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第10話 食事の時間です・後編
第10話・1 記録の前菜で唆る食欲
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セセラとネク、そして異形が蠢く地下セクターDの封鎖区画。
煙がまだ晴れきらない通路の中心に、ぽつんと立つ細身の男のシルエット。
白衣の裾を翻し、銀髪がゆるく揺れる。
目元は伏せられていて、その表情は読めない。
ただ──空気が明らかに変わっていた。
「……誰?」
その問いはネクの声。笑みを保ったまま僅かに硬さを帯びる。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
黒い瞳。だがその奥に、どこかネクの目と同じような静けさを感じさせる──。
まるで、既にこちらの“思考の深部”まで覗いているような眼差しだった。
「騒がしいんですよ」
と、男はもう一度繰り返した。
「ボクの……食事の最中なんです。素材が逃げちゃうじゃないですか──ね?」
その言葉に、ネクの口元がぴくりと吊り上がる。
「へぇ……素材、ね。ずいぶんとまァ、趣味の悪い自己紹介じゃねェの。見た目も……オレの真似か何か?」
男は答えず、ただ一歩──前へ出る。
その足音に、セセラの背筋が一瞬ぞわりと震えた。
(……ネクでも、反応してる。あいつ、ネクと同種か? いや、それ以上の……)
「アナタ……ウチのモンじゃないですよね?」
ネクが問いかけると、男は微笑む。
「ええ。でも、アナタたちと違って、観察される側ではなく“観察する側”の席にずっと座っていたんですよ。……同じ皿には、乗りたくないので」
「……ッ」
その言葉に、ネクがほんの僅かに口元を引きつらせる。
「──名乗れよ。オレはネク。一応、礼儀ってもんがあるんじゃないです?」
男は、ゆっくりとネクに向き直った。
「名前、ですか」
そして──静かに、低く答える。
「クラヴィス……だったかな。これが、ボクの名前です」
新たなる影、クラヴィス。
そしてこの瞬間、セセラが踏み込んでしまった戦場は、もはや知っていたルールでは測れない領域へ突入する。
「クラヴィス……ねぇ」
ネクは唇の端を歪めながら、一歩だけ後ずさった。
指先には力がこもっている。だが、その目は珍しく相手の動きを警戒していた。
「で、そのクラヴィスさんは……何しにここに?」
「“観察”と“回収”ですよ。観察はもう済みました。次は……素材の鮮度が落ちる前に、いただいておこうかと」
「素材って……」
セセラが声を漏らす。
クラヴィスはそれに気づいたように、ゆっくりとセセラに視線を向けた。
「アナタも……なかなかに面白い“壊れ方”をする精神を持っていますよね。それを見てました。でも、今はまだ食べ頃じゃない。……あの子たちと違って」
「……『あの子たち』……リルと、レイラか……!?」
「ええ」
クラヴィスの瞳は、静かに、何の悪びれも無く言い放つ。
「アナタたちが封じていたはずの龍因子。それらは、既にボクの観察対象です」
その瞬間、ネクの指がピクッ……と動いた。
「……おい、待てよ。『ボクの』?」
微笑んだまま黙っているクラヴィス。
セセラの鼓動が、ゆっくりと速くなる。
『あの子たち』の因子。
『観察』──そして、『ボクの』。
(こいつ……ネクの目的とも違う気がする……!)
「……ッ……!」
セセラがクラヴィスを睨みつける傍で──。
「あんた、ひとりでこんなことを?」
ネクが問う。
その問いかけに、クラヴィスはただ、うっすらと笑みを浮かべたまま答えた。
「もちろん。晩酌というのは、ひとりでゆっくりやるのがいいんです」
その瞬間、通路の奥、封鎖されていた鉄の扉がギィ……と自動的に開いた。
冷たい風が吹き込む。
「……時間ですね。おしゃべりはここまで。素材の鮮度が落ちますから」
クラヴィスは、両手を白衣のポケットに入れ、扉の方へとゆっくり歩いていく。
「……じゃあ、また。今度はもう少し、調理しやすくなってると嬉しいです」
「おい、待て!!」
ネクが思わず声を荒げた瞬間──。
扉が、閉じた。
カシャン、と鋼鉄のロックがかかる。
「…………」
煙の中、静寂が戻った。
ネクは、僅かに息を呑みながらぽつりと呟く。
「……何なんですか、アイツ……」
セセラもまた、壁に手をついて深く息を吐いた。
「…………」
(…………クラヴィス……どこかで見たことあったか……?)
どこか拭えない違和感。
(俺たちの知らない存在が、まだ……いる──)
戦場は広がっている。
そしてその中心に──レイラとリルがいる。
「……チッ」
ネクが舌打ちした。
苛立ちを隠さない。彼の本来の気質が垣間見えた。
「…………はあ……」
セセラは荒い息を整えながら、ゆっくりと壁から体を離す。
「……おい、禰寝くん」
「…………何ですか?」
「お前……あんな顔、すんのな」
「……は?」
ネクはちらりとセセラを見た。
右目は今、能力を発動していない。
「さっき……敵を見てる顔だった。あのクラヴィスって奴に」
「…………」
一瞬、ネクが沈黙する。
その沈黙が、全てを物語っていた。
「まさか、テメェでも把握してねえ存在がいるとは思わなかったぜ。やっぱり、お前の観察範囲にも限界があんだな」
「…………ふっ……」
ネクは鼻で笑った。
「当たり前でしょ? この世界の全部を知ってるヤツなんていない。オレだって、神様じゃないんですよ」
その言葉に、セセラがふっと目を細める。
(……神様、ね)
「……ただのスパイ野郎かと思ってたけど、お前も……上から見下ろされるのは気に食わねぇ性分か?」
「──それは」
ネクは一瞬、目を伏せた。
「あの人以外にオレの上に立つ目があるのは……、気に食わないに決まってるでしょうが」
その声には、微かな怒気が滲んでいた。
(……あの人?)
セセラは思わず一瞬、息を止める。
(まあ……それは今はいい……。あいつ、自分の目が“全てを見通す”って信じてやがる。なのに、“視られる側”に回された)
「……で?」
今度はネクが呟いた。
「薊野さんは、見たこと、どうするんです?」
「…………」
「また自分たちの責任って言って、“先生”とふたりで抱える気?」
セセラは肩をゆっくりとすくめる。
「……そのつもりだった。けど……今回ばかりは違うな」
「ほう?」
「お前が手ェ出す前に……俺たちの手で、止める必要があるかもしれねえ」
その言葉に、ネクが「思いもよらなかった」という顔をした。
「……へぇ……。オレと同じ皿に乗る気になりました?」
「は? 誰が乗るかよバカ。ただ、クラヴィスとかいうヤベェのが来た今……お前の首が飛ぶのはまだ早ぇ、ってだけだ」
「ヒドいなぁ、薊野さん……。でも、気に入った」
ネクはニヤリと笑う。
「オレは忙しいのでアイツのことは任せますよ……。頑張ってくださいね? アナタたちにはまた会いたいので」
そして、ネクの姿は次の瞬間──煙と共にかき消えた。
「…………」
セセラは、静まり返った通路にひとり立ち尽くす。
その瞳の奥には、まだ揺らぎがあった。
(……クラヴィス……。何を、食おうとしてる……?)
そしてその視線の先には、遠くにある療養エリア。
──あのふたりの休む場所。
◇
午後の龍調査機関・療養エリア第12室。
「……ん、なんか、疲れが抜けねえ……」
リルはソファに横たわりながら、頭の後ろで手を組んで天井をぼんやりと見上げていた。
体温は平熱に戻っている。異常な龍化反応も、今のところ見られない。
それでも体の芯に残る熱が、どこかしら不安を掻き立てていた。
「……まだ本調子じゃないのかもね」
レイラは隣で湯呑みを片手に頷く。彼女もまた、目元にうっすらと疲労の色が残っている。
「そういえば……朝の検査、少しだけ引っかかってたんだって」
「……ああ。オレも結局そうだった」
ふたりの言葉が重なる。
「変な空気も、まだ続いてるし……」
ぽつりとレイラが呟いたその時。
廊下の方から、小さめなノック音が聞こえた。
──コン、コン……
「あ、はーい」
レイラが返事をすると、扉が開けられる。
控えめに顔を出したのは、朝に検査を担当してくれたあの女性職員だった。
「レイラちゃん、リルくん……。ちょっとだけ、いいかな?」
「……?」
「さっき、薊野さんから通達があって……ふたりには、今後しばらく完全監視下で生活してもらうことになったの。再発防止のため……っていう建前だけど、実際は何か起きるかもしれないって」
「……何か、って……」
レイラの問いのあとに、身を起こすリル。
「……それ、またオレらにしか起こらないことってやつか?」
女性職員は、申し訳なさそうに眉を下げて頷いた。
「……ごめん。でも、これ以上は私にも……」
「……ううん、大丈夫。伝えてくれてありがとう」
レイラが微笑みながら言うと、女性職員は小さく頭を下げて扉の向こうへ戻っていった。
──カチリ……
扉が閉まる音がして、静寂が訪れる。
「……オレたち、またモノ扱いか」
リルは乾いた声で呟いた。
「違うよ。ちゃんと……見てくれてる人もいた。朝だって」
レイラの声は穏やかだったが、どこか芯の強さを感じさせた。
リルはそれを聞いて、天井に向かってふぅと息を吐く。
「……なあ、レイラ」
「ん?」
「次、また龍が来たとき……オレ、たぶん一発じゃ立てねぇと思う」
「私も。……まだ、本調子じゃないから」
ふたりの視線が、重なる。
「でも立つよ。必ず」
静かに、だけど力強く。
レイラがそう言ったとき、リルの口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「……ん。オレも」
その時だった。
──ピピッ……
部屋の端末が、小さく警告音を鳴らした。
「……また?」
画面には、僅かに解析不能な波形──。
しかもそれは、ふたりの部屋を中心に広がっていた。
「……おいおい……今度はここから始まんのかよ……」
リルの心底呆れたような苦笑に、レイラがそっと立ち上がる。
ふたりの足元に、再び──不穏な霧のような気配が滲み始めていた。
「……なんか、この変な空気……重くない?」
眉をひそめるレイラ。
微かに肌に纏わりつくような違和感。
まるで、室内の空気が水のように流れ始めている感覚。
「……これ、ヤバいな」
リルも立ち上がった。
ソファの下に影のような気配が広がっている──。
触れるでもなく、揺れるでもなく、ただそこにいる。
そして。
──バチッ……!
室内の照明が一瞬だけ揺らぎ、低く軋むような音を立てて明滅した。
「またかよ……! こないだまで、死にかけてたっつーのに……!」
リルは自分の右腕を見やる。
体温の上昇、爪の先の疼き。
僅かに龍化の兆しが再び現れている。
「……レイラ」
「うん、感じてる。……いる。何かが、もうすぐそこに」
レイラもまた、左目を手で押さえながら呼吸を整えている。
「でも……今度は、立ってる。私たち……自分の足で」
──バチン!
今度は、完全に照明が落ちた。
室内は非常灯だけが赤く灯り、緊急アラートのランプがゆっくりと点滅する。
──ピッ……ピッ……
端末に緊急警告。
《未確認龍因子の反応。即時隔離処置を推奨》
「クソが……、こんなでっけえ機関のくせに、外からの侵入ひとつ防げねぇのかよ……! 経費どこに使われてんだ」
リルは口を歪めながら、壁の収納から用意されていた“携帯式対龍装備ケース”を、蹴り飛ばして開ける。
「レイラ、後ろ! 来るッ!」
──ズゥ……ン……!
部屋の奥の壁が、まるで溶けるように膨らんでいた。
そこから──赤黒い霧と共に、“異形の龍の輪郭”が滲み出す。
「ッ──間に合え……!」
リルはすぐさま装備を拾い上げ、レイラに投げる。
レイラもそのタイミングで“対龍用の手甲”を手際よく両腕に装着。
「行ける?」
「……わかんねえ。でもやるしかない」
ふたりは再び、背中を合わせて立つ。
病み上がり。
まだ完全じゃない。
けれど──。
「リル」
「なに」
「今度こそ、私たちの手で倒そう。また目覚めたらベッドの上……なんて、嫌だもん」
「……だな。もう寝てるヒマねえし……、オレら、“素材”じゃねぇからな」
その言葉と同時に──異形が牙を剥いた。
──ズシャアァッ!!
その姿はまだ完全な形を成していない。
ぼやけた輪郭、滑るような影の質感。
だが、その殺気だけはあまりに鮮明だった。
「動きが、まだ曖昧だ……!」
レイラは瞬時に分析し、床を蹴る。
その両手、対龍用手甲が霧を裂きながらまっすぐ異形の頭部へ──。
──ガンッ!!
が、手応えが無い。
「……ッ……空っぽ!?」
一瞬だけ触れた“体”は、中身がスカスカだった。
まるで、意志だけで動いている人形のような感触。
「……くっ、こんな形だけのやつ……!」
「でも放っとくと、他の部屋に回るぞ!!」
叫びながらリルは、龍化した爪を立てて滑り込むように異形の側面から回り込む。
──ズシャッ……!!
鋭く斬り裂かれた影のような龍の肉。
しかし──霧がすぐにそれを修復するように巻き戻す。
「チッ……再生すんのかよ……!」
「ううん……違う! リル、これ……中身がないから再生じゃない。形状維持が外殻で行われてる!」
「外だけで保ってるってやつか……!」
「ってことは……中身を見つけて潰せば、止まるかもしれない!」
ふたりの声が、一瞬で交錯する。
「行くぞ、レイラ!」
「うん……!!」
真横から接近し、手刀のように爪で頭部の殻を削り取るリル。
その内部に見えたのは──。
「……これ、眼球……!? いや、コアか……!?」
「そこだッ!」
レイラがすかさず飛び込む。
右手の手甲が、勢いよく突き出され──。
──バキィィンッッ!!
異形の核を撃ち抜いた瞬間、空間全体が波打つように歪んだ。
「消える……!?」
「……ああ。あいつの龍因子がバラけていく」
霧が収縮し、異形の龍は断末魔すら無くその場に溶けていくように姿を消した。
静寂──。
ふたりは、肩で息をしながらその場に立ち尽くす。
「……倒せた、よな?」
「うん……たぶん、ね……」
「…………」
パタン……とリルがソファに崩れた。
レイラも、ふらりとその隣に座り込む。
「はあ……まだ、まともに動ける体じゃないのにね……」
「でも、やっぱ……寝てるより、戦ってる方がオレららしいな」
「ふふ……、ね……」
しばしの静けさ。
だが、ふたりとも感じていた。
これは──まだ前菜に過ぎない。
“本体”は、まだ現れていない。
煙がまだ晴れきらない通路の中心に、ぽつんと立つ細身の男のシルエット。
白衣の裾を翻し、銀髪がゆるく揺れる。
目元は伏せられていて、その表情は読めない。
ただ──空気が明らかに変わっていた。
「……誰?」
その問いはネクの声。笑みを保ったまま僅かに硬さを帯びる。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
黒い瞳。だがその奥に、どこかネクの目と同じような静けさを感じさせる──。
まるで、既にこちらの“思考の深部”まで覗いているような眼差しだった。
「騒がしいんですよ」
と、男はもう一度繰り返した。
「ボクの……食事の最中なんです。素材が逃げちゃうじゃないですか──ね?」
その言葉に、ネクの口元がぴくりと吊り上がる。
「へぇ……素材、ね。ずいぶんとまァ、趣味の悪い自己紹介じゃねェの。見た目も……オレの真似か何か?」
男は答えず、ただ一歩──前へ出る。
その足音に、セセラの背筋が一瞬ぞわりと震えた。
(……ネクでも、反応してる。あいつ、ネクと同種か? いや、それ以上の……)
「アナタ……ウチのモンじゃないですよね?」
ネクが問いかけると、男は微笑む。
「ええ。でも、アナタたちと違って、観察される側ではなく“観察する側”の席にずっと座っていたんですよ。……同じ皿には、乗りたくないので」
「……ッ」
その言葉に、ネクがほんの僅かに口元を引きつらせる。
「──名乗れよ。オレはネク。一応、礼儀ってもんがあるんじゃないです?」
男は、ゆっくりとネクに向き直った。
「名前、ですか」
そして──静かに、低く答える。
「クラヴィス……だったかな。これが、ボクの名前です」
新たなる影、クラヴィス。
そしてこの瞬間、セセラが踏み込んでしまった戦場は、もはや知っていたルールでは測れない領域へ突入する。
「クラヴィス……ねぇ」
ネクは唇の端を歪めながら、一歩だけ後ずさった。
指先には力がこもっている。だが、その目は珍しく相手の動きを警戒していた。
「で、そのクラヴィスさんは……何しにここに?」
「“観察”と“回収”ですよ。観察はもう済みました。次は……素材の鮮度が落ちる前に、いただいておこうかと」
「素材って……」
セセラが声を漏らす。
クラヴィスはそれに気づいたように、ゆっくりとセセラに視線を向けた。
「アナタも……なかなかに面白い“壊れ方”をする精神を持っていますよね。それを見てました。でも、今はまだ食べ頃じゃない。……あの子たちと違って」
「……『あの子たち』……リルと、レイラか……!?」
「ええ」
クラヴィスの瞳は、静かに、何の悪びれも無く言い放つ。
「アナタたちが封じていたはずの龍因子。それらは、既にボクの観察対象です」
その瞬間、ネクの指がピクッ……と動いた。
「……おい、待てよ。『ボクの』?」
微笑んだまま黙っているクラヴィス。
セセラの鼓動が、ゆっくりと速くなる。
『あの子たち』の因子。
『観察』──そして、『ボクの』。
(こいつ……ネクの目的とも違う気がする……!)
「……ッ……!」
セセラがクラヴィスを睨みつける傍で──。
「あんた、ひとりでこんなことを?」
ネクが問う。
その問いかけに、クラヴィスはただ、うっすらと笑みを浮かべたまま答えた。
「もちろん。晩酌というのは、ひとりでゆっくりやるのがいいんです」
その瞬間、通路の奥、封鎖されていた鉄の扉がギィ……と自動的に開いた。
冷たい風が吹き込む。
「……時間ですね。おしゃべりはここまで。素材の鮮度が落ちますから」
クラヴィスは、両手を白衣のポケットに入れ、扉の方へとゆっくり歩いていく。
「……じゃあ、また。今度はもう少し、調理しやすくなってると嬉しいです」
「おい、待て!!」
ネクが思わず声を荒げた瞬間──。
扉が、閉じた。
カシャン、と鋼鉄のロックがかかる。
「…………」
煙の中、静寂が戻った。
ネクは、僅かに息を呑みながらぽつりと呟く。
「……何なんですか、アイツ……」
セセラもまた、壁に手をついて深く息を吐いた。
「…………」
(…………クラヴィス……どこかで見たことあったか……?)
どこか拭えない違和感。
(俺たちの知らない存在が、まだ……いる──)
戦場は広がっている。
そしてその中心に──レイラとリルがいる。
「……チッ」
ネクが舌打ちした。
苛立ちを隠さない。彼の本来の気質が垣間見えた。
「…………はあ……」
セセラは荒い息を整えながら、ゆっくりと壁から体を離す。
「……おい、禰寝くん」
「…………何ですか?」
「お前……あんな顔、すんのな」
「……は?」
ネクはちらりとセセラを見た。
右目は今、能力を発動していない。
「さっき……敵を見てる顔だった。あのクラヴィスって奴に」
「…………」
一瞬、ネクが沈黙する。
その沈黙が、全てを物語っていた。
「まさか、テメェでも把握してねえ存在がいるとは思わなかったぜ。やっぱり、お前の観察範囲にも限界があんだな」
「…………ふっ……」
ネクは鼻で笑った。
「当たり前でしょ? この世界の全部を知ってるヤツなんていない。オレだって、神様じゃないんですよ」
その言葉に、セセラがふっと目を細める。
(……神様、ね)
「……ただのスパイ野郎かと思ってたけど、お前も……上から見下ろされるのは気に食わねぇ性分か?」
「──それは」
ネクは一瞬、目を伏せた。
「あの人以外にオレの上に立つ目があるのは……、気に食わないに決まってるでしょうが」
その声には、微かな怒気が滲んでいた。
(……あの人?)
セセラは思わず一瞬、息を止める。
(まあ……それは今はいい……。あいつ、自分の目が“全てを見通す”って信じてやがる。なのに、“視られる側”に回された)
「……で?」
今度はネクが呟いた。
「薊野さんは、見たこと、どうするんです?」
「…………」
「また自分たちの責任って言って、“先生”とふたりで抱える気?」
セセラは肩をゆっくりとすくめる。
「……そのつもりだった。けど……今回ばかりは違うな」
「ほう?」
「お前が手ェ出す前に……俺たちの手で、止める必要があるかもしれねえ」
その言葉に、ネクが「思いもよらなかった」という顔をした。
「……へぇ……。オレと同じ皿に乗る気になりました?」
「は? 誰が乗るかよバカ。ただ、クラヴィスとかいうヤベェのが来た今……お前の首が飛ぶのはまだ早ぇ、ってだけだ」
「ヒドいなぁ、薊野さん……。でも、気に入った」
ネクはニヤリと笑う。
「オレは忙しいのでアイツのことは任せますよ……。頑張ってくださいね? アナタたちにはまた会いたいので」
そして、ネクの姿は次の瞬間──煙と共にかき消えた。
「…………」
セセラは、静まり返った通路にひとり立ち尽くす。
その瞳の奥には、まだ揺らぎがあった。
(……クラヴィス……。何を、食おうとしてる……?)
そしてその視線の先には、遠くにある療養エリア。
──あのふたりの休む場所。
◇
午後の龍調査機関・療養エリア第12室。
「……ん、なんか、疲れが抜けねえ……」
リルはソファに横たわりながら、頭の後ろで手を組んで天井をぼんやりと見上げていた。
体温は平熱に戻っている。異常な龍化反応も、今のところ見られない。
それでも体の芯に残る熱が、どこかしら不安を掻き立てていた。
「……まだ本調子じゃないのかもね」
レイラは隣で湯呑みを片手に頷く。彼女もまた、目元にうっすらと疲労の色が残っている。
「そういえば……朝の検査、少しだけ引っかかってたんだって」
「……ああ。オレも結局そうだった」
ふたりの言葉が重なる。
「変な空気も、まだ続いてるし……」
ぽつりとレイラが呟いたその時。
廊下の方から、小さめなノック音が聞こえた。
──コン、コン……
「あ、はーい」
レイラが返事をすると、扉が開けられる。
控えめに顔を出したのは、朝に検査を担当してくれたあの女性職員だった。
「レイラちゃん、リルくん……。ちょっとだけ、いいかな?」
「……?」
「さっき、薊野さんから通達があって……ふたりには、今後しばらく完全監視下で生活してもらうことになったの。再発防止のため……っていう建前だけど、実際は何か起きるかもしれないって」
「……何か、って……」
レイラの問いのあとに、身を起こすリル。
「……それ、またオレらにしか起こらないことってやつか?」
女性職員は、申し訳なさそうに眉を下げて頷いた。
「……ごめん。でも、これ以上は私にも……」
「……ううん、大丈夫。伝えてくれてありがとう」
レイラが微笑みながら言うと、女性職員は小さく頭を下げて扉の向こうへ戻っていった。
──カチリ……
扉が閉まる音がして、静寂が訪れる。
「……オレたち、またモノ扱いか」
リルは乾いた声で呟いた。
「違うよ。ちゃんと……見てくれてる人もいた。朝だって」
レイラの声は穏やかだったが、どこか芯の強さを感じさせた。
リルはそれを聞いて、天井に向かってふぅと息を吐く。
「……なあ、レイラ」
「ん?」
「次、また龍が来たとき……オレ、たぶん一発じゃ立てねぇと思う」
「私も。……まだ、本調子じゃないから」
ふたりの視線が、重なる。
「でも立つよ。必ず」
静かに、だけど力強く。
レイラがそう言ったとき、リルの口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「……ん。オレも」
その時だった。
──ピピッ……
部屋の端末が、小さく警告音を鳴らした。
「……また?」
画面には、僅かに解析不能な波形──。
しかもそれは、ふたりの部屋を中心に広がっていた。
「……おいおい……今度はここから始まんのかよ……」
リルの心底呆れたような苦笑に、レイラがそっと立ち上がる。
ふたりの足元に、再び──不穏な霧のような気配が滲み始めていた。
「……なんか、この変な空気……重くない?」
眉をひそめるレイラ。
微かに肌に纏わりつくような違和感。
まるで、室内の空気が水のように流れ始めている感覚。
「……これ、ヤバいな」
リルも立ち上がった。
ソファの下に影のような気配が広がっている──。
触れるでもなく、揺れるでもなく、ただそこにいる。
そして。
──バチッ……!
室内の照明が一瞬だけ揺らぎ、低く軋むような音を立てて明滅した。
「またかよ……! こないだまで、死にかけてたっつーのに……!」
リルは自分の右腕を見やる。
体温の上昇、爪の先の疼き。
僅かに龍化の兆しが再び現れている。
「……レイラ」
「うん、感じてる。……いる。何かが、もうすぐそこに」
レイラもまた、左目を手で押さえながら呼吸を整えている。
「でも……今度は、立ってる。私たち……自分の足で」
──バチン!
今度は、完全に照明が落ちた。
室内は非常灯だけが赤く灯り、緊急アラートのランプがゆっくりと点滅する。
──ピッ……ピッ……
端末に緊急警告。
《未確認龍因子の反応。即時隔離処置を推奨》
「クソが……、こんなでっけえ機関のくせに、外からの侵入ひとつ防げねぇのかよ……! 経費どこに使われてんだ」
リルは口を歪めながら、壁の収納から用意されていた“携帯式対龍装備ケース”を、蹴り飛ばして開ける。
「レイラ、後ろ! 来るッ!」
──ズゥ……ン……!
部屋の奥の壁が、まるで溶けるように膨らんでいた。
そこから──赤黒い霧と共に、“異形の龍の輪郭”が滲み出す。
「ッ──間に合え……!」
リルはすぐさま装備を拾い上げ、レイラに投げる。
レイラもそのタイミングで“対龍用の手甲”を手際よく両腕に装着。
「行ける?」
「……わかんねえ。でもやるしかない」
ふたりは再び、背中を合わせて立つ。
病み上がり。
まだ完全じゃない。
けれど──。
「リル」
「なに」
「今度こそ、私たちの手で倒そう。また目覚めたらベッドの上……なんて、嫌だもん」
「……だな。もう寝てるヒマねえし……、オレら、“素材”じゃねぇからな」
その言葉と同時に──異形が牙を剥いた。
──ズシャアァッ!!
その姿はまだ完全な形を成していない。
ぼやけた輪郭、滑るような影の質感。
だが、その殺気だけはあまりに鮮明だった。
「動きが、まだ曖昧だ……!」
レイラは瞬時に分析し、床を蹴る。
その両手、対龍用手甲が霧を裂きながらまっすぐ異形の頭部へ──。
──ガンッ!!
が、手応えが無い。
「……ッ……空っぽ!?」
一瞬だけ触れた“体”は、中身がスカスカだった。
まるで、意志だけで動いている人形のような感触。
「……くっ、こんな形だけのやつ……!」
「でも放っとくと、他の部屋に回るぞ!!」
叫びながらリルは、龍化した爪を立てて滑り込むように異形の側面から回り込む。
──ズシャッ……!!
鋭く斬り裂かれた影のような龍の肉。
しかし──霧がすぐにそれを修復するように巻き戻す。
「チッ……再生すんのかよ……!」
「ううん……違う! リル、これ……中身がないから再生じゃない。形状維持が外殻で行われてる!」
「外だけで保ってるってやつか……!」
「ってことは……中身を見つけて潰せば、止まるかもしれない!」
ふたりの声が、一瞬で交錯する。
「行くぞ、レイラ!」
「うん……!!」
真横から接近し、手刀のように爪で頭部の殻を削り取るリル。
その内部に見えたのは──。
「……これ、眼球……!? いや、コアか……!?」
「そこだッ!」
レイラがすかさず飛び込む。
右手の手甲が、勢いよく突き出され──。
──バキィィンッッ!!
異形の核を撃ち抜いた瞬間、空間全体が波打つように歪んだ。
「消える……!?」
「……ああ。あいつの龍因子がバラけていく」
霧が収縮し、異形の龍は断末魔すら無くその場に溶けていくように姿を消した。
静寂──。
ふたりは、肩で息をしながらその場に立ち尽くす。
「……倒せた、よな?」
「うん……たぶん、ね……」
「…………」
パタン……とリルがソファに崩れた。
レイラも、ふらりとその隣に座り込む。
「はあ……まだ、まともに動ける体じゃないのにね……」
「でも、やっぱ……寝てるより、戦ってる方がオレららしいな」
「ふふ……、ね……」
しばしの静けさ。
だが、ふたりとも感じていた。
これは──まだ前菜に過ぎない。
“本体”は、まだ現れていない。
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