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第12話 連休明け
第12話・5 怒りも、涙も、止まらない
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「……長くなったが、セセラ……聞いてくれてありがとう」
語り終えたシエリは、静かに息をついた。
「………………!!」
目の前でシエリを見上げていたセセラは、唇を微かに開けたまま、何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で動かない。
動かすことが、できなかった。
ただ、その瞳からは──。
「………………」
ぽた、ぽた……と。
大粒の涙が静かに零れ落ちていた。
頬を伝い、顎から滴り、床に染みを作る。
それでもセセラは、瞬きひとつしなかった。
まるで、ただ、事実に呑まれた者のように。
「…………」
シエリはその姿をじっと見つめていた。
そして、再び語り出す。
「私は、あえて黙っていたよ」
その言葉に、セセラの瞼が僅かに揺れた。
「……あれから、西城家のご両親が来た。『リルはうちの子と仲がいい子なので』と言ってね。特例として西城家の施設出入りを認めた」
「リルが少しでも回復するように。人との関係を築けるように」
「もちろんそれは、私個人の願いだ」
「でも、機関側の立場で見れば、龍化という超常現象、そして龍と直接渡り合える肉体能力」
「リルの存在は、機関にとって革命だった」
「だからこそ、真実は話さないようにした。……あの子が、壊れないように」
──セセラは声を出さない。
それでも、呼吸だけが小刻みに震えている。
「情報を漏らせば、誰かがリルに余計なことを言いかねない。だから私は、誰にも言わなかった」
「……そして、リルにも多くは聞かなかった」
長い、長い沈黙が、ふたりを包んだ。
何も動かない。
何も語らない。
ただ、セセラの涙が、ずっと落ち続けていた。
やがて、その沈黙を、破る声があった。
震える唇から、ようやく絞り出した、セセラの言葉。
それは──。
「……ばかに…………」
「しやがって………………!!」
その言葉は感情の爆発でもなければ、怒鳴り声でもなかった。
魂を捻り出すような、言葉にならない怒りと哀しみが。
震える声が。
部屋の空気を引き裂く。
「…………っ……」
そして、次の瞬間──。
「馬鹿にしやがってッ!!!」
セセラの叫びが爆発した。
「俺には話してくれても良かったじゃねえか!! 俺は先生を信用してんのにッ、先生は俺を信用できねえのか!!!」
「……ッ!!」
その声に、流石のシエリも一瞬だけ目を見開き、その気配に押されるように息が止まる。
「何だ!? 俺がリルと仲が良くなりすぎたからってか!? 当然だろッ俺が初めて機関での生き方教えたガキだぞッ!!!」
「ッ、セセラ……!」
眉をひそめ、小さく名を呼ぶシエリ。
しかし、セセラの怒りは収まらない。
「俺があの人とコンタクトを図ってたのも先生、あんたから見たら滑稽に見えてたかもな!!」
「それだって、ッ、それだって機関のためにと思ってやってたんだよ!! 虫唾が走るってか!! あ゙ァ!? どうなんだよッ!!!」
怒りに任せて、シエリの肩を掴む手に力が籠もる。
その震えが、ただの怒りではないことを示していた。
「……セセラ……!」
シエリの声がやや強くなったが、セセラは止まらない。
「じゃあ俺があの人と関わるのをあんたが最初っから止めてくれればよかったんじゃねえか!!?」
「俺は、あの人のこと“機関の元研究員”としか知らねェんだぞッ!!」
「元々同じ所にいて、顔も知れてて、連絡先も残ってりゃ、機関のためにあの人の知識を活かすことだってあるだろうが!!!」
「俺がッ! 俺がどれだけ……!! どれだけ毎日頭を悩ませて、機関のために働いてると思ってんだよ!!!」
空気が揺れる。
怒鳴り続けるセセラの体温が上がり、声に微かな掠れが混ざり始めた。
シエリはハッとする。
(……これは……)
セセラの瞳。
鮮やかな赤が、徐々に、深い茶色へと染まっていく。
それは、セセラが本来有している視えない瞳の色。
(……セセラの視界が、消えていっている)
セセラ自身はそれにすら構いもせず、癇癪を起こしたまま、なおも言葉を吐き続けていた。
そして、その瞳の変化は、シエリにとっては吸血欲求の発動を意味する。
「……ッ」
本能的な渇きが、喉の奥でざわついた。
小さな体が、無意識に一歩だけセセラに近づいてしまう。
「……セセラ……落ち着いてくれ……」
その声は、怒りを止めるためのものではなく、“自分の衝動”を止めるための哀願だった。
「……頼むから……!」
本能の波が、静かに、しかし確実に迫ってくる。
「……セセラッ!! 落ち着いてくれ、頼むッ……!! 悪かった、悪かったから……!!」
豹変したセセラの怒り。
それはただの激情ではない。
悲しみが、悔しさが、絶望が溶け込んだ──どうしようもない叫びだった。
「……ッ……!」
シエリの目にも、涙が浮かんでいた。
だが、セセラは止まらない。
「うるせえッ!!」
怒鳴ると同時に、拳を振り払うように空を裂く。
「あんたに拾われて、あんたの元で、……ずっと、働いて、これかよッ!!」
「俺の人生何だったんだよ!!!」
もう、ほとんど取っ組み合いだった。
シエリは自身の小さな体に手を伸ばしたセセラを、その手で受け止めた。
力では止められたはずだった。
自分は龍だ。
人間よりも遥かに強く、素早く、圧倒的なはずだった。
けれど──力が入らない。
(……血を、吸血を……しなければ……)
焦点の合わない目、手探りの暴力。
荒く乱れた呼吸と怒声に押され、頭が霞んでいく。
(このままでは……吸えないままでは……命が──)
今、人型を解いて本来の姿に戻れば、まだ体への負担を減らすことはできる。
しかしシエリは龍としての自分を解こうとすら思えなかった。
目の前のセセラの叫びが、あまりにも人間らしすぎて。
今は──“龍”じゃなく、“人”として向き合いたい。
だが限界は迫っていた。
「…………ッ、は、……っ、はあ……!!」
シエリもまた、呼吸が荒くなる。
喉が焼けるように渇いていた。
「ッ、セセラッ!! 今、見えてないだろう!? 落ち着いてくれッ!! 危ないからッ!!」
叫びながらも、シエリはその視線に焦点を合わせようとする。
取っ組み合いの中でセセラの眼鏡の位置はズレていた。
しかしそれを構う様子もない。
視力を失い、本来の茶色い瞳が剥き出しになっている。
視界が無くなった今、眼鏡をかけている意味も失われているのだ。
それでも、セセラは尚も怒鳴る。
「やっぱあんたも、所詮龍だなッ!!」
「人間の気持ちなんざ、わかるわけがねぇんだよッッ!!」
その言葉は、シエリの中にあった何かを──。
「……!!」
引き裂いた。
「黙れッッ!!!」
声が跳ねた瞬間。
シエリがその小さな体で、セセラを床へと思いっきり押し倒した。
──ガンッ!!と鈍い音を立てて、頭から倒れるセセラ。
「う……っ……!!」
首筋が無防備に晒された。
その刹那──。
「……ッ!!!」
シエリの牙が──。
セセラの首筋へ深く、
深く、
深く、突き刺さる。
「──あ゙……!!」
まるで、噛み殺すかのように。
「……ッ!! ……あ゙、ッ、痛ぇ゙……ッ!! はあッ、ァあ゙……うあッあ゙……ッ、……!!」
「…………!!!」
しかしそれは、シエリ自身をも、セセラ自身をも、落ち着かせるための渇望の制御だった。
セセラの体が震えている。
鋭利な牙が神経に直接触れ、龍由来の神経毒が血管を走る。
首筋を貫かれるその激烈な痛みに、声にならない叫びが漏れた。
脚も両腕も、ガクガクと痙攣する。
両手の爪が床に突き刺さりそうなほど力が入るが、その痙攣と痛々しい呻き声は制御できない。
シエリの瞳の瞳孔は縦に細くなり、爪は鋭く伸び、耳は尖り、髪はふわりと浮かび上がっていた。
「フーーッ……フーーーッ…………!!」
それでも、呼吸こそ荒いものの、その表情に猛りは無かった。
ただ、耐えているような、何かを止めているような、苦しげな顔。
セセラの瞳からは、涙が尚もとめどなく溢れ続けていた。
「………………ッ……」
やがて、シエリの鋭い牙が血を纏いながらずるりと抜ける。
滲んだ血が、首筋を伝って衣服を濡らす。
セセラの体から、力が抜けていった。
吸血によって体内を巡った神経毒が、徐々に激情の熱を鎮めていく。
「……はっ、……はっ……、はあっ……ッ、はあ…………!!」
呼吸はまだ落ち着かない。
けれど怒りは、少しずつ、どこかへ流れていった。
──心も、体も、もう暴れられない。
そして。
セセラの瞳に視界が、戻り始めた。
「…………」
暗かった世界に、少しずつ色が滲む。
目の前に、影がある。
人の姿。
「…………先生……」
掠れた声が、口をついて出る。
ゆっくりと顔を上げたその瞬間。
その視界に、最初に飛び込んできたのは。
「…………!」
唇を震わせながら涙を零している、シエリの顔だった。
その小さな頬に、大粒の涙がぽろぽろと流れている。
「……あ……」
セセラの肩が、微かに揺れた。
あの人が泣くなんて。
あの、冷静で、全てを見透かしていて、自分を拾ってくれた、あのシエリが。
「……泣くなよ、先生……」
震えながら、そう言った。
けれど、声は掠れている。
それでも、シエリは嗚咽を漏らすこともなく、そっと目元の涙を指先で拭って、セセラに向き合った。
「……ごめんね、セセラ」
静かに語られた言葉には、もう取り繕うような響きは無い。
「キミのことを……巻き込むって、わかっていたのに。……それでも、言えなかった」
「私は、キミが、苦しむ顔を見たくなかったんだ」
「でも……それは、私がキミを信じていなかったのと同じだったね」
涙を拭った手を、そっと差し出す。
「……ありがとう。怒ってくれて、ぶつけてくれて……ありがとう」
「キミが、私を『信じてた』って言ってくれて、……本当は、すごく嬉しかったんだよ」
セセラは、目を伏せた。
「…………」
もう涙は流れない。
だが、心の奥の熱だけは、まだそこにあった。
「……俺……ごちゃごちゃしてて……何が怒りで、何が哀しみかも、わかんなくて……」
「……でも……先生が、泣いてんの見たら…………もう、なんか、いいやって……思っちまった」
ふっ……、とシエリが目を細める。
セセラの首に残る牙痕を、そっと指先でなぞってから──。
「それでいい」
その額に、自分の額を合わせた。
「今は、何も考えなくていい。……今日はもう、休もう」
「…………」
セセラはただ、小さく頷いた。
涙の夜が、静寂に包まれる。
◇
あれほど怒声と涙に溢れていた部屋に、今は静かな空気が流れていた。
ソファの上。
セセラは毛布にくるまり、ようやく落ち着きを取り戻していた。
傍らには、まだ耳や爪に龍の特徴を残したままのシエリ。
ピンクの瞳の瞳孔は元の丸い形に戻っていたが、その瞼はどこか、眠たげに揺れていた。
「……これ、レイラからだったね」
テーブルの上に置かれていた、小さな包み。
黄色の包装紙に、水色のリボン。
そこだけが、今日という日を越えた“優しさの証”のように光っていた。
セセラは少しだけ照れくさそうに手を伸ばして、包装紙を丁寧に外していく。
決して、破くことはしなかった。
「……あいつ……俺のことどんだけ気にしてんだよ」
そして箱をパカッと開けると──。
「……わぉ、可愛い~……。見て、先生」
中には可愛らしい焼き菓子がいくつか詰まっていた。
「見た目だけで……すげえ美味そう」
「……ああ。たぶん、キミのことを思って大切に選んだんだよ。あの子のことだから」
そう言って、シエリはひとつ手に取った。
セセラも、ぎこちなくひとつを口に運ぶ。
「……!」
噛んだ瞬間、ふわっと広がる甘さとバターの香りに、ふたりはしばし言葉を失った。
そして──。
「……うまっ」
「フフ、やっぱり?」
「……んふふ」
ほんの少し、ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。
さっきまで牙を突き立てていた相手と、こんなふうにお菓子を分け合ってるなんて。
なんだか、夢みたいだと、セセラは思った。
「……レイラに、ちゃんと礼言わねえとな……」
「それは、明日でもいいさ」
「……そっか」
あの怒鳴り合いも、涙も、痛みも、全部が過去になったわけじゃない。
でも今は──甘いお菓子の味が、それらを静かに包んでくれていた。
ゆるやかな時間が、ふたりを癒していく。
灯りがほんの少し落とされ、部屋の空気が夜の静寂に戻っていく中。
肩を寄せ合うふたりの間に、穏やかな気配だけが確かに残っていた。
「明日は、ちゃんと出勤しねえとな」
第12話 完
語り終えたシエリは、静かに息をついた。
「………………!!」
目の前でシエリを見上げていたセセラは、唇を微かに開けたまま、何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で動かない。
動かすことが、できなかった。
ただ、その瞳からは──。
「………………」
ぽた、ぽた……と。
大粒の涙が静かに零れ落ちていた。
頬を伝い、顎から滴り、床に染みを作る。
それでもセセラは、瞬きひとつしなかった。
まるで、ただ、事実に呑まれた者のように。
「…………」
シエリはその姿をじっと見つめていた。
そして、再び語り出す。
「私は、あえて黙っていたよ」
その言葉に、セセラの瞼が僅かに揺れた。
「……あれから、西城家のご両親が来た。『リルはうちの子と仲がいい子なので』と言ってね。特例として西城家の施設出入りを認めた」
「リルが少しでも回復するように。人との関係を築けるように」
「もちろんそれは、私個人の願いだ」
「でも、機関側の立場で見れば、龍化という超常現象、そして龍と直接渡り合える肉体能力」
「リルの存在は、機関にとって革命だった」
「だからこそ、真実は話さないようにした。……あの子が、壊れないように」
──セセラは声を出さない。
それでも、呼吸だけが小刻みに震えている。
「情報を漏らせば、誰かがリルに余計なことを言いかねない。だから私は、誰にも言わなかった」
「……そして、リルにも多くは聞かなかった」
長い、長い沈黙が、ふたりを包んだ。
何も動かない。
何も語らない。
ただ、セセラの涙が、ずっと落ち続けていた。
やがて、その沈黙を、破る声があった。
震える唇から、ようやく絞り出した、セセラの言葉。
それは──。
「……ばかに…………」
「しやがって………………!!」
その言葉は感情の爆発でもなければ、怒鳴り声でもなかった。
魂を捻り出すような、言葉にならない怒りと哀しみが。
震える声が。
部屋の空気を引き裂く。
「…………っ……」
そして、次の瞬間──。
「馬鹿にしやがってッ!!!」
セセラの叫びが爆発した。
「俺には話してくれても良かったじゃねえか!! 俺は先生を信用してんのにッ、先生は俺を信用できねえのか!!!」
「……ッ!!」
その声に、流石のシエリも一瞬だけ目を見開き、その気配に押されるように息が止まる。
「何だ!? 俺がリルと仲が良くなりすぎたからってか!? 当然だろッ俺が初めて機関での生き方教えたガキだぞッ!!!」
「ッ、セセラ……!」
眉をひそめ、小さく名を呼ぶシエリ。
しかし、セセラの怒りは収まらない。
「俺があの人とコンタクトを図ってたのも先生、あんたから見たら滑稽に見えてたかもな!!」
「それだって、ッ、それだって機関のためにと思ってやってたんだよ!! 虫唾が走るってか!! あ゙ァ!? どうなんだよッ!!!」
怒りに任せて、シエリの肩を掴む手に力が籠もる。
その震えが、ただの怒りではないことを示していた。
「……セセラ……!」
シエリの声がやや強くなったが、セセラは止まらない。
「じゃあ俺があの人と関わるのをあんたが最初っから止めてくれればよかったんじゃねえか!!?」
「俺は、あの人のこと“機関の元研究員”としか知らねェんだぞッ!!」
「元々同じ所にいて、顔も知れてて、連絡先も残ってりゃ、機関のためにあの人の知識を活かすことだってあるだろうが!!!」
「俺がッ! 俺がどれだけ……!! どれだけ毎日頭を悩ませて、機関のために働いてると思ってんだよ!!!」
空気が揺れる。
怒鳴り続けるセセラの体温が上がり、声に微かな掠れが混ざり始めた。
シエリはハッとする。
(……これは……)
セセラの瞳。
鮮やかな赤が、徐々に、深い茶色へと染まっていく。
それは、セセラが本来有している視えない瞳の色。
(……セセラの視界が、消えていっている)
セセラ自身はそれにすら構いもせず、癇癪を起こしたまま、なおも言葉を吐き続けていた。
そして、その瞳の変化は、シエリにとっては吸血欲求の発動を意味する。
「……ッ」
本能的な渇きが、喉の奥でざわついた。
小さな体が、無意識に一歩だけセセラに近づいてしまう。
「……セセラ……落ち着いてくれ……」
その声は、怒りを止めるためのものではなく、“自分の衝動”を止めるための哀願だった。
「……頼むから……!」
本能の波が、静かに、しかし確実に迫ってくる。
「……セセラッ!! 落ち着いてくれ、頼むッ……!! 悪かった、悪かったから……!!」
豹変したセセラの怒り。
それはただの激情ではない。
悲しみが、悔しさが、絶望が溶け込んだ──どうしようもない叫びだった。
「……ッ……!」
シエリの目にも、涙が浮かんでいた。
だが、セセラは止まらない。
「うるせえッ!!」
怒鳴ると同時に、拳を振り払うように空を裂く。
「あんたに拾われて、あんたの元で、……ずっと、働いて、これかよッ!!」
「俺の人生何だったんだよ!!!」
もう、ほとんど取っ組み合いだった。
シエリは自身の小さな体に手を伸ばしたセセラを、その手で受け止めた。
力では止められたはずだった。
自分は龍だ。
人間よりも遥かに強く、素早く、圧倒的なはずだった。
けれど──力が入らない。
(……血を、吸血を……しなければ……)
焦点の合わない目、手探りの暴力。
荒く乱れた呼吸と怒声に押され、頭が霞んでいく。
(このままでは……吸えないままでは……命が──)
今、人型を解いて本来の姿に戻れば、まだ体への負担を減らすことはできる。
しかしシエリは龍としての自分を解こうとすら思えなかった。
目の前のセセラの叫びが、あまりにも人間らしすぎて。
今は──“龍”じゃなく、“人”として向き合いたい。
だが限界は迫っていた。
「…………ッ、は、……っ、はあ……!!」
シエリもまた、呼吸が荒くなる。
喉が焼けるように渇いていた。
「ッ、セセラッ!! 今、見えてないだろう!? 落ち着いてくれッ!! 危ないからッ!!」
叫びながらも、シエリはその視線に焦点を合わせようとする。
取っ組み合いの中でセセラの眼鏡の位置はズレていた。
しかしそれを構う様子もない。
視力を失い、本来の茶色い瞳が剥き出しになっている。
視界が無くなった今、眼鏡をかけている意味も失われているのだ。
それでも、セセラは尚も怒鳴る。
「やっぱあんたも、所詮龍だなッ!!」
「人間の気持ちなんざ、わかるわけがねぇんだよッッ!!」
その言葉は、シエリの中にあった何かを──。
「……!!」
引き裂いた。
「黙れッッ!!!」
声が跳ねた瞬間。
シエリがその小さな体で、セセラを床へと思いっきり押し倒した。
──ガンッ!!と鈍い音を立てて、頭から倒れるセセラ。
「う……っ……!!」
首筋が無防備に晒された。
その刹那──。
「……ッ!!!」
シエリの牙が──。
セセラの首筋へ深く、
深く、
深く、突き刺さる。
「──あ゙……!!」
まるで、噛み殺すかのように。
「……ッ!! ……あ゙、ッ、痛ぇ゙……ッ!! はあッ、ァあ゙……うあッあ゙……ッ、……!!」
「…………!!!」
しかしそれは、シエリ自身をも、セセラ自身をも、落ち着かせるための渇望の制御だった。
セセラの体が震えている。
鋭利な牙が神経に直接触れ、龍由来の神経毒が血管を走る。
首筋を貫かれるその激烈な痛みに、声にならない叫びが漏れた。
脚も両腕も、ガクガクと痙攣する。
両手の爪が床に突き刺さりそうなほど力が入るが、その痙攣と痛々しい呻き声は制御できない。
シエリの瞳の瞳孔は縦に細くなり、爪は鋭く伸び、耳は尖り、髪はふわりと浮かび上がっていた。
「フーーッ……フーーーッ…………!!」
それでも、呼吸こそ荒いものの、その表情に猛りは無かった。
ただ、耐えているような、何かを止めているような、苦しげな顔。
セセラの瞳からは、涙が尚もとめどなく溢れ続けていた。
「………………ッ……」
やがて、シエリの鋭い牙が血を纏いながらずるりと抜ける。
滲んだ血が、首筋を伝って衣服を濡らす。
セセラの体から、力が抜けていった。
吸血によって体内を巡った神経毒が、徐々に激情の熱を鎮めていく。
「……はっ、……はっ……、はあっ……ッ、はあ…………!!」
呼吸はまだ落ち着かない。
けれど怒りは、少しずつ、どこかへ流れていった。
──心も、体も、もう暴れられない。
そして。
セセラの瞳に視界が、戻り始めた。
「…………」
暗かった世界に、少しずつ色が滲む。
目の前に、影がある。
人の姿。
「…………先生……」
掠れた声が、口をついて出る。
ゆっくりと顔を上げたその瞬間。
その視界に、最初に飛び込んできたのは。
「…………!」
唇を震わせながら涙を零している、シエリの顔だった。
その小さな頬に、大粒の涙がぽろぽろと流れている。
「……あ……」
セセラの肩が、微かに揺れた。
あの人が泣くなんて。
あの、冷静で、全てを見透かしていて、自分を拾ってくれた、あのシエリが。
「……泣くなよ、先生……」
震えながら、そう言った。
けれど、声は掠れている。
それでも、シエリは嗚咽を漏らすこともなく、そっと目元の涙を指先で拭って、セセラに向き合った。
「……ごめんね、セセラ」
静かに語られた言葉には、もう取り繕うような響きは無い。
「キミのことを……巻き込むって、わかっていたのに。……それでも、言えなかった」
「私は、キミが、苦しむ顔を見たくなかったんだ」
「でも……それは、私がキミを信じていなかったのと同じだったね」
涙を拭った手を、そっと差し出す。
「……ありがとう。怒ってくれて、ぶつけてくれて……ありがとう」
「キミが、私を『信じてた』って言ってくれて、……本当は、すごく嬉しかったんだよ」
セセラは、目を伏せた。
「…………」
もう涙は流れない。
だが、心の奥の熱だけは、まだそこにあった。
「……俺……ごちゃごちゃしてて……何が怒りで、何が哀しみかも、わかんなくて……」
「……でも……先生が、泣いてんの見たら…………もう、なんか、いいやって……思っちまった」
ふっ……、とシエリが目を細める。
セセラの首に残る牙痕を、そっと指先でなぞってから──。
「それでいい」
その額に、自分の額を合わせた。
「今は、何も考えなくていい。……今日はもう、休もう」
「…………」
セセラはただ、小さく頷いた。
涙の夜が、静寂に包まれる。
◇
あれほど怒声と涙に溢れていた部屋に、今は静かな空気が流れていた。
ソファの上。
セセラは毛布にくるまり、ようやく落ち着きを取り戻していた。
傍らには、まだ耳や爪に龍の特徴を残したままのシエリ。
ピンクの瞳の瞳孔は元の丸い形に戻っていたが、その瞼はどこか、眠たげに揺れていた。
「……これ、レイラからだったね」
テーブルの上に置かれていた、小さな包み。
黄色の包装紙に、水色のリボン。
そこだけが、今日という日を越えた“優しさの証”のように光っていた。
セセラは少しだけ照れくさそうに手を伸ばして、包装紙を丁寧に外していく。
決して、破くことはしなかった。
「……あいつ……俺のことどんだけ気にしてんだよ」
そして箱をパカッと開けると──。
「……わぉ、可愛い~……。見て、先生」
中には可愛らしい焼き菓子がいくつか詰まっていた。
「見た目だけで……すげえ美味そう」
「……ああ。たぶん、キミのことを思って大切に選んだんだよ。あの子のことだから」
そう言って、シエリはひとつ手に取った。
セセラも、ぎこちなくひとつを口に運ぶ。
「……!」
噛んだ瞬間、ふわっと広がる甘さとバターの香りに、ふたりはしばし言葉を失った。
そして──。
「……うまっ」
「フフ、やっぱり?」
「……んふふ」
ほんの少し、ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。
さっきまで牙を突き立てていた相手と、こんなふうにお菓子を分け合ってるなんて。
なんだか、夢みたいだと、セセラは思った。
「……レイラに、ちゃんと礼言わねえとな……」
「それは、明日でもいいさ」
「……そっか」
あの怒鳴り合いも、涙も、痛みも、全部が過去になったわけじゃない。
でも今は──甘いお菓子の味が、それらを静かに包んでくれていた。
ゆるやかな時間が、ふたりを癒していく。
灯りがほんの少し落とされ、部屋の空気が夜の静寂に戻っていく中。
肩を寄せ合うふたりの間に、穏やかな気配だけが確かに残っていた。
「明日は、ちゃんと出勤しねえとな」
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