならぬ異常。
「……!?」
リルとレイラは、同時に立ち上がった。
──キィィ……ギィ……ギ……ッ……
何かを引き摺り擦っているような、金属とも肉ともつかない濁音が廊下に響いている。
「……どう考えても職員の足音じゃねえよな」
リルが低く呟くと同時に、廊下では警報ランプがピコッ……ピコッ……とゆっくりと明滅していた。
その赤色が廊下を怪しく照らすたび、天井の角や扉の淵に、影が濃く落ちていく。
「……レイラ……こっち来い」
「…………うん……」
リルはレイラを自分の背後に庇うように位置取り、そっと療養室の扉に近づく。
「……イタズラにしては可愛くねえな」
リルは目を細めながら、扉の横の制御パネルを見た。通常緑で点灯しているはずのステータスランプが、今は不穏なオレンジ色に切り替わっている。
──ピコン……ピコン…………ピ……
不規則に点滅するランプ。
まるで“息を潜めている者”の鼓動のようだった。
「リル……この感じ、なんとなくわかる…………」
僅かに震えるレイラの声。
リルは小さく息を吐くと、少し移動し部屋のロッカーから非常用の伸縮棒を取り出した。
そしてまた、レイラの前に戻る。
「……どんな奴が来ても、オレが前に出るから」
「うん……でも、私も……」
「……わかってるよ」
ふたりの間に、確かな決意の視線が交わる。
その瞬間──。
──ド ン ッ !!!
療養室の扉が、外から大きく叩かれた。
「ッ!!」
衝撃に空気が震える。レイラは小さく息を呑んだ。
「……来たな」
身構えるリル。
扉の隙間、覗き窓の向こう。
“何か”が、蠢いている。
だが、それはまだ形を見せていない。
──バァンッ!!!
扉が再度、外から蹴り飛ばされたかのように揺れた。
頑丈なセキュリティドアだ。そう簡単に破られるはずはない──のに、扉は歪みヒンジは悲鳴を上げて軋んでいる。
「……普通じゃねえ。やっぱりこの感じ……龍だな」
リルは低く呟き、伸縮棒を構え直す。
レイラは身を沈め、ロッカーをそっと開けて、緊急用の小型スタンガンを手にした。
「施設の中に龍がいるなんて……そんなこと……」
「……あったよ、前に。だけど、今のは……あの時より、もっと狙ってる感じがする」
レイラは眉をひそめる。
「誰を?」
「オレたちだろ……他にいるかよ、このタイミングで」
再び、扉に──“何か”が手を当てたような音。
ググ……ギリギリ……と金属がねじ曲がる嫌な音が室内に響いた。
その時。
──パチッ……
非常灯のひとつが、唐突に切れた。
直後に残りの灯りもバチッ、バチッ……と弾けるように消え、暗闇に変わった。
「リル!」
「っ、落ち着け……!」
闇の中、リルの瞳孔が細く縦に収束する。
視界が黒く塗り潰されても、リルの龍の目は微かな気配を捉えていた。
──動いている。
這うように、滑るように、扉の向こうを“それ”が動いている。
(まずい……突破されたら、レイラが……!)
その瞬間、警報が切り替わった。
──ブゥウウウウウ……ッ!!
『──非常事態コード・Ω──施設内に侵入者の可能性──職員は直ちに避難行動を──』
自動音声が繰り返す中、ようやく動きが起きる。
そして遠くからもバタバタと走る不気味な足音──。避難する職員のものではなさそうだった。
もうひとつの“何か”が駆けているのか。
「誰か来るよ……!」
「チッ……、何なんだよ……!」
レイラの手に握られたスタンガンが震える。
リルの手は扉に添えられ、あと一撃に備えていた。
──そして、扉の向こう。非常灯の明かりの下。
黒く、長く、異様に細い何かが、床を這うようにすり寄ってきている。
──ギィ……ッ……ズズ…………
床を擦る音と、警報のサイレンが交錯する。
レイラが目を凝らすと、薄暗い非常灯の光の中──細長い黒い尾のようなものが、床を這って近づいてくるのが歪んだ扉の隙間から見えた。
「……あれ、尻尾……?」
否、尾とは違う。
それは髪のようにも見えた。
粘液のように床に張り付きながら蠢く、生命体のようでもあり、無機物のようでもあった。
「……やっぱり、龍だよな、これ……」
リルが舌打ちと共に構えを強める。
扉はまだ保っている──が、時間の問題だ。
──ドゴォッ!!!
ついに、扉がひしゃげる音と共に、上部が内側にたわんだ。
「っ……ダメだッ……!!」
リルは叫び、レイラの手を引いた。
「後ろに下がれ! 非常通路に繋がる扉、手動で開けられるか!?」
「……やってみる!」
レイラは壁の裏側、緊急通路に繋がるハッチのレバーに飛びつく。
通常は職員専用。だがレイラも何度かここを使ったことがある。パネルは半壊していたが、手動レバーがまだ生きているのを確認した。
──ガチャリ……ッ!
「開いた!」
「よしっ、レイラ、先に──」
その瞬間、扉の覗き窓が──割れた。
鋭く伸びた黒い“何か”が、そこからニュルリと侵入してくる。
「ッ!!」
リルは反射的に棒を振り抜いた。
──バキィッ!!
鈍い音。何かが砕けるような音と共に、侵入しかけた“それ”が跳ね飛んだ。
「行け! レイラ!」
「でも──!」
「いいから!! オレもすぐ行く!」
レイラは悩んだ末に──。
「………ッ……」
歯を食いしばって通路に飛び込んだ。
その後をリルも滑り込む。
直後、破裂音のように、療養室の扉が吹き飛んだ。
暗闇から伸びてきた黒い“それ”が、ギィ……と音を立てながら、逃げたふたりの後を追う。
「…………ギ………………」
警報は鳴り続ける。
機関内部。
かつてない異常事態が、今、始まった。
4
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる